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ソース(ダイヤモンド) URLリンク(diamond.jp)
結論から言えば、「集団的自衛権」の行使容認には反対する。それは国のあり方を規定する問題であるにもかかわらず、政府の
やり方は民主主義の根幹を揺るがすものであるからだ。もし、解釈改憲を強行した場合には、自衛隊員の士気の低下や国民の離反
を招くだろう。いま求められているのは、集団的自衛権などの防衛問題のみならず、国としてのあり方を改めて考えることだ。
以下その理由を述べてみたい。
■民主主義における参加のプロセスを重んじなければいけない
写真=ジャーナリスト・元自衛官、江口晋太朗氏
1984年8月生まれ。福岡県出身。編集者・ジャーナリスト、元自衛官。2003年から2006年まで西部方面普通科連隊に在籍。
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たとえ憲法改正ではなく解釈改憲とはいえ、国のあり方を規定する憲法に対する認識を問うものに対して、主権者である国民の
共感なしに行うのは、そもそも国民主権の原理に反する行為である。
私的有識者懇談会を通じて集団的自衛権の行使を容認し、国会で十分な議論することなく、閣議決定を通じて政府方針としよう
とするというプロセスは、民主主義の根幹を揺るがす。
透明性や情報公開という世界的な流れに逆向した動きは、世界の潮流からも外れている。国民全体に関わるような問題や、
世論として反対の多い意見に対しては、真剣な対話を通して納得のいく答えを漸進的に進めていくことが民主主義である。それを
なくした政治のあり方は、あってはならない。
過去の政権が積み重ねてきた解釈を否定し、解釈によっていかようにも運用が可能であるならば、なんのための憲法か。
過去60年間の内閣の行為を否定しようとするには、あまりに時間をかけなすぎる。
もちろん、議論を通じ、投票などによる国民の理解も得られた上で、運用ルールに対してもより明確に定めることができれば、
集団的自衛権の行使は可能かもしれない。しかし、現在のこの解釈改憲に対するプロセスは、行使容認の内容がロジックにおいて
理解できる部分が仮にあったとしても、納得のいく答えではない。なぜなら、これはロジックの話ではなく民主主義におけるプロセス
の話だからだ。政治がこれを無視して、強行的に突き進んでしまっては、なんのための政治か、なんのための民主主義なのか。
国のあり方を規定する憲法そのものを改めようとする行為は、一内閣の判断で解釈できるようなものであってはならず、正式な
手続きをもって、国民に問いただした上で作り上げないといけない。ひいては、この問題は憲法9条の問題だけではなく、国民主権と
いう憲法の根幹自体を揺るがす行為でもあると言える。集団的自衛権で問われているのは、きちんとした国民の判断のもとに手順を
踏まえて審議されたものであるのかどうか、なのだ。
民主主義とは、多くの人の参加性が求められるし、そのための努力も強いられる。そのプロセスを度外視しようとするからこそ、
批判の対象になる。なにも、改憲することを全面的に否定しているのではなく、そのプロセスと責任に対して批判をしているわけであり、
誰も納得いかない形で推し進めれば推し進めるほど、国民からの協力は得られなくなるだろう。
憲法改正派も、解釈憲法派も、反対派も、すべての人たちに不足しているのは、説明責任と共感を得るための発信の努力といえる。
国民からの共感も納得も得ずして、外交や他国との交渉において相手を納得させることができるのだろうか。昨今問われているような、
プレゼンテーション能力がまさに今の政治の分野に欠けているものだ。
社会情勢の変化の中で、憲法の解釈や改正の必要性があるのであれば、それを国民に問うた上で憲法や法令を改めるべきであり、
一部の人たちの解釈で成り立たせようとすることが、日本が民主主義ではないということを自ら露呈しているようなものである。こうした、
強引なやり方で解釈改憲を進めれば進めるほど、国際社会において日本がこれまで築き上げてきた信頼が崩れてしまうだろう。
(>>2以降に続く)