仏教 議論スレッド 61at PSY
仏教 議論スレッド 61 - 暇つぶし2ch733:神も仏も名無しさん
13/03/15 14:30:25.37 43E4JhDb
観念も生命の現れではないか

734:神も仏も名無しさん
13/03/15 14:31:32.94 43E4JhDb
生命を追求するとは具体的にどういうことか

735:神も仏も名無しさん
13/03/15 14:57:24.97 sdKZZLbO
>>733
>>734

生命は、人間が対象化できない唯一の存在だから、生命を以って生命を
追求することは不可能。従って、「生命の追求」とは、一切の人為的
宗教観念を棄てて生命の指示に「従う」ことだといえよう。

このことを道元は、「仏道とは己に習うなり」と表現した。

736:未知 ◆lrHJdGXaEQVz
13/03/15 14:57:30.15 /mbQlczK
      iヽ       /ヽ
       | ゙ヽ、    /  ゙i
        |   ゙''─‐'''"    l
     ,/               ゙ヽ
     ,i゙    /         \ ゙
     i!     ●      ● ,l例えば現を幻覚と捉える事       
     ゙i,,   *   (__人__)  ,/幻覚の捉え方を均一かつ           
      ヾ、,,          ,/  正確にする事   
      /゙ "         ヽ 間違って太陽を裸眼で観察しない事
    /             i!             
  (⌒i    丶  i   !   i!.,           
    γ"⌒゙ヽ  l   l  γ'.ヽ           
     i     i,__,,ノ   i,__,,ノ_,,丿         
     ヽ,_,,ノ"~´ ̄  ̄      

737:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:01:17.18 sdKZZLbO
>>733
「神概念」「すべての宗教概念」を含めて、観念は、生命の機能の一つに過ぎ
ない。死者には観念は不可能。

738:*ブッダの検証性→一切について
13/03/15 15:07:47.83 7LdIhYlz
レス返し失念してたw
>>691(宝珠)
>縁起に依らない無為が説かれている以上、
>これがニルヴァーナに至る重要なキーポイントに間違いないでしょう。

浅薄なことをを平気で書くなよw
仏法において『縁起に依らない無為』などナンセンスだ。
間接現実一切外の「無記」と、「無為」の子供じみた混同だ。

縁起撥無の「無為」なる概念は、一切外超越妄想主義のマハーカッサパ教スコラ部派のものだ。
ブッダが教えられた我執の制御をホントに自得しているなら、
「 有為 」 や 「 無為 」 という 分別 ( 四句分別 ) を してしまう こと は 有り 得ない (中論7-33・34)。
法有論は分別我執増大機能しかない。

このような見解を『 梵網経 』に当てはめるなら、
過去に関する諸説・考察のうちの“四つの一部常住論”
( 3つ の 禅定体験 と 1つ の 推論 を根拠として、我と世界について一部が 常住 で他が 無常 である と主張する )に他ならない。
有限 の 物差し ( 体験 や 推論 ) を 使って、無限 ( または 恒常 ) を 量る ことは 不可能 だ。
それは現代でもカントール集合論のパラドックスでも明らかだろう。
たとえば、URLリンク(blog.chase-dream.com)

間接現実“一切外”は検証性がないが故に、ブッダのとおり「無記」とせざるを得ないであって
妄想ナンセンス領域(物語・妄想・形而上学的論議など)というしかない。

739:*ブッダの検証性→一切についてブッダの検証性→一切について
13/03/15 15:10:53.13 7LdIhYlz
>>691(宝珠)
>>708の検証性→一切につき敷衍しておく。

ここでいう“検証性”とは、
『ウパバーナよ、ここに一人の比丘があって、彼は、眼をもって色〈物体〉を見ると、色を感知し、
かつ、色に対する貪りを経験する。また、わが内に色に対する貪りがあると、〈おお、わたしは、
我が内に、色に対する貪りを抱いている〉とみずから気がつくであろう。
そこで、ウパバーナよ、そのようにして、比丘は、眼をもって色を見ると、色を感知し、かつ、色
に対する貪りを経験し、また、我が内に色に対する貪りがあれば、〈ああ、私は、我がうちに、
色に対する貪りを抱いている〉と自分で気づくのであるから、わたしはまた、ウパバーナよ、
この 現生的なる法は、また、即時的にして、〈来たってみよ〉と示され、よく涅槃に導き、智者の
それぞれみずから知るべき法である、というのである。
ーー中略ーー耳ーー鼻ーー舌ーー身〈触〉--意〈法〉--同文の為 略〉
『教法は世尊によりて善く説かれた。
すなわち、この教法は、①現に証せられるもの、    *明証性  Sn.1066、1053参照
           ②時を隔てずして果報あるもの、*果報認証性  同上
           ③来り見よというべきもの、  *客観的再現性 同上
           ④よく涅槃に導くもの、    *合目的性   Sn.737   
           ⑤知者がそれぞれに自ら知るべきものである。』*自力性 Sn.908
                 <相応部 35-70『ウパヴァーナ(優波婆那)』>

   上記の教えを満たしていなければ、検証性のあるブッダの二相の相即実践的な教えとは認めがたい。
  
ゆえに、「無為」とか「無余」とか「仏性」とか「如来蔵」とかは、
一切外無記のブッダの教えに反するナンセンスである。

仏法は本質主義、自性(スヴァバーヴァ、プラクリティなど)主義ではない。

740:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:18:15.16 sdKZZLbO
「生命の指示」は「生存に無関係な瞑想や座禅」によっては聞こえてこない。
「状況に応じた生存努力」の中においてのみ、聞こえてくる。道元の「只管
打座」はこのことを言ったのではないか。「ひたすら座る」という「動作」は、
「状況に応じた生存努力」の一種だからである。

741:サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c
13/03/15 15:19:32.54 lTIoH/o+
仏教的には意識の感情や想像が実は生起しては消滅するここのdsんぺんの集まりだと
認識されるものだと考えるように
生命も物質の諸要素の断片が集まって生物を動かすものに過ぎないと考える

そして物質による生命によらない 身体に依拠しない より微細な意識が存在するとされていて
それは禅定によらなければ認識できない
肉体が死んだ状態でも意識によって観念を認識しうるってこと

瞑想もできないだれかさんには絶対に理解不能
それと現実に意識の力だけで人間は死ぬことも出来る 断食ではなく瞬時にね

742:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:23:20.86 sdKZZLbO
>>741
そのすべての「考え」は、君の「生命の機能」。君が死ねば同時に消滅する。
ナンセンス。

743:未知 ◆lrHJdGXaEQVz
13/03/15 15:28:00.41 /mbQlczK
      iヽ       /ヽ
       | ゙ヽ、    /  ゙i
        |   ゙''─‐'''"    l
     ,/               ゙ヽ
     ,i゙    /         \ ゙
     i!     ●      ● ,l例えば托鉢なんてのは       
     ゙i,,   *   (__人__)  ,/間違い無く物乞いなのにゃん           
      ヾ、,,          ,/ しかし他者と関わり、    
      /゙ "         ヽ尚且つ生きる事を肯定する意味を 
    /             i!考える事にもなるにゃんね             
  (⌒i    丶  i   !   i!.,           
    γ"⌒゙ヽ  l   l  γ'.ヽ           
     i     i,__,,ノ   i,__,,ノ_,,丿         
     ヽ,_,,ノ"~´ ̄  ̄      

744:サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c
13/03/15 15:28:55.17 lTIoH/o+
身体に依拠する生命が消えてもより微細な意識が働くだけです
人間が自分自身をこの世界を超えた微細な種々の生起しては消滅する断片の集合体であると
自覚しそれを断滅しようとしない限りはね

そして誰かさんは恐怖によって瞑想が出来ないので四諦はこの人生ではわからないでしょうね

745:前世は一在家 ◆2o6x38TRbE
13/03/15 15:29:36.22 cNGOXKUc
>>739
>ゆえに、「無為」とか「無余」とか「仏性」とか「如来蔵」とかは、
>一切外無記のブッダの教えに反するナンセンスである。

横レスですが、仏陀や修行完成者にとっての一切内=衆生の一切内、でしょうか。
(仏陀や修行完成者にとっての一切外=衆生の一切外?)
仏典では修行完成者は神通にて衆生が知覚できないものが沢山見えているそうです。
(参考:長部経典の過半数及び法華経の如来無量寿品第十六)

「俺には見えるけど、普通の人には見えないから、無記にしておこう。」というケースです。
仏教テキストからの論理ではあり得るかと存じます。

似たケースでは禅のある境地を禅者は共通体験しますが、一般人に言うのは止めておこうということです。

以前に「一切皆苦」の「一切」には仏が含まれていないという議論がありましたので、「一切外」という
言葉が皆に共通であるという保証もないと思います。

746:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:29:53.90 sdKZZLbO
>>741
>瞑想もできないだれかさんには絶対に理解不能

「生存努力」においては、常に瞑想(分別)が必要ですがw。

747:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:33:45.06 sdKZZLbO
人間も他の生物も「生きるため」にのみ存在している。「生存に無関係な」
瞑想や宗教に耽る人間は、「欠陥生物」である。

748:前世は一在家 ◆2o6x38TRbE
13/03/15 15:34:18.87 cNGOXKUc
>>745
過去に幾度も説明済みという御意見を予想しますが、ハンドル名かコピペをお願いします。

私の記憶では「一切」の定義が万人共通であるというコメントは無かったと思います。
なお超音波を知覚する蝙蝠の「一切」と人間の「一切」は異なります。

749:サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c
13/03/15 15:45:57.58 lTIoH/o+
いわゆる四番目の禅定の内容までは諸宗教でも体験されていると思います
それと瞑想の最中に知覚することはこの世界の現象の生起消滅と同じであって
簡単に言えば幻想であることを 教典の学び 師匠の指導で自覚し導かれていれば安全かと
それと煩悩を防ぎ支配されない訓練 会を守る必要もあります

身体の意識にとどまり 本能に振り回される人生では瞑想のときにその影響がはっきりでます
それは身体が滅んで微細な意識に切り替わる臨終のときにも現れます

750:サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c
13/03/15 15:48:06.16 lTIoH/o+
>>749訂正
会は戒

特に生命教の人間 創価学会などもそうですが
瞑想には不向きかもしてませんね
自分の身体に固執する傾向にある方はよく注意したほうがいいかも
快楽主義も良くない影響をもたらすので

751:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:49:24.26 sdKZZLbO
>>743
そんな難しいことではなく、単に衣食住のため。釈迦も「食って己の生命(我)を
維持するため」に「無我」や「一切皆苦」を説いた。托鉢でしか食物は得られない
からである。そして「一切皆苦」を説くことの中の「己の生の喜び」を見出して
いたw。

イエスも、かなり金に困っていたようだw。

宗教も「生きるための職業の一種」であることを忘れてはならない。「職業分類」を
参照のこと。別に「ありがたいもの」ではないw。

752:小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.
13/03/15 15:52:35.74 kzM6WQKL
ワトソン:結局このスレもブルネルス教授の一人芝居だな。
ホームズ:ああ、全くだ。
ワトソン:誰もこんなところに書き込みしないよ。彼以外。
ホームズ:承狂の言っていることは正しいね。ここに書き込むのも
     承狂のブルネルスと小ヨハネだけだ。

266 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/02/13(水) 23:01:32.78 ID:76eWZmGC
   >264
   良いことを教えてやろう。
   宗教板なんぞに書き込みやってんのは、お前と俺の二人だけだぜ。(笑)

753:神も仏も名無しさん
13/03/15 15:55:02.03 sdKZZLbO
>>750
生存努力においては、桁違いに大きい瞑想が必要なのだがw。宗教とは異なり、
生存は「お遊び」「趣味」ではないw。


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