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被曝治療83日間の記録
大内が浴びた放射線量は20シーベルト前後(致死量)と見られていたが、東大病院に転院してきた時には、
目に見える外傷もなく元気そうで、二次被曝を恐れていた(が、その可能性はなかった)看護師たちを
意外に思わせたほどだった。
しかし、被曝から6日目。3日前の転院時に採取された大内の骨髄細胞の顕微鏡写真が届けられると、
《写っていたのは、ばらばらに散らばった黒い物質だった。(中略)染色体がばらばらに破壊されたということは、
今後新しい細胞が作られないことを意味していた。》
リンパ球はまったくなり、免疫力が失われてしまっていた。
《基底層の細胞の染色体が中性子線で破壊されてしまい、細胞が分裂できなくなっていた。新しい細胞が
生み出されることなく、古くなった皮膚ははがれ落ちていった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、
激痛が大内を襲い始めていた。》
《浸み出した体液はこのころ、一日1リットルに達していた。(中略)このころの大内は目ぶたが閉じない状態に
なっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。ときどき、目から出血した。(中略)爪もはがれ落ちた。》
被曝から50日目の11月18日。下痢が始まってから約3週間後のこの日、ついに下血が始まる。
《下血は1日に800ミリリットルに及んだ。(中略)翌19日には胃や十二指腸などからも出血が始まった。
下血や、皮膚からの体液と血液の浸み出しを合わせると、体から失われる水分は1日10リットルに達しようとしていた。》
大内自身が、まだ意識があり、言葉を話すことができた時期にこう何度も叫んでいたとナースの記録にある。
《「こんなのはいやだ。このまま治療もやめて、家に帰る。帰る。」》
《「おれはモルモットじゃない」》
そして、被曝から83日目。
《1999年12月21日午後11時21分。大内久、死亡。享年35だった。》
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