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昭和55年以降に、戦闘詳報が第一大隊のものと判明した経緯について
338 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:37:24 ID:jnJsEyst
>秦郁彦の『南京事件』以降「第一大隊の戦闘詳報」とされているが経緯は不明。
>お前がその経緯を説明してみろw
裁判で争われていた時点では66i-Ⅰ戦闘詳報は、児島氏の言う通り部隊名不明・旅団名不明でしか知ら
れていなかった。その後、同戦闘詳報(コピー)が戦史資料室に提供された事で部隊名・旅団名が判明した。
原本(コピー)の表紙には歩兵第六十六連隊第一大隊南京附近戦闘詳報と明記されている。また、原本を
持っていた藤沢藤一郎氏自身が第一大隊第3中隊第1小隊に所属していた。
「第一大隊の戦闘詳報」とされている経緯が不明とかさ、【頭 悪 い の ?】って感じなんだけどwww
経緯が不明も何も児島氏が「旅団命令により捕虜は全部殺すへし」を紹介した時点では、その部隊名・旅団名
が判らなかっただけで、史料提供に伴い全て明らかになったという話。否定派はほんと何も知らないんだなw
補足すると部隊名不明でしか知られていなかったというのは学会の状況であって、この戦闘詳報が66連隊のもの
と知ってる人も当然居た。では、藤沢氏がなぜ戦闘詳報を持っていたかというとこういう事。
兵士たちの「南京事件」 城壘 『丸』 1990年7月号 通算528号 P210
解散のとき、藤沢氏は軍曹まで進み、大隊本部に勤務していた。解散にあたって大隊の記録は宇都宮五十九
連隊留守部隊に収めたが、このとき、藤沢軍曹は記念として第一大隊戦闘詳報を貰った。何か記念になるものを、
と思ったが、戦闘詳報は同じものか二部か何部かあり、そのうちの一部を貰った。
留守部隊に収めた記録は終戦時に焼却されたから、当時の記録は藤沢氏が持っていたものだけになった。