24/07/20 00:00:44.44 xvnaALeiH
末期の江戸の風景 019
実は、日本のジャパンの英名は、此の時の『東方見聞録』のラテン語のジパングの名
が由来である。と言われる。ジパング、つまり黄金郷である。日本の見聞で、何処もか
しこも黄金で覆われた国、として、実はその後の欧州人は、日本を目指したと言っても
過言でない状況だったのだ。基本的に、カーリミー商人でもユダヤ商人でも、この交易
に付き物の盗賊対策は基本中の基本だった。ここでマルコポーロ達が、一度ブルガール
の王子に会ったのは理由があった。日本では1898年以来 学校教科書が「キプチャク=
ハン国(汗国)」という名称を用いていたキプチャク・ハンの国は、「キプチャク草原
の王」とも呼称するジョチ家の政権を「金の大オルド(金帳)」と呼称することに由来
した国だ。「金の大オルド(金帳)」という呼称が初めてロシア語史料に登場するのは
16世紀以後ではあるが、「金帳汗国」という呼称は江戸時代には知られていた。金帳の
意味は、日本で言えば緞帳(どんちょう)の事で、舞台にある幕のひとつで、客席から
舞台を隠すための幕である。遊牧民に於いて家はゲルと言われ、この幕というのは組立
式の家の重要な要素である。ゲルは円形で、中心の二本の柱によって支えられ、骨組み
を持ち、屋根部分には中心から放射状に細い梁が渡される。これにヒツジの毛でつくっ
たフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとした。中国では、パオ(包)という名
前で、テュルク系遊牧民は方形で、モンゴル系は円形だった。つまりボルガール(ブル
ガリア)へ向かうと書いたが、これは古代ブルガールの、今のジョージアやイランに近
い処なのだ。彼らが突厥族なので、金帳、つまり入り口に金の布を置いた王の一族では
あっても、モンゴルのフビライの一族では無かったのだ。その意味では元寇、つまり、
日本進出しかフビライの頭には、無かったのだろう。
370:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/07/20 00:01:48.34 xvnaALeiH
末期の江戸の風景 020
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝
)および属国の高麗によって、2度にわたり行われた対日本侵攻船団である。蒙古襲来
とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こ
うあんのえき・1281年)という。マルコポーロは イタリアのヴェネツィア生れの商人
である。1271年、17歳で父や叔父と一緒に東方への旅に出発し、陸路をとり、トルキ
スタン、西域を通って、1275年に元の都大都に至った。と言われている。つまり元寇の
用意の最中に中国につき、その負けましたとの報告が伝わる頃に、モンゴルのフビライ
との会見がなされているのである。この事は大いなる知見が必要になる。つまり、ここ
に日本を襲った理由があって、リーイック朝のボルガール(ブルガリア)の通訳を挟ま
ないと、イランのソグド人や クビライのモンゴル人と、当然話は出来なかった筈だ。
マルコの父がイタリアに帰り、兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(
文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた 100人のキリスト教徒
派遣を求めた教皇に宛てた書簡は、クレメンス4世が没して以来、使徒座空位時代で、
クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。エジプト駐留の教皇使節から助言を
受け暫らく待って、彼らがやっとヴェネツィアに着いたのは1279年秋であり、ここで、
当時16歳だったマルコと、初めて会うことになった。としている。この我が子とも生活
出来ぬ運命でさえ使命に生きる高貴な信仰心と言うのが、当時のベネツィア商人に身を
処しながらも生きた
371:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/07/20 00:02:17.06 xvnaALeiH
末期の江戸の風景 021
1年後、彼らはウケクに行き、さらにブハラへ向かう。ブハラはソグド人の土地で、
ソクド語でポプラ並木を意味する。つまり緑のある国と言う意味らしい。日本語風だと
碧(あお)の国だ。古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であ
り、ウズベキスタンの都市となり、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より
栄えたオアシス都市とされる。近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ
・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。
途中のウケクは、ジョチ・ウルスの首都サライと、ヴォルガ・ブルガールの首都ブルガ
ールの中間にあり、1240年代に成立したと考えられている。この一連の陸路を商隊が、
通る砂漠の道としていた。ブハラは、9世紀後半、土着のイラン系貴族がアッバース朝
から自立してサーマーン朝を成立させ、10世紀の末まで続いく王朝の首都となったとい
う。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯から、イスラム世界に向かって送り込まれ
るテュルク系の、マムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムル
ーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。つまり、農奴ならず、兵士や軍人
もオアシス都市国家を護る為に、売買されていたのである。ロシアの支配下に入っても
、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて、
温存され、またブハラ人社会の指導的な階層は、伝統的なイスラム教育を受け宗教指導
者たちが占めていた。ブハラは、南下政策を推進するロシア帝国によって征服されたが
、ブハラ・アミール国は、ロシアの保護国としてその植民地に組み込まれても。ロシア
人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれ
る近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できたとされ、カガ
ン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。
372:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/07/25 21:02:26.84 kf7cg07FD
末期の江戸の風景 022
ここで、拉致されて、中国の北京で、相見舞えるが、モンゴル流の作法でもって、彼
らを、熱くもてなしている。13世紀末から14世紀前半において、イル・ハーン国や、キ
プチャク・ハーン国の勢力が黒海沿岸に達して、レバント交易のこの地域に、商業路が
集中した。とされる。そして、西ヨーロッパから地中海,黒海を経て はるかアジアに
至る通商網が発展し、この時期にレバント貿易におけるシリアやエジプトの重要性は、
やや低下した,14世紀後半の〈モンゴル帝国〉の解体によって、再び貿易の中心となっ
たのが中東貿易である。シリア・エジプトからの香料、西ヨーロッパの毛織物が、最も
重要な商品であったが、そのほかに多数の地域的商品で、多角的な交易が行われていた
。13世紀後半にジェノバ・フィレンツェ・ベネチアなどのイタリア都市で、製造された
金貨が、此の時には、国際的な決算手段として広く利用され、とくにベネチアのドゥカ
ート金貨は、イスラム世界へ浸透したといわれている。労働力不足で地中海や黒海交易
は、奴隷貿易が活況を呈した。だが全体として貧民層で、購買力衰退で取引量も減少し
ていく。イタリア・南フランス・カタルニャの商人たちは、互いに激しく争う中で、ベ
ネチア商人は、このレバント貿易の国家管理と合理的な商業制度を確立していて、競争
に加わらず優位的地位にあった。イスラム世界と西ヨーロッパを結ぶ、最大の窓口とし
て、公然と君臨していたのだ。それは宗教世界でも、流通世界でも、金融世界でも、揺
るがない大きなものだった。バスコ・ダ・ガマのインド航路開発で、16世紀初頭には、
東アジアの、コショウやチョウジなどの香料が、直接ポルトガル船によって西ヨーロッ
パに運ばれるようにはなった。しかし、インド航路は距離があまりにも長く不安定で、
長期を要したため、1520年代からレバント経由の香料貿易が復活し、より勢力を持った
373:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/07/25 21:02:54.81 kf7cg07FD
末期の江戸の風景 023
マルコポーロ達は、レバント(東方貿易地域)の使者から招かれ、ヨーロッパに行っ
たことがなかったクビライに、やっと面会を、果たした。と言われる。フビラン・ハン
といえば、モンゴル帝国の第5代皇帝で、中国を治めた元の初代皇帝でもある。日本で
は、あの元寇(げんこう・日本侵攻)の船団を、2度に渡って送り込み、日本を支配下
に置こうと計画していました。ここで、フビライ・ハンの簡単な経歴、チンギス・ハン
との違い、関係について、紹介したい。フビライ・ハンは、1215年にチンギス・ハンの
4男であるトルイの子として生まれました。つまりチンギス・ハンは、お祖父ちゃんに
なる。青年期の活躍は、砂漠の民で、不明なことも多く、謎に包まれている。が、祖父
のチンギス・ハンが、産まれた頃に戦い、広げた領土を、更に拡大をさせる絶頂期で、
当時の世界の、25%もの陸地を支配していた。のですから、その権力は、圧倒的な強さ
だったし、遠く欧州大陸に影響力を持っていた。兄・モンケが第4代皇帝の座につくと
、フビライ・ハンは、南方や東方の拡大が任されてた。つまり、中国方面の領土の支配
を任されて、征服しどんどん力を付けて、我が領土としていった。モンケが急死すると
、モンケの息子たちや、自分の兄弟たちと後継者争いを繰り広げるのだが、1260年に、
見事フビライ・ハンが第5代皇帝の座に、就く事になった。その後そして、南宋(現在
の中国南部)を支配下におきたい。と考えた。しかし、これまでに攻めてきた国と比べ
て、水田や堀が多く、モンゴル帝国の売りである騎馬隊が、十分な力を発揮できずに、
何年も苦戦している。1267年には、首都を大都(現在の北京)に遷し、1271年に、国の
名前を、中国風の「元(げん)」に改めた。つまり、この元と言う征服王朝が、現代人
の中国の風習と文化なのであって、漢人とか支那人とはいっても、殆ど突厥人の装いで
王朝が続いだのである。
374:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/07/25 21:03:24.53 kf7cg07FD
末期の江戸の風景 024
そんな中で、ヨーロッパの冒険家マルコ・ポーロと出会い、日本が黄金に溢れている
国であることを、噂に聴き、海の向こうがジパング=黄金郷である事を、知り得ます。
それはまた、その南宋に金や銀を輸出して、銅や鉄を仕入れていたのが日本であって、
事実に見えたのである。南宋は、日本から得た金銀を軍事資金に替えて、武力を強化し
ていることが、段々とわかると、日本と南宋を攻め滅ぼし我が手中に。という計画が、
当然チンギス・ハーンやフビライ・ハンの脳裏に浮上したのであったのは確かだろう。
そういう、バイタリティー溢れるフビライ・ハンであったが、巨大な、モンゴル帝国に
おいても、日本を攻撃するのにそれなりに資金も兵力も必要であったし、何よりも海の
知識と船の知識が無かった。まずは、南宋と国交のある国々をすべて支配下においてい
くの目下の施策というものでした。が、日本とは、海を隔てて居る為に、そう簡単に、
支配下に置く事が出来なかった。先ずは従前どおりに使者を送る。しかし、この使者は
なんと遠慮され、断られても6回も、フビライ・ハンは送っている。つまり、日本に、
「仲良くしようよ!返事くれなきゃ攻めちゃうよ。」といった威嚇・恫喝と友好の内容
の国書を持たせた、使者を送りますが、何れも日本からは、何の返事もありませんでし
た。これはつまり、大国であるモンゴル帝国なのに、日本にずっと無視され続けていた
のである。そして等々、鎌倉幕府はその使者の首切りまで行った。こうして、無視を続
けられ、使いすら殺されたのであれば、予告通り、日本を攻める事にした。これが日本
史上の最大のピンチとされた、日本侵攻「元寇」であった。日本への1度目の攻撃は、
1274年の10月、2度目の攻撃は1281年の5月下旬から8月上旬であった。モンゴル軍は、
圧倒的な量と強さを誇り上陸した。
375:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/02 22:56:37.24 TRsEQaE7a
末期の江戸の風景 025
しかし、この船による上陸には、元の体制は不慣れであった。1日目に博多に上陸し
、暴れ廻るも、夕日の落ちるころは、一人もモンゴル軍はいなくなった。2日目は小雨
で、いつもの手榴弾の、紐のついた火薬玉も、威力は落ちた。三日目は、大宰府近くま
でも攻めたが、大濠公園に沼地に誘い込まれた馬はぬかるみにハマり、大勢が死んだ。
更に、例年日本を襲う台風の時期と重なったために、当時も暴風雨(神風)が吹き荒れ
、夜のとばりの中、秘密の小舟で火矢が撃ち込まれ、4ヶ目には、大半の船は焼けて、
船も兵もいなくなった。2度目の攻撃は1274年の攻撃から、7年後の1281年の、秋を避
けた5月下旬から8月上旬であった。既に船も船長もいなくなっていたので、大急ぎで、
大木を集めて急ぎ作りの船団で、船を鎖でつないで、潮流に流されず行く大船団となっ
ていた。中には鉄鋼船もあり、屋根の付いた中に手榴弾「飛び破裂」は置いていたし、
馬も載せる船もあった。しかし竜骨を取り除いた箱舟の大型船団だったのだ。しかし、
2度目は日本も防塁を備え、沼地も溝も整備し、モンゴル軍に備えた船団も控えさせて
、五日目に引き上げた第一回に比べ3っ日で勝敗はついていた。元々が船の長旅で、兵
も船酔いで、闘える兵士は居なくなっていた。第一回の敗戦で、厳罰が効きすぎて朝鮮
の兵士も集められず、不慣れなモンゴル兵が多かったからだ。更に夜の火矢攻撃は、昼
も起こり、本格的台風や突風も、この春の方が酷かったのである。こうして日本を撤収
することとなり、こうして朝鮮まで引き上げて、報告がなされると、モンゴル式の斬首
と言う死刑の懲罰が将軍級には待っていたのでありました。その後も何度となく、日本
侵攻は計画されますが、実現されませんでした。晩年は、フビライ政権に反発する者も
現れますが不安要素を取り除いて、孫に政権を譲り1294年に病気でこの世を去りました
。
376:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/09 13:55:58.11 ArKN26M8q
末期の江戸の風景 026
実は、モンゴル軍は記録上は2回しか現れていない。つまり記録として残されたもの
正確なものは、この二つだが、実は5回ほど襲っているのが、現在解ってきている様だ
。日本の政権は平安時代、鎌倉時代と分けているが、実は、13世紀~14世紀初頭にかけ
て断続的に、モンゴルは、大陸でのツングース族や契丹族やアイヌ族を、侵略している
。当然ながら、彼らは日本に逃げ伸びて戦ったとされる。モンゴルの樺太侵攻(からふ
としんこう)と呼ばれるものだ。モンゴル帝国(元朝)による樺太アイヌへの攻撃を指
すが、史料が少ないことで、その実体には不明な点が多く、在った事は証明出来ている
が、その内容は不明瞭である。同時期のモンゴルによって日本の九州北部に対して行わ
れた元寇(文永の役・弘安の役)と比較され「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古
襲来」などとも呼ばれるが、両者の間の関連性も不明だ。元代の地誌である『元一統志
』によれば、前代王朝によって、奴児干(ヌルガン)城が築かれた址が築かれていた事
が記されている。『高麗史』は忠烈王13年(1287年)9月に「東真(とうしん)の骨嵬
(くぎ)」に、駐在していたモンゴルの将軍がいたことが 記されている。東真は東夏
または大真国とも書かれる金朝の派生国家であり、わずか18年しか存続しなかったが、
骨嵬が金の構成民族である女真(ツングース系)の影響下にあったことが窺える。元々
樺太(サハリン)には、後のニヴフ(ギリヤーク)と思われるオホーツク文化(採集・
漁撈を中心とする)生活文化や、アイヌ文化と思われる擦文文化(雑穀農耕を含む採集
生活を中心とし、土器を製作する)遺跡が混在し、中世にもニヴフ・アイヌが混住して
いた遺跡が数多くでる。オホーツク文化・擦文文化の終了をどの時期とするかは、今だ
諸説あるが、13~14世紀頃を、画期とする説が有力で、此の時日本やツングース(女真
族)等、周辺民族との交易が、切り替わっている。1260年に大カアンに即位しクビライ
は、アムール川下流域へのモンゴル勢力を拡大させた、黒竜江(アムール川)下流域、
河口部に近く支流のアムグン川が合流するトィルに「東征元帥府」を設置し、先住民(
ニヴフ)の支配、流刑の管理、屯田の経営など行い、金沙(砂金)の取引があった様だ。
377:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/09 13:56:44.19 ArKN26M8q
末期の江戸の風景 027
資料では「1263年11月に、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライは、アムール川下流域
を支配下に組込む行動をした。居住している女真(じょしん)民族やナナイ民族及び、
アムール川の河口域民族と、その対岸のサハリンに居住しているニヴフ民族を統治下に
入れたのである。元朝の歴史書の年代記『元史』は、1264年11月にフビライはサハリン
にいる骨嵬(くぎ)を征討させた。すでにモンゴル軍に服属していたサハリンの吉里迷
(きつりめ)が、自分達の土地に骨嵬(くぎ)が侵入して来たと訴えたので、モンゴル
軍は、骨嵬を討ったという。アムール川下流域のナナイ民族はニヴフ民族をギレミと、
呼んでいた。中国では、この名称を漢字で吉里迷(ギリミ)と表記した。17世紀にアム
ール川下流域にやって来たロシアの探検家たちは、このギレミをギリヤークと呼んだ。
この民族の自称は、ニヴフであり、ニヴフ民族は 今でもアムール川の河口域とサハリ
ン北部に 約4,500人が居住している。ニヴフ民族はアイヌ民族をクギと呼んでいた様だ
。元朝では、この名称を漢字で骨嵬(クギ)と表記。アムール川下流域のツングースの
諸民族はアイヌ民族をクイと呼んでいた。これはクギが訛ってクイと発音された呼称で
あろう。明朝ではこれを漢字で苦夷(クイ)と表記した。アイヌ民族はサハリン南部に
、江戸時代の後半期には、約2,500人、日本のサハリン南部統治期(1905~1945年)には
約1,500人が居住していた。これまでは、長い間、アイヌ民族は、古代からずっとサハ
リンに居住していたと考えられていた。しかしながら、近年のサハリン考古学の研究で
、13世紀にサハリンにはニヴフ民族が居住していた。と明らかになっている。その結果
、上記の『元史』の記述には13世紀の中ごろ、南から、すなわち北海道からアイヌ民族
がサハリンに進出していて、ニヴフ民族を圧迫している状況が続いていたと考えられて
いる。
378:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/09 18:01:32.45 ArKN26M8q
末期の江戸の風景 028
こうして、南下する民族として、1265年3月に、骨嵬は 吉里迷の兵士を襲って殺した
。モンゴル軍はこの骨嵬に、食糧や弓・甲(かぶと)などの武器を与えて、骨嵬を手な
ずけている。すなわち、モンゴル軍はアイヌ民族の狼藉に手を焼いているものの、鎮圧
せずに、モンゴル側に、服属させようとしていた。1271年に、フビライは中国に元朝を
建国した時、この為北京北部を漢人の移住不可に規定した。元朝は、1272年と1273年の
二度、サハリンへ骨嵬征討軍を派遣し送り出すが、海峡を渡ることができなかった。と
いう報告である。その後も、1284年、1285年、1286年の三度にわたって大軍を派遣して
、ようやく骨嵬を討伐した。それにもかかわらず、骨嵬は再び元軍に反抗して、1296年
、1297年、1305年には間宮海峡を越えて、大陸側に攻め込んでいる。しかしながら、元
々、アイヌやエキスモーの民族は、犬ぞりやトナカイ生活者である、砂漠の牛や馬の、
生活者ではない。寒さには用意があって強いが、闘いには剣を持たない弓の軍隊でしか
なかった。1308年に骨嵬はついに元軍に屈服し、以後、毎年、貢物として毛皮を納める
ことを、課せられた。とされる。このように サハリンのアイヌ民族又はエスキモー族
らは、40年余りに渡って、モンゴル軍・元軍との衝突を繰り返していた。モンゴル軍・
元軍は、アイヌ民族の鎮圧に手を焼いてしまい、1286年の遠征の際には兵士10,000人、
船1,000艘を 率いて、こうした大軍で、ようやく討伐したという事が書かれている。お
そらくこの数字は、あまりにも誇張された文章であろうが、実際に、サハリンのアイヌ
民族は執拗に元軍に抵抗し、ようやく、アイヌ民族は元朝に服属して貢物を納めるよう
になったのは事実の様だ。その後中国を収め、元王朝は、アムール川の河口域のヌルガ
ン(今日のティル村)に役所を置き、永寧寺を建てた。サハリンの苦夷もこの役所に、
貢物を納めさせた。1368年に建国された明朝王朝もまた下流域まで支配下に収め、仏教
寺院の永寧寺を創建し、これに倣って時が過ぎるのである。
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24/08/11 10:23:49.33 1xuuBJOYB
末期の江戸の風景 029
第3代皇帝永楽帝は、1411年に河口域のヌルガンに統治の役所を設置し、1413年には
そこに仏教寺院の永寧寺を創建。その後、この寺は、現地の住民やニヴフ民族によって
破壊されたが、1433年に再建された。現地に、その役所と寺が創建された経緯が記され
た石碑が建てられている。その碑文には、アムール川下流域の諸民族や海峡の向こうの
苦夷(クイ)、すなわちサハリンのアイヌ民族がヌルガンの役所にやって来て、明王朝
から、衣服や道具や食料を賜ったことが記されている。其の事は、引き換えに、それら
の諸民族やアイヌ民族が、明朝の役所に貢物を納める義務を負ったことを意味している
。ヌルガンの永寧寺はその後、廃墟になった。が、その寺院跡はアムール川の河口から
153km さかのぼった今日のティル村にある。この遺跡は1995~2000年にウラジオストク
の考古学者によって発掘され、明代の仏像、貨幣、寺院の礎石、大量の屋根瓦などが、
見出されている。1602年に、イエズス会の宣教師として、日本にやって来たのが、ジェ
ロニモ・デ・アンジェリス神父である。京都、駿府(すんぷ)を経て、1615年に仙台に
至り、ここを拠点として、広く東北地方で布教している。その期間にジェロニモ神父は
、インディオの血が騒いだのか、1618年と1621年の二度も、未開の蝦夷(えぞ)の地、
すなわち北海道を訪れて、その際、蝦夷とはどんな人達か、蝦夷の地はどのような土地
かについて、詳細に記した書簡を、イエズス会本部宛に送っている。この2通の書簡は
「アンジェリスの第1蝦夷報告」、「アンジェリスの第2蝦夷報告」として、知られて
いる。また1609年に、同様にイエズス会の宣教師として日本にやって来た神父ディオゴ
・カルワーリュは天草(あまくさ)を経て、1617年にアンジェリスがいる仙台に至り、
広く東北地方で布教するが、その期間にカルワーリュもまた、1620年と1622年の二度、
蝦夷の地を訪れて、そのうち、1620年に訪れた際に、蝦夷の地について詳細に記した、
書簡をイエズス会の神父に送っている。この書簡は「カルワーリュの旅行記」として、
知られている。
380:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/13 01:45:54.74 9XwkGtfdn
末期の江戸の風景 030
ジェロニモ神父は、当時、北海道の南端部にあった日本人の都市である松前藩に滞在
し、そこで蝦夷人(えぞじん)、すなわちアイヌ民族に出会って、蝦夷の地に関した、
様々な情報を聞き込んて得ている。その情報には、次のような記事がある。松前には、
毎年、蝦夷の東部にあるメナシ地方(目梨=千島列島や道東)から、そこに住む蝦夷人
が 100艘の船に鮭(サケ)や鰊(ニシン)を積んでやって来る。また、ラッコという、
ヨーロッパでの貂(テン)に似た動物の毛皮を、沢山持って来る。ラッコは蝦夷の地、
つまり北海道には生息しておらず、東方の ラッコ島に生息しているので、メナシ地方
の蝦夷人、つまりアイヌ民族は、冬場にそこへ行ってラッコの毛皮を買いに行くという
。またラッコ島の近くには、その他にも多くの島があり、その島の、住民はあまり色白
くなく、鬚がなく、その住民が二人、昨年、松前にやって来たが、彼らの言葉を、理解
できる蝦夷人は、まずいなかった。という。アンジェリスは蝦夷人、すなわち、アイヌ
民族について、毛深く、胴部に達するほど長い鬚がある。と言っている。したがって、
蝦夷人や蝦夷アイヌ人と異なる言語を話す民の島というは、その島の住民はアイヌ民族
ではなかったのであろう。また蝦夷の、北部にある天塩(てしお=天塩川以北・樺太)
地方からも、そこに住む蝦夷人が、船で松前にやって来て、さまざまな品物とともに、
中国製の様なきらびやかで、稠密な絹織物を沢山持って来るという。「アンジェリスの
第2蝦夷報告」には、蝦夷の地を描いた地図が添えられていて、そこには蝦夷の地が、
本州の北に巨大な島として描かれている。この巨大な島の西端にある天塩地方の、向か
い側、つまり西側は朝鮮・中国の北東部が描かれている。アンジェリスは、そのような
地理上の認識から、天塩からもたらされる絹織物を中国製と推測したのであろう。
381:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/08/13 01:46:56.22 9XwkGtfdn
末期の江戸の風景 031
しかしながら、実際には、それらの絹織物は15世紀に苦夷、つまりサハリンのアイヌ
民族が、明朝のヌルガンの役所に貢物を納めるのと引き換えに与えられたのと同様の絹
の衣服だった。と思われる。そのような絹織物がサハリン経由で天塩にもたらされてい
たのである。カルワーリュの旅行記も、また松前に滞在して、蝦夷の土地に関する様々
な情報を聞き取り、書いている。その情報によれば、北東方向から蝦夷人が60日あまり
航海して、松前にやって来て、ラッコ島から産出するラッコの毛皮という柔らかい毛皮
をもたらす。という。また彼らは生きた鷹(タカ)や、日本人が 矢に付けて飾る鷲(
ワシ)の羽をもたらす。という。また北方から蝦夷人が70日あまりも航海して、松前に
やって来て、非常に上質な絹を持ってきていたともいう。このようにジェロニモ神父と
カルワーリュの報告から、17世紀初めに北海道の、アイヌ民族が 北はサハリンに居住
しているアイヌ民族と、東は千島列島に居住しているアイヌ民族と広範囲にわたる交易
に頻繁に、冬の氷上を犬ぞりを使って、毎年の様に従事していた。事がわかってくる。
しかし、17世紀に、ロシア人は、シベリアの探検と開拓を目指して南下し、東方へ進み
、17世紀末にはカムチャツカに到達する。カムチャツカの大地は、どこまで続いている
のか確かめ、更に砂金の出先を求めた。その探検を1697年に命じられたウラジーミル・
アトラーソフは、カムチャツカ半島の 中央部で現地の住民であるカムチャダール民族
に出会って、次いで南端部でカムチャダールとは 顔つきが異なる人たちに出会った。
その人たちをアトラーソフはクリルと呼んだ。アトラーソフは、シベリアの中心都市で
ある レナ川中流域のヤクーツクに置かれたシベリア統治のための役所シベリア庁で、
カムチャツカ探検を報告する。その報告によれば、クリルたちのところへは海上の島々
から陶器や木綿服が運ばれて来るというものである。
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24/08/14 04:56:36.27 HKuqHIqZr
末期の江戸の風景 032
こうして、カムチャツカ半島の向こう側の、海上に島々があることがわかると、すか
さずロシア政府は、それらの島々の探検をシベリア庁に命じている。こうしてイワン・
コズィレフスキーが派遣され、彼は1711年に第1の島シュムシュ島に渡り、1713年には
第2の島パラムシリ島に上陸し、島民と争いになっている。パラムシリ島で島の住民に
会い、また、その時、たまたま、はるか遠いエトロフ島からパラムシリ島に交易にやっ
て来ていた、シャタノイという名前の異人に出会った。彼はアトラーソフが、クリルと
呼んだ人たちと同じ人達だった。コズィレフスキーはシャタノイからさまざまな情報を
得て、これを、同じ様にヤクーツクのシベリア庁に報告した。この報告は、18世紀初め
にアイヌ民族がカムチャツカ半島の南端部、千島列島、北海道を結ぶ活発な交易に従事
している様子を生き生きと具体的に伝えている。北海道・千島・カムチャツカを結んだ
交易路があって、アイヌ民族は千島列島を経由して カムチャツカ半島に至り、そこで
入手した商品を持って松前にやって来る。第1の島シュムシュ島にはクリル人が住んで
いて、この島には、南方の島のクリル人たちがやって来ては、ラッコやキツネの毛皮、
矢に付けるワシの羽を持ち帰る。第2の島パラムシリ島にも クリル人が住んでいた。
この島にも、遠い島のクリル人が商売にやって来て、絹織物や綿織物、刀や鍋、陶器を
持って来る。第3の島オンネコタン島にもクリル人が住んでいる。この島の住民達は、
カムチャツカに、ラッコやキツネの毛皮を買い付けに行き、それを持って南の遠い島々
に行く。しかも、この島の住民は、カムチャツカの人たちの言語を知っていた。理由は
なぜなら、彼らはカムチャダールと交易し、結婚していたからである。すなわち、彼ら
はカムチャダールの娘たちと結婚し、彼らの方からも、カムチャダールに自分たちの娘
たちを嫁がせている。という。血統に縁戚関係を持っていた。つまりカムチャダール人
や族であったのである。
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24/08/14 05:15:45.81 HKuqHIqZr
末期の江戸の風景 033
第5の島シャシコタン島にも、遠くのエトロフ島から、クリル人が商売に来る。しか
もクリル人と言われたこの島は、北の島々と南の島々の住民たちが交易のために集まる
集合館や場所まで整備されてあったという。。ずっと南方のウルップ島では、住民は南
のクナシリ島に行き、そこで絹織物や綿織物を購入して、それを持って、北方のシュム
シュ島やパラムシリ島に行き、ラッコやキツネの毛皮、ワシの羽と交換していた。その
南のエトロフ島では、それを持って住民はカムチャツカに商売に行く。という。これは
まさにシャタノイが、自らの足で聞き取り知り得た情報だろったろう。また、この島の
住民は、日本人が言うエゾ人と同じであって、衣装や姿や言葉が同じで通じたという。
その南の、クナシリ島では、この島には、マトマイ島から小船がやって来て、絹織物や
綿織物や、鍋など比較的生活用具を、生きたワシやワシの、羽という貴重品と交換する
。またクナシリ島の住民は、しばしば交易のためにマトマイ島に行き、同様に、マトマ
イ島からも、彼らのもとへ人々がやって来る。最後の第15番目の島マトマイ島は、他の
どの島よりも大きく、エゾ、すなわち彼らの言うクリル人が住んでいた。また、日本人
はこの島に、マトマイという町を積極的につくり、これは南西海岸にあって、日本人が
住んで商いをしていた。という。これはすなわち、マトマイ島=松前島=北海道であり
、北海道の大地は、マトマイと呼ばれていた事が解る。「マトマイ」はアイヌ語で、「
妻のいる処」または「沢のある家」を意味し、故郷と言う事である。この地名は、日本
語で「松前」とした。このマトマイ町は日本人が住む松前の町から、日本産品であった
絹織物や綿織物、刀や鍋、漆器がクナシリ島へ運ばれ、それが、ラッコやキツネの毛皮
、ワシの尾羽などの物産と交換されるという交易であった。コズィレフスキーが、報告
するカムチャツカ半島と北海道の間に多数の島々、すなわち千島列島には、ロシア人が
クリルと呼び、日本人がエゾと呼んだ人たち、すなわちアイヌ民族の生活の形態である
。
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24/08/14 19:10:37.73 EaoD96WkJ
末期の江戸の風景 034
この18世紀初頭の、コズィレフスキー報告によれば、千島列島のアイヌ民族は北海道
と北千島を結ぶ交易のみならず、北海道とカムチャツカを結ぶ交易さえも展開していた
のである。正にオホーツク海交易圏が、活況であった証でもあったが、この頃ロシアは
、清国、すなわち大陸中国の皇帝とに、大きな諍いがあり、アメリカ大陸で西からの、
商業交通路、つまり米露商会と、東からの米英商事がメキシコでイスパニア戦争を共に
諍いを起こしていた。イスパニアクラッシュ、銀鉱山の攻防は、熾烈を極めていたのだ
。現在のメキシコに相当する地域は、メキシコ合衆国として認識されていた。この地域
の歴史について記述すれば、およそ2万年以上前から、人類が進出し定住して、高度な
現代でも解明されない文化や文明を築き、営々と生活していた。しかし、16世紀に、ス
ペインが進出してくると、すぐさま植民地化され、厳しい収奪が行われた。18世紀末に
ヨーロッパ社会で、革命が相次ぐと、メキシコ地域でも、メキシコ独立革命が起って、
古代王国連合の帝国からの独立を果たした。その後帝政、連邦共和政、対外戦争、ディ
アスの独裁など、西洋式の動乱を経て、1910年~1918年に続いたメキシコ革命の動乱に
よって、最近になって、やっと近代的国家を実現したのであった。不幸にもメキシコを
追い詰めたのは銀山の発見であった。大航海時代と称される時代は、日本は遠い国で、
戦国時代である認識が強いが、欧州世界では、実は鎌倉末期であり、メキシコでは室町
末期に既にアメリカ~ヨーロッパの航海時代が築かれていたのだ。とは言え大西洋横断
がそう軽々しく行われてはいない。日本は幸いにして開国には、江戸時代を閉じて対応
してるが、多くの国は、国難は免れなかった。
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24/08/31 22:52:43.79 SBqqHAvpk
末期の江戸の風景 035
1519年に エルナン・コルテスを長とする約500人のスペイン人がメキシコ湾に到達し
て、メキシコ帝国の一部だったトラスカラ王に謁見し、味方につけて案内してもらい、
首都テノチティトランまでやってきた。当初、メキシコ帝国の皇帝モクテスマ2世は、
このスペイン人の探検家のコルテスたちを、盛大に歓迎してテノチティトランに住まわ
せている。然しながら、此の時、既にメキシコ帝国は配下のアステカ国の台頭を受けて
内乱状態にあった。それが、アンデス山脈の所有権争いであった。実は此の時に既に、
このアンデスに、1563年に占領された、リマの南西のウアンカベリカの水銀鉱山の水銀
が使われたと言われるので、かなりの鉱山知識がアンデスインディオ世界にあったろう
事が解る。一説では、インカのピラミッド下には、既に水銀の川を作ってミイラの腐敗
を止めていた。と言う説もある。その後の欧州社会を一変させたポトシ鉱山はこの標高
4000mを超すアンデス山脈の中腹の山にあって、山そのものは800m程度である
。日本の佐渡島や石見銀山の様に、恐らくは表にキラキラとまばゆい反射する山であっ
たのだろう。1545年4月、現地インディオ人グァルパが、リャマの放牧追って山に入り
銀鉱を発見していた。それが、スペイン人の耳に入り、銀鉱床を確認したスペイン人は
、積極的に採掘権を取得した。とされる。しかし、この話には無理がある。既にインカ
には、金製品も銀製品も広く装飾品として使われていたし、銅製品などは物語を絵文字
で伝えた為に銅板が本として流通していたからだ。1520年に先住民の反乱がおきると一
時撤退するが、メキシコ帝国の領土では、恐らく他にも多くの漂着民なり欧州の船や民
がこの国に徐々に圧迫を来していたのだろう。
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24/08/31 22:53:13.70 SBqqHAvpk
末期の江戸の風景 036
硝酸塩鉱物の一種のチリ硝石は余りにも有名であった。化学組成は NaNO3(硝酸ナト
リウム)、結晶系は三方晶系。ソーダ硝石ともいう。19世紀に発見されたチリ硝石は、
ヨーロッパへ輸出されるようになった。と言われるが、この記述はオカシイ。と言うの
も、既に日本の戦国時代に、火薬の原料として、農夫女郎の50人の奴隷と樽1足と、
相場が記載され、それらの人間が宣教師によってメキシコに送られている。と書かれて
いるからだ。火薬自体が、中国の発見で、既に元寇襲来時に、「てつはう:(鉄破舞)
」が、紐の付いた手榴弾として大活躍している。火薬の製法は胡族、即ちチベット族に
よって、紙の発見によって、導火線つまり冬の寒い零下の中でもよく燃える物質として
、紀元前から発見されていた。この発見により、有機物を積み上げて造る硝石の家内制
手工業的な生産で、火薬は発展し、欧州社会の戦争に取り入れられ、鉄の製法の確立で
大砲や鉄砲の開発になった。その時期がこの大航海時代と重なったのは、幾つかの要素
の重要構成となったのだろうが、ここでは論じない。チリ硝石の生成原因には、火山説
や海藻説、動植物のバクテリア分解説、菌土壌び微生物生成など、色々あるが、大気中
の窒素が固定し、チリに大きく産出したのは、不幸を呼ぶ引き金になったようだ。とも
あれ、動かぬ秀吉の尻を叩いたのは、宇土の城主となった海商の船奉行していた、小西
行長であった。切支丹大名の中では、切支丹を訝しく思っていて、筒井順慶に仕えてい
た松倉氏と犬猿の仲の宋船貿易していた豪商であった。松倉順慶の養子の定次が伊賀に
転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となり、出世したが、九州平定後には
、従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。禄高微少でありながら
、10万石の大名の城に匹敵する分不相応な、奴隷監禁牢を携えた、大規模の城を築き、
奴隷交易する南蛮貿易の利を得ていた重政は入部当初、キリシタンを利用し黙認してい
た。
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24/09/06 01:13:53.01 4iHAi7xtu
末期の江戸の風景 037
ともあれ、スペイン人が上陸した時、アステカ王国に圧迫されていた、メキシコ帝国
のトラスカラ王は、このスペイン人の助けを得て反撃にでた。アステカ側では、クイト
ラワク皇帝が、新しく立てられてモクテスマ2世は殺されたが、クイトラワクもスペイ
ン人のもたらした天然痘によって、若くして没したのであった。その後首都テノチティ
トランは、全くもって、悉く破壊され、スペイン式の、都市として再建設されて行った
。それが今のメキシコシティとなっていく。メヒコはスペインの「ヌエバ・エスパーニ
ャ(新スペイン)副王領」の、中心地となって、アステカ、マヤ、カリブ海島嶼のスペ
イン植民地が、勃興し再編された。スペイン支配が始まると、スペイン人が持ち込んだ
麻疹や天然痘などの疫病によって、多くの先住民は、命を落とした。さらに植民地当局
の行った 苛烈な統治によってメキシコのインディオ人口は激減して、約2500万人いた
人口が 約100万人ほどに落ち込んだと推測される。中南米の硝石発見で、チリにおける
硝石生産は1930年代をピークに達した。その後衰退し、タラパカ地方の生産地のハンバ
ーストーン、サンタ・ラウラは、1960年代に200以上もの 硝石工場跡を残したまま、ゴ
ーストタウン化した。2005年、これら廃工場群は世界遺産(ハンバーストーンとサンタ
・ラウラの硝石工場群)として登録されている。また同じ様に、発見された銀鉱山にも
その後、次々と人びとが群がった。47年にはスペイン人2千人、インディオが1万2千
人が、鉱石掘りに従事した。とされる。当初ラプラタ(アルゼンチン)の行政下にあっ
たが、1561年に財政難で王室に13万ペソを献上し分離し、フェリペ2世から「帝国町の
ポトシ」の名を授かり、翌年には市会が誕生しその後もポトシの人口は、増え続けた。
最盛期の1650年には16万人となった。当時、マドリッドでさえ15万5千、セビリア
は18万、ミラノは29万、ロンドンは22万5千と推計されるので、この江戸中期の
時代は、立派な国際都市であったのだ。
388:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/10/04 07:07:43.77 ZWKVCvu4m
なんか上の部屋の気持ち悪すぎる犯罪者ゴミクズ騒音主が外出前にドンってしてきたんだけど
そんなことやっても自分が帰ってきたときに居づらくなるだけって分からないのかね
その時その時の快感だけで生きてるの本当気持ち悪いわ絶対コイツ性犯罪者予備軍だろ
ていうかそんなことしても残されたほうが割りを食うだけですよ。別にお前がいなくても俺は反撃するんで
究極的に自分のことしか考えられない自己中だから自分の身内のことも考えられないんだろうなあ
ガチで人間として終わってますやん
まあ片割れも見る目がなかったってことで
こんなのと一緒になってる同類のウジ虫もまあ死んだほうがいいか
389:& ◆2HE9qYTRri5q
24/11/10 04:17:35.51 RsPzQaZCG
1907年異変 01
1907年は、大変な農産物不作の年だったのだ。1907年恐慌は、アメリカ合衆国で1907年
10月に発生した金融恐慌である。構造的要因は、アメリカで前年制定のアームストロン
グ法による資金移動である。この恐慌はイギリス系投信に回復しがたい被害をもたらし
し、ユダヤ経済を崩壊させる程大きかった。一方では、現金の不足を、証券でごまかす
様なアメリカの金融制度の脆弱性を露呈していて、この金融資本が集まり連邦準備制度
の立法事実の要因ともなった。と言われる。いまの中央銀行という全米銀行協会の設立
である。FRBの成立でユダヤ金融資本が協力して、政府以上の力をつける元になった
年でもある。基本その頃の通貨は出鱈目な債権制度であり、モルガンなどは収支決算の
大赤字であったはずが得意の法螺で拭きぬいていた。タイタニック号沈没事故(タイタ
ニックごうちんぼつじこ)は、1912年4月15日に起こっている。つまり その後に起こっ
てくる世界恐慌または大恐慌(せかいきょうこう/だいきょうこう)は 1930年代にアメ
リカを皮切りに世界的に起こる深刻な経済恐慌から比べれば、簡単な政府のショートで
あり紙幣が整えば済む様なもので、各地の色々な貸し付け屋が多くなって混乱した金融
状態であるだけだった。とは言え、労働者には深刻な就業不況である。1905年、JPモ
ルガンは、ドレスナー銀行とコルレス契約を結んだ。これは銀行を保証する保険契約で
あった。いわゆる融通銀行で相互口座の開設である。コルレス契約では、ある銀行が他
の銀行との資金の仕向・被仕向の為の、銀行間替取引を行う場合に、予め諸条件を取り
決めて信用決済の橋渡しをする仕組みだ。「銀行相互間の為替取引契約」を置く事で、
預金の範囲内で融通し合う仕組みだ。通常、外国為替で使われる用語では、国内と海外
の銀行間においてが多いが、送金支払委託や手形の取立依頼、信用状の授受、決済勘定
などについて、数多くを予め取決めたもので取引する仕組みを決めたものだ。相手先の
銀行を「コルレス銀行」、コルレス銀行が開設している為替決済勘定を「コルレス勘定
」と言い、相互に口座を持っている形で、AとBにその相互に口座無いの決算収支で、
取引する。つまり相手先銀行内に、一種の事務を信じて任せた形である。