【割腹自殺】●●三島由紀夫2●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫2●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch350:無名草子さん
09/11/24 15:29:43
2009年11月21日(土)
『三島由紀夫は生きている』
URLリンク(www.mxtv.co.jp)

ゲスト文芸評論家・関東学院大学教授・富岡幸一郎
三島由紀夫は、命を投げ出し何を訴えたかったのか?
我々は、どのように汲み取ればよいのか?
昭和45年(1970年)11月25日
あの日あなたは、どこで何をしていましたか?


351:無名草子さん
09/11/24 20:07:29
切腹気違い魅死魔逝き夫

352:無名草子さん
09/11/25 19:40:07
命日なんだってね

よく知らないけど淋しそうなんでレス

353:無名草子さん
09/11/26 00:47:02
もうひと月まってクリスマスにすればよかったのにな。
そうすれば、ネットウヨが威張れるのになw
「おまえらなんだ、クリスマスとか毛唐のお祭りでうかれやがって、三島先生を見ろ」
とか、演説出来たのにw

354:無名草子さん
09/11/26 10:56:40
 第三十九回 三島由紀夫氏追悼会 「憂国忌」に五百名
   憂国の情念、絶望状況に光を見つけようと熱狂的雰囲気のなか
**************************************

 平成二十一年十一月二十五日、あの驚天動地の衝撃から三十九年目の命日。
 ことしの憂国忌は日本政治の中枢・永田町の星陵会館に五百名近い参加者を得て、静粛に盛大に、開催された。
 開会の辞をのべた松本徹氏(山中湖、三島文学館館長)は先般の山中湖でのレイクサロンの報告を兼ねて、近況を述べられた。
 つづいて「三島思想は現代に蘇るか」と題されたシンポジウム。司会は文藝評論家の富岡幸一郎、パネラーは発言順に西部邁、西村幸祐、杉原志啓の各氏。会場内には発起人の玉利斉氏、花田紀凱氏らも。
 会場はときにシーンとなり、あるいは絶大な拍手。あっという間の100分が過ぎた。
 会場ロビィでは関連図書ならびに過去の憂国忌のポスターの販売が行われ、会場整備後、近くのレストランは場所を移動し、懇親会。
 ここには遠く東北、近畿などからの参加者も加わり、和やかななかにも厳粛に懇談が進んだ。懇親会には発起人の井尻千男、西尾幹二、堤堯、田中英道、藤井厳喜氏ら70名近くが遅くまで三島論に花を咲かせた。

(事務局よりお知らせ)当日の概要は近く、小誌に紹介されます。
 またシンポジウム全記録は来年早々の『表現者』に掲載予定。賛助会員の皆様には、刊行後、贈呈されます。さらに櫻チャンネルUチューブで画像配信の予定があります。
  ◇

355:無名草子さん
09/11/27 15:30:00
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。
ぼくは、さういふ人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。
また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も大きらひなんですよ。
それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。
人間は崇高であると同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。
ぼくの中にだつて、「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。
ただ思想的には節操は大切だと思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。
つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。
いつもまつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫
「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

356:無名草子さん
09/11/27 17:48:43
>>353
三島先生は我々にクリスマスという苦行をお与えになったのだ。多くのカ
ップルがチ○コをマ○コにインさせる中、我々はじっと耐えるのである。

357:無名草子さん
09/11/27 18:17:48
本人がやっつけ仕事で軽~く書き飛ばした通俗小説、「夜会服」と
「複雑な彼」が角川で再刊されてたけど、今読むとつまんなかった。
当時はおもしろかった(高校生だったからか)のにな。

358:無名草子さん
09/11/27 19:37:52
三島文学の最大のテーマは男根である。右手恋人なのである。我々は巷に
溢れるクリスマスのカップルに惑わされることなく、左手に三島作品を、
右手に男根を握りしめ、激しいピストン運動を右手に課しつつ、左手の三
島作品を熟読しなくてはならないのだ。激しき射精に至った瞬間、そのザ
アメンを皇居に向かって飛び散らし、天皇陛下万歳と叫ばねばならない。
三島先生は我々に恍惚としたオナニイをお示しになられた。特有の臭いを
放つ子種汁を慎ましやかに後片付けしたとき、大和魂を垣間見るのだ。

359:無名草子さん
09/11/28 10:14:43
Q―泣かれたことがありますか?

三島:昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない。泣くほど感動的な事件がないからね。

Q―サービス精神についてどう考へられますか。

三島:わたしはやりたいことをやつてゐるだけの話で、サービス精神だなんて考へたこともない。
他人にサービスするといふのは人生のムダですよ。ですから、わたしは、いつも、まじめな気持で
いろいろなことをやるわけです。しかし、実際には、それがピエロにみえる。
自分がピエロだと自覚して、他人にサービスするといふのは、もう古いので、ピエロはピエロであるといふ
自意識をすて、ひたすらまじめに行為をするべきなのです。まじめであればあるほど、ピエロはいきてくる。
だから、わたしがピエロにみえるのは当然。ピエロになるのがいやなら文士などにならなきやいい。

「美を探究する非情な天才―三島由紀夫さんの魅力の周辺」より

360:無名草子さん
09/11/28 10:16:48
Q―人間の最高の徳目とは、なんでせう?

三島:義でせう。義は人間の本性からでたものではないだけに、最高の徳目になるのです。
情感、情念を滅ぼして、人間は義に生きねばならないときがある。義に生きなければ千載に悔いを残します。
しかし、義ほどつかまへにくいものはない。客観的につかまへられないがゆゑに、義であるかどうか
判断することがむづかしい。たとへば、二・二六事件が義であつたかどうか、いまでもわからない。
義はいつくるかわからない。しかし、もし、つかまへそこなふと、人間としてダメになる。

「美を探究する非情な天才―三島由紀夫さんの魅力の周辺」より

361:無名草子さん
09/11/29 00:57:40
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士として
これに加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。
(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。

三島由紀夫
「維新の若者」より

362:↑
09/11/30 14:29:20
タオルの覆面姿を馬鹿にするな!

363:無名草子さん
09/12/01 19:45:55
腹切りミシマは粉砕しなければならない。
今こそ日本社会主義共和国の樹立が叫ばれている。

364:無名草子さん
09/12/01 22:23:42
三島は別に資本主義信奉者じゃないんだけど。
そんな的外れの敵意向けてるからブサヨはダメなんだよ。
本当の日本の左翼なら生きてる金の亡者の悪事を追及しな。

365:無名草子さん
09/12/04 01:21:49
日本社会主義共和国の樹立のためなら、いかなる犠牲も厭わない。
天皇を総括し、右派政治家を一掃し、ウヨクというウヨクを粛正しよう。
幹線道路のいたるところに地下刑務所を築き、ウヨクを現行犯逮捕しろ。
日本社会主義共和国万歳!赤地に白く白丸染めて♪日本の新しい国旗だ!

366:無名草子さん
09/12/04 01:58:24
>>365
中国へ帰れ

367:無名草子さん
09/12/04 12:47:14
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、
さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として
抹殺するにいたつたのである。
(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な
問題に触れた行動であることが理解されたのであつた。

三島由紀夫
「一貫不惑」より

368:無名草子さん
09/12/04 12:50:11
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。
忘れつぽい日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件
そのものが、純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を
含んでゐると思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から
学ばなかつた唯一のものこそ、思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。
(中略)又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、
その点、思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。

三島由紀夫
「一貫不惑」より

369:無名草子さん
09/12/04 18:42:47
>>366
亜米利加に帰れ

370:無名草子さん
09/12/04 20:06:52
楯の会とか馬鹿なことやらずに、衆議院議員とか参議院議員とかやってりゃ良かったのに。

371:無名草子さん
09/12/04 21:30:22
本気で言ってるのか?

372:無名草子さん
09/12/04 21:49:33
>>370
聞きあきたよ、その石原慎太郎もどきの戯言は。

373:無名草子さん
09/12/04 22:33:46
三島が政治家になれば、日本ももっと良くなったのにな。石原どころじゃないはず。

374:無名草子さん
09/12/05 13:06:15
>>373
氏ね!国家右翼!!

375:無名草子さん
09/12/05 23:13:53
死んでよかったんだよ。
長生きすると石原慎太郎のようなクズになる。

376:無名草子さん
09/12/05 23:31:37
石原と三島は本質的には全く違う。

三島は一度でも世話や恩を受けた人の悪口や中傷を書いたりしない人だから。

377:無名草子さん
09/12/09 15:24:20
猪瀬直樹「三島由紀夫は、七十年に自衛隊のバルコニーに立って演説するわけです。
あの演説のとき、自衛隊員に罵倒されたでしょう。あれ、吉本さん、どうご覧になってました?」

吉本隆明「なんてやろうだ!と思ってました。
死ぬ気でいる人間の言葉を、自衛隊に入隊して一緒に訓練した人間の言うことを、黙って
聞いてやることぐらいしたらいいじゃないか。
これじゃ、三島さんが気の毒だ…、というのがホンネでしたね。」

1994年12月2日号「週刊ポスト」より

378:無名草子さん
09/12/09 15:26:36
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
(中略)イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。
でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。
アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
(中略)三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。
そこの所で、天皇というものを国際的観点から再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
(中略)三島さんが国際的な視野を持ってきて、インドとか近東とかそういう所の祭政一致的考え方、
それだと思うんです。それ以外に日本なんて意味ないよと考えたとぼくは思うんです。

吉本隆明
「映画芸術」誌上、小川徹との対談より

379:無名草子さん
09/12/13 16:25:46
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。
このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児のやうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を
十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと思つてゐる。
安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫
「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より

380:無名草子さん
09/12/15 22:32:40
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

381:無名草子さん
09/12/15 22:33:27
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

382:無名草子さん
09/12/18 15:33:34
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。
疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていた土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上がり、
そして舞い下りています。
あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、
私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。
それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教室講座」を発表したとき、私は
「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには
生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。
あなたを恍惚とさせる「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。

武田泰淳
「三島の死ののちに」より

383:無名草子さん
09/12/18 15:50:34
どうでもいいけど鳩山由紀夫は名前だけでも返上して鳩山馬鹿夫とかしろよ。
あれじゃせっかく名前をくれた三島が可哀想すぎる。

384:無名草子さん
09/12/26 10:45:36
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

385:無名草子さん
09/12/26 10:47:59
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

386:無名草子さん
09/12/26 11:17:06
>>384
>…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
>恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。

これは本当にそうだ。防衛庁のツアーに行った時に、あの日市ヶ谷の別の場所にいた
自衛官の人がガイドをやっていたけど、集められてヤジを飛ばした自衛官以外は
皆本当は三島に同調したかったということを話していた。

387:無名草子さん
09/12/26 12:52:59
移設前の市ヶ谷ツアーに行った俺は勝ち組

388:無名草子さん
09/12/26 19:45:24
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

389:無名草子さん
09/12/26 19:47:24
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

390:無名草子さん
09/12/26 19:48:43
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

391:無名草子さん
09/12/26 19:50:07
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』となぜ
侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

392:無名草子さん
09/12/26 19:51:41
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

393:無名草子さん
09/12/26 22:55:40
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

394:無名草子さん
09/12/26 22:57:23
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。頼むよ、
原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、天皇の
御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(中略)私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一
「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

395:無名草子さん
10/01/15 10:24:23
私は、研究室で突然三島の死を聞いたとき、どういうわけかすぐに連想したのは、高山彦九郎であり、神風連であり、
横山安武であり、相沢三郎などであった。
これらの人々の行動はいずれも常識を越えた「狂」の次元に属するものとされている。
この「狂」の伝統がどのようにして、日本に伝えられているのか、それはまだだれもわからないのではないだろうか。
ただ、すべての「異常」な行動を「良識」によって片づけることは、これまでの日本人の心をよくとらえ切っていない。
日本人は、否、人間は、自分の内部の「狂」をもっと直視すべきではないだろうか。
三島は私の知るところでは非常に「愚直」な人物である。
私のいう意味は、幕末の志士たちのいう「頑鈍」の精神であり、私としてはほめ言葉である。

私は三島をノーベル賞候補作家というよりも、その意味では、むしろ無名のテロリスト朝日平吾あるいは
中岡良一などと同じように考えたい。

橋川文三
「狂い死の思想」より

396:無名草子さん
10/01/21 15:15:58
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

397:無名草子さん
10/01/21 15:19:24
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。
すなはち、われわれはその橋を渡つて、未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、
未来と過去とはいつでも交換可能なものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

398:無名草子さん
10/01/21 15:22:05
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

399:無名草子さん
10/01/21 15:25:06
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、
いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。
又、生をあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それは
すでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、
幾何学上の定理の美しさを知るであらう。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

400:無名草子さん
10/01/28 22:13:55
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な
行動の精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識する
ものにとつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫
「わが同志観」より

401:無名草子さん
10/01/29 13:40:17
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

402:無名草子さん
10/01/29 13:40:54
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

403:無名草子さん
10/01/29 13:41:27
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で
とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に
言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう―そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

404:無名草子さん
10/01/29 13:42:14
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

405:無名草子さん
10/01/29 15:49:48
ホモ

406:無名草子さん
10/01/29 19:48:19
中曽根ってアメポチのあの中曽根だろ?

407:無名草子さん
10/01/29 21:02:24
>>406
リアリストなんじゃないの。

408:無名草子さん
10/01/29 21:08:07
ちなみに三島も自主防衛、自主憲法を唱えてますが、安保反対は言ってないよ。

409:無名草子さん
10/02/04 12:10:05
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。
…それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三島由紀夫
「二・二六事件と私」より

410:無名草子さん
10/02/04 12:11:02
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、
たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の「人間宣言」に
引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、
論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは文士たると否とを問はず、
生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、
天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて
「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は
私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。
それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。

三島由紀夫
「二・二六事件と私」より

411:無名草子さん
10/02/04 12:57:43
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふところに、
自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。
現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

412:無名草子さん
10/02/04 12:59:17
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつたのである。
そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、
ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を含む
ところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを言つて
ゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、北一輝の死は、
このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死にすぎなかつた。

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

413:無名草子さん
10/02/04 13:00:54
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。
又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。
政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を
救はうとする大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

414:無名草子さん
10/02/04 13:05:08
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、正義感の
爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。もつとも
悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そしてこの錯誤悲劇の
トラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされてゐたのだつた。
二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつた
ことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、
これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、
もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を
永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、
この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

415:無名草子さん
10/02/04 18:02:41
三島由紀夫と楯の会事件 (角川文庫)
URLリンク(blog.livedoor.jp)

416:無名草子さん
10/02/05 21:17:57
男性差別
URLリンク(ja.wikipedia.org)

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417:無名草子さん
10/02/12 10:53:26
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

418:無名草子さん
10/02/12 10:54:15
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら
訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を
悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ
薄まることはなかったのである。
そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、
三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略)
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から決して
逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近でみつめてからだった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

419:無名草子さん
10/02/12 10:55:05
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と
本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、
隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、
鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の
愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。
要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した
人間三島に惚れこんだのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

420:無名草子さん
10/02/12 10:57:31
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の
人となりについてこう語っている。
「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」
…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。
というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。
体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に
名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。
(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の
報せを受けてすぐに筆をとったことになる。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

421:無名草子さん
10/02/12 10:59:54
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった
自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が
驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。
候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)…〈一長一短〉があることを断った上で、
三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を
一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

422:無名草子さん
10/02/14 23:19:34
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。
川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。
横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒涜がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに
踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。
斎田君も今の東京で仕事をすれば苦しむことがわかつてゐます。美しいものが美しい故に死刑に処せられるのです。

三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

423:無名草子さん
10/02/14 23:20:12
(中略)
ギロチンへみちびく民衆は笑はない民衆です。おそろしくシリアスな、ニイチェ的笑ひとおそろしく無縁の民衆です。
共産党系の雑誌や新聞に出てゐる漫画は笑ひを凍らせます。かれらはデスマスクをかぶつた民衆です。
美の死刑執行人であるといふ自負すらもちえない精神です。
銀蠅が芥箱から出てきてそこらをとびまはつてゐます。ブンブンといひて夜もねられず、といふところでせうが
―かれらは「海」とは無縁の精神です。蠅は海のまへで引返します。かれらは翼をもたないくせに翅(はね)を
翼だと思つてゐるのです。(中略)
―たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
どうぞ時々お暇な折に励ましの御言葉をいたゞきたうございます。詩人に対し要求することは罪であると知りつゝ、
敢て(「要求」とは失礼ながら)お願ひいたす次第でございます。

三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

424:無名草子さん
10/02/15 11:45:09
三島由紀夫は好きだ。私は三島作品で最高傑作は「憂国」だと思っている。
改めて読み直して、美への強い憧憬に圧倒された。「憂国」は二・二六事件で新婚のため親友達から蹶起に
誘われなかった青年将校が、自分の美を守るために妻と心中といってよい自決をする話である。
今また読み、かつては気にならなかったところに、改めて目がとまった。
「この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた。」
新婚生活をこのように書くところに、三島由紀夫という作家の才能を感じる。
「厳粛な神威」と「身も慄えるような快楽」がはからずも三島由紀夫の才能をあらわしているのだが、彼の自死の
後の三十年はこの二つを社会から失ってきた歳月ではなかったろうか。もちろん彼が作家生活をしていた時期も
美の喪失過程はつづいていったのであり、喪失の流れを受容できなかったための自決であったのだ。

立松和平
「アンケート 三島由紀夫と私」より

425:無名草子さん
10/02/15 11:45:40
「憂国」を読むかぎり「厳粛な神威」とは国家神道にもとづく天皇制のことだが、視点をそこで止めてしまったのでは、
三島由紀夫はとうてい理解できないのである。それは山川草木に宿る歴史性のことで、生き生きとした
森羅万象のなかに「身も慄えるような快楽」が宿るのだ。皇軍の将校が妻をも巻き込んで自決する一夜の物語を
何度も読み、今でも戦慄を覚えるのは、国家の中心にある美やエロスや生命といったものが描かれているからだ。
そして、そのことこそが、三島由紀夫自決後三十年で急速に失ってきたものなのである。(中略)
美、エロス、生命の対極にあるのが、経済という物資活動であろう。美やエロスを捨て、生命を圧殺してきたからこそ、
日本は経済活動で成功したのだ。結局、三島由紀夫は時期を機敏にとらえてこの時代から去っていったのだ。

立松和平
「アンケート 三島由紀夫と私」より

426:無名草子さん
10/02/15 23:20:32
>>422の前
お葉書うれしくありがたく拝見いたしました。(中略)
久々のお便りに愚痴もいかゞかと存じますが、東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、
プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることに
なるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。
たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんでくれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて
棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだん
わかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が云へる境地に、一体達することができるかしら、と
たへず不安に見舞はれます。

三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

427:無名草子さん
10/02/18 12:26:29
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略)
その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに
なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を
受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の
余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。
「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」
思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが
一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略)
しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と
詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」

428:無名草子さん
10/02/18 12:27:04
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく
市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。
ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて
いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、
腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。
(中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を
下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、
駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が
多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

429:無名草子さん
10/02/18 12:27:50
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで
三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を
しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から
九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略)
自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、
それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも
手をつける気には到底なれなかった。
その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、
自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

430:無名草子さん
10/02/18 12:31:58
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。
…私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を
願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。
肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、
式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、
傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の
方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は
見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を
向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

431:無名草子さん
10/02/18 12:33:25
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、
私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。
私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。
間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を
つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。
音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは
どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは
三島の姿だけなのである。
たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に
三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

432:無名草子さん
10/02/18 12:34:30
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。
(中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない
その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。
当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に
間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略)
しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを
訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、
三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

433:無名草子さん
10/02/18 12:35:32
(中略)
〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、
ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、
三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。
死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした
滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、
〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について
「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、
〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を
見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

434:無名草子さん
10/02/18 12:36:25
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、
アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて
政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが
ないのである。
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に
満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。
もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。
三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

435:無名草子さん
10/02/19 10:58:15
【果たし得て】三島由紀夫の遺言【ゐない約束】
スレリンク(cafe40板)

436:無名草子さん
10/02/19 12:41:34
杉山隆男を引いてくるとは

437:無名草子さん
10/02/26 23:50:28
…私の知るかぎり、三島は、ある種の危険を冒しても、ものごとを素直に述べようとする人であり、しかも
その発言は、私にいろいろと考えさせることが多いからである。三島という人は、世評によれば、それこそ
海千山千のしたたかな才子であるのかもしれないが、私はほとんどそうは思わない。
私見はいつか三島由紀夫伝めいたもので述べたことがあるが、私は三島を(国木田独歩流にいえば)一種の
「非凡なる凡人」としか考えたことはない。そして、そういう愚直な人物の正直な発言というものは、近頃では
稀少価値をさえもっているのではないかと思う。自分の眼で、自分の直覚でものごとをとらえることのできる人間は
(少なくとも、もの書きの世界では)だんだんと少なくなっているのではないかと私はひが目で見ているのだが、
三島はそうでない人物の一人に見えるからである。そして、そういう人物の書いたり、したりすることは、
私などにはいつも共感と刺激の種になるからである。

橋川文三
「美の論理と政治の論理」より

438:無名草子さん
10/02/27 10:55:20
にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに

よきひととよきともとなりひととせを
こころはづみておくりけるかな

蓮田善明
昭和18年8月、召集をうけて戦地へ向かう際に三島由紀夫へ残した訣別の一首


古代の雪を愛でし
君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに
われ近代に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす

三島由紀夫
昭和21年11月、蓮田善明への追悼の文

439:無名草子さん
10/03/03 12:19:47
私は、かつて、三島の小説に対する私の関心は、芸術作品に対するものというより、むしろそこに戦中戦後の
青年の血腥い精神史のスペクトルを見る思いがするからだという、甚だ非文学的な感想を述べたことがある。(中略)
現代の思想家、芸術家を通じて、彼ほどに精確に自己の精神史を描いてみせる人物はむしろ稀である。
しかし、三島の「告白」ないし自己省察の方法が、日本人の伝統的な自己認識の方法と異質であることは、
いわゆる私小説のそれと比べるなら直ちに明かになる。後者はいわば個々の告白によるそのつどの決済、きわめて
人間的で自然なその日ぐらしの清算という意味をもっているが、三島のそれは、一定の生活体系に組織化された
近代的個人の予定された意味に関する、一種終末論的な非人間性をおびた合理的自己検証である。それはむしろ
告白の拒否を原則とする自己表現という意味をもっている。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

440:無名草子さん
10/03/03 12:20:18
三島はどこかで「大体私は『興いたればたちまちになる』というようなタイプの小説家ではないのである。いつも
さわぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの小説家である」と、みえをきっているが、
事実、彼の自己審査は、あたかもあの「資本主義の〈精神〉」の担い手たち、カルヴィニストのペシミズムと
畏怖にみちみちた自己審査に似ている。彼らは己れの救済と幸福のためにその「仕事」に努めたのではなく、
「知られざる神」によって、自己が永遠の昔から救いに、もしくは亡びに予定されているという絶大な恐怖心から
免れるために、その非人間的な禁欲と孤独の組織化を行ったのであるが、三島の一見華麗なきわまる芸術的行動もまた、
まさにそのような恐怖の影に包まれており、人生や芸術の栄光のためにではなく、ある「知られざる神」の
ためにする営為という印象を与える。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

441:無名草子さん
10/03/03 12:22:02
戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい
浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の
陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな
美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた。(中略)
いうまでもなくこのオルギアは、全体戦争の生み出した凄絶なアイロニイにほかならない。三島のように、
海軍工廠の寮に暮らしながら、「小さな孤独な美的趣味に熱中」することも、戦争の経過に不惑となることも、
この倒錯した恣意の時代では、決して非愛国的異端ではありえなかった。そしてまた、たとえば少年が頭を
銀色の焼夷弾に引き裂かれ、肉片となって初夏の庭先を血に染めることも、むしろ自明の美であった。全体が
巨大な人為の死に制度化され、一切の神秘はむしろ計算されたものであった。たとえば回天搭乗員たちは、
射角表の図上に数式化された自己の死を計算する仕事に熱中していた。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

442:無名草子さん
10/03/03 12:22:37
しかし、このような体験は、いかにそれが戦争という政治と青春との偶然の遭遇にもとづくものであったにせよ、
その絶対的な浄福の意識において、断じて罪以外のものではありえない。(中略)
そこではいかなる意味でも日常性は存在しなかった。それはいわば死の恩寵(カリスマ)によって結ばれた
不滅の集団であり、したがってまたいかなる日常生活の配慮(ゾルゲ)にも無縁であった。すでに生の契機が
無意味であった以上、罪や告白ということもありえなかった。
この世代は何かを犯したわけでもなく、個々の兇行を演じたわけでもなかった。しかし、まさにそのことが
歴史にとっては究極の罪であった。(略)彼らもまた亡びに予定された人間たちであった。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

443:無名草子さん
10/03/03 12:23:21
敗戦は彼らにとって不吉な啓示であった。それはかえって絶望を意味した。三島の表現でいえば「いよいよ
生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅」の時間が突如としてはじまる。少年たちは純粋な死の時間から
追放され、忍辱と苦痛の時間に引渡される。あの戦争を支配した「死の共同体」のそれではなく、「平和」という
もう一つの見知らぬ神によって予定された「孤独と仕事」の時間が始る。そしてそれは、あの日常的で無意味な
もう一つの死―いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間である。
それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか「異常」で明晰さを欠いていた。
「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな
夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、
その権利を主張した。…」(『金閣寺』)

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

444:無名草子さん
10/03/03 12:25:04
戦後、三島は己れの青春を「不治の健康」と名づけることによって出発した。これはもとより逆説である。
しかし、およそ生きるものが病み、やがて死んでゆくという有機的自然の過程こそ、三島たちにとってかつて
許されたことのない世界であった。死は、無機物との出会いにおいて、夭折においてしか不可能だったからである。
通常の意味における「死」がありえなかったように、日常の生もまた拒まれていた。もしなお生一般を生きるとすれば
それは仮面による生、たえず変貌する日常性を仮装した、永遠の問いかけという形でしかありえない。それはあの
禁欲者たちが、自己の生の確証のためにではなく、隠された決断者の恣意の確証のために行動したのと同じように、
不断に生を拒否するために行われる組織的な自己規制という意味をもつ。 三島の文体の人工的な華麗さは、
実は生の不在の精緻なアリバイを構成しようとする禁欲的な努力をあらわしている。彼は生の此岸からではなく、
いわば反世界の側から様式を作り出そうとする。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

445:無名草子さん
10/03/03 12:25:39
三島の日本精神史における意味は、この点にもっとも鮮明にあらわれているといえよう。そして、もう一つ
つけくわえれば、三島は日本の思想に、一種のものすごいフモールの感覚をもちこんだといえるかもしれない。
ハイネのスタイルでいえば、おどけた仮面の双の眼玉からのぞいている死神の眼のイメージである。しかし、
これは不詳の言い方であろうから、私はむしろ三島の生き方における『葉隠』の倫理を説いた方がよいかもしれない。

橋川文三
「夭折者の禁欲―三島由紀夫について―」より

446:無名草子さん
10/03/03 12:38:48
二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれない
であろうというのが、私の以前からの独断であった。それは何よりも神学の問題であり、正統と異端という
古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界にかかわる問題だからである。端的にいえば、それは日本人の
魂の世界における「大審問官」の問題にほかならないからと私は考えている。
かつて、私はそんなことを書いたところ、何と大げさなとある人からからかわれたことがある。しかし、
「大審問官」の問題が日本人にはおこらないだろうと思っているなら、それは日本人を見くびった話である。
二・二六事件はもとより、前の戦争の意味などもごく型どおりにしか考えていないからだろうと私は思っている。
しかし、それはさしあたりの問題には関係がない。

橋川文三
「中間者の眼」より

447:無名草子さん
10/03/03 12:44:22
「英霊の声」の作品評を改めてしようとは思わない。その主題と構成についてもすでによく知られているものとして
話をすすめたい。問題はこれがある巨大な怨念の書であるということである。ある至高の浄福から追放された
ものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの
叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。
三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。
昔から能楽のもつ妖気の展開様式に熟練している三島は、ここでも巧みにその形式を利用している。

橋川文三
「中間者の眼」より

448:無名草子さん
10/03/03 12:47:10
私は、今でも深夜「二・二六事件」(河野司篇)をひもどくとき、そのとあるページを直視するにたえないが、
この作品の鬼気にはそれに通じるものがある。彼らの方が生きており、お前たちの方がそうではないのだぞと、
そのとあるページのデスマスクは不気味な言葉で語りかけてくる。そういう迫力において、この作品は、
あれらの人々の心情をみごとに再現している。
しかし、こうした印象批評に私が関心があるのではない。三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、
その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、
現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。
これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない。

橋川文三
「中間者の眼」より

449:無名草子さん
10/03/03 15:54:19
「……それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか……」(『対話・日本人論』)
これは、三島の読者にはすでによく知られているあの浄福感の回想である。それは戦争という「死の共同体」の下で
いだかれた幸福感ばかりでなく、さらに古代そのままの部族神(=現人神)の庇護下にあるという浄福感とを
渾然と統合した感覚であった。
この不滅の幸福感は、天皇の人間宣言と、戦後の開始とによって亡びねばならなかった。しかし、それは不滅の
本性をもっていたから、決して死滅することはできなかった。三島はいわゆる「仮面」のもとにその仮死の幸福感を
包み、かえって残酷な「平和」時代を二十幾年も生きつづけて来た。

橋川文三
「中間者の眼」より

450:無名草子さん
10/03/03 15:57:11
しかし、それほども永い間、いわば肉体を欠如したまま仮死状態におかれていた幸福は、ある時期、本当に
死滅するかもしれないという微妙な予感におびえ始めたのかもしれない。不死の存在は、あまりにもながく
その仲間たち―かつてのあの戦士共同体―からの通信は絶たれていた。日常の中に瀰漫して眼に見えぬ媒介を
行うものたちがしだいに消失して行くのに気づいて、三島の中の隠された幸福感は、事態の緊急性にいらだち
始めたのかもしれない。三島自体についていえば、戦後を生きるために計算されつくしたはずの計画が、
思いがけない破綻に直面していることを知ったということになるのであろうか。
…解決は、ノスタルジアの果に来る狂か、死か、または政治というもう一つの芸術か、であろう。

橋川文三
「中間者の眼」より

451:無名草子さん
10/03/04 10:48:56
『金閣寺』は、鴎外風の冷徹な文体を用いて、不朽の美と人生との不条理な関係という、混沌としたテーマを
追及した観念小説というべきものである。
…金閣寺は、この作品において美の象徴であり、しかも戦火によっていつ焼亡するかもしれないという時期、
凄まじいまでの美をあらわしている存在である。主人公は、その終末の予感に陶酔しつつ、金閣寺=美との
共生にいいがたい浄福を感じている。これは、すでに伝記において見たとおり、孤独な美的趣味に熱中する
三島の精神風景と同じものである。
しかし、その反面において、美に憑かれた人間にふさわしい現世的不具性もまた、主人公の運命である。人生を
象徴する女性との性行為の瞬間、金閣の幻影はたえず現出して主人公を不能におとし入れる。三島がその作品で
しばしば描くそのような挫折の瞬間は、金閣寺と京都の歴史がよびおこすある人工的なイメージに助けられて、
この作品においてもっとも成功しているといえよう。

橋川文三
「主要作品解説 金閣寺」より

452:無名草子さん
10/03/04 10:50:34
敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の
呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。
―この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、
金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、
青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという
決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの自殺」の決意にほかならないことも明らかに
なるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を
集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、
みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である。

橋川文三
「主要作品解説 金閣寺」より

453:無名草子さん
10/03/08 16:26:33
ここ(『鏡子の家』)に描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な
疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで
「兇暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。
…じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらが
いかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に
超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に
現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その
一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に
変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。
それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。

橋川文三
「若い世代と戦後精神」より

454:無名草子さん
10/03/08 16:27:00
(中略)三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の
時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。
…つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は断たれ、あいまいで
心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは
「異端」として「孤立と禁欲」の境涯に追いやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに
戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。
元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか
傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはつねにあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じる
さまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに
関心をいだいてきた。

橋川文三
「若い世代と戦後精神

455:無名草子さん
10/03/09 17:29:43
私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。
(略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、彼に
嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います。

武田泰淳
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

456:無名草子さん
10/03/09 17:30:13
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。

倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

457:無名草子さん
10/03/09 17:31:00

三島は高度の知性に恵まれていた。
その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
…かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、
イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。
人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきた…(略)大衆を丸太みたいにあちこちへ
転がしたり、将棋の駒みたいに動かしたり、鞭を当てて激しく興奮させたり、簡単に(特に正義の名を持ち出せば)
殺戮に駆りたてることはできる。しかし、彼らを目ざめさせることはできない。

ヘンリー・ミラー
週刊ポストへの特別寄稿より

458:無名草子さん
10/03/10 12:37:56
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

459:無名草子さん
10/03/10 12:38:26
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

460:無名草子さん
10/03/10 12:39:09
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか!残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

461:無名草子さん
10/03/10 12:39:47
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…

黛敏郎
平成2年11月25日「題名のない音楽会」より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

462:無名草子さん
10/03/15 11:09:46
彼は、初代樺太庁長官を祖父として、農林水産局長を父に、開成中学の名校長橋家の令嬢を母に、いわゆる
折紙つきの固い家系の中で生をうけ、おまけに父方の祖母育ちで、小さい時から母のひざの暖かさの充分に
得られぬ淋しさの暮しで、とても我慢強かった。
母は、その時代には当然のことながら、父梓氏につかえきりの忍従の生活で、彼は体力的にも頑健ではなく、
学習院時代、稚児さんと呼ばれたことをとても残念がっていた。
彼の心は傷つきやすく、その傷の痛みを知っているがゆえに、祖母、母、父という大人たちの中でじっと静かに
考える青年に育っていった。大きくなっても、言葉の上でのちょっとした意地悪でも、深く傷つき、悲しんだ。
そんな彼が、昭和二年生まれの妹、美津ちゃんを、とても可愛がっていた。自分と違い、思ったことをハキハキいえ、
きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

463:無名草子さん
10/03/15 11:10:08
私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく、あだ名の「ヒラメ」のように、軽やかに海中を泳ぐがごとく、
学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので
素晴らしかった。
そんな美津ちゃんが、勤労動員中に飲んだなま水に、多分体調をくずしていたのであろう一人だけ腸チフスになり、
三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、
力をこめて、「お兄ちゃま!有難う」と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。
三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

464:無名草子さん
10/03/15 11:10:30
父梓も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。
この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の
目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。
母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、
美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。
そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての
「愛」だったのだと思える。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

465:無名草子さん
10/03/15 11:10:58
これから書く彼の女性との愛は、すべて結婚一年前までのものである。(中略)
本人が並はずれて女性に無免疫だったので、余り上手くない字を、ペン習字で猛練習し、すぐに臣三島由紀夫拝、
などと書いたラブレターを、自分の目にとまり、また、人の目にとめられると、相手かまわずせっせと書きつづけていた。
私は、げっそりして、「又、臣か」というと、彼は、「うるせえ」
横目でチラチラすると、彼は滅法だらしない、たのしそうな顔をし真赤に上気していた。
この手のラブレターを、大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、
ミスH・K(在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子女史にまで名乗りをあげられ、(略)…あの彼の
筆まめさから考えあわせれば、嘘とは思えない。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

466:無名草子さん
10/03/15 11:11:18
(中略)文士として大成して来た三島由紀夫に私はミスM・Kへのあこがれに似た子供っぽい愛も、ミスH・Kの
とてもハーフというだけで失格とする固い平岡家の家風のためにも、彼に自覚をうながし、「美徳のよろめき」の
モデルの夫人との火遊びにもケチをつけたりして、何となく彼の身辺を整理した。彼には内緒だったが彼の父母に
たのまれてやったことである。(中略)
彼が真剣に愛した女性は、M・KでもH・Kでもない華やいだ絹張りの令嬢だった。
彼女が十九歳から二十歳代始めの年頃の付き合いだったので、三島由紀夫の才には充分の尊敬と愛をもちながら、
ストイシズムの彼についてゆくには、何としても幼く、いくら背のびをして勉強しても、相手をするだけで
すっかりくたびれはててしまった。
彼が幼い彼女に求めていたものの実体はそんなものではなく、彼が、心地よく、何の抵抗もうけず、暖かく
見守ってくれるその雰囲気が、彼の創作意欲につながり、名作が出来上がってゆくことだったのだ。
その温床を彼女とともにいるだけで、彼は充分得られていたのだ。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

467:無名草子さん
10/03/15 11:13:59
だが考えれば随分と三島由紀夫も作家としては自分勝手だったことはいなめない。
しかし離れてゆく彼女の心に逆行して彼は結婚を真剣に考えていたのだ。それが理解出来なかった彼女は、
昭和三十二年五月、新派「金閣寺」観劇を最後に離れていった。私は彼女と三島由紀夫との四年間を、二人の
影としてずっと過ごして来て、今も彼女との交流は続いている。(中略)
その彼女も、ご主人は別として、私と逢って何について話しても、世の中に三島由紀夫ほど頭がよくて、
やさしい人に巡り逢ったことがないという話にたどりつく。
いくら女友達と割り切っていても、もしかしたら私の中の女の部分が、心の奥底で彼を愛していたのかも知れない。
とすれば私は随分長い間罪深く生きて来たことになってしまう。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

468:無名草子さん
10/03/15 11:14:20
(中略)「絶対これは内緒なんだからな。喋っちゃ駄目だよ。そのかわり彼女のことを全部君だけに教えるよ」
といっていた。冗談じゃない。人の彼女のことなど全く興味のあろうはずもないのに。(略)…実物の彼女は
とても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた。そして身につけているものは、
すべてリッチでだった。
しかし、彼女を紹介されたほんの瞬間だが、私の心は女として不快だったのは事実である。三島由紀夫自身も
それを十分計算に入れていたと思う。(中略)
三島由紀夫には、彼女との別れがひどくこたえていた。そんな彼を支えていたものは「三島由紀夫」という
プライドだけで、実に寒々としたかわいた心で毎日を送っていた。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

469:無名草子さん
10/03/15 11:14:43
余りにも深く愛してしまった彼女のかわりは、楽しんだ私のサロンも、母倭文重のいつくしみも役に立たなかった。
ただあるのは、物書きのきびしい宿命だけだった。(中略)
ただ一度の愛にしか青春のよろこびを見いだせずにいたなど、あの得意の空笑いと外見の明るさから誰一人
気づいた者などいなかったろう。私は出来る限り無理をして、彼によりそうようにして約一年を過ごしたが、
負けず嫌いの三島由紀夫の口からは、一度も彼女の名を耳にしたことはなく、空虚さの片鱗だに見せはしなかった。
きっかり一年後、彼は結婚した。
私の半生を通じての最高の友「三島由紀夫」は、今、皮肉にも自ら棄てた文学の中で生きつづけている。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

470:無名草子さん
10/03/15 12:08:49
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。―
『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり出そうと
するところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。―三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛
「『沈める滝』解説」より

471:無名草子さん
10/03/17 21:58:09
自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。
むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させて
しまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。
知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。
ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。
いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、
ともかくぼくは脱帽を惜しまない。

安部公房
「憂国」より

472:無名草子さん
10/03/18 12:29:37
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。
三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。
初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして
三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。
そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。
私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を
読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが
ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

473:無名草子さん
10/03/18 12:29:55
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、
伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、
しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ
時おり三島氏に会うために通うようになった。
私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。
何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない
謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる
ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。
伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

474:無名草子さん
10/03/18 12:30:14
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように
なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(略)それと共に三島氏の
要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を
三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため
座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を
浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」
という言葉が大好きになったようだった。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

475:無名草子さん
10/03/18 12:30:33
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

476:無名草子さん
10/03/18 12:30:54
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

477:無名草子さん
10/03/19 10:16:37
左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気には
ならないからである。
そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、
所詮人間はおなじなのかも知れない。しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、
相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。

三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、
しかし明確な知性をもって、またその美的知性の故に、その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で
社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか。

山岸外史
三島事件についてのコメントより

478:無名草子さん
10/03/19 10:17:09
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。
この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能以外の何が心を惹いたであろうか。

磯田光一
三島事件についてのコメントより

479:無名草子さん
10/03/19 10:17:31
新聞や週刊誌の中には、しごく単純に三島を異常性格者ときめつけ、最初から彼が自分の文学の主要テーマとして
選び貫いた同性愛をも風俗の眼で眺めたあげく、ホモだオカマだと立ち騒ぐ向きまであるのには一驚した。
死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である。
彼の内部に眼玉ばかり大きい腺病質の少年が棲み、あとからその従者として筋肉逞しい兵士が寄り添ったとしても、
それをただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか。

中井英夫
三島由紀夫についてのコメントより

480:無名草子さん
10/03/19 10:17:57
三島「僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。」
武田「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。」
三島「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。」
武田「それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。」
三島「そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。」(略)


私は三島さんを懸命にナダめにナダめる武田氏に、つよい共感で(感傷的にも)涙ぐみたくなる。
しかし同時に、三島さんがもの書きとしての恥部をここまで口にする激しい自己意識に心をうたれずにいられない。
それはまたそっくり三島さんの社会への批判でもある。

田久保英夫
三島事件についてのコメントより

481:無名草子さん
10/03/20 10:46:25
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に
対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略)
言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、
その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略)
三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして
悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。
天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。
安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

482:無名草子さん
10/03/20 10:47:14
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略)
なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな
疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略)
どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(略)…概念の捉え方が行間からより
鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略)
三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。
多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、
三島由紀夫の文才と考えているようだった。
しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。
しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。
つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

483:無名草子さん
10/03/20 10:48:22
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を
抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略)
三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で
捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは
変わらなかったかもしれない。(中略)
三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略)
古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(略)…阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、
或る意味そういった超能力に近いものだ。(略)…三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。
超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略)
無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて
きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

484:無名草子さん
10/03/20 10:49:08
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める
方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、
人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で
まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて
分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、
妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す
幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略)
唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った
ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。
それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

485:無名草子さん
10/03/20 10:49:56
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、
実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・
オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして
唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略)
過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が
認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を
持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。
無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

486:無名草子さん
10/03/20 10:53:04
(中略)
三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による
正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。
それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、
いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。
『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと
本多は思った』(天人五衰)(中略)
精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

487:無名草子さん
10/03/20 10:53:36
(中略)
そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、
しかも人間として生きたのだ。(略)…三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は
同じなんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。
理解できすぎたが故に。
その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。
三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略)
三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは
なかったようだ。(中略)
三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している
神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より

488:無名草子さん
10/03/20 10:54:13
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、
逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、
あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。
そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略)
ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず
天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、
生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、
自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという
自由が三島由紀夫という人間の意志だった。

三上秀人
「三島由紀夫の遺言 観世音」より


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