08/01/29 21:31:09 z0ogCagR
>>392
「神霊」の定義によります。通常、「神霊」という言い方はしません。
「神霊のようなもの」と捉えて、弥陀に救われたいと念じ、
縁を得て、一心に弥陀をたのむ方がいらっしゃったなら、
その方は、弥陀に救われます。
弥陀は、信前の機を問いませんので、たとえば、信前にキリスト教を信仰して
いらっしゃったり、あるいは、仏教の他宗を信仰していらっしゃった方でも、
要は、弥陀をたのめば、救われるのです。
信前の思想も問われません。素行も問われません。
通常は、「本師本佛」と捉え、西方浄土にて、尽十方無碍光を発していらっしゃっていると
捉えると思います。
394:神も仏も名無しさん
08/01/29 21:33:33 rDyH+ofd
>>391
ありがとうございました。
395:298
08/01/29 21:40:43 z0ogCagR
>>392
私は山崎様のことは、全くと言って良い程知らないのですが、
たとえば、たくさん修行された方だとします。
そのような方でも、聞くことのできないのが、
南无阿彌陀佛なのです。
ですから、もし、聞くことのできた方は、本当にそのご縁をよろこべるのです。
396:神も仏も名無しさん
08/01/29 21:41:39 QpxhIjS1
>>393
「本師本佛」とはどういう存在でしょうか?
不可思議なのは分っていますが、専門用語ではなく、「神霊」のような意味の分る言葉で、理解したいのです。
397:298
08/01/29 21:45:25 z0ogCagR
>>394
正信念仏偈も、本当に素晴らしい内容を含んでいます。
勤行なさっているうちに、「ああ、本当に阿彌陀様に救われてみたいものだ」という
渇仰の気持ちが育つかもしれないと思います。
そうなりましたら、信心決定の行者をお探し下さい。
外相には出しませんけれども、それでも、このスレを読んでいるような方であれば、
何となく思い当たるご発言に気付かれるはずです。
身分の上下も、年齢の上下も問わずに、聞いてみて下さい。
そうしましたら、「南无阿彌陀佛とは、何ですか?」とその方の領解を聞いてみて下さい。
もしその方が六歳の子供でも、信を得ているなら、この道の先輩です。
決しておろそかにせず、次第相承の善知識を、紹介してもらってください。
398:298
08/01/29 21:48:33 z0ogCagR
>>396
これは、396様の現在のご理解によって、どのようにお話すれば
良いのか、異なってくると思います。
本師本佛というのは、簡単に言えば、「もっとも先に悟った生命」ということです。
阿弥陀如来は、ご自身が如来となった後、たくさんの佛をお育てになりました。
次に、私たち凡夫を哀れみまして、どうにかして、私たちも救いたいと、
思ってくださったのです。
そのために、法蔵菩薩となって生まれ、御修行されて、
南无阿彌陀佛を成就なさったのです。
これで、わかりますでしょうか? それとも、わけがわかりませんか?
399:298
08/01/29 21:59:46 z0ogCagR
>>396
「大本の師であり、佛である」という言い方であれば、わかりますか?
ある佛がいらっしゃったとして、その先生の、そのまた先生の・・・と
ずっと辿ってゆくと、最後は阿弥陀如来に辿り着く、ということです。
400:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:02:55 QpxhIjS1
>>399
法蔵菩薩というのは、過去に実際に地球上に人間として生まれた存在ですか?
それならば、モーゼや釈迦如来、イエスと同じように、阿弥陀如来は、人格神とも呼べます。
地球の人間が300万年程の歴史をもつとしたら、(私はダーウィン論者ではないので何億年もあると思っていますが)、
法蔵菩薩が地球上に生まれたのは、いつごろのことだと想定されますか?
それから、佛と言うのは、霊的存在だと思ってもいいですか?
401:298
08/01/29 22:07:19 z0ogCagR
>>400
法蔵菩薩が名号を成就なさったのは、十劫前ですから、まだこの宇宙もできていません。
「人格神」と呼ぶには、「人」の定義もいるのです。
仏教では、「人」というのは、人間界の衆生ですから。
佛を、とりあえず霊的存在と思うのはかまわないと思いますが、
あえて「霊」ということばを好むのには、理由があるはずですので、
ご自分の心を、よく観てみると良いと思います。
「霊的存在と思いたい」からには、「霊的存在とは何か」という観念、
そして、「霊的存在では無いならばイヤだ」という理由があるはずですので、
できましたら、それらを教えてください。
用語としては、「佛」や「如来」を推奨致します。
402:298
08/01/29 22:10:48 z0ogCagR
>>401
ただし、劫には、さまざまな説があり、私がここに書いたことについて、
多く同意されているわけではありません。
私は、劫というのは、宇宙1回分だと捉えています。
私も、さらに勉強が必要なところです。
403:298
08/01/29 22:14:24 z0ogCagR
>>400
宇宙レベルの話になると、私には、よくわかりません。
それをわかるために、修行して行く道も仏教にはあるのですが、
地上に転生を重ねて修行するのも良いですけれども、
私は弥陀をおたのみして、極楽浄土へと参り、
本師本佛の阿弥陀如来の説法を直に聴くことを選んだということです。
浄土に参りませば、神通もいただけますから、
自分のこれまでの転生もすべてわかるようになりますし、
他の宇宙の生命の考えている内容までわかるようになります。
404:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:18:20 QpxhIjS1
>>401
法蔵菩薩は人間ではないとすれば何ですか?
それと、別に「霊」にこだわっている訳ではありません。
意味の分る言葉で理解したいのです。
「佛」、「如来」というのは、人間ではないとすれば、どんな存在だと思えばいいのでしょうか?
405:298
08/01/29 22:27:15 z0ogCagR
>>404
まず、「何」ということについて、仏教では「一切」ということを立てます。
ですけれども、これを説明してゆくことは、仏教系の別のスレで、
熱心になされているかもしれないと思います。(未確認です。)
意味のわかる言葉ということであれば、「生命(せいめい)」はいかがですか?
たとえば、虫という生命から見れば、人間という生命は、
いろいろ知力もあるし、想像を超えた能力を得ているように見えるかもしれません。
そのように、私たち人間から見て、はるかに超越した能力を持っている生命を
考えるとわかりやすいのではないかと思います。
私たちが、虫に対して、自分のわかっていることを伝えようとしたら、
どうですか? 困難ではないですか?
ですので、釈尊としてお生まれくださり、縁をつくってくださったのです。
法蔵菩薩様ですが、五劫思惟に永劫修行ですので、寿命がこの地上の人とは全く違います。
406:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:39:34 QpxhIjS1
>>405
肉を持たない生命体=佛、如来
これでいいですか?
407:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:42:05 QpxhIjS1
>>405
法蔵菩薩は、地上ではないなら、どこで修行をしたのですか?
また、肉体は持っていたのでしょうか?
408:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:44:27 0YVkmeky
>>406
googleやwikipediaかなんかで調べろよ、そのくらいのこと。
409:298
08/01/29 22:50:04 z0ogCagR
>>406
地上の私たち人間の肉とは違いますが、身体はお持ちであったと思います。
(しかし、佛如来の場合には、「持たない」という言い方で表現されることも
あると思います。)
浄土真宗で信をいただく場合、南无阿彌陀佛以外の教義を全然知らなくても救われるという
御宗旨ですので、私は自分が「救われる」内容に絞って学んできました。
ですので、仏教全般についての知識が不足しています。
ですから、きちんとお答えすることができません。申し訳ありません。
しかも、佛如来は、身体を他の世界に複数出すことがお出来になり、
たとえば、釈迦牟尼如来は、阿弥陀如来の応身です。
諸経典類や概説書を読まれると、解説が載っているかもしれないと思います。
私の場合は、「私が勉強しても、所詮私の想像だから不正確だろう」と思い、
浄土往生後に先送りしている感じです。ですけれども、ご質問受けましたので、
今後、少し興味を持って勉強するかもしれません。
あるいは、仏教系のスレで、そのような話題を扱っているスレッドもあるかもしれません。
真宗では、たいした知力も無ければ修行もできない私たちを救うための
名号がありますので、この名号によって、弥陀に救われようということなのです。
あまりお役に立てなくて申し訳ありません。
410:298
08/01/29 22:51:10 z0ogCagR
獲信者というのは、一切智者ではなくて、あくまでも凡夫なのです・・・
411:298
08/01/29 22:52:12 z0ogCagR
>>407
とりあえず、大経を読んでみてください。
412:神も仏も名無しさん
08/01/29 22:55:04 QpxhIjS1
>>411
形而上の問題よりも、まず、信をいただくことだ大切だということですね。
大経読んでみます。ありがとうございました。
413:298
08/01/29 23:01:40 z0ogCagR
>>412
とにかく信心為先です。ですけれども、興味があるのであれば、
三部経(漢訳あるいは現代語訳)を通読していただければ、
基本はわかると思います。(「なんとなくわかる」というレベルのわかり方になると思いますけれども。)
(ひょっとして、過去生で聖道をやられている方であれば、すいすいわかるかもしれません。)
経典を読んでも信は獲れないのですが、基本的なイメージを掴むことができます。
「あくまでも信心為先である」ということを頭に入れた上で、
いろいろ勉強なさると良いと思います。
414:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/30 11:12:28 O5VtNhVz
>>350
>無宿善の機に話すならば、掟破りになるでしょう。
>> 357,358,359,360,365 等々。
掟、掟を連呼する298さんは、実に饒舌だ。饒舌は人を煙に巻く。こういう饒舌が掟破りにならんという
のは、不思議な話だ。298には誠実みがない(苦笑)。浄土真宗は、宗祖の主張と、一つ一つ誠実に照
合しながら語るのが原則だ。教外別伝は受けられない。
>> 372,373
饒舌が止まらない貴方の掟はダブルスタンダードで誠実みがない。
貴方は、宗祖の主張と調和しない我流の宗教を立てているのだということはよく分かる。親鸞にも蓮如に
も、ダブルスタンダードは無いからね。
掟破りになるから話さないと、相手の話は遮断して、自分の饒舌は止まらない。ダブルスタンダードで疑城
胎宮の信心を防衛するのは勝手だが、他人の心配をする前に、貴方自身が金鎖を断ち切る勇気をもつこと
が必要だ。
415:298
08/01/30 13:06:02 vXfK6vNX
>>414
掟がありながら、蓮師も御文を書いていらっしゃるでしょう。
また、親鸞聖人も、教行信証を書いていらっしゃいます。
御本典にせよ、御文にせよ、南无阿彌陀佛(=真実行)が何であるかは、
書いてありません。
まじめに読んだ方は、気付くはずです。
浄土真宗には、「聖教読まずの聖教読み」と呼ばれる方々もいらっしゃいます。
一般のイメージの「妙好人」には、特にそのようなイメージがあると思います。
当流は、自信教人信が原則であり、自障障他は戒められています。
416:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/30 13:18:21 O5VtNhVz
>415
> 当流は、自信教人信が原則であり、自障障他は戒められています。
貴方の掟も自障障他も、疑城胎宮の金鎖の守護神。結局の所はダ
ブルスタンダードの操り人形。二枚の舌の内の一方の舌。
舌を何枚も持っていて巧みに使い分ける人に、誠実な人はいるわけ
がない。
417:298
08/01/30 13:19:07 vXfK6vNX
>>414
>貴方は、宗祖の主張と調和しない我流の宗教を立てているのだということはよく分かる。
なぜ、よくわかるのかがわかりません。
渡海様は、浄土真宗を信じていらっしゃらないのですか。
親鸞聖人を語りながら、名号を南無とたのんだことも無く、
そして、そのまま命終を迎える方がほとんどです。
もちろん、いずれは、渡海様も弥陀に救っていただけます。
私がお話しているのは、今生に救われたい方々に対してです。
418:298
08/01/30 13:21:23 vXfK6vNX
>>416
掟があるから、話してはいけない内容があり、
公開の場では、あくまでも、宿善の機と無宿善の機が混在していても
許される内容を語ることが、なぜダブルスタンダードになるのですか?
419:298
08/01/30 13:24:43 vXfK6vNX
>>416
信心獲らずにおすすめするのが、自障障他ですよ。
420:298
08/01/30 14:01:47 vXfK6vNX
>>416
確かに、このような公開の場でお話できることには、限りがあります。
しかし、それでただ沈黙してしまっては、ご縁にならないでしょう?
ですから、御開山も御本典を遺されましたし、蓮師も御文を遺されました。
そして、一般の方向けに、法話もなさったのです。
法話は、角有るところを聴かねばなりません。
そして、宿善の機は、「足りないお話」であることに、気付くのです。
御本典を読むにしても、御文様を読むにしても、
「結局、南无阿彌陀佛が何かは書いていないじゃないか! どうすればいいんだ?」
と嘆くような読み方、それでも諦めきれずに、本の中に探すような読み方が良いのです。
それでも、
◎『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうへに法門あるべきやうに
思ふ人あり。大きなる誤りなりと云々(聞書177)
です。ですけれども、納得行くまでは、探されたらよいのです。
いずれは、「善知識を尋ねよ」と書いてあることに気付くでしょう。
南无阿彌陀佛
421:298
08/01/30 14:07:12 vXfK6vNX
>>412
あくまでも易行です。ぜひ、今生で信をお獲り下さい。
いずれは弥陀に救っていただけるとは言え、
わざわざ、苦しみの転生を長引かせることもありません。
共に浄土に参り、衆生済度を致しましょう。
422:298
08/01/30 14:21:33 vXfK6vNX
>>412
悩まれる方の多くは、信心為先であることも、易行であることも、弥陀が機を問わないことも、
心のどこかで信じられないのです。
ですので、あれこれ理解しなくてはいけないとか、教義を理解しなくてはいけないとか、
罪悪感を深めねばいけないとか、自分の機を扱ってしまいます。
(これらはすべて、必要の無いことです。)
弥陀の救いは、そのようなものではありません。機を問わずに、他力にて、
お救いくださいます。
今のままの身と心で、そのままで、弥陀のもとに参ればよいのです。
423:298
08/01/30 14:29:06 vXfK6vNX
>>422
>悩まれる方の多くは、信心為先であることも、易行であることも、弥陀が機を問わないことも、
>心のどこかで信じられないのです。
これは、「信じられない」のがいけない、という意味ではありません。
信じられないから、悩んでしまう、という意味です。
そのままで、信じられずに、悩んでいるままで、弥陀をたのめば良いのですが、
そのためには、次第相承の善知識に遭い、六字のいわれを聞き開くことが必要なのです。
多くの法話では、「そのままで、信じられずに、悩んでいるままで、弥陀をたのめば良い」で
話しが終わってしまいますので、「でも、どうやって弥陀をたのんだらいいんだ?」と
聴いた方が、また悩まれてしまうと思います。
ですので、批難が起こることもわかった上で、「そのためには、次第相承の善知識に遭い、
六字のいわれを聞き開くことが必要」とまで、私は申し上げます。
これは、蓮師に倣っています。
424:298
08/01/30 16:05:23 vXfK6vNX
>>403
地上の生活でも、遠くに参るときには、飛行機や電車の切符を手配致します。
尊敬される方の説法、あるいは、好きなミュージシャンのコンサートがあると聴けば、
あるいは、好きな画家の展示会があると聴けば、
切符を手配して、かけつけることでしょう。
本師本佛であらせます極楽浄土の教主阿彌陀如来様は、
私たち凡夫を、希望者は全員、招待してくださっています。
私は、如来の説法を直に聴きたいと思い、
浄土往生を希望し、弥陀をおたのみ申し上げました。
ですから、死後を楽しみにしているのです。
この地上へのご縁が切れましたら、極楽浄土へと参ります。
425:298
08/01/30 16:15:48 vXfK6vNX
>>405
通常の感性であれば、たとえば虫を見て、「どうにかして救ってあげたいなあ」と
智慧を尽くして、虫にわかってもらおうとは、思いつかないと思います。
私など、子供の頃、簡単に虫を殺していました。
慈悲心がない恐ろしい存在であることが、よくわかります。
我ながら、ぞっと致します。今でも、体内の免疫系も、日々殺生していることでしょう。
どうやっても、救われない存在であると思います。
弥陀におたよりする由縁です。南无阿彌陀佛
426:秘事法門
08/01/30 22:55:34 T/XjSZ1y
>420
私にも善知識とお呼びすべき方があります。
ただし、アプローチは298さんとは違います。
私は善知識を求めたわけでもなく、救いを求めたわけでもなく、
ある講演会に行ったのがきっかけで、ご法話会に足を運び、
弥陀をたのめと教えて頂きました。
もし、私が救いを求めるように勧められたら、
私はきっと凡百ある「信じる者は救われる」宗教と
真宗は同類だと判断し、法話を聞く気になれなかったかもしれません。
また、もし救いを求めるように差し向けられたとしても、
救済を求めるという、煩悩が作りだす欲求を基盤として、
その欲求がかなったという煩悩が作り出す所の、救われた感覚・感情・感激を
何の疑いもなくたのんでしまっていたかも知れません。
往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず。
ただ、正覚を成された弥陀のおはからいにまかせまいらせる他ありません。
そののちは報恩のお念仏申して、日々暮らさせていただく。
若不生者の誓いゆえ、凡夫の浅知をだらだら述べるのは一利もないですね。
427:秘事法門
08/01/30 23:12:42 T/XjSZ1y
298さんへ追加します。
298さんは信心決定した、浄土往生決定した、
そうした心に住しているのではないかなとふと思いました。
その心は煩悩ですよね。凡智に過ぎないのですから。
そして、往生決定したと感じた感激を信心と思われているのではないでしょうか?
これはまさしく「煩悩の所為」「凡智によるはからい」とは言えないでしょうか?
428:秘事法門
08/01/30 23:32:48 T/XjSZ1y
さらに追加します。
掟についてですが、自分の都合にあわせて掟を勝手に作っていませんか?
所謂『掟の御文』といわれるものが遺されていますが、
ある特殊な次第相承の善知識といわれる方があって、
その選ばれた人によらなくては信心決定できないとも、
救いを求めるという条件がなければ浄土往生がかなわないとも、
述べられてはいません。お聖教には述べられていない、
特殊な善知識が脈々と秘密の法を伝授しているなら、
もはやお聖教は各自読む必要はなく、秘密の法を継承している善知識に
自身の往生について全託するのが近道であると言うことにはなりませんか?
善知識が誰かという違いだけで、
根本的にはS鸞会と同じカラクリによっているような気がするのですが。
429:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/31 01:02:51 lv700AJh
> 417 名前
> なぜ、よくわかるのかがわかりません。
僕には、貴方に解らせようと言う気も起きない
疑城胎宮の中にいる限り500年考えても分かるまい。掟、掟、自障障他で自分のガードを固
める貴方に、まともなことを言う気も失せる。
>渡海様は、浄土真宗を信じていらっしゃらないのですか。
ダブルスタンダードの貴方に解らせられる信心などは、爪のあか程も持ち合わせがない。
> もちろん、いずれは、渡海様も弥陀に救っていただけます。
大きなお世話だ。
「掟、掟、自障障他」の繰り返しで、まともな会話をダブルスタンダードで勝手に遮断する貴
方に心配される程、僕はそんなに落ちぶれてない。
>私がお話しているのは、今生に救われたい方々に対してです。
疑城の金鎖の囚人とも知らずにやってくる人を、今生に救われたい方とは聞いて呆れる。
430:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/31 01:03:55 lv700AJh
>>418
> 掟があるから、話してはいけない内容があり、
掟掟で金鎖の城のガードを固める貴方に、まともな話などできるわけがないわいな。
>公開の場では、あくまでも、宿善の機と無宿善の機が混在していても
> 許される内容を語ることが、なぜダブルスタンダードになるのですか?
まともな話をすれば、「掟、掟」と話を遮り、自障障他と切り返してくる貴方が、一体何
を僕から聞きたいと言うんだ。
金鎖の城でガードを固める貴方と、まともな話などできるわけがないわいな。
>>419
>信心獲らずにおすすめするのが、自障障他ですよ。
大きなお世話だ。説教はよそでやれ。
金鎖の城でガードを固める貴方に、どんなまともな話ができるというんだ。聞いて呆れる。
馬鹿馬鹿しい。
431:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
08/01/31 01:04:21 lv700AJh
>>420
>確かに、このような公開の場でお話できることには、限りがあります。
えらそうなことは、ダブルスタンダードの二枚舌の一枚を抜いてからにしろ。
掟、掟を連呼し、自障障他で相手を拒否し、自分は饒舌が止まらない。
人の話に耳を塞いで、自分は舌が二枚も三枚もある。金鎖の世界には誠実さが無い。
>嘆くような読み方、それでも諦めきれずに、本の中に探すような読み方が良いのです。
偉そうな説教は、掟を連呼してガードを固める舌を抜いてからにしろ。
>いずれは、「善知識を尋ねよ」と書いてあることに気付くでしょう。
馬鹿も休み休みいうものだ。疑城胎宮の外にも出られず、お前の善知識などは聞いて呆れる。
顔でも洗って出直してこい。
432:298
08/01/31 01:20:12 U83D7fX9
>>426
救いを求めずに、なぜご法話会に足を運んだのでしょうか。
それに、「救いをもとめずに、弥陀をたのむ」ということも、
私にはよくわかりません。
では、何のために、弥陀をたのまれたのですか?
また、赤子が彌陀をたのむとき、
顕在意識として、「救いをもとめる」という自覚はないだろうと
思いますが、それでも、救いを求めるから、
正法に辿り着き、弥陀をたのむのです。
私は、「救いを求めよ」と言っているのではありません。
宿善は、宿世のことなのですから、いまさらどうにもなりません。
「宿善の機は、救いを求める」と言っています。
そして、「救いを求めるのなら、宿善の機です」と言っています。
「凡夫の浅知をだらだら述べるのは一利もない」についてですが、
蓮師は示談を奨励されていますし、「聖教読まずの聖教読み」が
信を獲らせることについても書かれています。
私の立場は、むしろ逆です。
私の書き方は、むしろお聖教や教義にこだわり過ぎているのであって、
さまざまな妙好人がこのスレにつどい、だらだらと書いてくださる方が、
良いと思っています。
433:298
08/01/31 01:23:47 U83D7fX9
>>427
「浄土往生決定したと自分で思う心」は、確かに自力の心ですし、
煩悩であることに間違いないと思います。
凡智によるはからいであることも、間違いないでしょう。
そして、その凡智によるはからいに翻弄される私でありますのも、
私が凡夫足る由縁であります。
一方、弥陀の信は、私の信とは、直接の関係はありません。
私が、信じようとも、疑おうとも、よろこぼうとも、悲しもうとも、
変わらず、間断無く、相続されております。
「往生決定したと感じた感激」は、自力の信心です。
しかし、自力の信心も、救われたよろこびも、凡夫にとっては、
ありがたいものですので、他力信にとどまらず、
自力心のよろこびまでいただけることを、よろこんでおります。
434:298
08/01/31 01:27:54 U83D7fX9
>>428
>掟についてですが、自分の都合にあわせて掟を勝手に作っていませんか?
掟は、あくまでも、定められているものです。
◎他宗他人に対して沙汰すべからず(御文2-8)
また、>>348の引文もご覧下さい。
435:298
08/01/31 01:32:40 U83D7fX9
>>428
>ある特殊な次第相承の善知識といわれる方があって
典拠と感じていただけるかはわかりませんが、
◎釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、
源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。
たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、
次第相承の善知識ましまさずは、
真実の信心をつたへがたし(真要鈔)
◎この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、
ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、
一期をかぎりまもりまうすべく候ふ(領解文)