13/02/28 14:52:01.48 zTqLXtSd
孝明天皇ご自身が、「桜田・坂下門外の変の役は一見乱暴な様だが、
君国を思う至情に出たもので、これを無駄に死なせず、
攘夷の戦いの先頭に立たせたら皇国のためになるのに全く残念なことである。
彼らの誠意を汲んで、きびしく罰する様な事があってはならない」と述べられている。
(『御宸筆にて公卿方へ御下げ相成候控』(文久二年七月望後二日 延寿謹識))。
また幕府の中でも、阿部伊勢守、堀大和守が小石川水戸後楽園の邸へ来てわざわざ
「中納言様御慎みの儀、格別御慎み深くいらせられ候につき、御宥免仰せ出され」云々と達しがあった様、
侍の世間でも人気が随一だった水戸斉昭(『福翁自伝』)への世間の同情が意外に広く、水戸士民層も事態へ反抗的気勢が強く、
御三家へ弾圧を続けることが幕府にとって不利益だと阿部がみてとったせいだといわれている(『覚書 幕末の水戸藩』)。
この両方をかんがみて、水戸征伐などという言葉は一切ありえない。
むしろ、水戸が幕府を堂々とおおやけに征伐したのである。
不逞大老をその身を犠牲に退治し、天皇と幕府の名分を立てた義士を貶めるべからず。