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★【正論】初代内閣安全保障室長・佐々淳行 貧弱な「海防」まだ分からぬのか
≪思い起こせよ『海国兵談』≫
尖閣沖の中国漁船衝突事件で、林子平(はやし・しへい)の『海国兵談(かいこく
へいだん)』を思いだした。寛政3(1791)年に刊行された全16巻の「海防論」だ。
列強によるアジア植民地化が進む中、鎖国政策で泰平の眠りに耽(ふけ)る幕府に、
南下してくるロシアの脅威に備えて近代的な海軍と沿岸砲台の建設を強く説いた警世の
書だったが、幕府はこれを発禁処分にし、林子平に閉門蟄居(ちっきょ)を命じ、失意
のうちに彼は憤死する。
だが、彼の「海防論」は尊皇攘夷(じょうい)の志士たちに受け継がれ、明治維新の
原動力となった。やがて日本が日清・日露・第一次大戦と勝ち進み版図を広げるにつれ、
「海防」は国防の基本政策となり、国境警備、沿岸警備、島嶼(とうしょ)防衛の
海防思想は国民に浸透、旧海軍には海防艦という艦種も生まれた。
それが敗戦で一変する。艦砲の射程から決まった3カイリという国家の不可侵権とし
ての「領海」は兵器ハイテク化もあって軍事的意味を失い、12カイリプラス排他的
経済水域200カイリの海底資源、漁業権という経済上の観念に変わった。
あれだけ人口に膾炙(かいしゃ)した「海防思想」は失われ、軍事的には第七艦隊任せ、
警察的には海上保安庁の任務となった。海防艦に取って代わったのは海保121隻
の巡視船(他に巡視艇237隻)だ。軽武装、低速24ノットの弱体な沿岸警備隊で
四方を海に囲まれた島国の全長3万5千キロの海岸線、43万平方キロの領海、
447万平方キロの排他的経済水域を守ることとなった。
(続く)
■ソース(産経新聞)
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