08/10/17 08:18:54 N2vWmTyK
>>864です。
普通に考えると、フリーなっていたはずではあります。
1948年の第三次争議の時に、
芸術家グループが「彼等がいる限り東宝で仕事をしない」と
声明を公表しており、その年の専属契約更新は
なかったと考えるのが順当ですから。
彼等と名指しされた渡辺社長、馬淵労務担当は
その後二年くらいは東宝にいた。
第三次争議が終わって、黒澤は「蝦蟇の油」書いてあるような気分になって
東宝を離れて、二人が会社を辞めるまで東宝では映画を撮っていない。(1952生きる)
けど自分はフリーじゃなくて、専属契約のままだった可能性も
高いんじゃないかなと思ってる。その理由は、
・芸術家グループに対する切り崩しは、映画芸術協会発足以前から
第三次争議が終わった後も継続的に行われている。
撮影所の今後を左右する重要な人たちなので。
ただ、共産党を辞めて欲しい、共産党主導の組合日映連を辞めて
第二組合に移って欲しい、仕事を再開して欲しい、というものがほとんどで、
契約を続行して欲しいとか、再契約して欲しいという説得があった、
そういう記録は読んだことがない。
・芸術家グループが東宝復帰の時にどういう条件、交渉だったのか、
書かれているものが少ないし、復帰以前の専属契約の状態に
触れているものを読んだことがない。
・原節子が引退した後も、専属契約料を振る込み続け、
原に「こういうことは辞めていただきたい」と止められてる。
などです。
会社は復帰して欲しいので、契約を解除しなかったんじゃないか。
復帰するまで他社で仕事をするのを容認してまで。