09/01/25 09:17:32 /I8y8oG3
私の理解では十無記/十四無記で扱われたことは、禅定の結果で経験するものではありません。
宿命通などの過去の記憶は、無記でもなんでもなく、釈尊がなんども語っていることです。
何度も言っているように十無記/十四無記のターターガタが有情と注釈されることから、
死後は問うべきでないと解釈した学者がいたのですが、それが誤解であることは水野弘元先生が
論証したとおりです。
死後は問うべきでない解釈を敷衍して釈尊は形而上を問わなかったとなるわけですが、
それは成り立たないのは明白です。なぜなら釈尊は一切に意とその対象である諸法を含めたのですから。
つまり、精神や観念、思惟、直観を扱っているのが明らかです。
というより、釈尊は五官を抑制し、もっぱら禅定や観法という精神を主に扱ったのですから、
形而上を重視したと言えるでしょう。戒定慧でいえば、戒だけが形而下と関わっている。
その戒にしても仏教の戒律は、動機を重視するので形而上・精神を重視しているのです。
だから、仏教が形而上を扱わないというのは、全く問題にならない妄説なのです。