08/12/16 17:42:42 KWkEz3kV
>>401
>的生命の機能。死者には、一切不可能。
仏教では死者も意識を持つとします。
>「快楽は苦の原因」というのは、言語矛盾。ならば、修行や解脱による
>「快楽」も、「苦の原因」となり、無意味ではないか。
言語習慣上、無我なのに私というように、言語習慣上本質的に苦でも、
楽というだけです。例えば、食べ物を食べると美味いという楽がある。
その楽という感受に執着するなら、楽を再現持続させたくなる。
美食の始まりで、これが苦を生み出します。
なぜか、美味いものは慣れると普通になり美味くなくなるからです。
また、ローマなどでは吐いて食う始末。
そして、美食が病の元であることは、現代日本人なら熟知しているでしょう。
涅槃の境地は、生命活動の潜在力である業が全て静まった
尽きたから楽とされます。
>小乗は、原始仏典から一歩も踏み出せず、釈迦の「無」の思想を発展
>させる努力を怠ったから、各地で、紛争の原因となっている。それは、
>釈迦の真意ではないはずである。
小乗がアビダルマ、部派仏教、テーラワーダを意味するなら全く誤認です。
テーラワーダと釈説は明らかに違います。
テーラワーダやアビダルマは実在を想定した実体論です。原子のようなものを想定する。
それに釈説は無ではないのです。無我・無常・空・縁起はなかなか理解するのが難しいのです。
>それらを発明し、製造し、使用したのは、すべて、神やイエスを信じる
>クリスチャンです。
たしかにセム系宗教は排他的で選民的ですが、それを批判すると彼らと同じになりませんか?
宥和の道を模索するか、避けるのが仏教的でしょう。