邪馬台国=福岡説 PART6at HISTORY
邪馬台国=福岡説 PART6 - 暇つぶし2ch1:日本@名無史さん
22/04/11 13:55:40.87 .net
資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう   
※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
スレリンク(history板)
※PART1
スレリンク(history板)
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※PART2
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※PART3
スレリンク(history板)
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PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
スレリンク(history板)

2:日本@名無史さん
22/04/11 13:57:11 .net
◆シン日本神代古代史◆

「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与

古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。

沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。

神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。

欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。

崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。

そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。

3:日本@名無史さん
22/04/11 17:07:14.01 .net
ちゅちょちぇ?👶🏿

4:日本@名無史さん
22/04/11 17:26:01 .net
>>1
九州説の核心「伊都説」
邪馬台国ファン、卑弥呼ラブのあなた
ゴールデンウイークに時間があったら、いかが?

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
スレリンク(history板)

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
スレリンク(history板)

ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1~5の5回シリーズで詳しく説明してますよ。
トンカラリン 邪馬台国 で検索すると見つかるよ

5:日本@名無史さん
22/04/11 17:54:21 .net
>>1000
>女王國は後漢書にも記載されているのだが、
>大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
>後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、

これは真実だろうか?
大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
実は倭王帥升が大率なのではないだろうか。
帥升は洛陽まで詣でているが、戦乱期の倭王が自国を長期不在にするとは考えにくい。
しかしもともと諸国を検察する役割の大率ならば、洛陽まで足を伸ばすことも不可能ではなかったかもしれない。
漢は倭国の詳しい事情を知らないから、帥升つまり率を王と勘違いしたわけだ。
そう考えると、帥升から大率、太宰の帥は一貫して同じ制度だと考えることができる。

6:日本@名無史さん
22/04/11 18:45:46.87 .net
平原遺跡の鏡の続き。
西日本各地の大型内行花文鏡のうち、後漢鏡とともに見つかった平原遺跡の鏡がおそらくは最も古く、その後のお手本となったのだろう。
興味深いことに、その後のどの鏡も、平原遺跡の円周8咫を超える大きさのものはない。
その理由について踏み込んだ推察をするならば、八咫の鏡を超える大きさの鏡を作ることは憚られたのだろう。

7:日本@名無史さん
22/04/11 20:33:50 .net
>>5
なるほど。
王は別にいて、大率は外務大臣のようなものか。
あるいは弥生時代の軍は基本的に水軍なので、水軍大将でもある大率は、
日本史における将軍のようなものであり、
倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

だとすれば符合するのは、
吉武遺跡では大王=木棺墓、戦士階級=甕棺墓だったのに、三雲井原王墓は甕棺墓である点。
伊都説者によると糸島伊都=筑紫日向であるが、日向三代は天皇でない点。
ニニギとニギハヤヒ(天照国照)
山幸彦と海幸彦
なども腑に落ちてくる。

なれば卑弥呼もそもそもは大率で、元は奴國or不彌國から北方を担当する検察官であった。
それが倭国乱による混乱で刺史のように政務も行うようになり、
卑弥呼が統治する奴國不彌國は女王國として認識されるようになった。

女王國運営の手腕を認められて倭国王として共立されるわけだが、
その場合、「有男弟佐治國」とあるので、
これが女王國時代のことであれば、奴國不彌國を治めるのに弟が兕馬觚か多模か卑奴母離として助けたでいいが、
邪馬台国女王時代のことであれば、弟=大率?=難升米??伊聲耆掖邪狗???となってくる。

難升米は奴国王系と思われ、次の大率の伊聲耆掖邪狗は伊族=天神族系と思われるので、
卑弥呼の正体にも関わってくる。

8:日本@名無史さん
22/04/11 20:55:47.22 .net
>>7
>倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。
日向三代の末期の争いに嫌気が差して卑弥呼を共立したわけだから、卑弥呼政権そのものは軍事政権ではないだろう。
しかし、実務として軍事を司る人物は必要なわけで、卑弥呼は象徴のようなもので、君臨すれども統治せずということだったかもしれない。
日向三代が三雲南小路遺跡に始まる伊都国王家だよ(細石神社の祭神は木花佐久夜姫、高祖神社の祭神は彦火火出見)。
とすれば、卑弥呼は伊都国王統ではなく、血縁は近いが別の王統でなければならないだろう。
いわゆる国津神、筑紫の日向の生まれ(伊奘諾の末裔)ではあるけれど、天照の末裔ではない王族達だ。
例えば大山祇、綿津見、住吉の神などだ。
その中で、次代の壹與とクマソタケルがともに佐賀川上に鎮座していたことは注目に値する。
狗奴国王もまた卑弥呼の同胞であったとすれば、卑弥呼自身がもとは肥国女王であったとして矛盾しない。
倭国乱で天孫族が筑紫の日向を離れた後、筑紫(旧倭奴国)と肥国を統合する形で大倭国の女王に共立されたということになる。
筑紫の日向に留まった天孫族(邇邇芸の末裔)が、伊都国の官であった禰宜だろう。

9:日本@名無史さん
22/04/11 21:03:49.54 .net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
※もともと筑後は有明海沿岸なので肥国だったが、なんらかの理由で筑紫が併合した。
地理学的には、佐賀平野の河川は筑後川の支流だったが、後世に流路が変更された。
つまり壹與を祭る肥前一宮與止日女神社(旧河上神社)も、熊襲タケルあらため川上タケルも、筑後川の川上にいたことになる。
卑弥呼が肥国(後の筑後)山門の女王なら、肥後熊本つまり狗奴国の王である卑弥弓呼とも旧知の間柄どころか、同族であっただろう。
何より、名前が一文字しか違わない。

10:日本@名無史さん
22/04/11 21:06:19.87 .net
【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。

11:日本@名無史さん
22/04/11 21:07:17.73 .net
畿内派も九州派もその他の人らも、こっちのスレを使って盛り上がりませんか?

12:日本@名無史さん
22/04/11 21:11:02.69 .net
【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後~筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。

13:日本@名無史さん
22/04/11 21:24:20.49 .net
>九州説の核心「伊都説」
なんだ、鬼道の意味も把握できない伊都チョンの第二スレッドだったのか?(失笑)

14:日本@名無史さん
22/04/11 21:36:02 .net
伊都説は何人もいるんだよ。

15:日本@名無史さん
22/04/11 23:49:20 .net
天孫降臨の舞台は宮崎高千穂だ
福チョンの妄想は書き込み禁止しろ

16:日本@名無史さん
22/04/12 00:26:20 .net
ごめん1か月だと片道だった
魏志倭人伝の最後の部分をそのまま読むと
往復だから政等は伊都国での滞在は2~4ヶ月か滞在している
当時は時間距離を埋める手段がない ネットとか郵便とか電話ないでしょ

17:日本@名無史さん
22/04/12 01:46:25 .net
>>14

>伊都説は何人もいるんだよ。

そうか?ものの言い方や思い込み方、決めつけ方まで似通ってくるのか?

気の毒な説だなw

18:日本@名無史さん
22/04/12 03:09:59.41 .net
【なんちゃって一級建築士の特徴】
高卒か大学文系卒
親族の工務店で修業
エコ、環境、子育て等のキーワード使用
設計依頼すると家族ぐるみのお付き合いをなどと言われ食事会に招待されキャンセル不可能に持ち込まれる
大きな建築物は経験無し
各地の建築セミナーに足繁く参加してHPに載せる

19:日本@名無史さん
22/04/12 07:08:10.11 .net
お~い!

20:日本@名無史さん
22/04/12 07:40:48.85 .net
>>17
俺が伊都国説を言い出したころは賛同者は数人だったな
最初は内容も固まってなかったが
纏めた内容がユーチューブのゆっくり動画にある
UP主がトンカラリンの名前で邪馬台国1から5まである
見てくれ

21:日本@名無史さん
22/04/12 07:43:19.59 .net
>>17
視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

22:日本@名無史さん
22/04/12 12:47:27 .net
>>21

>視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

まず第一話を拝聴いたしました。
前置きとしまして、日本の指折りの旧家が、所謂邪馬台国は九州にあったと言っています。
例を挙げるのであれば、出雲の王家の血筋、出雲大社上官家筆頭の富家(事代主の直系)
更には、物部と連合を組み、東征した、九州ド真ん中の真実を知る立場の宇佐家
そして後年の伊都の偽装に結び付けられたと考えられるヒボコの姑の家、元、糸井造家の神床家(旧出石神社社家)

他の旧家は武内家ですら歴史を原則は明かしておらず、武内家の宗家(石川臣家)の分家の北陸蘇我家もまだ存続していますが、証言を始めていません。

それら主だった旧家は口をそろえて魏書における邪馬1国は、九州だよと言っています。

ただ、肝心の邪馬1国の位置となると、実際には国としての実態がないので、「東征開始にあたって宇佐八幡に軍隊が集結する前の拠点、都万が実際の邪馬台国である」という立場をとっています。
要点としては、記紀、とりわけ古事記は、まるでヤマトが大和を攻撃したように書かれています。

実際に大陸の魏書でも同じような誤解が生じました。
九州の卑弥呼たちは、自分たちの国名をヤマトの邪馬1国と名乗ったのです。
すでに朝貢していた国を倒すとは当然に言えない訳です。

邪馬1国と名乗った人たちが、実際に奈良の邪馬1国に攻め込んだというのが実態との事です。

イツ伊都に関しては、大宰府と同じように、邪馬1国が首都を分からなくするように日本府を置いて、そこから先に外国が入ってこないために作られた「施設」とのこと。

故に、王様がそこに居るように見えるのは当然という事でした。

なるほど、安曇と強引に結び付けてなさそうなので、伊都チョンとは別人なのですね。

23:日本@名無史さん
22/04/12 12:51:18 .net
駆け落ちした(してきた?)~とか、
江戸時代中期の伝説でもないしな、もっと前の時代。

24:日本@名無史さん
22/04/12 12:54:14 .net
筑後市玉垂宮辺りが邪馬台国の都で間違いないだろう。

25:日本@名無史さん
22/04/12 12:55:31 .net
23

スレッドを間違えた。

26:日本@名無史さん
22/04/12 13:26:41.91 .net
そうそう、ヒボコの舅の家の神床家にはキチンと神功皇后伝承が残っていて、息長帯姫は実際には成務天皇の奥さんだったそうです。
たしかに、ヤマトが九州にやられた景初の東征の戦いで、前政権はヒコイマス系から手打ちとして奥方のヒバス姫を出していますが、系図を見てもわかる様に、神功皇后は、ヒバス姫と同年代の人物。
年上にしても成務天皇あたりまでが限界でしょう。
あの時代に母系の先祖のヒボコの実家が、王権が部下の人物に移行した際に、相続権を主張して韓征伐を計画したそうです。
当初、成務には断られた神功皇后は、なんと彼を見限り、九州の豪族、中臣家(当時はまだ中津臣家)の人物に依頼します。それが後に仲哀天皇にされ、取ってつけた様にナカツヒコと割と中継ぎの様な可哀想な名前になっています。
そして、九州西都原に住んでいた武内宿臣太田根の孫の襲津彦が、彼女と組んで二韓征伐を成功に導いたそうです。
つまり、応神ともなると孫の摂政の世代になるので、相当なおばあちゃんという事になってしまうので、この辺りまでは記紀によって時代が圧縮され、九州宇佐の卑弥呼が隠されている時代になります。
応神期以降は記紀は割と本当の時代にあってくる感じになります

27:日本@名無史さん
22/04/12 13:34:56 .net
西小路の旧生目神社跡地が
伊支馬長官の所在地だろうな。

28:日本@名無史さん
22/04/12 14:08:40 .net
>>24
>>27
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

29:日本@名無史さん
22/04/12 17:05:45.65 .net
>>22
全部見てね、おかしいと思うところ指摘してくれ。

30:日本@名無史さん
22/04/12 17:44:18.35 .net
銅鐸の分析によると、
大国主と大物主の共同作業の國造が、
実際に1世紀中期にあった事が分かる。
更に言うと、須佐之男命は実際に居て、
コレは荒神谷遺跡の主であると考えられるのである。
となると大国主は加茂岩倉遺跡の主だろう。
また、国譲りの際に事代主が隠れたと言われる青柴垣が高地性集落で、
建御名方神が逃げていった諏訪が、
銅鐸分布圏の最果て地であることも、
大国主のパートが歴史の事実であったことを物語っている。

31:日本@名無史さん
22/04/12 17:47:22.93 .net
>>30
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

32:日本@名無史さん
22/04/12 17:58:10 .net
で、この大和の大物主が大和に取り込まれるのが、
崇神天皇の時代のモモソヒメのパートの事で、
箸墓の伝承になって記述されている。
大和の支配者の大物主は、
実際には吉備の豪族御間城崇神に、
縁戚関係で取り込まれたと言えるだろう。

33:日本@名無史さん
22/04/12 18:06:03.32 .net
また、御間城崇神の系統は、
孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇開化天皇らと
同族であると考えられ、
これらは中国四国地方から畿内へ
婚姻関係を広げて行っている事が分かり、
これらもまた縁戚関係によって、
畿内進出したことも分かるのである。

34:日本@名無史さん
22/04/12 18:12:49.35 .net
で、この御間城崇神の大和進出以前に、
天孫降臨によって河内を拠点にして、
大和に進出していった部族がニギハヤヒであり、
それらは大阪湾型銅戈の出土と一致し、
長野県安積野からも出土したことで、
ニギハヤヒの河内を拠点にした大和進出と一部安積野進出が、
歴史の事実であることも証明されたと言えるだろう。
そしてこのニギハヤヒの部族との婚姻関係で、
御間城崇神は畿内に進出していった。
コレが歴史の事実である。

35:日本@名無史さん
22/04/12 18:21:38.30 .net
また、御間城崇神と婚姻関係を結んで、
畿内に進出していった日向の部族が生目垂仁であり、
コレが魏志倭人伝には伊支馬長官として記述されている。
また、御間城は彌馬升として記述されており、
記紀では子と親の関係でありながら、
役職逆転していることから、
実際の直系の親子関係は無かったと考えられる。

36:日本@名無史さん
22/04/12 18:28:47.62 .net
また、当時、狭穂彦の乱を制して、
日向から北部九州に進出していた生目が長官で、
一方、四道将軍を本州各地に派遣して
肇国知命となっていた御間城崇神が
副長官であることを考えると、
倭国の中心地は北部九州であることも分かるのである。
御間城崇神が四道将軍を本州各地に派遣しながら、
北部九州には手出しが出来なかったことも、
北部九州に軍事的に大きな勢力があったことが分かるのである。

37:日本@名無史さん
22/04/12 19:05:40.37 .net
>>1スレ建てありがとうございます( ̄∇ ̄*)ゞ 
邪馬台国はどこなんでしょうねえ
九州は間違いないと思っていますが
私は
邪馬台国は高良山、高千穂は英彦山だと思っています
英彦山が高千穂の方が自信あるけどなあ

38:日本@名無史さん
22/04/12 19:08:01.98 .net
>>37
妄想、楽しそうだな。   @阿波

39:日本@名無史さん
22/04/12 19:18:57.27 .net
>>37
高千穂は高祖山 三雲南小路など方形墳
高良山は孝霊など大倭系男王 祇園山など前方後円墳
邪馬台国は北部九州全体

40:日本@名無史さん
22/04/12 21:36:39.95 .net
>>29
ただいまです。
これから全部見てみますね。
あと、一応日本の旧家との違いは都万国の位置です。
URLリンク(daredoku.net)
当時、数万戸になっていたのは西都原で、そこが都万国でした。
私のお気に入りのヨウツベ動画はこれです。
URLリンク(www.youtube.com)
ここの邪馬台国と都万国の位置を入れ替えてみてください。
概要としてはそんな感じです。
大陸の史書というのは、実は恐ろしい確度で日本の事を書いているそうです。
日本の旧家に言わせると、日本に欠史は存在しないとの事です。

41:日本@名無史さん
22/04/12 21:42:38.04 .net
西都原のあたりが邪馬台国となるとは、実はかなりの線を行ってるらしいですね。
此処に集結した群衆が、タジマノモリ(だしょうまい)が大陸から貰った八本の属国旗を宇佐八幡で掲げ、
その旗の処に銅鏡を下げて、進軍が開始された様です。
二回目の東征が景初の東征にあたるそうですが、つまり、垂仁がヤマトを倒し、短期間ですが政権をとり、曲がりなりにも日本統一をしたというのが概要になります。
つまり、単なる奈良の出先機関の伊都は重要ではないんです。ヒミコが独身の卑弥呼、いつの間にか結婚してた卑弥呼が大陸の史書に書かれていた事。
宗女トヨの母親が、九州の卑弥呼で、朝貢した卑弥呼。大和の出雲の太陽の卑弥呼に対し、九州の月神信仰の卑弥呼という事が重要な話の様ですね。
魏志倭人伝は、物部と宇佐一族による、親戚の家、ヤマトへの侵攻という事なのだそうです。

42:日本@名無史さん
22/04/12 22:29:50.23 .net
伊都と安曇の、景初の時代の関りは極小値。
律令時代にまで渡って長い間に展開した安曇族と、その勃興のあたりの時代とは基本無関係。
下手すると安曇族は宇佐家の分家筋。
磯良関係の神事はほぼ全て応仁期以降に宇佐八幡が作った体制への服属儀礼。

43:日本@名無史さん
22/04/12 22:46:42.02 .net
>>36
北部九州が本陣なら、北部九州には攻め込まないよ。>大型内行花文鏡の東征

44:日本@名無史さん
22/04/12 22:49:33.95 .net
高天原は元々は九州ではありませんでした。
九州説の人って、延喜式に書いてある事を不思議にガン無視ですよねww
延喜式に本来の高天原の場所が言及されています。
現在の高天原産参考地、御所市の高天彦神社の上の高台の様な処が本来の高天原です。

45:日本@名無史さん
22/04/12 23:16:36.37 .net
記紀の中でも古事記は、実は九州系の旧家の血筋の伝承で書かれています。
それが稗田流と呼ばれるもので、トヨが名を変えられたあとの、天鈿女。
鈿女の系譜を名乗る一派の口伝が中心となって、記紀が書かれています。
口伝の伝承資格は利発さが問われ、必ずしも血筋に限った継承ではなかったようです。
九州説の方はもっとそれを認識すべきではないでしょうか?
九州説という話の中心は、トヨの実家筋の宇佐家ですよ。安曇なんてたまたま伊都の近くに神社があっただけの一族です。
鹿の神事は下手すると、鹿島から中臣家が運んできた神様ですよ。
延喜式には本来の高天原の場所以外にもう一つ大事なことが書かれています。()内は私の想像。
美濃に八人(不明)、丹後に二人(物部や海部)、但馬に七人(ヒボコや海部)、淡路に二人(忌部やヒボコ)、因幡二人(ヒコミチヌシなど)、出雲四人
延喜式には口伝の継承者の一族の数がハッキリ明言されています。
ヤマトの和邇の分家の一族に、柿本家と小野家がありました。
実は、小野家が稗田流の継承者で、その仕事を大海人皇子の乳母だった綾部家の人麿の母親がお役御免になった際に次の仕事として引き継いだのが稗田流の語り部の仕事だったそうです。
綾部家の人麿は頭がよかったらしく、母親の仕事を空で覚えてしまい、利発さが買われて柿本家の養子になりました。
稗田阿礼とは、便宜上、彼の母親の事です。
現在でも石見の戸田の綾部家、人麿の実家は現存します(妹さんが後を継いだらしいが、現在では口伝は失われています)

46:日本@名無史さん
22/04/12 23:19:23.57 .net
>晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
>これ見ると七万戸ってのは30国の合計で七万ってことなんやね

邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。
列挙された30国は地方自治体で、その合計が七万戸。ということです。

47:日本@名無史さん
22/04/12 23:30:44.98 .net
>>46
>邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。
邪馬台国は東征側の陣営なので、厳密に言うと乗っ取った側の陣営の国。
伊都を中心として支配していたのは奈良の邪馬1国
それが崩れた際に奈良に進軍する為に集まったのが魏書に書かれた邪馬1国
九州の卑弥呼が既に朝貢していた邪馬1国を名乗っただけの話。
政変が起きる前と後で、伊都の位置づけだけ変わらないなんてあり得ませんよ。
戦闘開始前に朝貢した事がきちんと魏書に書かれているでしょ?

48:日本@名無史さん
22/04/12 23:37:16.89 .net
>>46
魏志倭人伝にも同じ事が書かれてるね。

49:日本@名無史さん
22/04/12 23:45:31.90 .net
>>48
どこに?

50:日本@名無史さん
22/04/13 00:36:13.51 .net
一大率は港に出向いて開封して中身をあらためてるけど、
勝手に開けていいんかな?
先スレで誰かが言ってた、実は一大率が真の支配者だったみたいな。

51:日本@名無史さん
22/04/13 01:00:58.78 .net
>>50
一大率は女王以北に居るから末盧国の港には来ないよ
末盧国の港に集まるのは女王の家臣団

52:日本@名無史さん
22/04/13 01:09:33.21 .net
>>49
邪馬壹國女王之所都
邪馬壹国は女王の統べる所である
丗有王皆統屬女王國
(伊都国には魏の)世に(卑弥呼、壱与)王が居た、(倭の国々は)皆女王国に統属していた

53:日本@名無史さん
22/04/13 07:04:36 .net
「自女王國以北
 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
 於國中 有如刺史
 王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯」

>王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
>傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

>皆臨津搜露 
王からの文書や品々、王への文書や品々、その全てを港で開封して臨検するとある。
文書とか賜物の内容に相違がないかチェックするとまで書かれている。

この感じだと、船荷から陸荷に積み替えるところで一大率が開封している。
現代だと、船のコンテナからトラックへ移すところで一度開封するイメージか。

54:日本@名無史さん
22/04/13 07:17:42 .net
開封まではしてないんじゃないの?
舟で運ばれてきた木簡束や品々の包装を確認して、取り残しが無いよう全て陸装に詰め替えるってことじゃ。舟で運ばれてきたコンテナを開けずにそのままトラックの荷台に乗せていく、一つも残さず。

55:日本@名無史さん
22/04/13 07:22:09 .net
台帳があり、それを読み書きしていたということなんだよね。

56:日本@名無史さん
22/04/13 07:35:52.73 .net
>皆臨津搜露 
開封しているようですね。
伊都国が最終目的地、つまり卑弥呼がいるところだからでしょう。
魏志倭人伝は、伊都国における卑弥呼の統治を繰り返し具体的な描写で伝えています。

57:日本@名無史さん
22/04/13 08:10:36.96 .net
>>53
この辺の文章は全て女王卑弥呼の行いに付いての記事だよ
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させていた、諸国はこれを畏れ憚っていた
女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた
この様子は魏での刺史の様であった。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
女王卑弥呼が使者を遣したり、魏の都や帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に来る時は、卑弥呼の家臣は皆、末盧国の港に出向いて調査、確認した。
文書を伝送し賜遣の物を女王に届けるので、間違いは起きなかった。
末盧国の港に一大率は出向いていないよ
>>55
贈り物の目録と現物を港で確認してたんだ
末盧国の港からは魏使は手ぶらでの旅だね。

58:日本@名無史さん
22/04/13 09:38:59 .net
独身の卑弥呼と、トヨの母親の卑弥呼は別人

魏書にはそうキチンと書いてあるでしょ

59:日本@名無史さん
22/04/13 11:04:08.67 .net
魏書では、宗女トヨの母親の名代が、邪馬1国を名乗り、戦闘開始後に武内宿禰(たいしゅうえつ)が狗奴国のヒコミチヌシノミコ(ヒミココ?みたいな)と戦闘中だとオウキに報告してる。
つまり、大陸は、最後まで東征軍が邪馬1国が狗奴国と戦っていると思い込んでいるわけだ。
九州だけで完結する話なら三角縁神獣鏡は九州だけで出なければならない

60:日本@名無史さん
22/04/13 11:10:47.62 .net
ヒコミチヌシノミコは、ヒコイマスの息子で、サホヒコの兄弟。
彼ら二人が後目の争いで葛城国が分裂していた。
ヤマトが九州勢に負けた後、ヒコミチヌシノミコは昔の名前、ヒコタツヒコに戻し、因幡国造になった。
武内宿禰はヒコタツヒコを守るために随伴したが、物部イクメ(垂仁)が追手を差し向けたので、そこから逃げ出し、出雲に保護された。
故に、彼の子孫全てが臣家になった。
蘇我家もwikiで確認できるが、カバネが臣になっている。
逃げ出した元の家は神社になり、その時のことが現在でも逸話として残っている。
出雲で景初の三角縁神獣鏡が出たのはこういう流れなのだそうだ。

61:日本@名無史さん
22/04/13 12:07:30 .net
伊都の長官は耳の一族である、多臣家
耳の字は母権尊重で、母系の父親、出雲初代のスガノヤツミミとされ、二代目大君の綏靖だかにも入る(沼川耳だっけ?)
つまり、本来の神武である村雲の兄弟か、子供の代から分かれた分家で、ほぼ海部氏と同格の分家。
故に、魏書にビビと出ているのは耳の一族であるという話が九州説には出てくる事がある

基本は世襲なので、九州の卑弥呼が我々は邪馬1国であると言った際に大陸が疑いの目を向けていないことから、多氏は物部側の東征軍についた可能性がある

そして鹿島国造家の、鎌足の両親はおなじ八井耳で、鎌足は中臣家に養子入りした後に藤原氏となった
不比等の母親は中臣家とは別の家系の人物で、中臣家の血が入っていない

藤原氏と多氏は親戚同士

それが、完成しなかった帝記のメモと、和邇系統により保護されてきた細女の稗田流を元に古事記の編纂を開始した。

62:日本@名無史さん
22/04/13 12:22:46.61 .net
先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
鉛の同位体比分析の結果、
同一工房内で、長江周辺の銅に、
北魏の銅を混ぜて作った鏡であることが分かり、
それが鏡の作成過程で徐州の銅山の銅を
使えなくなったことを意味すると考えられ、
ソレは即ち三国時代に呉に徐州の銅山を取られて、
魏は銅が枯渇したことを意味すると考えられるため、
コレが魏の時代に作られた卑弥呼に送られた鏡で間違いないだろう。
また、邪馬台国と関連が深い丹波氏の拠点、
丹後太田古墳から、青龍3年の銘のある方格規矩四神鏡が出土した事で、
卑弥呼に送られた鏡が方格規矩四神鏡であることは決定したと言っていいだろう。

63:日本@名無史さん
22/04/13 12:29:31.81 .net
高天原が、当初の奈良から九州への変更がなされたのは、多氏か、物部、もしくは宇佐に配慮した結果かもしれない
定期の編纂メンバーには、上から序列順に、皇族関係者→各地豪族が呼ばれている。
半分の6名が皇族
残りが豪族
村雲の政権の大彦系である敗れた側の阿部ですら呼ばれ、臣姓にはなれず、連止まりだった格下の安曇氏まで呼ばれており、更には応神朝(ウズメの実家関連)の上毛野まで招かれているのに、物部氏が呼ばれていない。
これは一説によると、物部氏が圧迫されハブられたとも言われているが、私個人としては違うと考えている。
物部氏、多氏に加え、藤原氏は黒幕側であり、編纂委員を招いた側だから、招待されたリストには乗らなかったのではないか。
そうでなければ、諡号をつける役目の物部系の血が入る開化系の子孫の淡海や、壮大なネタバレ(饒速日とホアカリが同一人物)が含まれた先代旧事本紀などが編まれた理由が分からなくなる。

64:日本@名無史さん
22/04/13 12:34:27.09 .net
つまり誰が誰で何処が何処なのかを=で書いて欲しいわw

65:日本@名無史さん
22/04/13 12:35:32.84 .net
>>64
妄想愛好家にそれは無理!   @阿波

66:日本@名無史さん
22/04/13 12:38:19.11 .net
>>64
イト君に限らず、邪馬台国絡みのスレに書き込むヤツらって、わかりやすい文を書いて持論を理解してもらおうという気がサラサラないように思える

67:日本@名無史さん
22/04/13 12:39:07.52 .net
>>65
ナンバーワン知ったかたったったーの阿波じゃねえかよ

68:日本@名無史さん
22/04/13 12:40:11.79 .net
6人の豪族のうち、呼ばれた動機が不明なのが安曇氏。
安曇連稲敷は、神功皇后関係か、海部氏の代わりとして呼ばれたとしか思えない。
難波連大杉は、大彦系であるので、ヤマトの磯城王朝のことで負けた側代表で呼ばれたのだろう
上家野君家は、細男、細女の関係で藤原に呼ばれたのかもしれない。
稗田流は多臣家か、中臣家の管轄下に入っていたと思われる。
春日神社では磯良舞を、細男舞として保護してきた経緯がある
平群臣小首は、武内宿禰(武内臣太田根)の子孫で、平群王朝(応神の次から武烈まで)のことで呼ばれたのだろう。
忌部は第三席で、何故か上毛野家より上位に置かれ、末席に中臣が来ているが、これは形式上の配慮であろう。
中臣家と忌部は争っていたからね

69:日本@名無史さん
22/04/13 12:45:25.11 .net
>>64
先代旧事本紀だと、アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒでしょ
同じ人物で、簡単に言うと、奈良の海部や尾張氏は、九州の物部と同格の親戚同士
だから後目のお家騒動で争ったわけだ

70:日本@名無史さん
22/04/13 12:50:25.57 .net
>>66
イヤイヤ、時代の合わない漢の金印と安曇と伊都を強引に結びつけるペテンよりはマシでしょww
ありゃマジクズの思い込み出ぜ?w

71:日本@名無史さん
22/04/13 12:52:04.08 .net
>>63
高天原(海の城)が海なし県である奈良県に移動された理由でも考えてくれ。

72:日本@名無史さん
22/04/13 12:57:05.42 .net
>>31
これに関しては流石に阿波に同意
埋められた銅鐸や銅剣には特異な紋様が刻まれていて、それは出雲の富家と、神門家の所有の区別のために刻まれていたもので、須佐男とか全く無関係ww

73:日本@名無史さん
22/04/13 13:04:23.11 .net
>>71
字が読めないらしいな
延喜式でも見てきたら?
奈良から九州に変更されたのであって、その逆ではない。

74:日本@名無史さん
22/04/13 13:16:02.34 .net
高天原は博多湾周辺である。
というのは、高天原から天孫降臨したのは、
天皇家だけではなく、
ニギハヤヒもいる。
ニギハヤヒの天孫降臨は、
大阪湾型銅戈で特徴づけられ、
銅戈等を祭祀の道具として使用していたのは博多湾周辺の部族であり、
高天原が銅剣銅矛文化圏発祥の地、
博多湾周辺であることが分かるのである。
また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
また、国譲りの際に西日本一帯に進出していった高天原の勢力が、
銅剣銅矛の伝播とイコールであることからも、
高天原が博多湾周辺であることが確定する。

75:日本@名無史さん
22/04/13 13:32:44.25 .net
天孫ニニギが高天原から博多湾沿岸の高祖山(クシフル岳)に降臨しているから、博多湾に近いけれど博多湾ではないだろう。
海の城という原義に照らせば島嶼部であり、沖ノ島が有力候補。
大規模な祭祀つまりは祖先祭りが行われていたことが明らかであり、おそらくアマテラス祭祀だったのだろう。

76:日本@名無史さん
22/04/13 13:33:41 .net
>>74
〉また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。

不気味なほど気持ち悪い伊都チョン表現ww

出てきたものと強引に何の証拠もなく関連づける、まさに安曇脳ww

77:日本@名無史さん
22/04/13 13:45:40 .net
>>76
高天原はニギハヤヒの天孫降臨や国譲りによって、
銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族であることは確定する。
スサノウが高天原(博多湾周辺)から追い出されて出雲に勢力を張った場合、
出雲から銅剣銅矛の出土がソレを裏付ける訳で、
つまり、出雲から大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡が、
スサノウの拠点となるのは間違いないだろう。

78:日本@名無史さん
22/04/13 13:52:58.02 .net
一方、大国主は銅鐸の伝播によって特徴づけられる部族であり、
荒神谷遺跡と同時期の遺跡で、
なおかつ初期の銅鐸が大量に出土している
加茂岩倉遺跡が、大国主の拠点であることは間違いないだろう。
およそ前2世紀~前1世紀頃に、スサノウと大国主の物語りのようなことがあったのは
間違いないだろう。

79:日本@名無史さん
22/04/13 13:53:10.05 .net
>>77
銅剣は、吉備国である、フトニの領域からも出土する。
やり直し。

80:日本@名無史さん
22/04/13 13:54:18.99 .net
>>78
出雲の銅剣と、銅鐸には部族を区別する同じ刻印がなされている。
やり直し

81:日本@名無史さん
22/04/13 14:04:29.47 .net
また、瀬戸内海に勢力を張っていたと考えられる事代主が、
国譲りの際に青柴垣を作って隠れたという。
コレがまさに弥生中期後期に
瀬戸内海を中心に出現した高地性集落であり、
記紀の出雲のパートは、
史実に基づくものである事が確定する。

82:日本@名無史さん
22/04/13 14:05:47.91 .net
>>79
ソレは私の説を否定することには一切ならない。

83:日本@名無史さん
22/04/13 14:23:49.93 .net
>>82
それは日本語が読めないだけに過ぎない

84:日本@名無史さん
22/04/13 15:56:58.68 .net
>>76
>荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
これは出雲国譲りの結果だろう。
武装解除して放棄させられた。

85:日本@名無史さん
22/04/13 16:01:20.10 .net
アマテラスは博多湾沿岸(筑紫の日向)の生まれだが、筑紫を出て高天原に移った。
孫の天孫が、豊葦原中国の王となるために筑紫に戻ってきた。
つまり高天原は銅矛文化圏ではあるけれど、博多湾沿岸ではない。

86:日本@名無史さん
22/04/13 16:44:40.92 .net
>>84
>これは出雲国譲りの結果だろう。
何のなんの、出雲忌部の痕跡に過ぎん。   @阿波

87:日本@名無史さん
22/04/13 18:15:35.76 .net
吉備国の平型銅剣の分布
URLリンク(shosuzki.blog.jp)
吉備国の地方の王に成り下がったフトニの系譜は出雲領から奪った砂鉄の産地から、鉄器を作った
倭国大乱期の初端を開いた播磨に侵攻したヒボコ族は尾張氏などのイタテの一族に圧倒され分断される
そこで当時最新の鉄器の製造法を手に入れる
後漢が滅んだことにより流出した鍛造可能な鋳鉄の精錬法に、朝鮮半島の磁鉄鉱を使い、急速に武装化が進んだ
さらに、出雲に向かって停戦の条件として出雲の青銅器を要求した
西出雲王家の神床家のものだけ差し出し、東出雲王家のものは埋設して隠す方針に決定された
故に、出雲で大量に発見された銅剣に関しては過半に、富家の✖の刻印がある
逆に、差し出された無印の青銅器は吉備国に差し出されたから、平型銅剣は成分が無印の銅剣と同じになるはずだよ

88:日本@名無史さん
22/04/13 18:20:47.70 .net
>>87
何のなんの、吉備忌部の痕跡に過ぎん。   @阿波

89:日本@名無史さん
22/04/13 18:25:41.78 .net
伊都チョンは、それまで発見された全ての銅剣を足しても足りないくらいの青銅器に刻まれた特徴のある刻印には全く無関心らしいなw

普通なら気にするだろww
銅剣分布からもわかる様に、瀬戸内海から山陰の妻木晩田遺跡の東方、孝霊山までは吉備の領域になり、ヤマトは基本海、瀬戸内海の朝貢ルートが寸断され、出先機関の伊都は、単独で朝貢の判断が出来る様になっていた
そして、景初の出来事に繋がっていく
景初の戦闘で吉備国と出雲は滅んだ。
奈良のヒコミチヌシも降伏し、戦乱は終結した

90:日本@名無史さん
22/04/13 18:27:05.23 .net
考古学的に考えて、最古の大王がいた吉武高木遺跡が高天原だろう。
豊葦原中国は豊葦原那珂津国。
早良平野は標高が高いから貴族が住んでいたのだろう。
出雲は遠賀式土器や鐘撞式土器が東征していった宗像地域。
越は土井ヶ浜遺跡など山口県からの本州日本海沿岸。
弥生遺跡の分布から考えると現代よりは西寄りにコンパクトになる、。

91:日本@名無史さん
22/04/13 18:27:08.03 .net
稲葉国造のヒコミチヌシは、国造本紀にも出ていて、ネタバレされている

92:日本@名無史さん
22/04/13 20:37:46.69 .net
>>87
根拠ゼロの妄想でしかない。

93:日本@名無史さん
22/04/13 20:46:10.06 .net
考古学的に見て、
荒神谷遺跡の大量の銅剣に特徴づけられるスサノウと、
大阪湾型銅戈で特徴づけられるニギハヤヒらが出自した高天原は、
銅剣銅鉾の生産地であった博多湾周辺で間違いないだろう。
また事代主に国譲りを強要した高天原の部族という点でも、
銅剣銅鉾の西日本への広がりで裏付けられ、
高天原=銅剣銅鉾の生産地=博多湾周辺で間違いないだろう。

94:日本@名無史さん
22/04/13 21:08:16.06 .net
また、銅鐸の時代編年と分布密度の分析から、
銅鐸の分布変遷は大国主の國造の伝承と一致する事が分かる。

95:日本@名無史さん
22/04/13 21:43:35.01 .net
出雲は荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋められていただけで、
勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無

96:日本@名無史さん
22/04/13 21:55:04.22 .net
スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡

97:日本@名無史さん
22/04/13 21:58:24.40 .net
>>90
逆にいうと、年代とともに博多湾沿岸を中心に東に(時には南にも)全て拡大して移動した。
南っていうのは、日向が高祖山から宮崎に移動したことね。

98:日本@名無史さん
22/04/13 22:05:48.78 .net
>>96
環濠が八重ではないから却下

99:日本@名無史さん
22/04/13 22:08:49.75 .net
>>95
出雲全体ではたくさんの住居跡があるだろ?
荒神谷には人知れずこっそりと武器を埋めたのだろうから、近くに家がなくて当然。
しかしこの地域に200人を超える規模の軍団があり、そらを支えることができる人工と生産力があったことは間違いない。
まあ、出雲国譲りの時に放棄した武器だろうね。

100:日本@名無史さん
22/04/13 22:22:38.30 .net
>>98
八重の環濠集落はどこにある?

101:日本@名無史さん
22/04/13 22:24:28.68 .net
>>99
悲しいほど無いね
調べたけど無いから、出雲にはそーゆーのが無かったという結論に至った。
あるというなら、ここに列挙してみなよ。

102:日本@名無史さん
22/04/13 22:51:31.64 .net
八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を
環濠集落の環濠は、多くが3重程度。
8重あれば、国内屈指の守りの固い城柵ということになる。

103:日本@名無史さん
22/04/13 23:10:25.05 .net
>>101
島根県、弥生時代、遺跡で検索すると出てくるから、ないわけではないね。
伝承の通りなら、出雲の支配域はかなり広くて、神無月には各地から首長が詣て参集していたわけだから、それこそ支持基盤は島根県外まで含むだろう。
国譲りで出雲を倒して筑紫が再び天下を統一したというのなら、それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
滋賀県の伊勢遺跡もまるで出雲のような内容だから、確実に出雲の傘下だったのだろう。
そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。
その範囲の集落なんて、いくらでもある。
見つかっていないのは八重垣の環濠集落。

104:日本@名無史さん
22/04/13 23:11:05.68 .net
>>102
八重の環濠集落はどこにある?
あれば出せ
なければ八重は多いという表現

105:日本@名無史さん
22/04/13 23:11:20.39 .net
スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡

106:日本@名無史さん
22/04/13 23:26:18.32 .net
昭和の編年や誰だか知らない人の説を出すけど現在においてそれ意味ないよね
鎌倉幕府は1192いい国じゃなくて1185いい箱だし
風邪ひいてもできれば風呂入ったほうがいいし
運動中は水をこまめに飲んだほうがいい
世の中の変化についてきてなくね九州

107:日本@名無史さん
22/04/13 23:37:21 .net
九州は昭和にできた甕棺編年を信じて
250年ごろまで甕棺が作られたと本気で思ってるの?
だとしたらアホだなあ

甕棺編年が250年前後の卑弥呼に合わせて
ゆがめられて作られた編年である可能性は高いよね

これちゃんと説明になってるぞ
予備知識のない
これ意味わかってない人はこのスレにいてほしくないなあ

九州ももっと勉強すべきだと言いたいのよ
学術的にかみ合わないからいちいち説明しないといけない
その面倒な作業をなくしたいが九州は勉強不足すぎる

108:日本@名無史さん
22/04/13 23:45:48 .net
2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
おれは奥村とか誰か知らないが
そんなの関係なく九州の書くことを否定できるのは
現代の客観的資料にしか興味がないからだろう
そして昭和に発表された説とかどうでもいい
知名度のある教授の編年を否定できないとか窮屈すぎる
現代の科学的資料を元に言いたいこと言おうぜ

109:日本@名無史さん
22/04/14 04:58:12.73 .net
福岡はね、ナノ国だけあれば十分なんですよ♪

110:日本@名無史さん
22/04/14 06:47:49 .net
イトでもいいとも♪

111:日本@名無史さん
22/04/14 07:09:19 .net
>>103
>そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。

それは本国「阿波」から進出した、出雲忌部や北陸忌部だ。   @阿波

112:日本@名無史さん
22/04/14 08:00:59.06 .net
>>70
イトおかし

113:日本@名無史さん
22/04/14 08:03:55.31 .net
委奴強し

114:日本@名無史さん
22/04/14 08:25:56.48 .net
>>107
甕棺と卑弥呼と何の関係がある?
言いがかりだね。
平原遺跡は木棺墓だし。

115:日本@名無史さん
22/04/14 08:27:55.31 .net
>>108
>2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
纒向なんて関係ないだろ。
平成の遺物は引っ込んでろ。
現実を直視できていないのはお前だ。
昭和の教授?
誰の何のことかさっぱりだ。

116:日本@名無史さん
22/04/14 08:42:46 .net
>>92
はい伊都チョン確定ww

117:日本@名無史さん
22/04/14 09:49:24.49 .net
>>112
おかしいのは顔だけではない

118:日本@名無史さん
22/04/14 10:22:34.21 .net
甕棺墓の甕は水を意味しているので九州北部を支配していた海神族の証
(本質は雨の多い地域なので、単純に遺体保護の為)
海神族の都は山門周辺で、奥八女を禁足地とし女王が天道を行っていた
海神族の女王は豊玉姫(八女津姫)で、二代目は玉依姫(卑弥呼)である
飢饉の末、天道に従い豊玉姫を山麓に捧げた後、玉依姫が女王となった
倭人伝に記載されている邪馬台国の人々と、海神族との共通点は多い
当時の筑紫平野は沼地が多かった為、熊本平野より稲作量は少なかった
海に近い山門は漁業がメインだったと想定される

119:日本@名無史さん
22/04/14 10:32:17.24 .net
妄想は顔だけにしてほしいものですな

120:日本@名無史さん
22/04/14 12:14:07.04 .net
>>98
八重垣の意味がまるで分からず、適当に物を言ってるだけ
八重垣というのは、出雲基本の法律。これを八重垣の法と言った。
伊都の地名の元になった可能性のあるヒボコの出石の子孫タジマノモリが出雲をわざわざ攻撃したのは、ヒボコが末子相続のために朝鮮半島から追い出された際に、最初に出雲に行って土地の世話をして貰おうと思ったが持ち前の高慢チキの性格が災いし、「八重垣の法を守る事を拒否」
それ故大国主は出雲の領域にヒボコが住む事を禁止し、遠くの土地の世話をする事もやめたそうである。
ヒボコ属はそれをずっと恨みに思っていて、わざわざ大和に行く前に物部朝倉の郡に合流してまで出雲攻撃作戦に加わったそう。

121:日本@名無史さん
22/04/14 12:16:11.92 .net
大陸式の環濠集落は、吉野ヶ里でしょ。
大陸から二度目の渡来を果たした例の人は、和名ニギハヤヒを名乗った。
母系は出雲の分家、宗像家。
そして彦ホホデミを設けた。

122:日本@名無史さん
22/04/14 12:37:19.40 .net
>>108
巻向遺跡は昔はもっと関連していた豪族がわかる様な名前でした。
三輪大君説の、太田氏。
昔は太田遺跡といい、現在でも発見された大型遺構のあたりの地籍は太田になっています。
太田氏の本家筋は現在は墨坂神社の宮司家です。

123:日本@名無史さん
22/04/14 12:56:12.97 .net
纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合では纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。

124:日本@名無史さん
22/04/14 13:06:01.74 .net
>>95
〉勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無
その認識は正しいそうです。
青銅器は宗教の祭器だったので、外敵から守られる様祈りを込めて、当時の国境や、戦線の防衛ライン付近に埋められたそうです。

125:日本@名無史さん
22/04/14 13:11:34 .net
巻向遺跡は住居ではなく三輪山祭祀の遺跡で、農機具も刃先鉄器のない木製農具しか出てこないはずだよ。

これは、出雲系の三輪山祭祀で、神在月の様な祭りが春と秋に開かれたから。

だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
更には外国の勢力は奈良に入ってこない様に国の都を偽装して伊都を都に見せかけてそこで足止めして入ってこない様にしていたから、そもそもが巻向を持ち出して論じて結論を出す事自体が不適切。

話は変わるが
1%未満だけと九州式の土器が出た際にはテレビ放映もされるほど話題になったな。

126:日本@名無史さん
22/04/14 13:18:56.97 .net
>>103
〉それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
これに関しましては少し違っていて。青銅器時代、つまり大陸からの渡来者(一度大陸に帰もう一度来日するのは、徐と、スサノオのみ)は、先代旧事本紀でネタバレされている様に同一人物が男系になって始まっています。
故に、青銅器時代に奈良と九州に文化差はなく、大阪あたりからは丸木の船ではなくキチンと構造船が、出土しています。
どちらが格上かの、決着は、一応九州物部がホホデミの妹であるホヤ姫を出しているので下位には収まっています。
昔の習慣として、嫁を出す側が仕立てに出る側になります。
故に前政権が負けると血筋を残して手打ちにするために姫を出すわけです。
イクメには、磯城王朝最後の王、ヒコイマスの娘のヒバス姫が差し出されました。

127:日本@名無史さん
22/04/14 13:28:50.24 .net
>>125
>だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
関連する豪族が尾張氏しかいなかった。

128:日本@名無史さん
22/04/14 13:30:46.41 .net
>>125
つまり魏志倭人伝に出てくる、中国人が見た邪馬台国は伊都だということだよね。

129:日本@名無史さん
22/04/14 13:44:58.08 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 出雲の国譲りで大国主が失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫倭王であった応神による統一王朝へ

130:日本@名無史さん
22/04/14 15:33:13.35 .net
>>127
東海方面、阿部の領域からも土器が来てるでしょ。
イソタケル系の紀伊半島系の土器も出てる。
太田遺跡は、要は国内版の朝貢。手土産交換の貿易の場でもあったわけだ。
吉野ヶ里ではちがってたのかなあ?
九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか?

131:日本@名無史さん
22/04/14 15:35:21.21 .net
>>128
その通り。畿内ヤマトと大陸は最後まで勘違いしたままだった
九州の卑弥呼を奈良の卑弥呼と勘違いしてた
だから未婚の卑弥呼と子供のいた卑弥呼が同じ政権の卑弥呼としてそのまま記述された

132:日本@名無史さん
22/04/14 15:37:39.74 .net
九州の卑弥呼と伊都は無関係
そんな物がなくとも朝貢した卑弥呼は九州の宇佐家の姫巫女

邪馬台国九州説に伊都や安曇は基本無関係。意味がない情報

133:日本@名無史さん
22/04/14 16:17:03.41 .net
>>130
阿部の領域ってどこさ。
尾張との境界はどこ?

134:日本@名無史さん
22/04/14 16:18:21.76 .net
>>130
>九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか?
博多ですよ。
吉野ヶ里は周囲の国邑を従えてはいたけれど、遠隔地との交流は奴国と伊都国の管轄ですね。

135:日本@名無史さん
22/04/14 17:19:49.04 .net
>>133
どの時代のことを言ってるの?
太田遺跡は景初のあとも続いてるけど?
180年代以降の東海地方は阿部系(大彦の息子のヌナガワワケ)
東海地方の三三島社は、九州に端を発する小市(越知)、奈良の事代主の系譜の登美家、そして阿部の一族が関連してる。
巻向の出土の土器で多いのは東海地方のものでは?
尾張氏、海部氏、加茂氏は一度、景初の戦いで奈良から逃れ、加茂氏は山代國に行った。だから鴨神社が移動した。
尾張氏は海部と途中で別れ、海部はイソタケルが奈良入りする前に地盤を作った丹後に。尾張氏は熱田方面に。そこで草薙の剣を祀った。
九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。

136:日本@名無史さん
22/04/14 17:21:09.56 .net
二人も同じ人物はいらないよ。
魏志倭人伝にある卑弥呼も邪馬台国も九州だということだ。

137:日本@名無史さん
22/04/14 17:55:34.25 .net
>>136
倭人伝も普通に読んで理解できない程度では話ならん。
畿内説とか九州説を論じる以前の話だわ

138:日本@名無史さん
22/04/14 18:02:02.36 .net
巻向の遺跡の祭祀の中心は太田氏が管轄していた時期がある。
太田太根彦(オオタタネコ)が、独身の姉の卑弥呼の世話をしていた。
それが記紀に書かれた。
大陸の皇帝は、後漢が滅んだ後の内戦がやっと落ち着き、朝鮮半島の目の上のたんこぶを処理した後、倭国大乱期にも関わらず、遠くのヤマトから朝貢したと思ったから健気に思ったんだよ
九州に居たことが分かってたら、あそこまでの表現にはならないし、大陸に提出した日本書紀の誤魔化し方が分かってしまうから、普通なら記紀の編纂者はそんなリスクは取らない。
記紀の編纂者は確実に大陸の史書に目を通して居た。その上で属国の歴史や朝貢の事実を全て消したとしても、何とか内容が通る形に我が国の歴史を纏めた。

139:日本@名無史さん
22/04/14 18:10:20.66 .net
二度にわたる大規模なお家騒動、権力の相続に関連した物部氏によるヤマト侵攻だけど、九州の物部は本当に性格が悪く、力で強制する手法だったので、相当に嫌われたらしい。
離れた地で政治の根を下ろすのにはパートナーが必要。
物部は奈良では嫌われ、負けた側の住民は逃げ回るばかりで決して従わず、貢物も出さなかったらしい。
垂仁の次の成務は、結局奈良からかもしや太田氏などにより追い出され、宮は播磨に移動した。
結局、実質ナンバーツーの勢力の賀茂氏以下の貢物しか集まらず、再度平定のために戦闘をしなければならなかった。
関東方面にはタケルを、自らは九州方面に攻め込んだ。
東征の連合相手の宇佐を裏切った物部に帰る場所はなかったから九州では戦闘になり、宇佐氏は、奈良の土蜘蛛に比して、土雲にされた。
腹違いの兄弟であるトヨ彦、トヨ姫を椿大社で暗殺し、権力を独占した無法者は結局機内での権力基盤を掌中にすることはなかった。
二度にわたる東征移行、二度と物部は奈良に攻め込むことは無かった。

140:日本@名無史さん
22/04/14 18:13:45.61 .net
>>134
そういう意味ではなくて、他の地域から大規模な貢物があったり交流を示す様な、地域外の土器が沢山出るような遺跡のこと。
思い込みの話はどうでもいい

141:日本@名無史さん
22/04/14 18:27:37.02 .net
>>135
>九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。
福岡における弥生墳墓の副葬品から、制式化は明らかだよ。
後年になって畿内でもそれを継承して、草薙剣や八咫鏡を当てはめたんだ。

142:日本@名無史さん
22/04/14 18:32:36.33 .net
>>141
根拠なし。意味不明。

143:日本@名無史さん
22/04/14 18:33:38.82 .net
>>140
福岡で全国各地の産物が出ることは有名で、キナイコシは九州が全国各地の勢力に征服されたからだなどと畿内説の根拠にしていたくらいなんだが。
福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して、福岡平野全体が一つの遺跡みたいなもの。
魏志倭人伝でも奴国は2万戸となっているからね。
明らかに人口も一番集中していた。
それを支えるだけの農地や漁獲と、周辺地域からの移入産物があったということになる。
弥生時代におけるこのような大都市圏の形成は、福岡だけの特徴になる。
簡単に言うと、どこを掘っても遺跡に当たる。

144:日本@名無史さん
22/04/14 18:34:33.02 .net
>>142
根拠は考古学的な出土品だよ。
動かぬ証拠だ。

145:日本@名無史さん
22/04/14 18:40:50.19 .net
>>143
>福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波 

146:日本@名無史さん
22/04/14 18:45:25.30 .net
>>144
頭がおかしい。さすが九州男児ww
3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
村雲の剣は、大王就任の際に出雲側から尾張家に贈られたもの。
一応王権のシンボルとして村雲の実家の尾張家が所有する事になった
しかし、シキツヒコの代からは三代も出雲系から嫁入りした弊害が出てしまい、尾張氏は銅剣を磯城王朝に渡さなくなった。
それ以降、ずーっと皇室に草薙の剣は渡っていなく、うつしがあるのみである。
尾張氏の持ってるものは青銅器の剣

147:日本@名無史さん
22/04/14 18:46:44.69 .net
熱田神宮の本当の御神体は村雲の剣であり、草薙の剣ではない

148:日本@名無史さん
22/04/14 18:53:18.13 .net
>>146
>3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
古墳時代の話じゃないだろ。
紀元前からの弥生時代の話をしているんだ。
副葬品を見ると、剣は青銅でも鉄でも構わないみたいだけどね。
たなまに平原遺跡は鉄剣だが、後年ってどういう意味?

149:日本@名無史さん
22/04/14 19:01:26.70 .net
ナノ国強し!

150:日本@名無史さん
22/04/14 19:11:29.66 .net
>>107信じられないと思うかもしれないけど
福岡は昭和の初めのころまで甕で土葬の地域もあったんだよ

151:日本@名無史さん
22/04/14 19:18:10.01 .net
>>148
弥生式墳丘墓と古墳の間の区別は現在では意味がない。
便宜上、古墳と表現しただけ。
紀元前600からあったのは出雲のみで、最大版図になったのは記紀もしくは出雲風土記にある様に出雲6代のオミツヌ。
その時には、先代旧事本紀でネタバレしている物部と尾張氏の共通の先祖である同一人物饒速日ホアカリは渡来してきていない。
彼らは我が国に青銅器を持ち込んだから確実に後年の話。
そもそも弥生時代は今いつからの開始になってるよ?
佐賀には紀元前10世紀の水稲遺跡があるよな?
昭和の感覚と今の弥生の感覚は開始年代が違うぞ?

152:日本@名無史さん
22/04/14 19:19:23.79 .net
>>148
詳しい話よりも、世間一般の三種の神器のビジュアルって青銅器の剣になってやしないか?
まずはそこからだ

153:日本@名無史さん
22/04/14 19:20:48.89 .net
まーた出雲土人か

154:日本@名無史さん
22/04/14 19:22:27.53 .net
>>143
ばっかだねー、だったら巻向の土器でも出るのか?w
巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
またお得意の思い込みか?ww
そこはかとなく漂う伊都チョン臭ww
隠しても普段の言動や考え方、言葉の軽さや考えの浅さだけは隠しようがないなw

155:日本@名無史さん
22/04/14 19:22:52.04 .net
>>151
>出雲風土記にある様に
その出雲風土記に、「大国主」や「国譲り」の記述が一切ないというシャレにならないお話。  わははははは   @阿波

156:日本@名無史さん
22/04/14 19:45:55.65 .net
大国男児?
数年前の、とあるスレッドを読んでいたとき、
そういう話をしている人がいた。
おかしな話ばかり、例『大国男児』?

157:日本@名無史さん
22/04/14 19:52:48.88 .net
家の近所の話。
数日前、ジャパニーズ何やらが~という話(芸能関係)をしながら、
歩いている数人組もいたしな。
日本人ではないのかな。

158:日本@名無史さん
22/04/14 19:54:23.81 .net
日本人(不明)なら、ジャパニーズ何やらとか、あまり使用しない。
でも使用する人は使用する。

159:日本@名無史さん
22/04/14 20:02:26.92 .net
見た感じはw日本人()と同じような(少し違うのかな)・・・だから、
ほとんど、わからないしな。

160:日本@名無史さん
22/04/14 20:13:02.05 .net
>>154
>巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
そういうことだw

161:日本@名無史さん
22/04/14 20:43:11.98 .net
>>154
>巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
纏向の土器はすべて「東阿波型土器」だから。   @阿波

162:日本@名無史さん
22/04/14 20:49:10.37 .net
中国書物に記載されている他国の地名や人物名の漢字は基本当て字と思って良い
例えば狗奴国の狗が犬だから熊襲や隼人なんじゃないのかという推測は正しくない
あくまでも日本語を中国語(漢字)で説明しているだけなので漢字自体に意味は無い

163:日本@名無史さん
22/04/14 21:57:22.50 .net
>>150
聞いたことある。
福岡は昭和まで甕棺が使われていたって。
最近は流石に話を聞かなくなったから、思い違いかと思ってた。

164:日本@名無史さん
22/04/14 21:59:41.26 .net
>>152
そうか?
草薙剣は鉄剣だと思っていたけど?

165:日本@名無史さん
22/04/14 22:01:22.11 .net
>>160
纒向は、魏からの使いが滞在した伊都国とは隔絶され、魏と交流がない田舎だったんだよ。
楽浪土器もないし。
言わせんなよ、恥ずかしい。

166:日本@名無史さん
22/04/14 22:03:28.74 .net
>>162
当て字だなんてみんな知っているよw

167:日本@名無史さん
22/04/14 22:05:59.40 .net
>>162
寧ろ逆で古来の漢字にこそ意味がある
例えば不彌国という国は馬韓にも存在したので
馬韓の不彌国が日本に移った可能性もあるし
同じ意味合いの国が日本にもあった可能性もある
狗奴国は文字通り狗をシンボルとした国で、狗の付く国は他にも沢山ある
奴は奴隷的な意味なので「狗族の奴隷となった国」とも考えられる
若しくは「犬のように野蛮で奴隷のように醜い国」なども捉えられる
もちろん今と昔で意味合いが違う可能性もあるので一概ではないが

168:日本@名無史さん
22/04/14 22:42:38.57 .net
ないない
意味があるのは伊都くらい

169:日本@名無史さん
22/04/15 00:55:59 .net
実際、狗奴国が存在したと言われている熊襲や隼人の南九州は、ヤマト政権に度々反乱を起こしているがなw
日本の歴史書にもそう記されている

170:日本@名無史さん
22/04/15 08:03:48.37 .net
熊襲はよくよく調べると九州北部だけどな

171:日本@名無史さん
22/04/15 08:09:02.04 .net
>>170
ソースは?

172:日本@名無史さん
22/04/15 08:46:45.38 .net
肥前一宮である與止日女神社(河上神社)の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上したとされる。

173:日本@名無史さん
22/04/15 09:00:05 .net
>>172
それって筑紫を脱出したというよりも、遠征先の筑紫で戦に敗れて肥前に逃げ帰ったような印象だな
敗走先で宮を建てた上に新築祝いまでするものだろうか?

174:日本@名無史さん
22/04/15 09:36:15 .net
福岡市早良区の西新町式土器圏は当然伊都国、奴国だが
熊本県南部、鹿児島県の免田式土器圏はおそらく
魏志倭人伝にでてくる狗奴国だろう

卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
URLリンク(special.sankei.com)
免田式土器出土地
URLリンク(special.sankei.com)

菊池川の北岸のある方保田東原遺跡は川を堀として
南から来る敵から守る配置になってて
菊池川が西新町式と免田式の境だと考えてる
URLリンク(stat.ameba.jp)

175:日本@名無史さん
22/04/15 10:26:21 .net
倭人伝に記載されている国名こそが日本古来の国名
漢字の意味は恐らく部族や地位などを意味している
「今では野蛮に思える漢字も、昔は強さを表していた」←ここ重要
邪馬国と邪馬壹国なんかは、同じ種の国の中で
王(壹)のいるエリアを独立させたとも捉えられる

そうなると邪馬壹国を日本で新たに当て字をする場合
大和という漢字は成立しない事に気付く
基本的に漢字と読みが一致しない地名というのは
方言が原因とされるので、それ以外は合併や移動などの
特別な条件で生まれた地名だと推測される

176:日本@名無史さん
22/04/15 10:38:25.86 .net
>>173
熊襲タケルの言葉として、九州全土を治めていたが、(小碓尊のような)智略に長けた人物がいたとは知らなかった、と言っている。
九州全土を治めたなら、当然筑紫も治めていたことになる。
最後に倒されたのが佐賀大和だった。
ヤマトタケルの息子の仲哀天皇の時代の熊襲征伐では、神功皇后が筑後山門に田油津姫を追い詰めて倒している。
舞台はやはり九州北部になる。
博多湾沿岸から見れば漠然と南であることは間違いないが、南九州ではない。

177:日本@名無史さん
22/04/15 10:54:54.38 .net
>>176
筑後地方こそ土蜘蛛の本拠地ですよねー

178:日本@名無史さん
22/04/15 11:51:06.51 .net
倭人伝の奴国=倭奴国であり、倭族が支配する国である
奴国が二回出てくるのは、別の倭の支配国を意味する
鳥奴国は恐らく鳥栖であり、鳥族の支配国を意味する
倭族は海神族、鳥族は天孫族、狗族は山神族
これらは皆、大陸から渡ってきた弥生人と推測される

179:日本@名無史さん
22/04/15 12:13:08 .net
あ、天孫族は「伊」だから伊都国と伊邪国か…
他の鳥とか鬼とか蘇とかは部族なのか地位なのかは不明

180:日本@名無史さん
22/04/15 12:22:45.32 .net
>>177
しかも、熊襲タケル(川上タケル)の墓があるのは、河上神社こと與止日女神社といい、そこに祭られている神様こそ壹與でしょう。
肥前と肥後と筑後は、有明海沿岸として一つの領域と見做せるので、おそらく卑弥呼も壹與や川上タケルと同様に肥国の出自で、倭国大乱で筑紫を含む倭国女王に共立されたのかもしれません。

181:日本@名無史さん
22/04/15 12:31:23.55 .net
>>174
菊池は阿部の領域
クコチヒコから来てる

182:日本@名無史さん
22/04/15 12:34:12.42 .net
>>165
伊都に出て、巻向に無い土器という事なら支配関係は想像できるけど、なんとごく少数だが、巻向から九州式の土器が出てるというww
伊都に巻向の土器がないのなら、どちらが上位か想像はつきそうなものだ

183:日本@名無史さん
22/04/15 15:32:39 .net
>>182

王都の筑紫で買い込んできたんだろ。

184:日本@名無史さん
22/04/15 16:48:23.01 .net
少なくとも倭国大乱期開始以降、景初までは平型銅剣の勢力により瀬戸内海で九州と奈良の勢力は分断されていた
例外は四国南部ルートのみ
あそこは物部の勢力圏
銅剣だか銅矛は物部のものが出ている
その頃に忌部がいたかどうかは不明だが

185:日本@名無史さん
22/04/15 17:00:36.73 .net
平型銅剣の勢力とは、古代出雲すなわち現宗像地域から東方開拓していたカモ勢力

186:日本@名無史さん
22/04/15 17:10:59.01 .net
>>184
>その頃に忌部がいたかどうかは不明だが
少なくとも、縄文時代晩期末から「倭人(阿波勢力)」は全国へ進出していた。   @阿波

187:日本@名無史さん
22/04/15 17:20:20.40 .net
それは毛人。
倭人はもう少し後で、先に進出した毛人と混ざったのが倭種。

188:日本@名無史さん
22/04/15 17:56:22.94 .net
>>187
街既知か?   @阿波

189:日本@名無史さん
22/04/15 18:14:26.54 .net
前スレの後半あたりから内容が濃くなっているね
書く人が変わったのか戻ったのか
昔みたいだ
勉強になります

190:日本@名無史さん
22/04/15 19:05:16.32 .net
>>185
フトニ=孝霊天皇
つまり、海部や尾張氏(村雲の家)
父系がホアカリ、母系が出雲
それが開化天皇までの家系。
故に、阿部は本来の村雲の家系
だから帝記編纂委員に選出されたのではないかと

191:日本@名無史さん
22/04/15 19:58:28.06 .net
私は竹原古墳の壁画が邪馬台国の邪馬だと思っている
壁画のように牙の生えた馬のようなのを想像していて
その想像の動物の骨か牙か化石?が安置してある場所が邪馬台国
みんなに失笑されるかもと思っているけど        

192:日本@名無史さん
22/04/15 21:37:31.60 .net
遺跡にばかり集中していると本質が見えなくなる
本質は倭人伝の中に書かれている

193:日本@名無史さん
22/04/16 09:58:50 .net
>>191
邪馬1国の1は、不思議な事に蔑称ではないんですよね。
確かにヤマってナニヨって感じる。
まあ、普通にヤマトの1国って事かな?とは思う。
ヤマトは蔑称で省略、国名は朝貢した事により良呼称になった

でも逆説もある。
それが宇佐豊姫。豊国のトヨ。

1与が、イヨなのかトヨなのか。
た行なら、邪馬1国がヤマトになる。
豊国の読みは、とよくにで良い事になる

しかし、昔から教科書にはトヨ(イヨ)と出ていた

194:日本@名無史さん
22/04/16 11:16:24.97 .net
結局、邪馬1国だよ、伊都は1だよという説も、じゃあ邪馬ってナニヨでつまづく。
大陸の史書はあくまで大陸目線であるが、ひとつだけ例外がある。
それが自己紹介。
あれだけは中国読みではなく、和名の音感になる。
邪馬とはなんであろうか?
そもそも1国=伊都なら、漢字が同じになるはずである。
少なくとも別と大陸が認識していた事は間違いない。
陳寿はトヨと同年代の人物で確実にリアルタイムに出来事をまとめることができた時代の人物。
1国と1与が同じ字であるのなら伊都は、別の存在と考えるものではなかろうか

195:日本@名無史さん
22/04/16 11:29:28.48 .net
ここからは勝手な思い込み
臺與、あるいは壹與
魏書に書かれたのは後者だったと記憶している。
豊という字に似ている。
当時の豊という字が和製漢字であるとするのなら何となく似た漢字で書いた可能性はあるかも知れない
板木で写していく過程で誤字になったとも考えられるが、何回も間違えるだろうかという話もある。
武内宿禰は、魏書には「たいしゅうえつ」と出ているが実際にはたけの字の写し間違いと言われており、実際にはタケシウエツではないかと考えられている。
弟の額田宿禰は「ぬかだい」と出ている。
タジマノモリこと「ダショウマイ」は、朝鮮語が話せ、漢文が読めたので、大陸の政変で、魏国に朝鮮半島を経由して真っ先に朝貢し、魏の権威を独占できるタイミングで朝貢したかったと考えられ、その際に自己紹介の字を先に考えて行った可能性はある。

196:日本@名無史さん
22/04/16 11:56:35.10 .net
卑弥呼=甕依姫(玉依姫)
卑弥弓呼=国乳別皇子(海幸彦)
壹與=豊姫(神功皇后の妹)
邪馬壹国=山門国(八女王国)
鬼道=天道(母子信仰)
欠史八代を排除し、神話と実話を融合すれば答えは導かれる

197:日本@名無史さん
22/04/16 11:59:48.21 .net
九州物部には二つ名の習慣があったらしい。
記紀においては法則があり、ササラ皇女が夫の政策を引き継ぎ、不比等を重用して記と、紀を纏めようとした際に、ヨキコトエラブツカサの委員を選出している
記紀編纂前には解散したらしいが、万世一系は、ササラ皇女か、もしくは不比等からの持ちかけだったのではと考える。
基本、朝貢した歴史や、我が国皇室の男系が渡来者である事は絶対的タブーで、複数の政権が入れ替わっていても同じ家系に偽装する。
他、大王自ら軍を率いて戦った事もみっともないとされた。
大陸に提出する我が国の書物に自慢げに属国でしたとは書かないのである。
物部イクメは朝貢したとされ、その際には九州の名前を名乗ったらしい。それがイサチ。
イサチイリヒコイクメ。
これが後の物部系の淡海によりネタバレされて諡号になった。
イクメの息子は成務だっけ?
彼の物部の名前は、物部オオタラシ彦。
諡号は確かオシロワケオオタラシ彦ではなかったかと。

198:日本@名無史さん
22/04/16 12:11:41.74 .net
壮大なネタバレ本である先代旧事本紀。
そこにはヤマトと、九州の男系の共通の祖である一人の人物が書かれている。
さらに大陸には不老不死の薬を探しに来た道教のおっさんがいた
記紀は巧みにその部分を誘導し、その人物が誰だかバレても問題がないようにした。
大陸のおっさんと、スサノオだけ、大陸に一度戻っており、そいつが誰だかバレても問題ないようにするのには、女系に落とし込む事で解決した。
国譲り前の出雲、奥さん側のお爺さんにスサノオを持ってきて女系の先祖にしている訳だ
丹後ホアカリ、築秦国の饒速日、そしてスサノオは同一人物
スサノオを紀元前7世紀にして、出雲初代の管八耳の奥さんの稲田姫を娶ったように書いた。
この部分は千家果安が忌部小首に頼み、右大臣が許可して書かれたらしい
スサノオは記紀の際に生まれた新造の神で、渡来時期を誤魔化し、国譲りの事件を引き起こす手引きをした千家の悪事を隠すために工作されたらしい。
紀元前3世紀の渡来人を遡らせ、ヤマトと九州の共通の男系の重要人物をこのようにして隠した。
実際には丹後に移住したイソタケルと村雲が奈良入りしたのは紀元前二世紀あたりらしい

199:日本@名無史さん
22/04/16 14:30:24.38 .net
記紀の狙いは成功した。
日本書紀が大陸に提出されて以降、その後の大陸の歴史書においても、我が国に大きなターニングポイントを持ち込んだ大陸からの渡来者の正体はバレる事なく、その後も修正される事はなかった。
せいぜいが、邪馬1国の読み方に修正が入ったくらい
しかし効きすぎてしまって、本来は国内向けには隠す方針ではなかったので様々なネタバレが随所に散りばめられた記紀を参照して持論を展開する論調が増えてしまったとも言える。
磐余彦の軍隊は物部氏。
磐余彦は、いつの間にかヤマトにきたら物部のウマシマジになってる。

200:日本@名無史さん
22/04/16 16:54:24.24 .net
そもそも伊都国の井原や三雲や平原の弥生遺跡は奴国と比べて小さいんだよな
福岡市が行った那珂遺跡群34次調査説明会の画像
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
紙に書いてる内容 読めないところは□
那珂八幡古墳後円部
南側周溝下層出土土器
(那珂遺跡群34次調査)
□弥生時代終末期~古墳時代初頭の
□□□(「西新町式□□」、「庄内式」□
□「□□式」□□□□□□
福岡市 西新町式Ⅰ(編年240~260年)と
大阪府豊中市 庄内式ⅠB(編年210~250年)と
不明だがもうひとつ何かの土器が出たんだろう
その結果調査した専門家たちは那珂八幡古墳が作られたのは
弥生時代終末期~古墳時代初頭 と判断した↓記事
つまり卑弥呼~台与あたりの時代に福岡市に
86mと小さいが前方後円墳が作られた伊都国~奴国周辺は
畿内のヤマトの支配下にあったと考えるのが自然
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
URLリンク(mainichi.jp)
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。

201:日本@名無史さん
22/04/16 17:06:45.90 .net
狗奴国との戦争中にでかい土盛りは作らん。
その一点だけでも台与以降のもの。
土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
早くても3世紀後半、おそらく4世紀以降のものだろう。

202:日本@名無史さん
22/04/16 17:17:07.15 .net
まあ、平原女王墓ですな。>卑弥呼さま

203:日本@名無史さん
22/04/16 17:20:38.80 .net
福岡市博多区の前方後円墳の那珂八幡古墳の周濠で
大阪府豊中市製の庄内式土器がでた(編年210~250年)
しかも福岡市 西新町式Ⅰ(編年240~260年)といっしょにでた
九州初の前方後円墳を作るにあたり
畿内から技術者が応援にきたんだろう
言っとくけど調査したのも発表したのも福岡市教育委員会だからな
>201 >土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
いや240~250年の可能性は排除できないし実際記事にもそう書いてるじゃん
これは俺の意見ではなくて福岡市教育委員会の専門家の意見ね

204:日本@名無史さん
22/04/16 17:25:58.20 .net
魏志倭人伝の誰が土盛りを作るんだ?
まさか妻を何人も持つ倭人様じゃないよな?
奴婢?生口?
生口はどこから来た?
来たとしたらその痕跡は?土器の流れか?
大きな土盛りを作るには多くの生口が必要だよな?
それはどこだ?

205:日本@名無史さん
22/04/16 17:27:41.77 .net
今日のキナイコシ「畿内からの技術者」

206:日本@名無史さん
22/04/16 17:41:43.96 .net
木内チョン

207:日本@名無史さん
22/04/16 21:07:19 .net
また邪馬台国畿内説スレが終わってしまったので、
こちらに、転写保存です、
>>752
>最初の方は明らかに倭の説明をしているだろ?
倭あるいは通交していた倭の三十国の戸数が七万戸としか読めんけど

同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録に拠った魏志倭人伝では、
女王之所都のある邪馬壹國の推定戸数が「可七万戸」。

208:日本@名無史さん
22/04/16 21:32:20.64 .net
>>207
>こちらに、転写保存です、
いらんわ。
ボケ

209:日本@名無史さん
22/04/16 22:12:21.39 .net
魏志倭人伝の矛盾点の一つに奴国の南に倭国30国があると同時に
狗奴国も南にあること
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。
次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。
その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。
その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
この文章の部分ね
邪馬台国からみて北にある国の名を箇条書きにして
最後の奴国が一番北にあり30国の境界と書いていて
さらにその奴国の南に狗奴国があると読める
三国志正史より後に出た歴史書の中には
狗奴国を奴国の東と勝手に書き換えたものもあるから
昔の中国人もこの矛盾に気づいてた

210:日本@名無史さん
22/04/16 22:25:39.47 .net
対馬、壱岐、まつろ国、伊都国、奴国は道のりや戸数が書かれてる
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
ここを読むと箇条書きされた国は遠くて詳しくわからない
もっとも南にある邪馬台国までの陸行の一月なんかはわかるけど
邪馬台国周辺の国は名前しかわからないと
魏志倭人伝には書かれてるわけだ
魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える

211:日本@名無史さん
22/04/16 22:47:26 .net
邪馬台国以北の対馬海峡の国々は道のりがわかる(里程が書いてある)。
その他の邪馬台国(おそらく伊都国と奴国)の周りの国はよくわからん。
それらはぐるっと周旋五千里で奴国に戻ってくる(距離的には佐賀、長崎)。
それらの南に狗奴国(熊本)がある。
それとは別に(邪馬台国へのルートと並行して別ルートで)投馬国(宮崎都万神社)への道がある。
邪馬台国は狗奴国(熊本)や投馬国(宮崎)より帯方郡に近いことになる。
福岡と佐賀しかない。

212:日本@名無史さん
22/04/16 22:48:39 .net
福岡には卑弥呼と思われる平原遺跡、佐賀には壹與と思われる與止日女神社。

213:日本@名無史さん
22/04/16 22:55:47.25 .net
つぶやきさんの話は面白い
擬宝珠は龍の頭から出てきた珠
竹取物語、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を探させる
大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、
世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったとか
龍の珠の代わりに目のモモ
4世紀半ば〜後半の神功皇后、応神の話かな?

214:日本@名無史さん
22/04/16 22:56:41.92 .net
平原遺跡は木棺
3世紀半ばとは考えにくくせめて石棺でないと
そうなると祇園山を出してくるだろうけどあれは方墳で
径百歩ではない

215:日本@名無史さん
22/04/16 22:58:40.27 .net
なぜ木棺墓だとダメなのか、理由を聞かせてもらおうじゃないか。

216:日本@名無史さん
22/04/16 23:00:32.40 .net
三雲南小路遺跡は後漢鏡、平原遺跡は後漢鏡プラス国産鏡だこら、平原遺跡は後漢滅亡後、つまり卑弥呼の時代の女王墓にしかならない。

217:日本@名無史さん
22/04/16 23:03:58.08 .net
棺の移り変わりを勉強してないのか?

218:日本@名無史さん
22/04/16 23:17:51 .net
ならその棺の移り変わりの仮説が間違っているんだよ。
平原遺跡が後漢滅亡後というのが歴史的定点だろう。

219:日本@名無史さん
22/04/16 23:21:32.12 .net
>>210
>魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える
ちゃんと読めば真っ先に消えるのは畿内

220:日本@名無史さん
22/04/16 23:35:11.57 .net
>>219 もちろんだ 九州と同様に畿内も消える
それどころか中国では1060年の新唐書がでて旧唐書の間違いが訂正されるまで
九州も本州も存在していないことになってるので書きようがない

221:日本@名無史さん
22/04/16 23:43:59.54 .net
5世紀にでた後漢書のこれは
桓帝と霊帝の間(146~168年、168~189年)に倭国は大いに乱れ
3世紀に出た魏志倭人伝を脚色した結果だろう 倭国乱 → 倭国大乱
大した戦いはなかったんじゃないかってこと
そして畿内には畿内式銅鐸と三遠式銅鐸の特徴を併せ持つ
大岩山銅鐸があり共立のあとの可能性がある
1世紀や2世一の漢委奴国王やスイショウが朝貢した時には敵はいなくなってて
2世紀の九州に戦いのあとはない
七が瀬遺跡は鏡が出てきているので伊都国所属だろう
九州は狗奴国との乱れはあったとしても共立のあとはない

222:日本@名無史さん
22/04/16 23:48:39.66 .net
キナイコシ「2世紀の九州に戦いのあとはない」

223:日本@名無史さん
22/04/16 23:51:19.65 .net
紀元前の吉武大石の使われた形跡のある剣とか
~1世紀の再建前の吉野ヶ里の首のない被葬者とか
矢がささったままの被葬者とかあるじゃん?
遺構的に九州では1世紀までは戦いがあった可能性はある
てか平原はピアスがでているので女性で
2世紀の九州は女性がトップになれる状況だった
個人的な意見だが戦いを避けるために女王にしたと考えてる
ただ狗奴国との関係はよくわからないがとりあえず共立はしてない

224:日本@名無史さん
22/04/16 23:54:43 .net
>>222 悪いがレベルを落とす気はないぞ
おれは知識を望む
九州の戦いのあとを出せるか?出せるなら出せ
それが確かな場合はおれが間違ってる
出せないならおまえらが間違ってる

俺の書いてることどこか間違ってるか?

225:日本@名無史さん
22/04/17 00:00:34.69 .net
吉野ヶ里から鏃が刺さったままの人骨でとるやろ

226:日本@名無史さん
22/04/17 00:00:42.41 .net
>>224
畿内の戦いのあとは出せるのかい?

227:日本@名無史さん
22/04/17 00:02:15.26 .net
普通は北九州から山陰で大乱があったと言われているんじゃないのか?

228:日本@名無史さん
22/04/17 00:03:06.55 .net
吉野ケ里遺跡は2世紀に壊滅
桜馬場遺跡や七が瀬遺跡の王家も2世紀に断絶
三雲井原王墓から期間を経て平原遺跡に類を見ない女王墓
どう見ても北部九州が倭国そのもの

229:日本@名無史さん
22/04/17 00:12:48.47 .net
畿内って戦いの跡あったっけ?あまり聞いたことないけど

230:日本@名無史さん
22/04/17 00:13:34.78 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

231:日本@名無史さん
22/04/17 00:14:20.63 .net
>>226 >畿内の戦いのあとは出せるのかい?
それは出せない
ただ小競り合いの可能性はある
倭國亂相攻伐歴年 もともと大いにとは書いてない
大いに乱れるって後漢書のやつは
150年後に当時を知らないやつが勝手に書き換えた可能性はある
畿内式銅鐸(飾り耳)と三遠式銅鐸(飛び出す太い横線)で分かれていたのが
その両方の特徴を持った銅鐸が伊勢遺跡にちかい大岩山でみつかる

232:日本@名無史さん
22/04/17 00:17:07.00 .net
>>231
アホなキナイコシ

233:日本@名無史さん
22/04/17 00:19:29 .net
>>231
> ただ小競り合いの可能性はある

可能性くらいならどこでもあるやろw

234:日本@名無史さん
22/04/17 00:21:27 .net
結局キナイコシはただのアホでしたw

235:日本@名無史さん
22/04/17 00:24:59 .net
>>232 ないものは出さないぞ
ゴッドハンドと一緒にするなよ

ただし共立については出したぞ
共立のあとは九州は出してない
ここが決定的に違うところ

236:日本@名無史さん
22/04/17 00:27:34 .net
>>235
お前がゴッドハンドだとは誰も考えとらんから心配せんでいいぞ

237:日本@名無史さん
22/04/17 00:28:26 .net
>倭國亂相攻伐歴年

てかこれだけでどのくらいの争いかわかったらエスパーじゃね
しかも最終的には共立してるわけで状況から
憎みあうほど大いに乱れた可能性は低いといえなくもない

238:日本@名無史さん
22/04/17 00:29:58 .net
銅鐸の文様、製作方法などから分割消滅集約される様子
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
こんな感じで畿内、東海の銅鐸は2つに集約される

銅鐸出土場所からの1世紀初めの予想勢力図
赤の近畿勢力と青の東海勢力
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)

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