なんで元寇って過小評価されてるの??at HISTORY
なんで元寇って過小評価されてるの?? - 暇つぶし2ch124:日本@名無史さん
18/10/01 14:31:46.48 .net
>>106
が言う:>襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。
のソースがわかった。
<襄陽、生券軍、1400人>でぐぐると、偶然次のページの紹介文が出て来た・
db.history.go.kr/item/pdfViewer.do?levelId=kn_009_0010
95) 《元史》권 8, 至元 10년 9월 甲申조 “襄陽生券軍至大都 詔伯顔諭之 釋其械繫 免死罪
聽自立. 部伍 俾征日本.” 96) 《元史》권 ..... (元軍과 高麗軍) 1,400 人 7 個月分
糧料 2,904 碩, 羅州留屯 粤魯濶端赤軍糧 8,000 碩, 馬料. 1,325 碩이라 하였으니 고려 ...
彼はこのつぎはぎ文を見て、「襄陽生券軍」と「1,400人」の文字をくっつけたわけだ。
だが、この文章の前半は元史の、降伏後の生券軍の処理を述べた一節で、
「‥‥」で切れた後半は、高麗史世家の元宗十五年二月記事だ。1400人は元軍と高麗軍を
併せた耽羅守備軍の人数だ。
生券軍の人数の根拠にはならない。

125:日本@名無史さん
18/10/01 21:04:55.82 .net
今そんなに読まれてるものでもないだろうし
>>95のメッチャな叩かれ方の元かどうかわからないけど、
東洋史学者の内藤湖南がこんなこと言ってるの見つけた……
>位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。
>所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。
>そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。
>その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
日本文化の独立 初出:講演、1922(大正11)年5月
URLリンク(www.aozora.gr.jp)

126:日本@名無史さん
18/10/01 23:05:09.20 .net
内藤湖南も随分いい加減だよな
室町以前の歴史は勉強しなくていいとか言ってる人だからさもありなん

127:日本@名無史さん
18/10/02 06:25:01.57 .net
学者さんでもこんな間違いしちゃうんだね
ちゃんとした学者で元寇の前に使者が切られたようなこと言ってるのは初めて見た

128:日本@名無史さん
18/10/02 12:54:11.86 .net
>>124
解釈が根本的におかしい。
「‥‥」に該当する高麗史世家の元宗十五年二月記事は「庚午元遣蛮子軍一千四百人来分処海 白三州」。
蛮子軍と言えば旧南宋軍であって元軍と高麗軍なわけない。
駐屯地も耽羅じゃなく塩・白州。
塩・白州帰附軍については、岩波文庫「高麗史日本伝(上)」P113の説明が手っ取り早い。
「(16)元に帰附した旧南宋軍、襄陽府生券軍の1400人。忠烈王元年に塩州・白州等に屯住し、
高麗子女との強制的な婚姻等で物議をかもし、翌年帰還した。」
根本的な問題として、襄陽府生券軍の高麗派遣が忠烈王元年ってことは、文永の役に
参加してないよね。

129:日本@名無史さん
18/10/02 12:59:03.14 .net
>>128
ゴメン。
元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。

130:日本@名無史さん
18/10/02 13:33:33.42 .net
>>128
高麗子女との強制的な婚姻ってなんや……
1400人の兵士との…?
そういえば、元寇で日本に攻めてきた元軍(の船中?)
女性がいたような話を別スレで見かけたけど、
もしかして強制的な婚姻させられた高麗子女ってことなのか?
拉致された対馬や壱岐の女性かと思ってたが

131:日本@名無史さん
18/10/06 21:50:03.08 .net
>>129
>ゴメン。 元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。
それもゴメンで、実際は忠烈王三年二月記事だ。
私が>>124で紹介した韓国人研究者の文章の後半は、やはり元宗十五年二月記事だ。
高麗派遣の襄陽生券軍の人数と、済州守備軍の人数が、偶然、1400人で一致したわけだ。
いずれにせよ、高麗まで来た襄陽生券軍は意外に少ないこと、第一次東征に参加した
可能性は薄いことは了解した。
そのほうが私の考え方にも合っている。
しかし、そのことは別の問題を含む。それは、第一次東征軍が出発する以前に、
すでに第二次東征軍の準備が始まっていた、ということだ。
襄陽生券軍が「征日本」を命じられたのは1273年9月だからね。

132:日本@名無史さん
18/10/06 22:06:27.15 .net
次の質問に移ろう。
>漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。 >>106
これのソースを聞きたい。
参考までに書いておくが、劉復亨の父親である劉通が所属した漢人軍閥の厳実が、
30余萬戸を率いてモンゴル軍に投降したのは、チンギスハンのホラズム遠征軍が
進発した1219年の翌年、1220年のことだ。

133:日本@名無史さん
18/10/07 19:28:21.77 .net
>>131
第一次東征軍が出発する以前に、すでに第二次東征軍の準備が始まっていたわけない。
普通に考えたら、襄陽生券軍は第一次東征軍の後続部隊だろ。
出発前には4万もの軍勢が九州上陸後1日でボロ負けして逃げ帰るなんて想定しないからな。

134:日本@名無史さん
18/10/07 19:28:40.52 .net
>>132
元史/卷149 郭宝玉
郭宝玉字玉臣,華州鄭県人。
甲戌(1214),從帝討契丹遺族,歷古徐鬼(グル・カーン)國訛夷朶等城,破其兵三十餘萬。
辛巳(1221),可弗叉(キプチャク)國唯筭端罕破乃滿國,引兵據撏思干,聞帝將至,棄城南走,
入鉄門,屯大雪山,宝玉追之,遂奔印度。
元史/卷151 薛塔剌海
薛塔剌海,燕人也。
從征回回(ホラズム)、河西、欽察(キプチャク)、畏吾兒(ウイグル)、康里(カンクリ)、
乃蠻、阿魯虎、忽纏、帖里麻、賽蘭諸國,俱以砲立功。
元史/卷151 賈塔剌渾
賈塔剌渾,冀州人。
歲己丑,将所部及契丹、女直、唐兀、漢兵,攻斡脫剌兒(オトラル)城。
元史/卷151 張抜都
張抜都,昌平人。
從近臣漢都虎西征回紇(ホラズム)、河西諸蕃,道隴、蜀入洛,屢戰,流矢中頰不少却。

135:日本@名無史さん
18/10/07 19:40:38.30 .net
>>130
モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから
十三翼の戦いの総指揮をとったのもテムジンの母親のホエルンだし

136:日本@名無史さん
18/10/07 19:53:58.39 .net
>>108
うんそうだよ
使者を無視するってのは当時としては戦争待ったなしレベル
元史 210巻 外夷3
朕惟祖宗立法,凡不庭之國,先遣使招諭,來則按堵如故,否則必致征討。
朕惟うに祖宗からの法によると、来朝せぬ国は先ず使節を遣わして招諭し
来ればもとの如く安堵し、そうでなければ必ず征討することになっている。
>>113
高麗は忠烈王以降は高麗王は代々キュレゲン筆頭とされた他
さらに要衝の地瀋陽を与えられるなど破格も破格の待遇を受けてるけどな

137:日本@名無史さん
18/10/07 20:42:33.42 .net
>>136
モンゴルとの戦争を外交で回避することなんて出来ないよ。
どの選択をしても、どうせ戦争になるんだから使者は無視するのが正解。
モンゴル帝国を詳細に調査したフランシスコ修道会士ルブルクもそう言ってる。
「モンゴル人は暴力によってどんな国をも征服したことはなく、ただ陰険な策略に
うったえるだけです。モンゴル人と和睦いたしますと、かれらはまさにその平和の
かげにかくれて、せん滅の挙に出るのです」
実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。

138:日本@名無史さん
18/10/07 22:42:10.76 .net
>>137
>実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
>『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。
へぇどこにそんなことが書いてあったの?どうせ東亜板あたりの捏造誤訳を真に受けてるんだろう
実際の文を載せてやるよ
樞密院臣議征高麗事。初,馬亨以為「高麗者,本箕子所封之地,漢、晉皆為郡縣。今雖來朝,其心難測。莫若嚴兵假道,以取日本為名,乘勢可襲其國,定為郡縣」。
亨又言:「今既有釁端,不宜遣兵伐之。萬一不勝,上損國威,下損士卒。彼或上表言情,宜赦其罪戻 ,減其貢獻,以安撫其民,庶幾感慕聖化。俟南宋已平,彼有他志,回兵誅之,亦未晚也。」
以下訳
樞密院において高麗を征服についての議録。初めに馬亨が発言した。「高麗はもとは箕子の封地、漢、晋代の郡県であります。今は来朝したと雖も、その心情は測りがたいものがあります。
日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」 
また亨は言った。「今はすでに(南宋との)戦端が開かれたばかりであります。万一勝てぬと成れば国威と兵卒を失う事となります。もし彼らが上表文を送ってくれば、その罪を許し貢物を減らし、その民を安撫するのです。
さすれば陛下の恩に慕ってやってくるでしょう。南宋を平定した後でも、彼らに他意があれば、その後に兵を送ったとしても遅くはありません。」

139:日本@名無史さん
18/10/07 23:07:45.15 .net
>>138
思いっきり南宋平定後に兵を送るって書いてあるじゃん。

140:日本@名無史さん
18/10/08 09:03:36.96 .net
鎌倉幕府の外交を批判してる人は、モンゴル帝国のことをわかってない。
モンゴル帝国は世界中全ての国の征服を国是としていた。
このことは、モンゴル自身の史料にも書いてあることで否定できないよな。
そんな国とは友好的な外交関係を築けるわけないんだから、使者は拒否するのが当然。
実際、モンゴルから使者を送られたほとんどの国が拒絶反応示してる。
このことも否定できないよな。
つまり鎌倉幕府の対応は正常で、問題はモンゴル帝国側にある。

141:日本@名無史さん
18/10/08 10:06:49.66 .net
>>138
>実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
>『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。
>「日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」
これは高麗を油断させておいて高麗を直轄領にする戦略ではないか。
「その国を襲えば」の「その国」とは高麗のことだ。

142:日本@名無史さん
18/10/08 10:14:55.13 .net
>>135
>モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから
モンゴルの遠征軍が女臭紛々としていたというのは始めて聞いた。
降伏した生券軍に強制婚姻させたのは屯田軍にするためだよ。
「萬戸」「千戸」などの言葉が示すように、元の兵制は屯田軍が基本だった。

143:日本@名無史さん
18/10/08 10:52:43.54 .net
>>139
朝貢してくれば許す
南宋を平定したあとでもまだ二心を抱いてるのならばその時になって攻めればいいと
思いっきり書いてあるじゃん
わざわざ訳してやっているのだからこの程度ぐらい読めてくれ頼むよ頼むよ
>>140
マラバールやスマトラは招諭に応じて使節を送って来たので攻められてませんけど
>>142
それはあんたが知らないだけでしょ
「蒙韃備録」「黒韃事略」にも他の遊牧民と同様に妻子や奴婢を伴って戦う風習があったことが記されてますよ
万戸や千戸は匈奴の冒頓単于の頃からあるアジアの遊牧民全般に普遍的にみられる十進法からなる編成
オゴデイの頃は12人の万戸がいたが南宋の使節によるとそのうち何人かは女だったとか
モンゴルに限らず遊牧民の社会では女だろうが若かろうが統率力があるものが重用される
この風習が年功序列や男唱婦随を重視する漢人からは野蛮視された

144:日本@名無史さん
18/10/08 10:55:58.54 .net
>>134
たった四つの例では「主戦力」かどうかはなんとも言えない。
しかもそのなかの二つは燕人(今の河北省あたりの人)とは言うものの、名前から
見て漢人ではない。恐らく色目人(ウィグル人など)だろう。
URLリンク(catalog.lib.kyushu-u.ac.jp)
「元朝怯薛出身者の家柄について」
という資料があるから見るといいよ。怯薛(ケシく)とは戦場で手柄をたてて軍人貴族
となったもののことだ。
チンギスハンの時代には圧倒的にモンゴル人が占めている。
色目人、漢人でケシクになったものの表があるが、漢人のケシクは太祖(チンギスハン)の
時代には非常に少ない。それが増えて来るのは太宗(オゴディ)以降、つまり第二次対金戦争
以降だ。

145:日本@名無史さん
18/10/08 11:26:45.23 .net
>遊牧民の社会では女だろうが若かろうが統率力があるものが重用される >>143
>モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから >>135
女性の軍人や統率者がいたというのと、
モンゴル軍の兵士が妻女同伴で遠征した、というのは別のことだ。
生券軍は高麗に「屯住」したというのだから妻がいて当たり前。
降伏するまで独身で戦っていたから、屯田軍の制度に合わせるために強制婚姻
させたのだ。

146:日本@名無史さん
18/10/08 11:36:36.88 .net
>>143
>朝貢してくれば許す
と言えば(日本が)始めて朝貢して来るように聞こえるが、原文は
「宜赦其罪戻 ,減其貢獻」すなわち「その罪を許して貢物を減らしてやる」
と言っている。
これは「其の国」がすでに一定の貢物を納めていることを示している。
「其の国」とはやはり高麗だよ。

147:日本@名無史さん
18/10/08 18:05:32.60 .net
>>145
蒙韃備録に書いてあるって言ったよな
URLリンク(ctext.org)
>其俗出師,不以貴賤,多帶妻孥而行,
モンゴルの習慣では遠征があると、貴賤を問わず、多くは妻子を共に行かせる。
>生券軍は高麗に「屯住」したというのだから妻がいて当たり前。
>降伏するまで独身で戦っていたから、屯田軍の制度に合わせるために強制婚姻
生券軍って何?降伏するまで独身とか屯田軍の制度とか一体何の史料のどの箇所にあるの?
引用してみろよ
>>146
やはりも何もそりゃ高麗ですよ
というか書いてある意味本当に理解できてます?
言語性IQに随分と遅れがあるように感じるのですけど子どものときに国語などの学習に不自由してませんでしたか?

148:日本@名無史さん
18/10/09 10:20:58.69 .net
>>147
>やはりも何もそりゃ高麗ですよ
私が横から入ったせいで、お互い相手を間違っているのだ。
其の国=高麗なら別に異論はないよ。
>モンゴルの習慣では遠征があると、貴賤を問わず、多くは妻子を共に行かせる。
チンギスハンのホラズム遠征も、ほんとうに全軍妻子同伴だったの?
>生券軍って何?降伏するまで独身とか屯田軍の制度とか一体何の史料のどの箇所にあるの?
引用してみろよ
元の屯田制については下記資料:
「大元ウルスの枢密院所轄屯田 (矢沢知行)」
を読んだが、この論文は現在、検索で出て来ない。

149:日本@名無史さん
18/10/09 10:35:10.82 .net
>>147
生券軍については下記資料がある。関係部分を引用する:
<[pdf]宗代兵制史の研究>
「前章で大軍兵士給与銭米支給に関り、家属を同伴せぬ出戌兵と家属を伴う屯駐兵には銭米支給上
に生券・熟券による両様の制度の存するをみた。出戌兵にかえて熟券制による屯駐兵をふやせば経
費軽減になるこというまでもあるまい。本章では改めてこの両様の制度の普遍的存在を尋ね、南宋
政権を支えた大軍の基盤を確認しようと考えた。
そこで先ず出戌・屯駐両様の兵の併存の事情を嚢陽と源州の地を例に尋ねた。この際屯田制の役
割なども考え、両地に生券と熟券制が併用施行されたことを確認した。特に嚢陽の場合、この両様
の制の施行、つまり出戌・屯駐兵の併存が長年の蒙古(元朝)の包囲に耐えるという成果を挙げた
と解された。さればこそ、元朝はこれら兵士に多大の関心を寄せ、勝利後に生券軍・熟券軍として
接収・転用したものであろう。」
生券軍は独身、熟券軍は妻帯、ということがわかる。
生券軍の強制婚姻については元史に下記の文章がある。
「(至元十年九月)甲申,襄陽生券軍至大都,詔伯顏諭之,釋其械系,免死罪,聽自立部伍,
俾征日本;仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者。」

150:日本@名無史さん
18/10/10 21:59:07.29 .net
>>149
宋の軍制については詳しなかったんだ悪かったのう
>生券軍は独身、熟券軍は妻帯、ということがわかる。
引用されてる文章を見ると生券と熟券の区分は「家属」を同伴して軍務についているか否かの違いで
独身、既婚の有無でないようにも読み取れるが
>>148
>チンギスハンのホラズム遠征も、ほんとうに全軍妻子同伴だったの?
モンゴル軍では蒙韃備録に「其婦人專管張立氈帳、收卸鞍馬、輜重、車馱等物事,極能走馬」とあるように野営地の建設や輜重兵はもっぱら女の仕事と考えられていたからな
これは遊牧民に限らず世界中に見られた風習で例えばヨーロッパでは輜重兵であるヴィヴァンディエールはもっぱら女性兵であった
またあんたが>>149で引用した一文を見ると
仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者。
とあってこの部分は明らかに「俾征日本」に掛かっている
とすると日本遠征に従軍する兵士たちの面倒を見る妻を蒙古、漢人(元代の漢人は金朝の人を指す)の内から妻を選んで各人に分配した記録だろう

151:日本@名無史さん
18/10/10 23:28:06.35 .net
>>150
>独身、既婚の有無でないようにも読み取れるが
少なくとも生券軍が「単身」であったことは間違いない。辞書を見れば「独身」の
第一義は「単身」だ。まあ、実際は未婚者と、家族を残しての単身者が混じっていただろうね。
そして後者においては強制結婚によって多くの悲劇が生じたわけだ。
>野営地の建設や輜重兵はもっぱら女の仕事と考えられていたからな
だから、本当にモンゴル軍の兵士「全員」が妻子を、中央アジアやヨーロッパまで連れて
行ったのか? と尋ねている。念のためだが、女性兵士の話ではないよ。
>日本遠征に従軍する兵士たちの面倒を見る妻を蒙古、漢人の内から妻を選んで各人に
>分配した記録だろう
文章は生券軍の捕虜たちの首枷を外してやり、死罪を免じ、日本遠征を命じた、という
ところでいったん切れている。次の「仍」は「さらに」の意味で、それ以下を意訳すれば;
「さらに、枢密院に勅して鎧・武器を与え、各人に妻を娶らせ、統率者として蒙古人、漢人
の内から選択させた。」
実際には生券軍は高麗まで行ってから、高麗人の妻を娶ったわけだ。「鈔」の字は「掠める」
の意味だから、女たちは「強制連行」されたのかも知れない。
結婚させるのはとりあえず屯田させるためで、直ちに日本まで連れて行かせるとは限らない。
東征軍の兵士全員が妻子を連れて行ったら船も食料も二倍、三倍必要なわけで。

152:日本@名無史さん
18/10/11 22:18:03.97 .net
>少なくとも生券軍が「単身」であったことは間違いない。
引用されている文章には生券軍=単身と書いているようには見えないが
まぁ末葉の話何で保留
>だから、本当にモンゴル軍の兵士「全員」が妻子を、中央アジアやヨーロッパまで連れて
>行ったのか? と尋ねている。
では逆に聞くが当時の慣習に反して中央アジアやヨーロッパだけは妻子を伴わずに移動していたという根拠は?
>次の「仍」は「さらに」の意味で、
「仍」を「更に」のニュアンスで使用ている例を見たことないのだが
具体例があるのなら引用してくれないか
>実際には生券軍は高麗まで行ってから、高麗人の妻を娶ったわけだ。
「襄陽生券軍至大都」とあるのだから>>149は大都での話だろう
>「さらに、枢密院に勅して鎧・武器を与え、各人に妻を娶らせ、統率者として蒙古人、漢人
>の内から選択させた。」
それだと人各賜鈔娶妻,又蒙古、漢人内選可為率領者にならないとおかしい
古文の時に習ったと思うが「於」の用法は、間接目的語と直接目的語を結ぶ介詞なので
「蒙古、漢人内選」は「賜鈔娶妻」を修飾しないと文法的に合わない
>東征軍の兵士全員が妻子を連れて行ったら船も食料も二倍、三倍必要なわけで。
近代以前の軍隊というのはそういうものだろう
文永の役でも池州総把の馬馬や楊将軍が妻を引き連れていたという記録はあるぞ

153:日本@名無史さん
18/10/11 22:20:15.16 .net
それと世襲の「襲」に襲うというニュアンスがないのと同様
賜鈔は下賜とか授与と同義語で上の者が下の者に何かを与えるという意味でかすめるなんて意味はないよ

154:日本@名無史さん
18/10/12 22:40:58.38 .net
>>152
>引用されている文章には生券軍=単身と書いているようには見えないが
「家族を同伴せぬ」人は単身ではないのか? 日本語大丈夫か?
>では逆に聞くが当時の慣習に反して中央アジアやヨーロッパだけは妻子を伴わずに移動していたという根拠は?
なるほど。まともには言わないが、そういう形で「チンギスハンの遠征軍は全軍妻子同伴」を認めたわけだな。
憶えておくよ。
>「仍」を「更に」のニュアンスで使用ている例を見たことないのだが
「さらに」が気に入らなければ「かさねて」でも「そのうえ」でもいいのだよ。
例えば URLリンク(mnamae.jp) を見て見よ。「かさねて」「さらに」「そのうえ」と書いてある。
「仍」は人の形と胎児の形を合わせて世代の「重なり」を表した文字だ。原義に戻れば漢字の意味が分かる。
要するに元史はフビライが~を「詔」し、かさねて~を「勅」したと書いているわけ。
>「襄陽生券軍至大都」とあるのだから>>149は大都での話だろう
君が紹介した「高麗史日本伝」の註書きが「高麗子女との強制婚姻」と言っているではないか。忘れたのか?
>「蒙古、漢人内選」は「賜鈔娶妻」を修飾しないと文法的に合わない
では聞くが、「為率領者」はどこにつながって、何を表しているのか?
>文永の役でも池州総把の馬馬や楊将軍が妻を引き連れていたという記録はあるぞ
上級者が戦場に妻妾を連れて行くことは、なにもモンゴルでなくともシナにもある。京劇の「覇王別姫」の
名場面を考えればわかるだろう。
下っ端も下っ端の生券軍が全員妻子同伴で日本まで出かけることはあり得ないと言っているのだよ。

155:日本@名無史さん
18/10/12 22:55:07.35 .net
>>153
>賜鈔は下賜とか授与と同義語で上の者が下の者に何かを与えるという意味でかすめるなんて意味はないよ
その後、分かった。「鈔」は元の紙幣だ。「賜鈔娶妻」は生券軍の兵士に「紙幣」と「妻」を賜ったのだ。
「賜鈔」なんて新奇な熟語を発明する必要はない。
「鈔」の字は「かすめる」の意味だが、「かすめる」→「うつす」→「コピーする」→「プリントする」と
いう意味の変遷で紙幣を意味するようになったのだね。

156:日本@名無史さん
18/10/13 10:03:39.59 .net
>>155
追加。「娶」の字をなんとなく放置していた。この字は「めとる」という動詞しかないのに、
なんでここにあるのか、よくわからなかったが、「鈔」を「紙幣」と解釈することで解けた。
これは「鈔」を「賜」わって「妻」を「娶」らせた、つまり結婚費用を紙幣で与えた、と
言っているのだ。
そう解釈すれば、生券軍が大都で結婚する必要はない。身軽な姿で高麗まで行ってから
妻を徴集するのが合理的だ。

157:日本@名無史さん
18/10/13 11:29:03.55 .net
>なるほど。まともには言わないが、そういう形で「チンギスハンの遠征軍は全軍妻子同伴」を認めたわけだな。
>憶えておくよ。
いやむしろなかったという根拠をこっちは聞いているんだが
>「仍」は人の形と胎児の形を合わせて世代の「重なり」を表した文字だ。原義に戻れば漢字の意味が分かる。
原義じゃなくて「仍」を「かさねて」「さらに」「そのうえ」の用法で使ってる例はあるのかと聞いてるんだが
「八」はもとの字義では「別つ」という意味だし「今」は「屋根」という意味だが漢文で実際にそういう使い方してる例はないだろ
>君が紹介した「高麗史日本伝」の註書きが「高麗子女との強制婚姻」と言っているではないか。忘れたのか?
誰かと勘違いしてないか?>>128は別人だぞ
「高麗史」を見て見ると中書省から南宋軍への妻を募集する要請が来たため
斡旋部署である「結昏都監」を始めて置いたのが元宗15(1274)年の4月で>>149であんたが引用した記事は至元十(1273)年9月のこと
翌年の4月にかき集めた女と結婚させるとかタイムスリップでもしなければありえないから不足分を高麗から送らせたのじゃないか
>では聞くが、「為率領者」はどこにつながって、何を表しているのか?
妻を与えて妻帯者としたという意味だと思うよ
我本是山東安邱縣的人,率領妻(玉歴宝鈔)
>上級者が戦場に妻妾を連れて行くことは、なにもモンゴルでなくともシナにもある。
古代の中国にも女を戦場に連れて行く風習があったのだよ
「壮男一軍で一軍を為し,壮女で一軍を為し,男女の老弱者を一軍と為す,これがいわゆる三軍なり」(「商君書」兵守)
匈奴との戦いでは李陵は見せしめとして車中にいた兵卒の「妻婦」を切り捨てたと伝わっている(「漢書」李廣蘇建傳 第二十四 )
効率効率いうのなら兵数のうち半分は輜重に回さないといけない輜重に回された兵は武器や防具を持てないから戦力としては期待できない
輜重を女で補えば戦える男の数を増やすことが出来るし女は男ほど食料を消費しない
それに兵卒の脱走や反乱も防ぐことも出来る
実際に墨子は兵士を外に出すときはその妻を人質にして逆らえないようにしろと書いてるしな

158:日本@名無史さん
18/10/14 21:00:19.61 .net
>>157
>仍」を「かさねて」「さらに」「そのうえ」の用法で使ってる例はあるのかと聞いてるんだが
例としては、例えば元史に次の文章がある。
「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」
読み下せば:「仍(かさ)ねて枢密院に勅して鎧杖を具えしめ、人各(おのおの)に鈔(紙幣)
を賜りて妻を娶らしめ、蒙古、漢人の内に於いて選びて率領者と為すことを可とせしむ。」
仍を「かさねて」としたのは字源 URLリンク(jigen.net) が示す四つの読み;
「よって、なお、かさねる、しきりに」から選んだものだ。
ここではフビライが先に生券軍のことで伯顔に詔したのち、「かさねて」枢密院に勅した、という
意味である。「率領」は軍を率いる意味に用いられるのが圧倒的。検索して確かめるべし。
さて、以上で私の解釈を示した。次は君の解釈を示してくれ。
>翌年の4月にかき集めた女と結婚させるとかタイムスリップでもしなければありえないから不足分
>を高麗から送らせたのじゃないか
時系列にすれば;
1273年2月 襄陽生券軍投降
1273年9月 生券軍大都着、征日本を拝命、同時に強制婚姻を命じらる。
1274年3月 高麗が結昏都監を置いて生券軍の妻となる女性の募集を始める。
1275年2月 生券軍高麗着
となり、時系列的におかしいところはない。結婚の命令から実現まで一年半かかっているが、
当時としてはこんなものだろう。

159:日本@名無史さん
18/10/14 22:27:34.18 .net
>>157
>輜重を女で補えば戦える男の数を増やすことが出来るし女は男ほど食料を消費しない
なんの話をしているのか。
君は文永の役で元軍の兵士が妻子を連れて日本までやって来て、その女たちは兵士と
ともに上陸して輜重の任務をこなした、と言っているの?
その、兵士の妻である女たちの人数は、二万三百ないし三万三千と言われる東征軍の兵数に
含まれるの?それとも含まれないの?

160:日本@名無史さん
18/10/16 20:56:45.37 .net
戦国時代の日本の例なんだけど上陸後に奇襲を受けて全滅した武田側の遺骨を葬ったとみられる千本松原の首塚の発掘調査書だと男女比2・1になってる
URLリンク(www.city.numazu.shizuoka.jp)

161:日本@名無史さん
18/10/17 16:37:15.62 .net
面白いし参考にはなるが、だからと言って東征軍が兵士の妻を同船させて後方支援部隊
として活用したということにはならない。
もともと元軍にはコテチという後方支援の専門兵種があった。元宗十五年二月記事に、
「闊端赤(コテチ)」に食料を供給したという記事があるから、コテチが高麗まで
来ていたことは間違いない。

162:日本@名無史さん
18/10/17 18:17:35.49 .net
闊端赤は日本で言う所の近衛師団のことで後方支援ではないけどな
元史·卷五十二 兵二 宿衛
侍上帶刀及弓矢者,曰云都赤、闊端赤。

163:日本@名無史さん
18/10/17 22:20:26.10 .net
高麗史日本伝(岩波)世家070註(10)闊端赤
「モンゴル語でコテチ、軍隊に随行して道案内や馬の世話、或いは警備など雑役を
担当する者」
ところで;
「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」
の読み方、早よ!

164:日本@名無史さん
18/10/18 21:05:54.96 .net
岩波で高麗史の訳注がどうして根拠になるの?
しかも訳してるのは朝鮮史が専門の武田だし
>>163
でお前はそれをどう読んでるの?
漢文の理解力を見てやるから一回読み下して見ろよ

165:日本@名無史さん
18/10/18 23:27:59.16 .net
>>164
>でお前はそれをどう読んでるの?
私の読み下しはすでに>>158に示した。
今度は君が読み下す番だ。
「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」
はいどうぞ。

166:日本@名無史さん
18/10/19 22:15:04.23 .net
>>162
>闊端赤は日本で言う所の近衛師団のことで後方支援ではないけどな
闊端赤というモンゴル語の、もともとの意味は「馬牽き」だったのではないか? それを裏付ける資料が
ある。一つは外国人による元の軍事システムの解説である。英語なので、その一部を翻訳する。
「モンゴルの伝統的な軍事制度において、モンゴルの各戸は若者を軍隊に差し出す義務があった。これは、
成人男性は自動的に兵士であり、モンゴルの各戸は軍戸であることを意味した。使用人や奴隷は入隊を
許されなかったが、例えば horseboys (kötölči, kuoduanchi 闊端赤)として主人に同行した。」
horseboysとは馬牽きのことであろう。
もう一つは「ブラルグチ」というモンゴル独特の遺失物管理制度の研究論文である。
URLリンク(repository.kulib.kyoto-u.ac.jp)
pdfの20ページに、モンゴルの漢字書き文献が引用 された中に「闊端赤」が出て来るが、(kötölči 馬牽き)と
筆者が注釈している。
恐らく、もともとの意味は「馬牽き」であった闊端赤(kötölči)が、ジンギスカンの幕営中の任務グループの
一つである警備隊の名称として用いられたのであろう。想像すれば「陛下の馬牽き」と言った謙譲語から出た
のではないか? 「醜の御盾(シコノミタテ)」と同じようなものである。
かくして闊端赤は、一方ではエリートからなる幕営警備隊の名称として、他方では使用人や奴隷からなる軍夫
集団の名称として、かけはなれた二つの用語が生じたのであろう。そして岩波文庫の注釈は、この二つを
統一的に解説しようとして中途半端な文章になってしまった、というわけだ。

167:日本@名無史さん
18/10/19 22:51:14.01 .net
続き;
では、高麗史に出て来る「闊端赤」は幕営警備隊か、それとも軍夫集団か?
それは言うまでもなく後者であろう。
例えば忠烈王世家の忠烈王六年二月記事に、次のようにある。
「正軍一万名の一朔の糧は凡そ三千漢石と算得するも、若し夫れ、大軍の多く至ること
三、四万なれば、其の闊端赤も亦た且つ少なからず。」
軍の兵数が増えれば闊端赤の人数も馬鹿にならないから、食糧の量も計算通りにはならない、
と言っている。これは闊端赤が軍の兵数に含まれないことを示している。ただし軍に関して
「其の闊端赤」と言っているから、闊端赤は軍に付属するものである。
軍に付属しながら兵数には含まれないもの、それは幕営警備隊や親衛隊ではあり得ない。
したがってそれは馬牽き集団、軍夫集団なのである。

168:日本@名無史さん
18/10/19 22:55:15.89 .net
>>166
ごめん、うっかりした。
元の軍事システム解説のURLは下記ね。
URLリンク(www.chinaknowledge.de)

169:日本@名無史さん
18/10/19 22:59:54.23 .net
>>167
もうひとつ訂正;
忠烈王六年二月記事じゃなくて、忠烈王六年十一月記事だった。

170:日本@名無史さん
18/10/24 13:45:16.12 .net
エリートと下っ端と、二つの闊端赤があったことを

171:日本@名無史さん
18/10/24 14:01:49.22 .net
エリートと下っ端と、二つの闊端赤があったことを上に述べた。
ところで、エリート闊端赤に対応する日本の職掌を思いついた。それは「馬廻り衆」だ。
大辞泉「うままわり」の第二義は次のように言う。
「主君・大将の乗った馬の周囲にあって警護をする騎馬武者、またその一団。近世には
制度化され、特定の者が任命された。馬廻り組、馬廻り衆。」
モンゴルのエリート闊端赤はまさにこのようなものではないか?
これに対して、下っ端闊端赤に対応する日本の職掌は何か。それは下人・所従だろう。

172:日本@名無史さん
18/10/31 04:21:48.22 .net
世界がモンゴル帝国にフルボッコにされてる時代に
日本だけがフルボッコしちゃったからそりゃ台風強調するしかないだろう
そもそも2ヶ月も上陸できない時点で弱すぎるわ

173:日本@名無史さん
18/10/31 07:47:39.48 .net
>>172
ベトナムとか他にも勝った国はあるし日本だけじゃないよ

174:日本@名無史さん
18/11/03 21:46:46.77 .net
>>172
ジャワも最終的には勝った。
モンゴルも海には弱い。

175:日本@名無史さん
18/11/03 22:23:59.14 .net
過去の元寇スレの書き込みで今でもよくコピペされているものなんですが、
これの出典をご存知の方っていますか?
スレ主の書き込みには『北条氏と鎌倉幕府』と書いてあるのですが、
読んでもそれらしい記述が見当たりません。
特に謎なのが『実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる』の部分なのですが、
文永の役の後に来た使者から数えても杜世忠、周福の二回は処刑されてるけど、
他は殺された使者っていたんですか?それも四回も
調べても引き返したり、同行者に殺されたり、日本に留められて帰れなかった人しか出てきませんでした。
1 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:08:49.75 ID:3HbREZZQ0.net
元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)
1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐・対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる
9 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:10:51.40 ID:3HbREZZQ0.net
出展は細川重男の北条氏と鎌倉幕府やで

176:日本@名無史さん
18/11/03 22:32:54.46 .net
海は最強の壁
無敵だった日本を恐怖させたのは同じ海洋帝国の欧米列強だけである

177:日本@名無史さん
18/11/09 23:22:11.90 .net
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part1
【問】高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗したの?
【答】いいえ。王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ
【問】元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如してたの?
【答】いいえ。使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い
【問】武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコにされたの?
【答】いいえ。当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
【問】神風のおかげで日本は救われたの?
【答】いいえ。神風は撤退途中に吹いただけです
【問】和弓はモンゴル弓に大きく劣ってなの?
【答】いいえ。性能面ではほぼ互角。
【問】殆どが高麗人?
【答】主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
【問】元軍率いた武将は無能
【答】いいえ。高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
【問】二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民
【答】いいえ。他地域では用済みの住民や兵は、基本的に直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
【問】モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった?
【答】いいえ。モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。
【問】台風のおかげで二度目も助かった
【答】いいえ。台風来る前に勝負はついていました。
【問】高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ
【答】いいえ。高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後

178:日本@名無史さん
18/11/09 23:23:15.24 .net
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part2
【問】でも歴史の教科書にもそうでているけど
【答】「苦戦した日本軍が神風で助かった」とする資料は『八幡愚童訓』だが
 これは神社の宣伝のための書物で考証的価値が無い。劣等民族の操り人形がこれを悪用している。
【問】でも元,朝鮮,漢,南連合軍14万がきたらやばくない?
【答】元寇の約50年前承久の乱で北条政権は関東だけで19万を動員した実績が
  あります。西日本を合わせれば少なく見ても40万を動員できたはずで
  地元に不慣れな外国連合軍14万など一蹴できたと思います。
  「未曾有の国難」というのはどうみても大げさです
【問】勝って当然だったんだ
【答】敵の上陸を完全に阻止し2ヶ月間も海上生活を強制。当然やってくる台風を
  待って攻撃。完勝です。
【問】敵の評価は?
【答】こんなところです:
 「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
 勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
 倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。
 地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」(南宋遺臣の鄭思肖)

179:日本@名無史さん
18/11/10 00:46:44.74 .net
蒙古襲来絵詞より
「蒙古兵の心胆を寒からしめた鎌倉武士の重装騎馬弓兵隊」
URLリンク(hanoikyudo.files.wordpress.com)
北条時宗政権は何年も前から関東武士を九州に移り住ませ
一人駆けは報酬なしと決めて重装騎馬弓兵隊として訓練していた。
またすべての武器・鎧兜や練度が蒙古兵を遥かに超えていた。
早朝に上陸した蒙古本国の最強部隊は1日の戦闘で蹴散らされ、
次々到着して増える武士達に日暮れを待たずに船に逃げ、
それをまた武士達が小舟で襲った。
舟上の戦いは鎌倉武士による一方的虐殺。
震え上がった蒙古軍は夜明けを待たずに半島目指して遁走。
結果、岸壁にぶつかり座礁し強風に晒されて約1万5千の兵を失った。
わずか1日余の戦い(文永の役)

180:日本@名無史さん
18/11/10 16:10:09.86 .net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(www.lib.kyushu-u.ac.jp)

181:日本@名無史さん
18/11/10 22:51:39.19 .net
文永の役で蒙古軍が明るいうちから船に逃げたという資料は一切ない。
また文永の役で日本軍が舟戦さをしたという資料も一切ない。ひょっとして
服部英雄の二艘120人夜襲説を信じてないか?
日本軍がやったのは見当違いな沖の浜にほぼ全軍を集結させ、元軍の先鋒が
赤坂に進出してもまだのんびり待っているという阿呆な作戦だったことは
絵詞から明らかだ。
つまり水際防衛戦すらやってない。
そして夕方6時ごろには戦闘を終えて撤退した。これについては資料は多くある。

182:日本@名無史さん
18/11/11 02:26:28.25 .net
>>11
……ほんとこれ
あと、モンゴルがもともと海での戦いに慣れてないのも大きかった

183:日本@名無史さん
18/11/11 10:52:49.73 .net
いわゆる「神風」は
戦前には日本が神国である根拠として記述され
戦後には日本が勝てたのは台風のおかげ(つまり実力では無い)というストーリーのために日教組パヨクが喧伝した
しかし近年の研究では
日本の武士がその強さで元や高麗軍を圧倒していた事実が分かってきている
「やあやあ我こそは」と名乗りを上げてる間に元軍にあしらわれた様な話は嘘で
練度の高い遠隔攻撃と、騎馬による密集突撃で効率的に元軍を駆逐していったのが真相
相次ぐ敗戦と厭戦気分から、海路で退却を始めた元軍に台風がトドメを刺したのは事実だけどね
因みに元の将軍は部下を置き去りにして本国に逃亡の末処刑されてます。

184:日本@名無史さん
18/11/11 10:53:46.15 .net
>>182
上陸して負けて船に逃げてるんだけど
脳みそついてるか池沼?

185:日本@名無史さん
18/11/11 10:59:56.25 .net
敵側の元史も高麗史も戦闘による敗北認めてるのに
後世のクズチョンや左翼は歴史捏造して罪悪感とかないんかな

186:日本@名無史さん
18/11/11 14:16:42.96 .net
69 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 14:58:17.44 ID:qaYXonuO0
最近言われ始めた珍説で「鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった!全部日本のせい!」
ってのがあるよな
そもそもモンゴルが日本を属国にしようとして使者を送った事実は完全無視でw

187:日本@名無史さん
18/11/11 14:17:16.58 .net
74 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 15:21:22.21 ID:NlYCR7Vx0
>>69
それ自分も今年だけでも二十回は見た
けど、そもそも鎌倉幕府が『元寇の前に』使者を斬った事実なんてないから、
珍説というか、捏造というか、ファンタジーというか……
元寇の前の使者は6回なんだけど、これは6回ともちゃんと帰国していて、
その後に一度目の元寇の文永の役が起き、
その翌年に来日した七回目の使者が切られてるのが、使者処刑の最初
だから『戦争が起こった後に』鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった、
という意味不明な説になるんだよね
何かそういう史実と違う展開のフィクションでもあるのかなあ?

188:日本@名無史さん
18/11/11 14:18:25.45 .net
90 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 18:01:57.02 ID:UzBalQN40
>>69
↓のように元寇の頃に日本に送られた使節のうち、
戦争前の使節はみんな生還でくっきり分かれてるのに、
なんでそんなわけわからん説が蔓延するんだろう?

1回目 高麗で引き返した(生還)
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還)
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還)
4回目 島民帰した(生還)
5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還)
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した(生還)
(文永の役)
7回目 処刑…(死亡)
8回目 また処刑…(死亡)
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した(生還)
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡)
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還)
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず)
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず)
13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。
時期で分けると
文永の役前→生還、
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める

189:日本@名無史さん
18/11/12 12:19:49.66 .net
>>186
コピペになんだけど、丁度ニュース速報+のスレで、
それ言ってる人が何人もいる…

190:日本@名無史さん
18/11/12 16:39:15.07 .net
>>184
>上陸して負けて船に逃げてるんだけど
元軍が船に乗る前に日本軍が「引き退いて」いる。

191:日本@名無史さん
18/11/13 16:05:26.62 .net
日本側の資料が少ないのか

192:日本@名無史さん
18/11/13 16:46:10.72 .net
>>190
ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう
上陸するのが一番大変なんだぞ
戦の素人かよ
船に戻らざるを得なかったが正しい

193:日本@名無史さん
18/11/13 17:21:04.91 .net
>>192
>ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう
日本軍が「引き退いた」ことは認めるのか?
それとも日本軍は「引き退かなかった」と主張するのか?

194:日本@名無史さん
18/11/13 20:13:15.10 .net
>>193
日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
翌日の戦闘が始まる前に蒙古軍は海上に逃れてる
船は降ろすのも乗せるのも手間がかかるからいかに蒙古が急いで船に乗ったか分かるな

195:日本@名無史さん
18/11/13 21:48:56.45 .net
>>194
>日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
小規模な戦闘は日没後も続いたと言いたいわけか?
>日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
戦闘は収まったが日本軍はその場に留まったと言いたいわけか?

196:日本@名無史さん
18/11/15 01:48:48.52 .net
約740年前の元寇げんこうで戦死した対馬の守護代・宗資国そうすけくに(助国)ら約80人の武士を慰霊する小茂田浜神社の例大祭が11日、長崎県対馬市厳原町で行われた。
資国らは1274年(文永11年)、約900隻の軍船で同市の小茂田浜などに侵攻した元軍と高麗軍計約3万人と戦い、全滅したと伝えられる。
例大祭では巫女みこ神楽の奉納や武者行列、浜辺で弓矢を射る儀式などがあり、島内外から訪れた参拝者が往時をしのび、平和の世が続くことを願った。
参拝者の中には、文永の役当時の対馬を描いた歴史漫画「アンゴルモア元寇合戦記」(KADOKAWA)の原作者たかぎ七彦さん(東京)らの姿もあった。
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

197:日本@名無史さん
18/11/15 16:42:24.41 .net
鎧兜が戦国時代じゃ興ざめだね

198:日本@名無史さん
18/11/15 18:11:39.99 .net
神風を軽視すべきではない

199:日本@名無史さん
18/11/15 18:34:14.65 .net
軽視も何も文永は単純に戦闘に負けて撤退決めて弘安は2ヶ月何も出来なかったわけで武士の圧勝なんだが

200:日本@名無史さん
18/11/16 03:38:46.73 .net
文永の役 総数 27,000~39,700人
弘安の役 総数 140,000~156,989人および江南軍水夫
確かに兵力は文永んときは少ないが、それは相対的な物で
少ないから軽視とか偵察程度だったとか言うには無理がある数字だよな
普通に侵攻する気満々の数だわ
それに良く考えたら「台風が来たから撤退しよう」なんて船でやって来た連中がそんなバカな決定をするはずがない
海が荒れたら陸に留まる、即ち占領した陣地を断固死守する、大陸育ちの連中なら尚更そうする
台風の中の海路を帰るなんて普通に自殺行為
つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう

201:日本@名無史さん
18/11/16 10:33:12.09 .net
>普通に侵攻する気満々の数だわ
2万程度の兵数がなくては未知の国に初めて行くのに怖くて威力偵察もできない。
>つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう
日本軍が元軍を海に追い落としたという史料はいっさいない。
白張装束30人とか、兵船2艘とかの「神軍説話」を除けばね。
高麗史を読めば第一次東征の準備がいかにボロボロだったか、よく分かるよ。
とにかく行って帰るのが精いっぱいの軍隊だ。
主将のクドゥンがまた、なにかと言えば「回軍」を考える人物だったし。

202:日本@名無史さん
18/11/16 16:03:55.57 .net
南北朝期に九州の国人が足利幕府に反抗的なのは元寇の戦後処理に不満だったから?

203:日本@名無史さん
18/11/18 02:47:17.16 .net
>戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき
口で言うのは簡単なんだが、それを認めると御家人達に褒美を与えなくてはならなくなる。
防衛戦なので領地を得たわけではないので、十分に褒美を与える為の原資が無い。

204:日本@名無史さん
18/11/18 03:19:22.24 .net
>>203
現代人が評価すべきって意味じゃ?

205:日本@名無史さん
18/11/18 16:33:03.12 .net
弘安の役ならいざ知らず、文永の役でフルボッコされたのは鎌倉武士。

206:日本@名無史さん
18/11/19 20:55:02.24 .net
>現代人が評価すべきって意味じゃ?
「御家人の手柄ではなく、神風のお陰である」という当時の幕府や朝廷の見解がそのまま継承された。

207:日本@名無史さん
18/11/20 14:00:09.71 .net
>>205
ならなんで文永で日本征服できんかったんや

208:日本@名無史さん
18/11/20 14:54:20.45 .net
>>207
征服する気なんてなかったからさ

209:日本@名無史さん
18/11/20 15:09:06.96 .net
>>208
ならなんで攻めてきたんだw

210:日本@名無史さん
18/11/20 17:30:07.15 .net
>>209
真珠湾攻撃はアメリカを征服する気だったのか? と言うのと一緒。

211:日本@名無史さん
18/11/20 20:42:30.84 .net
海洋国家米国や欧州でない限り日本は倒せんよ
大航海時代も得ていないアジアなど日本の敵ではない

212:日本@名無史さん
18/11/20 23:51:28.98 .net
3万強の大兵力を率いてその目的が日本の端っこで偵察と略奪するだけって
そんなコスパの悪いことする国家や軍隊があるか?
少なくとも北九州までは版図に飲み込む気ぐらいはあっただろ
真珠湾になぞらえるんなら刀伊の入寇の3000程度で十分だ
隷下の高麗軍がやる気無かった説がちょいちょい出てくるが、あいつら普通に殺意満々だったし
発掘された軍船もしっかりした造りだったらしい
つーかその軍備のせいで高麗の民は疲弊したんだけどな
八幡愚童訓は「バカなガキでも分かる八幡様のありがたいお話」という宗教書なので
あんなものを鵜呑みにしてはいけない

213:日本@名無史さん
18/11/21 10:31:42.35 .net
>>211
国力の比較をしているのではない。
元寇の時代に真珠湾攻撃のような、征服を目的とせず、局地的に一定の打撃を与えて
終るような作戦を行うにはどうするかを考えて見よう。
その時代に、飛行機や艦砲のような遠隔の攻撃手段があったわけではない。
相手に打撃を与えるには、人間が上陸して直接に働くよりほかに手段がないのだ。
昔の海戦の主たる攻撃手段が、相手の船に乗り移って白兵戦をやることであったこと
と対比される。
つまり、渡海・上陸して戦闘をやったからといって、それが征服作戦なのか、単なる
打撃作戦なのかを外形的に区別することはできないのだ。

214:日本@名無史さん
18/11/21 10:59:22.52 .net
>>212
コスパだけではわからない。
当時、しょせんは「少数民族」に過ぎない蒙古は、大国の南宋と伸るか反るかの決戦のまっ最中だった。
だから文永の役は全面的に高麗に依存した戦争だったのだ。それでもって高麗がいかに疲弊しようが、
知ったことではない。高麗が耐え切れずに倒れれば、労せずして直轄領にするだけの話だ。
相手が元だと思うからおおげさになるが、船と食糧という、遠征軍の最も基本的な資源において、
第一次東征軍は高麗の国力の範囲でまかなえる規模でしかなかったのだ。
その意味では、文永の役は日本と元の戦争ではなく、日本と高麗の戦争だった。
お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、これはフビライの親衛隊で、いざとなれば
カーンの地位の裏付けでもある。だから損害少なく安全に帰ることが第一だ。
そのためには、何かといえば「回軍」を持ち出す安全主義のクドゥンが、主将として適任だった。
日本征服などとおおげさに考えることはない。

215:日本@名無史さん
18/11/21 17:43:59.32 .net
その高麗の、具体的な準備状況を見てみよう。
●1274年1月、大船300隻を起工、7月の出発をめざす。
 大船300隻を半年で作ろうというのだ。
●春の農繁期に造船労働者の半数を帰農させる。
●6月、大船300隻と付属小舟、関連資材の完成を王がフビライに報告。
●7月、王が死亡。忠烈王が即位。
 恐らく葬儀、服喪、即位のため遠征準備にとって空白期間が生じた。
●船員の徴募遅れのため高麗人担当官が更迭。忠烈王の回顧によれば予定の約半数しか集まらず。
●出発が10月にずれ込む。
 10月は新暦の12月、すでに季節風が強くなる航海不適の季節である。
●(恐らく自前の船で参加する予定だった)女真軍が出発に間に合わず。
●結局、出発したのは予定の半数にも満たない126隻。船員も予定の約半数の6700人。
これだけのことがあって、なお日本征服をめざす司令官がいるだろうか。
恐らくクドゥンの頭の中は、逆風を突いて乏しい食料で帰る帰途のことで一杯になって
いただろう。
日本征服など夢物語である。

216:日本@名無史さん
18/11/22 07:11:08.39 .net
>>215
文永の役の何年か前に、南宋と日本を征討するとか言ってなかったっけ

217:日本@名無史さん
18/11/22 20:33:37.04 .net
蒙古と言えば騎馬だが、なぜ馬を連れてこなかったのだろうか?
船に馬を乗せるのは大変なのか?
逆に、秀吉の朝鮮出兵の時は、馬は現地調達したのか?

218:日本@名無史さん
18/11/22 23:03:25.52 .net
馬は連れて来ているよ。絵詞を見れば赤坂を撤退する小部隊の指揮官らしいのが
馬に乗っている。祖原山の本陣の図でも十人ぐらいの上級者らしいのが馬に乗っている。
また安国論私抄の捕虜尋問記録では、一船当たり5頭の馬を積んだと言っている。
ただ、本来のモンゴル軍のように、戦闘員が全軍騎馬で、さらに各自数頭の替え馬を引く
というような姿ではない。
これは、連れて来れなかったというよりも、元軍の中身がすでにモンゴル軍というよりも
シナ軍になっていたからだろう。
つまり、蒙漢軍は本国でもあのような歩騎混成の編成だったのだろう。

219:日本@名無史さん
18/11/22 23:10:21.55 .net
アホの妄想ってしょうもないな
普通に戦闘で負けて(指揮官も負傷)このままじゃ全滅だから早期撤退決めた以外の何が想像出来るのか
神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい
いや、文永は日本がフルボッコされたとか妄想して次に日本と高麗の戦争とか言い出してるから
チョンなりの惨めな妄想の類かな

220:日本@名無史さん
18/11/22 23:51:08.35 .net
>神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい
>>215のような状況でも、なお日本を征服するつもりだったというのは、確かに素晴らしい
想像力だな。

221:日本@名無史さん
18/11/23 00:30:11.97 .net
>>215の言ってることって嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる
南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた
南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた
高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて
上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう
船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300~8000は用意してる
そして蒙古漢軍は15000~25000。ふつうに高麗軍より大所帯
蒙古の高官による現地視察や手柄の横取りなどという「お客さん」とは到底言えない
クドゥンは単に引き際を心得てただけだ
金方慶が「敵地でこそ士気が上がるからどんどん攻めるべきだ」と無茶な理論を展開したのに対して
「普通に兵を消耗するだけだから撤退しよう」と諭してる

222:日本@名無史さん
18/11/23 04:52:58.90 .net
幕府の動員数って実際どれだけあったのかな
承久の乱の時に19万って数字があるけど史書の
数字はある程度割り引かないと駄目だから
それでも推定される人口から見たら
最大12万から17万は動員出来そうか?

223:日本@名無史さん
18/11/23 07:24:38.60 .net
>>214
>お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、
蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ
お客さん?

224:日本@名無史さん
18/11/23 10:25:33.86 .net
223
>蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ
>お客さん?
数が多かろうと自前でない船に乗せてもらっているという意味でお客さんだ。
旅客機だって乗員より乗客の方が多いだろう?

225:日本@名無史さん
18/11/23 15:10:27.65 .net
フビライの命令で船を作ったんだからお客じゃないだろ。

226:日本@名無史さん
18/11/23 23:11:34.13 .net
>>221
>嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる
低い数字とは126隻、6700人のことと思うが、その数字は君も使っているではないか。
君も恣意的なのか?
>南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた
前進拠点である襄陽の陥落が転換点だったのはその通りだが、弱体化したとは言え、巨大な南宋の
本体は残っている。襄陽の後は点の戦いが面の戦いに移行したのだ。当然、大軍が必要である。
>南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた
いかにも決着がついた南宋戦から浮いた軍隊を日本侵攻に廻したように読めるが、それは印象操作。
南宋平定作戦にはバヤンの本隊だけで20万(他に支隊)、日本向けはたったの一万五千だ。
そしてバヤンの本隊が長江を渡ったのはまさに1274年の12月。南宋平定と第一次東征は同時進行
していたのだ。

227:日本@名無史さん
18/11/23 23:12:41.25 .net
>高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて
>上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう
船に兵を載せるということは、そこで生活させるのだよ。絵詞の海戦場面に描かれた、甲板も
ないような舟艇で、どうやって生活するのか。
また、大船126隻という数字はバートルや汲水小舟を伴わず単独で出て来る数字だ。
大船、バートル、汲水小舟はワンセットだったと思われるから、大船126隻ならバートルも
126隻だった可能性がある。
>船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300~8000は用意してる
高麗兵が船員の代わりに操船したという史料はいっさい無い。また、船員が集まらず高麗が苦労した
のは、船員が専門技術者だったからだ。数がいるからと言って、農民兵を転用できたとは限らない。
>クドゥンは単に引き際を心得てただけだ
その通り! 私が言いたのもそこだ。めでたく意見が一致したね。

228:日本@名無史さん
18/11/26 00:31:21.72 .net
>>224
自前でない船に乗るからお客さんって論理がよくわからん
自前じゃないってもクビライの命令で作った船だろ?

229:日本@名無史さん
18/11/26 10:12:13.93 .net
>>228
高麗から見ればお客さんだよ

230:日本@名無史さん
18/11/27 09:39:31.17 .net
>>214
この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
それでもそんな扱いって娘婿の地位って高麗にとってはあまり意味なかったのかな
モンゴルにとっては影響力を強める意味があったとしても

231:日本@名無史さん
18/11/27 21:59:48.36 .net
>>230
フビライの娘婿になったのは忠烈王で、彼の即位は1274年の8月。
第一次東征軍の出発は同年10月初旬だから、忠烈王は第一次東征の準備にほぼタッチして
いないと言える。

232:日本@名無史さん
18/12/07 11:30:37.41 .net
この話のかみ合わなさはパフォコン思い出す
あいつまだいるのかな

233:日本@名無史さん
18/12/08 17:14:37.59 .net
>>232
話が噛み合ってない? どこが?
>この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
「この時点」とは高麗が第一次東征の準備をフビライに命じられて、実行して
いる時点だ。
この時点の「高麗王」とは元宗だ。
元宗の嫁はフビライの娘ではない。
それだけのことだ。

234:日本@名無史さん
18/12/08 21:30:18.80 .net
キムチが混ざるとこういう歴史考察も一気に興ざめするな
日本国内じゃ資料が少ないとかの理由であまりスポットが当てられてなかったけど
海外じゃ北条時宗は有名だぞ

235:日本@名無史さん
18/12/09 12:50:29.83 .net
元寇では武士はボロ負けwww
一騎打ちに拘って返り討ちwww
神風のおかげで偶然勝てただけwww
ところが元軍や南宋軍の資料では全く違うことが書かれているのですよ。
一騎打ちに拘った資料も実はどこにも無いんですね。
元軍の記録では、武士は密集して騎射を行ったのちに少数で突撃したとあります。
また上陸した元は博多周辺から外に侵攻することも出来ずに野戦と夜討ちによて蹴散らされました
日本大嫌いな人達が、一騎打ちで負けたのを隠すために書き換えた説発覚!
神風云々も、当時の寺社と幕府が結託したものですし。
というのも防衛戦なので恩賞として与える土地も無かったんですね。
そして寺社も独自の武力を持つ集団で政治にもバリバリ介入していたので、
自分たちが神風を吹かせたのだと恩賞や名誉を独り占めしたのです。
まあ今でもありますけど、現場で活躍した人たちにムキーッとなって嘘八百を塗り固めたんじゃないですかねw
自分たちの記録ではなく敵の資料によって実態がわかる、というのも情けない話しですがw

236:日本@名無史さん
18/12/09 17:44:22.82 .net
対馬、壱岐、九州北部と戦場が限られていたのが大きいのかな。
仮に京都まで攻め込まれていたら大々的に扱われそう。

237:日本@名無史さん
18/12/09 21:45:11.59 .net
>>235
日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
苦戦したのは事実だと思うが、それは対馬と壱岐の話じゃねーかな?
しかも苦戦の理由は単に兵力の差によるものだろう
あんな日本の最果ての島に増援を送るなんて不可能だし、現地の武家が頑張って力及ばずってとこだろう
日本って意外と古来から権力者が嫌いみたいで(竹取物語は反藤原を暗示してるらしい)
しかも当時は日蓮率いるカルト教団が幅を利かせて鎌倉に楯突いてたから
御家人が頑張ったって言っても取り合ってくれなかったんだろうな

238:日本@名無史さん
18/12/09 22:24:35.62 .net
竹崎季長も先駆けの武功を認めてもらえなくて問注所だか侍所だかに申し立てして
やっとの事で所領をもらったんだもんねぇ。

239:日本@名無史さん
18/12/09 22:52:07.01 .net
>>237
>日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
白石勢のことなら、絵詞では9騎の集団が突撃している。しかしそれは絵巻だから省略したのだ。
実数は何人かと言えば、季長じしんが絵のなかに「其勢百余騎」と注釈しているから、約100騎
の集団だった。
5騎の竹崎勢を瞬時に無力化した敵の歩兵部隊は100騎の白石勢に対抗できず逃げた。
しかしそこまでだ。白石勢の働きは結局、竹崎を救出しただけだった。もったいない。
絵詞に出て来る限りでは、騎兵集団は竹崎勢5騎、白石勢100騎、菊池勢100騎とも、
いずれも単独で、かつ個々の判断で動いている。
つまり、個々の騎兵集団がいわゆる「集団戦法」を行っているが、それ以上の連携というもの
が見られない。
なぜこのようになるか。それは日本軍の軍隊組織から来ていると思う。
5騎の指揮者である竹崎が総司令官の景資に直接、意見具申しているように、各騎兵集団の指揮者で
ある御家人は、指揮する兵力に拘わらず皆、総司令官に直結していた。
これは軍隊組織と言えるほどのものではない。

240:日本@名無史さん
18/12/10 14:58:52.09 .net
>>233
230だけど、スマンカッタ
即位時期まで覚えてなかった
>>234
Zelda Fan Boyという渾名がついてしまってる…
某ゲームに登場して知名度上がったけど、家紋がトライフォースと似てるから…

241:日本@名無史さん
18/12/17 20:17:03.88 .net
どっかの大学の論文によると大鎧の小札は、
日本刀と同じように、硬くて脆い鉄と柔らかくて粘り強い鉄の合わせ鍛造らしい。
これマジなん?

242:日本@名無史さん
19/01/15 19:45:16.42 .net
>>33
あの時代に馬を大量に海上輸送するのは無理じゃね
九州に上陸したモンゴル騎兵なんか実際はほとんどいなかったろうな

243:日本@名無史さん
19/01/16 01:55:41.96 .net
>>242
モンゴル騎兵が大量に上陸出来ても日本の地形じゃ実力発揮できないだろう。
モンゴルやカザフ共和国の時代劇でも草原での回戦ではなく、対立部族の集落(ゲルの野営地)を
襲撃する様な場合、モンゴル人も下馬して刀槍で白兵戦してるよ。
狭隘地で騎射戦が有効でない場合は、モンゴル人もその環境に合わせて戦うってこと。
モンゴル相撲のブフだって騎馬戦での格闘術ではなく、徒歩での肉弾戦での格闘術。

244:日本@名無史さん
19/02/01 22:14:24.98 .net
>>1
戦国ばかり好くアホな国民性だから

245:日本@名無史さん
19/02/02 09:27:54.87 .net
元の記録
我が軍は勇敢に戦ったが敵が強かった。
鎌倉の記録
残ってない。焼かれた。
九州の記録
敵は非常に強かったが、多大の犠牲者を出し勝った。
どちらも信用度が低い。
我が一族は300人出した。
本当は100人。
総兵力も嘘臭い。

246:日本@名無史さん
19/02/02 14:53:22.33 .net
>>244
同じくらい三国志も好きだよな。しかも史実じゃなくて演義の方
国取りレースが琴線に触れるんだろうか

247:日本@名無史さん
19/02/02 20:21:24.12 .net
歴史好き ≒ 賤酷好き

248:日本@名無史さん
19/02/07 13:58:59.88 .net
鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。
一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。
元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。
1251年:北条時宗誕生。
1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。
まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。
一遍の時宗は、日本軍人だ。
1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。
鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。
日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。
そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。
1281年:モンゴル軍再来襲。
1284年:北条時宗死す。

249:日本@名無史さん
19/02/07 17:53:00.56 .net
元寇をシャレで解く
スレリンク(bookall板:221番)

250:日本@名無史さん
19/02/23 23:51:08.98 .net
平安鎌倉時代って馬鎧あったのかな。
戦国時代と古代は聞くけど、平安鎌倉は聞いたことない。

251:日本@名無史さん
19/03/19 04:28:19.26 .net
矢が尽きた( ・`д・´)キリッ
もっと上手い言い訳考えろよと思う

252:日本@名無史さん
19/03/19 04:58:46.22 .net
そもそもどういう勝利を想定して来てたのかが甚だ疑問

253:日本@名無史さん
19/03/19 19:06:02.16 .net
>>252
それは長年のナゾ

254:日本@名無史さん
19/03/19 22:53:03.26 .net
>>250
文字として記録が残ってる最古は13世紀後半、つまり鎌倉時代。
ただ和歌山の大谷古墳から5世紀頃の鉄製の馬冑が発掘されてるし、
6世紀以降の関東平野の数多くの古墳から出土してる馬埴輪の多くも
馬鎧に相当する胸当てが装備されてる。

255:日本@名無史さん
19/03/20 00:07:20.58 .net
なんで博多に上陸しようと思ったのか
もちろん大陸から近くて、太宰府を後ろに構える大都市だってのはわかるが
だからこそ防御もそれなりと考えないか?
こそっと山口鳥取あたりから上陸して畿内目指せばと思うんだが

256:日本@名無史さん
19/03/20 00:27:58.99 .net
対馬壱岐から見えるとこじゃないと

257:日本@名無史さん
19/03/20 00:33:46.18 .net
船を作るのも航海も高麗の担当だから実績がないのに鳥取あたりに大群で来れないだろ。
二、三隻ならともかく。

258:日本@名無史さん
19/03/20 00:55:17.27 .net
一説によると、刀伊の入寇に関して日本側は被害甚大で刀伊と同じ女真から朝貢を受けていた高麗に管理責任があるとキレてたので、高麗側は入寇は美味しいと錯覚してた可能性が高く、それを模倣してみただけって考察もある

259:日本@名無史さん
19/03/20 01:32:34.63 .net
>>258
刀伊の入寇もほとんど高麗に仕業だろ

260:日本@名無史さん
19/03/20 08:01:35.30 .net
矢が尽きたから帰ったって模範的な敗北の婉曲表現だろ

261:日本@名無史さん
19/03/20 12:23:29.48 .net
鷹島の海底から引き上げられた元寇船の遺物に矢尻が出てることは内緒な

262:日本@名無史さん
19/03/20 14:16:08.33 .net
矢はたくさん残ってたけど、矢が尽きたことにしました

263:日本@名無史さん
19/03/24 07:11:15.90 .net
久々にスレ見たけど、パフォくんまだ生きとったんか

264:日本@名無史さん
19/03/24 15:20:52.98 .net
というかなんでわざわざ日本になんぞ攻めてきたのかがわからん
西方ではカイドゥの大攻勢の結果、皇族から離反者がでたり直系皇族が捕虜になったりと散々な有様で元の主力軍もそっちに釘付けにされているというのに

265:日本@名無史さん
19/03/24 17:48:19.21 .net
>>264
チョンコが刀伊の入寇の真似したらウハウハだって思い込んだから

266:日本@名無史さん
19/03/24 23:45:24.35 .net
高麗軍の兵力を減らしておきたかったからだろ

267:日本@名無史さん
19/03/25 01:09:58.13 .net
>>266
朝貢国の兵力=元が利用できる兵力だから口減らしする必要性はない

268:日本@名無史さん
19/03/25 03:03:00.78 .net
お花畑かよ

269:日本@名無史さん
19/03/25 04:03:38.69 .net
>>268
ファビョってんのか?

270:日本@名無史さん
19/03/25 10:49:16.96 .net
呆れてんだよ

271:日本@名無史さん
19/03/25 11:26:53.86 .net
>>270
チョンコって出っ歯でいつも口開いてるから呆れ顔に見えるよな

272:日本@名無史さん
19/03/25 14:58:24.50 .net
>>264
それが、どうも「硫黄貿易」がらみ臭いんだよな。
まず、北宋も南宋も、契丹遼やタングート大夏、女真金といった北方騎馬軍団への防衛力として
唐代に発明された黒色火薬を使ったロケット砲を大量配備して、対騎馬軍団体制を敷いていた。
この黒色火薬の原料は木炭、硝石、硫黄だが、当時の北宋、南宋の版図で硫黄だけが国産化できなかった。
当時の世界で硫黄の大産地と言ったら、紅海沿岸、ジャワ島、そして日本列島。
そういう理由で、宋代には九州の博多には民間貿易船や宋朝から直接派遣された特権商人の船団が、
大規模な硫黄買い付けに来ていた。これが、平安中期以降に日宋貿易が活性化した背景で、
当時の宋側の史料でも日本との貿易で真に国益となるのは木材と硫黄の交易だけだとはっきり書かれている。
南宋とモンゴルが対峙していた文永の役の段階では、貿易港博多を軍事占拠するだけでも南宋への硫黄供給を
遮断して南宋攻略を有利にする効果が見込めたし、南宋を滅ぼしてその国家機能を接収した後の弘安の役の
段階では、硫黄の大産地である日本列島自体を接収することで大元ウルス自体の火器軍備強化が見込めた。
実は、日宋貿易、日元貿易で硫黄が非常に大規模に交易されていたことを日本史研究者が認識するようになったのは
かなり新しく、やっと21世紀になってからの事。つまり、20世紀までに書かれた歴史学書や論文では硫黄交易はほぼ
黙殺に近い状態。というのも、研究者自身、硫黄が交易されていたといっても何の目的で宋が輸入していたのか、
その用途がピンとこなかったため、日本産の貿易対価で宋側がありがたがるものと言ったら砂金ぐらいしかないだろうと
決めつけていたんだな。硫黄なんて漢方薬の原料として少量が交易されていたんだろうぐらいに思われていた。

273:日本@名無史さん
19/03/25 15:18:21.17 .net
>>272
よかった
「それを発見しのは何を隠そうわしなのだ!天才のわしなのだ!」とか言い出したらどうしようかとヒヤヒヤしながら読ませてもらったよ
非常に勉強になった
ただ問題点は元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明な点
だから高麗人が唆しただけなんじゃないか説が有力になってる

274:日本@名無史さん
19/03/25 15:32:20.77 .net
>>273
日宋貿易と宋朝の火器武装のリンクについては、言い出しっぺの山内晋次が山川の「日本史リブレット」の一冊、
「日宋貿易と『硫黄の道』」に詳しく書いているから、一読をお勧めする。
実は、杉山正明の「遊牧民から見た世界史」の20世紀に出された旧版では硫黄貿易との関連は触れられていないんだが、
21世紀になってから出された文庫新装版では、文永の役が硫黄貿易の遮断だという仮説を挙げているらしい(私はまだ旧版しか読んでない)。
杉山も明らかに山内の研究から刺激を受けていると言っていいだろう。
あと、クビライ帝は元寇と前後してジャワ島遠征も実行している事と、南宋の国家機能接収後に西アジアへの海路通商に力を注いでいる事にも
注目していいんじゃないかな。どれも、それぞれジャワ島の硫黄と紅海の硫黄の確保を目的の一つにしていた可能性が指摘できる。

275:日本@名無史さん
19/03/25 17:26:35.95 .net
参考までに
科研費研究課題「硫黄流通からみた古代・中世の日本とアジア」
URLリンク(kaken.nii.ac.jp)
科研費研究課題「火薬原料の国際流通からみた前近代の日本とユーラシア」
URLリンク(kaken.nii.ac.jp)
科研費研究課題「学際的手法による中・近世日本のサルファーラッシュ・シルバーラッシュの比較総合研究」
URLリンク(kaken.nii.ac.jp)
中世の日本、琉球王国が,東アジアにおける軍需物資のサプライチェーンにおいて
重要な位置を占めていた事が、理解してもらえると思う。
今、この事を元寇と直接結びつけているのは杉山正明だけだけど、
これから研究が進むことによって関連が浮かび上がってくる分野である蓋然性は
かなり高いと思う。

276:日本@名無史さん
19/03/25 17:45:54.88 .net
>>273
>>元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明
可能性と推論で語れば、兵力が少なめだった文永の役の時には戦略目標は硫黄交易拠点の博多の制圧と確保で、
莫大な兵力を集めた弘安の役の時には日本国全体の征服による硫黄産地の掌握、
という事だった可能性が指摘できる。
問題は、おそらく大元ウルス側でも、日本のどこであれだけ大量の硫黄が産出しているのかが解明できていなかった
蓋然性が高い事だろう。それが判明していれば、薩摩硫黄島や硫黄鳥島に大艦隊を送って対馬侵攻の時みたいに
制圧してしまっていただろう。

277:日本@名無史さん
19/05/02 22:38:19.94 .net
ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ
高麗時代史専用スレ
スレリンク(whis板)

278:日本@名無史さん
19/05/15 14:05:27.18 .net
高句麗=扶余族を始祖に持つウラル・ツングース
新羅=倭人始祖に持つ倭種
伽耶=ガッツリ倭人
百済=倭人に媚びへつらう元漢人

279:日本@名無史さん
19/06/08 17:00:52.25 .net
鈴木大拙の「日本的霊性」読んでみ。元寇が日本精神史上、大事件だったことがわかる。

280:日本@名無史さん
19/07/08 12:51:22.56 .net
水軍不慣れな上にセウォル号に乗せられたら負け確定

281:日本@名無史さん
19/07/08 17:47:30.22 .net
済州島攻略も成功させてるし南宋征服も水軍が不可欠で
南宋を滅亡させた崖山の戦いなんか海戦
不慣れどころではないんだなあ

282:日本@名無史さん
19/08/05 10:12:02.43 .net
神風で船酔いしてぼろぼろ。
天皇陛下様の神通力をあなどってはならない。

283:日本@名無史さん
19/08/17 21:28:03.25 .net
>>254
鎌倉時代に馬鎧あったんだな。
詳細知ってたら教えてくれ。
古代と戦国時代、江戸時代の馬鎧は実物が残ってるよね。
下鞍と障泥はどの時代もつけてるけど、
あれも鎧の役割をしていたんじゃないだろうか。

284:日本@名無史さん
19/08/18 13:31:33.07 .net
個人的に元寇で打ち震えるのは、弘安の役における最後の後始末(鷹島掃討戦)
暴風ですでに万単位の溺死者が発生していたものの、命からがら鷹島に集結した
将兵も多数おり、その数は十万。ただし武具や矢玉はおろか、最低限の水と食糧
と生活用品すらほぼ皆無。軍ではなく着の身着のままの被災難民に成り果てていた
司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
ゆえに歴史的な意味からいえばこの時点で戦争は終わっている。だが、鷹島もまた
元軍の民間人虐殺の被害地であり、負傷し飢えた敗残兵になったからとて元軍が慈
悲の対象であろうはずもない。かくして日本軍による、血の復讐の宴が開催された
残存兵らは、この苦境の中で指導力を発揮していた下級将校を臨時の将軍とあおぎ、
その指揮の下でありあわせの工具を総動員、船を仕立てて脱出する計画を立てる
だが台風一過、状況を把握した日本軍が好機を逃すはずもなく、完全武装で総攻撃
指揮官が地元の御家人クラスであることから戦力はせいぜい数千人、あるいは千人を
大きく越えなかったかもしれないが、ほぼ丸腰の元軍は一方的に敗れ、投降が相次ぐ
かくして元軍の犠牲の大部分が、この時に生じる。2万~3万人の、比較的元気で
技能のある江南人が選抜されて奴隷となった他は、推定8万が斬首されている

285:日本@名無史さん
19/08/18 13:59:17.60 .net
まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない

286:日本@名無史さん
19/08/18 21:14:23.35 .net
>>打ち震える
悪趣味だな。
武勇も技自慢もロマンも無い、ただの殺戮じゃん。
こういう事言う人って神風とか回天とか桜花みたいな特攻兵器に興味津々だったりするの?
やっぱり「魂が打ち震える」たりするものなのか?

287:日本@名無史さん
19/08/18 21:18:20.66 .net
>>司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
これは日本側の記録にも残っているね。
という事は日本側の兵が目撃していたという事だ。
なんで追わなかった?
なんで逃がした?
なんで討ち取らなかった?
ここが一番のつっこみ所だよ。

288:日本@名無史さん
19/08/19 08:06:27.97 .net
>>287
目の前に武装してる可能性がある敵性集団が万単位でいるのにか?
頭使え、無視はできんだろう?
それに捕虜にして売り飛ばせるだろうが

289:日本@名無史さん
19/08/19 17:53:04.37 .net
>>286
先の見えない絶望の末の特攻戦法を、鷹島戦と混同する発想は無かった
鷹島掃討戦は、渡海軍事行動のリスクと敗戦時の人的被害の大規模化の、劇的実例だ
大正義日本海がもたらした惨劇は大陸政権による日本侵攻の、最強の抑止力となった
「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や
(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって
死んだ魂が泣く」(高麗王臣下の漢詩)
「大風雨がおこり、大浪のために沈壊。蒙古軍は半ば海に没し、残るは400隻
のみ。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、倭人のためにことごとく殺され
る。ゆえに白骨山(鷹島)という」(南宋遺臣の鄭思肖)
いっぽう日本側も、鷹島掃討戦の凄まじさを示す多くの地名を現地に残している
「首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷」などだ
それまでの国内戦とは異質な、大量殺害が起きていたことが窺える
なお地獄の鷹島から脱出して帰国を果たした者は、高麗の史書では11人確認できる
さらに、捕虜となってから10年以上のちに帰国できた一握りの兵士が現れ、かれら
は部下を見捨てて逃亡した将軍らを皇帝に告発した(すでにフビライの孫の代)
結果、范文虎ら数人の将官が妻子ごと処刑された。ある意味、元にとって真の終幕

290:日本@名無史さん
19/08/19 21:18:43.65 .net
>>289
まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない

291:日本@名無史さん
19/08/22 10:25:37.47 .net
>>290
江南人(南宋人)って文永の役の時の対馬壱岐の被害
ってか文永の役自体に参加してなくない?
南宋が元に征服されたのって文永の役の後だよね?

292:日本@名無史さん
19/08/22 10:29:13.05 .net
>>284
あと南宋人の助命って比較的元気とか技能があるとかで選別されてたっけ?
『九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之』
元史には↑とあったから元気や技能の有無じゃなく単に国籍での選別だと思ってたけど

293:日本@名無史さん
19/08/22 10:30:50.56 .net
>>289
>20万人は白骨山の上に置き去りにされ
弘安の役の時の軍勢、総数でも20万人もいたっけ…?

294:日本@名無史さん
19/08/22 21:03:50.83 .net
>>289
陰惨な事柄に興味を持つ感覚が分からんって言ってるの。
そういう人って「魂が打ち震える」って言葉を良く使うんだよね。

295:日本@名無史さん
19/08/22 21:20:49.80 .net
負けたら被害者ヅラして罰を逃れようとするのが普通だからな

296:日本@名無史さん
19/08/23 19:29:06.64 .net
>>294
日本侵攻を目論む強大な陸軍の壊滅という要素は、大きい

それに日本側文献も確認したところ、日本の斬殺刑カウント数は5,000人
これは日本のほうが正確な数字と思われる。
京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風に
より元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したとあり、助命も含めて1万に達していない
可能性もある。では、ほかの10万人前後の未帰還者はどうなったか? そう、溺死
「張氏墓誌銘」によれば台風により荒れた波の様子は「山の如し」であった
軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという
また、将官すら溺死した。高麗王・高宗の孫で東路軍の左副都元帥アラテムルである
幕末の史書「日本外史」は「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」と
表現。日本兵が手を汚した実数は、全体比率として少ない可能性もある
むろん10万人の未帰還者の主因が海難なら海難で恐るべき数字であり、この大きな
損失について真に打ち震えるべきは、大陸側ではなかろうか(ゆえに、元寇の海難に
関する大陸民の民間伝承の類が聞こえないのは残念。命の安さの反映だろうか?)

297:日本@名無史さん
19/08/25 01:52:54.07 .net
>>294
元史では、一度日本で捕虜になった後に脱出帰国して范文虎らの嘘を告発した兵士の話として
>八月一日、風破舟。
>五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下。
と台風の後に范文虎ら将軍たちに見捨てられた人数を十万余と記し、
>方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死。
>餘二三萬為其虜去。
と日本軍との戦闘後捕虜になったのは二、三万余と記してる
その後に>>292
斬殺刑だけじゃなくその前の戦闘で戦死か敗走した人数もかなりあったのかな?

298:日本@名無史さん
19/08/25 12:17:30.25 .net
>>295
その通り

299:日本@名無史さん
19/08/29 13:46:12.06 .net
>>287
その記録読んでないけど、目撃例として書かれてたの?
戦後南宋人が助命されてるんだから彼らから聞き取った可能性もあるんじゃ?

300:日本@名無史さん
19/08/29 14:23:37.64 .net
>>287
元史に出てくるその時に見捨てられた南宋人の証言によれば
暴風で船が壊れたのは八月一日、諸将が彼らを見捨てて逃げたのが五日、
日本軍がやってきて戦闘になったのは七日
元軍の諸将が逃げた時に日本軍はいない
偵察などで少数の日本人が目撃していた可能性はあるが

301:日本@名無史さん
19/09/08 17:41:55.64 .net
まあ、その国の置かれた自然環境ってのは、立派な防御力だからな。
ロシアの冬将軍がなければ、最終的な勝敗はさておき、ナポレオンやヒトラーはもっと進撃できてたわけだからな。

302:日本@名無史さん
19/09/10 17:34:02.81 .net
攻め込む側は相手の自然環境を重視しないといけないわけだな
あまり変わらない地続きの隣国とかならともかく
海を隔てたり遠く離れて自然環境が祖国と段違いだったりするなら
そういう意味では元寇も自然舐めすぎ

303:日本@名無史さん
19/09/13 04:19:03.73 .net
天の時、地の利、人の和って中国の言葉だっけ?
元寇は全部欠けてるね

304:日本@名無史さん
19/09/13 15:34:58.16 .net
モンゴルと高麗だから中国関係ないしな

305:日本@名無史さん
19/09/13 15:40:58.86 .net
クビライは日本遠征前に中国の言葉引用して
土地だけじゃなく人も欲しいんだから殲滅とかするなよって釘刺したりしてるけど
そういうのは学んでなかったのかな

306:日本@名無史さん
19/09/19 15:41:30.70 .net
>>279
そういう個人の持論には興味ないわ

307:日本@名無史さん
19/09/21 10:10:25.66 .net
>>299
蒙古襲来絵詞
「同五日、関東の御使ひ合田五郎遠俊・安藤左衛門二郎重綱払暁に馳せ来たりしに、
季長行き向かて、「海上を隔て候間、船候はで、御大事に洩れ候ぬと覚え候」と申に、
合田五郎「兵船候はでは、力無き御事にこそ候へ」と申すところに、
肥前国の御家人其名忘る「鷹島の西の浦より破れ残り候船に、賊徒数多混み乗り候を払ひ除けて、
然るべき物どもと覚え候乗せて、早逃げ帰り候」と申に、
季長「仰せの如く払ひ除け候は、歩兵と覚え候。船に乗せ候は良き者にてぞ候覧。
是を討ち止め度くこそ候へ」と申すに、合田五郎「異賊早、逃げ帰り候」と申候。

308:日本@名無史さん
19/09/29 09:31:57.17 .net
>>287 >>307
郎党連れてたとしてもそれだけの人数じゃ、少なくとも二、三万を相手取るのは無理だわな
一旦戻って全軍での掃討戦を選ぶのは適切な判断

309:日本@名無史さん
19/09/29 12:03:43.06 .net
史料だと弘安の役で明らかに東路軍と江南軍って合流して博多湾に突入し、撃退されて
鷹島に逃げ込んだところで台風に遭ってるよな。
【八幡大菩薩愚童訓筑紫本】
「弘安四年之夏ノ比、蒙古大唐高麗己下之国々共之兵
駆具シテ三千余艘ニ數千万人乗ツレテ来ケリ。
其中ニ高麗之丘船五百艘ハ、壹岐対馬ヨリ上テ見合者ヲ打殺ス」
「是ヨリシテ高麗之舟ハ宗像ノ崎ニ寄、蒙古
大唐之舟ハ対馬ニハ寄ラズ壹岐之嶋ニ着。
自其筥崎之前成野志賀二之嶋ニソ付ニケル。
是ヲ見テ高麗之舟モ宗像ヨリ押出テ、蒙古カ舟ト一所ニ成、今度者一定勝ベケレハ
居住スヘキ[米斤]トテ、世路之具足、耕作コレノ為トテ
鋤鍬及持タリケリ」
「其後九国之兵巳ニ度々之合戦ニ及ヌ。
「開東ヨリノ武士ハ何ニ手次ノ程ヲ見給カシ」ト進ムレハ、
城次郎カ手ハ新左近十郎、今井彦次郎、財部九郎伯父甥押寄テ、
散々ニ命ヲ限卜闘フ、[彳及]テ討死シテ失ニケリ。
其後遙之奥鷹ノ嶋ヘコソ引退ケレ」
この戦闘が6月6日~13日に行われた東路軍との戦闘じゃないのは、日本側に関東勢が
参加してることでもわかる。
5月21日に対馬襲撃されて6月13日までに関東から博多まで軍隊移動させるのは不可能。

310:日本@名無史さん
19/09/30 07:01:17.76 .net
>>287
全軍がそれを目の前にして追わなかった、ならともかく
目撃者がいた、程度じゃ別にツッコミ所でもない

311:日本@名無史さん
19/10/11 22:58:23.40 .net
【元寇】モンゴル軍が用いた「てつはう」に殺傷能力はあったのか
スレリンク(newsplus板)

312:日本@名無史さん
19/10/14 02:34:24.17 .net
>>309
よく鎌倉からの本体が到着する前に九州だけで勝っちゃったというのは間違い?

313:
19/10/14 06:37:54 .net
>>312
それは文永の役

314:日本@名無史さん
20/01/29 20:37:09.43 .net
鷹島に置いてけぼりになった10万の兵士は掃討しなくても船を破壊して放置すれば勝手に餓死したり疫病死したんじゃないかな? 秀吉ならそうしたと思うのだが
それでも鎌倉武士としては危険を冒しても首級を挙げて手柄を立てたかったとか?
現在の鷹島にはモンゴル村があってパオに宿泊もできるそうだけど、当時の悲惨さを知ってたら怖くて寝てられるかよとw

315:日本@名無史さん
20/01/30 00:03:00 .net
鷹島の陸や海の10万もの兵士の亡骸はどうしたんだろう?
鷹島だけでなく他の戦場もだけど、死体を放置すると疫病の原因になることは当時の人も知ってたと思うが量が膨大過ぎて埋めることもできなかったんじゃないかな?
もしかして鷹島周辺はその後何年も人が住めない荒廃した土地になったりしたのかな?


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