【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2at HISTORY
【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2 - 暇つぶし2ch848:日本@名無史さん
21/05/19 17:22:12.47 .net
古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。
『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。
水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。
西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。
残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。
隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。
吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。
池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。

849:日本@名無史さん
21/05/19 17:22:47.84 .net
「大ざっぱにいうと、大半の古墳人は、渡来系弥生人と古墳時代以後の日本人に類似する特徴を多かれ少なかれ持っている。
たとえば、古墳人の頭蓋・四肢骨の計測値は、ほとんどすべて縄文人と現代人の中間に入るが、鼻根湾曲示数・歯槽側面角・大腿骨の中央横断示数・身長などでは縄文人より現代人、さらにはそれ以上に渡来系弥生人に類似する。
また古墳人の顔面平坦度示数は縄文人・現代日本人より小さく、北方モンゴロイド(ナナイ・ニヴフなど)や渡来系弥生人に近い。」
池田次郎『日本人のきた道』(朝日新聞社、1998)278頁から)
さらに池田は、頭蓋計測値を基に列島を9地域に分けて、その地域性を述べる。
その際、古墳人の集団を三群にわけている。
第一群…畿内
第二群…南九州、西九州、北陸
第三群…南近畿、四国、東中国・西近畿、西中国・北東九州、関東・南東北
第一群は畿内古墳人で「高顔と平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている」
また「短頭性がもっとも強いが、この頭形は弥生時代に出現し、古墳時代をへて現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性」としている。
第三群のうち「北東九州・西中国古墳人」は「頭蓋・四肢骨すべての特徴で、北部九州・山口の渡来系弥生人にもっとも近い。」
また、南九州・西九州古墳人は「縄文人的特徴への傾斜を示す」などなど

各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側

850:日本@名無史さん
21/05/19 17:25:45.46 .net
中央政権による地方制圧
URLリンク(pds.exblog.jp)
 中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。
その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、
その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。
第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。
 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。
若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。
陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。
そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。
 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。
焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。
このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。

851:日本@名無史さん
21/05/19 17:25:58.82 .net
四道将軍の地方制圧
URLリンク(pds.exblog.jp)
 北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。
『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。
翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
 山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。
『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。
中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。
地下式横穴墓(隼人)・横穴墓(大和)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

852:日本@名無史さん
21/05/20 05:18:10.02 .net
記紀では、初期のヤマト王権が戦った敵勢力は、必ず男女ペアか兄弟ペアで統治されている。
そしてなぜか不思議なことに、初期のヤマト王権だけは、その中でまるでオーパーツのように、
時代を超越して中国の皇帝そっくりの、男系直系の天皇1人によって統治されている。
これは、白村江での敗戦後、唐に対抗して、
(倭国にも、中国の皇帝のような存在が大昔からいた)
というストーリーをメイキングしたから。
なので実際には初期のヤマト王権も、男女ペアや兄弟ペアで統治されていたと考えるのが妥当。
当時はそれが統治の正当性を担保するために必要だった。
たとえば神武は、軍事指導者と、呪術師との2面性を持った存在だが、
これは本来、軍事指導者である男王と、シャーマンである巫女王が男王1人にされたもの。
また崇神とモモソも、おそらくは姉弟か兄妹関係にある男王と巫女王。
推古天皇と厩戸王は、そう言う体制への先祖帰り。

853:日本@名無史さん
21/06/13 03:11:04.85 .net
古墳を調査すれば記紀とは全く別の大王の存在が浮かび上がる

854:日本@名無史さん
21/06/27 08:43:11.98 .net
URLリンク(i.pinimg.com)
🇰🇵
URLリンク(pbs.twimg.com)
🇷🇴
URLリンク(pbs.twimg.com)

855:日本@名無史さん
21/08/14 17:01:52.27 .net
これ何処の古墳だろう?
URLリンク(i.imgur.com)

856:日本@名無史さん
21/08/15 01:33:15.90 .net
>>855
多分、大阪府羽曳野市にあった蔵塚古墳
南阪奈道路建設で調査後消滅
報告書PDF
file:///C:/Users/noboru/AppData/Local/Temp/17490_1_%E8%94%B5%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3.pdf

857:日本@名無史さん
21/08/15 12:33:01.12 .net
蟻が十

858:日本@名無史さん
21/09/11 23:14:13.27 .net
弥生時代から古墳時代の国産青銅器の原料は大陸産、つまり国産とはいえ大陸産青銅器のリサイクルにすぎないって本当?

859:日本@名無史さん
21/10/03 07:06:14.37 .net
今朝の茨城新聞
「考古学発祥」古墳に脚光
栃木・大田原 徳川光圀が発掘支持
江戸時代に水戸藩主の命で発掘が行われた栃木県大田原市の侍塚古墳が「日本考古学発祥の地」として注目されている。
来年で発掘から330年で、県は本年度から初の調査を始める。
地元では記念碑が設置されるなど観光資源としての期待も高まる。
という記事があったのだが、気になったのは「県は」。
通常、茨城県で「県は」と言った場合は茨城県を指す。しかしこの古墳は栃木県内。
茨城県だとしたら、勝手に他県内を調査していいものだろうか。

860:日本@名無史さん
21/10/03 07:43:12.52 .net
侍塚古墳 国指定史跡
URLリンク(www.city.ohtawara.tochigi.jp)

861:日本@名無史さん
21/10/03 13:00:54.49 .net
>>859
この場合、県って栃木県でしょ。
別に茨城新聞だからって、
必ず茨城県を主語にするとは限らないわけで。

862:日本@名無史さん
21/10/03 15:57:51.27 .net
卑弥呼の古墳を探せ

863:日本@名無史さん
21/10/03 19:21:52.51 .net
>>861
だったら一ヶ所でも「栃木県」と入れれば要らぬ誤解をしなくて済むのに。

864:日本@名無史さん
22/01/25 10:23:43.65 .net
>>671
20世紀も終わりにならんとするときに、洞穴にすんでたりしてたじゃん。
yao-dong(窰洞) って。
北京にもあった。
最近はトッ崩されてビルになってるけど、小高くなってるところに盛り土をして穴を掘って、住んでたじゃん。

865:日本@名無史さん
22/02/14 15:44:33.08 .net
「仁徳陵ってデカいなぁ」
「ふん(笑)始皇帝陵やピラミッドに比べたらゴミみたいな規模。偉大さが違う!」
「それなら、造成は大した悪行では無いね」
「‥‥…大きさだけならクフ王よりも始皇帝よりもデカいの造りやがった昔の皇室の罪は量りしれない!」
「それなら、世界的な偉業じゃん」
「………」
「ところで仁徳陵にしろ応神陵にしろ、その主は今の皇室の先祖ではないらしいけど」
「そうだ、皇室の歴史なんて浅い!」
「だったら、巨大古墳造成で人民をこき使った罪は皇室には無いね」
「いや!あんなデカい古墳作らせたのは太古から人民を虐げてきた天皇家に決まってる!」
「それじゃ、あの古墳の主はやっぱり皇室の先祖なんだな」
「ぐぬう……」

866:日本@名無史さん
22/02/14 20:07:53.05 .net
俺は福岡の人間だけど奴国(福岡市)や伊都国(糸島市)が
邪馬台国(福岡南部~熊本)より大和朝廷を選んだ理由がよくわかる。
気質がまったく違う。はっきり言って合わない。
だから竹田恒泰さんの大和朝廷の成立の解説がリアルにわかる。

867:日本@名無史さん
22/02/17 21:14:29.59 .net
>>837
地鎮祭のときにめぐらす四方の竹笹と同じじゃないの。

868:日本@名無史さん
22/02/17 21:24:46.40 .net
>>866
九州各地の気質の違いは知らんが、そもそもの倭国乱は玄界灘側と筑紫平野側の戦いやと思うわ。
双方の気質が違ってるのは、外海気質と内海気質の違いやろな。

869:日本@名無史さん
22/02/18 13:26:52.95 .net
諏訪は、京都から関東行田へ行く街道の拠点の一つ。
秦氏が開いたところで、諏訪大社の神事をみてもそれが分かる。
秦氏が、ユダヤ教徒であったことの証拠。
諏訪は、水があるところの意味な。

870:日本@名無史さん
22/02/18 13:33:55.34 .net
行田の最初の前方後円墳の後円部には、のちに小さな稲荷社が置かれた。
その稲荷社の総本社は京都深草の秦氏の伏見稲荷。
一本の線でつながってるのよ。
稲荷は神が降りたという意味。
伏見稲荷の稲荷は、シナイ山に擬して秦氏が名付けたものが訛ったものだ。

871:日本@名無史さん
22/02/19 10:57:50.27 .net
京都に3世紀や4世紀の古墳は無かったのかな、
鴨川の綺麗な水が流れていて住みやすかったと思うけど

872:日本@名無史さん
22/02/19 13:39:42.34 .net
京都の向日市に古い古墳がある。
五塚原古墳。
3世紀中葉~後半の築造とされる。
秦氏の先祖が深草に入植する前に、すでにこの辺りに有力な勢力がいたということだ。
北河内あたりから日本海に抜ける街道の要衝にある亀岡と連携する勢力だろうな。
この五塚原古墳の勢力が邪魔で、そのために秦氏は嵐山から亀岡へ抜けるルートを開拓したのだろう。
その亀岡と結ぶルートの京都側の拠点が太秦だった。

873:日本@名無史さん
22/02/20 17:04:32.86 .net
まあ、古墳時代の産業、経済について、秦氏は欠かせない氏族だよ。

874:日本@名無史さん
22/02/23 02:14:05.11 .net
>>866
まあ元々奴国伊都国の方が先進国だったしな
その頃は畿内よりずっと進んでたわけだが

875:日本@名無史さん
22/04/12 16:30:14.81 .net
なんで大阪府が古墳の本場なの?

876:日本@名無史さん
22/04/23 01:57:18.45 .net
山梨県にある銚子塚古墳や丸山塚古墳て誰が埋葬されていると予想しますか?


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch