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福井の紫式部推しとは反対に、
父親の福井赴任についてきた紫式部は全く福井になじめず
おっさん貴族の求婚を受け入れることでようやく都に戻ったという
URLリンク(news.yahoo.co.jp)
敦賀から先で詠んだ歌は『紫式部集』に載せられていない。このため倉本一宏氏は「よほどたいへんだったのか、思い出したくなかったのであろう」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)と記す。
このように紫式部は、越前で暮らし、父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいたようだ。それから1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌はまったく残されていない。前出の倉本氏は「国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう」と記している(前掲書)。
それまで独身を貫いてきた紫式部が、20歳程度は年長の宣孝の求婚を受け入れ、父を置いてまで帰京を急いだ。彼女にとって越前は、とにかく一刻も早く離れたい地だった、ということかもしれない。