まったく当てにならない教育学の 「 統 計 」at PEDAGOGY
まったく当てにならない教育学の 「 統 計 」 - 暇つぶし2ch100:名無しさん@お腹いっぱい。
13/06/24 22:01:23.64 qfqIF5WL
 語彙力がない。だから自分の意志だの欲だの何だのを突き通すために、暴力を振るう。
害を加えてくるが故の 正当防衛ならまだしも、自分の言う事を聞かない存在は
破壊しようとする。これぞ正に、典型的な 自他未分裂。おまえみたいな魅力の欠片もない
ジコチューの屑、権力も無しに、誰も言うことを聞いて、尽くしてヨチヨチしてくれる訳が無かろう。
 白痴の女にチンポしゃぶらせて、買春でもして気紛らわしとけや。煙草吸って。
風呂の浴漕だの洗面器だのを鼻水でドロドロにして、気持ち悪いイカつい顔面に、
オッサン・ムースをベトベトに塗りつけて、さらにキモくイカつくしてればいいんだ。

 日本人は空気を読む なんて時代はもう遠の昔に終わった。そして、他人に愛されたくば、
まずはその人間に尽くさねばならない。女だって、結婚する時は、その男が
王族かどうかなんて診ていない。要するに、自分にとって、安寧な生活のお城となってくれるかどうかだ。
 そして、育ちが好いかどうかだ。金じゃなくて。文化(人)的な財産、教育財産があるかどうか。
要するに、西岡先生みたいなタイプかどうか。オレみたいな男は、正常な育ちの女にはいらねぇんだ。

 自分が考えていることは、基本的には周りも同じことを考えている。
だからこそ、極と極同士が、すなわち意志と意志、需要と需要が ぶつかり合う。

 ええ年こいたオッサンが、甘えることでしか、他人に愛情表現を出来ない。
碌に生活費も出さなかったくせに、そのくせご飯は大盛り食う。王様を気どって、
図々しく「おかわり!」って。コンダテだって、大体は 自分に合うように
取り計らっていた。要するに肉ばっかり。栄養バランスを考えたヘルシーな食事を
母親が出すと「ゴミみたいな飯や」「イモ虫みたいな飯や」だ。そのくせ、自分ばかりが
贅沢をして、自分は何もしない(背中を見せない)くせに、子どもには、あれせえこれせえの命令の嵐。
自分の贅沢は、すべて子どもの責任になすりつける。「おまえらのため」。機能不全育ちの人格障害児が。
 飯食って、酒飲んだら、今度は煙草。音を鳴らして リビングの机の上に 足を乗っける。
で、灰皿に足の皮を入れる。しかもそのまま放ったらかし。屑丸出し。

101:名無しさん@お腹いっぱい。
13/06/24 22:13:06.74 qfqIF5WL
 月給60万円以上貰っておいて、母にくれた生活費は確か、月に8万円かその辺。
せめて28万円だろう普通。子どもだって3人抱えていたのだし。その上で、
母親に相手して貰いたいのなら、48万円よこせ。

 一緒に買い物をしに行ってた時、よく、口座から一気に60万円ぐらい
引き下ろしていたような記憶があるけど、あの金、一体どんなもんに使ってたんだ。
 
 車は次々に買い替える。この間家に行った時も、家の車庫に、新しいパーツ・ボートが
プラモデルみたいに飾られてるじゃないか。近所の連中が、それを見てカッコいい
とでも思ってくれると考えてるのか。白い眼で見られているのが気づかんのか。
 家族が出て行った後は、家を全部占領して、リビングにドリンク用・虫餌用の
冷蔵庫まで置かれているじゃないか。そんなに自分が動くのが嫌なのか。テレビは、
隣の仏壇の部屋への扉を塞いでしまわん程の、割に合わん超大画面。んなもん2階の自室に置けよ。

 自分が欲しいと思っているものは、周りも欲しいと思っている という勘違い。
甘えたら好いてくれる と思ってる、これまた勘違い。ありゃ完全に、千と千尋に出てくる"顔無し"だ。

102:名無しさん@お腹いっぱい。
13/06/24 22:27:51.55 qfqIF5WL
×28万円 ○38万円
 我慢が出来ないのは分かる。でも、肉が食いたい時は、外の空気を吸いに
散歩に行ってくる と嘘をついて、近所のコンビニで肉にありつき、そこで思う存分
頬張ってくる。口は必ずバレないように拭いて帰る。これが奥さんに対する礼儀だろう。

 親しき仲にも礼儀あり。家族-制度に目を眩まされてはいけない。所詮、全ては
(利害)関係で成り立っている。特別な人間なんてものは、所詮は居やしねえんだ。
みんな、陰では、自分の知らない世界を観ていて、自分の考えていないことを考えていて、
そして、自分の知らない関係をもっている。好きな異性だって、1人しか居ない、
なんて事は まあ あり得ないし、家に居辛くなったら、普通は外の世界に居場所を求める。

 特に、弱ってる時に優しくされると、人間は特に異性に魅かれ易い。
そこにワザと付け込む奴だって居る。2人、3人、どうしても天秤にかけられない
状況に陥ったら、普通はバレないように 陰で その異性とヤる。

 人間、自分の支配者は、所詮は支配者。そうそう、1人のモノにはならない。
ちょっと油断してると、すぐに、その当人の気がづかぬ所で、どこの牛の骨かも
知らない他人に 持っていかれてしまう。しかも配偶者も同意だから、余計に状況が悪い。
相手の同性だって、ドツき合い覚悟で、武器を持ってでも、命をかけて立ち向かってくるもんだ。

 それが嫌なら、裏切られるのが恐いのなら、始めから1人暮らしをしとけや。

103:名無しさん@お腹いっぱい。
13/06/24 22:30:04.32 qfqIF5WL
×所詮は支配者 ○所詮は自分

104:名無しさん@お腹いっぱい。
13/07/08 22:27:42.71 vMPmz0J7
文科省は、調査統計企画課を調査統計企画室に格下げした。
これは文科省の教育統計軽視姿勢の表れだ。

105:名無しさん@お腹いっぱい。
13/07/19 00:04:32.68 CX8JD57W
同じじゃね?

106:名無しさん@お腹いっぱい。
13/07/30 01:22:06.01 XmpiU4IW
【話題】ヤグる、KS…アラサー以上も知っておきたい最新ギャル語事情
スレリンク(wildplus板)

107:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/14 19:43:10.53 6sF3a3R/
東経?

108:名無しさん@お腹いっぱい。
13/08/18 20:31:12.50 8/QBjiuh
愛媛県松山市 民家の飼い犬鉄棒で殴り殺した無職男逮捕
2007年6月
民家の飼い犬鉄棒で殴り殺した無職男逮捕
 松山南署は29日、民家の飼い犬を殴り殺したとして、器物損壊の疑いで松山市萱町、
無職秋山康博容疑者(34)を逮捕した。
 調べでは、秋山容疑者は28日午後5時45分ごろ、同県砥部町大南の民家の庭に侵入
し、つながれていた雌の飼い犬を鉄の棒(長さ約1メートル)で数回殴り、殺した疑い。容疑を否認しているという。
 飼い主は留守で、犯行を目撃した近所の人が110番。秋山容疑者は車で逃走したが
、同署は車の特徴などから秋山容疑者を特定した。飼い主と面識はないという。
 同署の管内では今年に入って飼い犬が同様に殴り殺される事件が4件発生しており、関連を追及する。
日刊スポーツ[2007年6月29日17時32分]
URLリンク(www.nikkansports.com)

109:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/17 23:37:39.02 DmMJV//x
「よくゲーム脳と言うことが言われています。」
「これはゲーム脳を証明する例のひとつです」
ゲーム脳信者なんか出す放送大学
だから日本の大学は馬鹿だと言われる

しかもこれで「メディアと学校教育」を名乗って
同じ口で
「ネットの情報を無闇に信じてしまう人がいます」
「ネットリテラシーを付けなきゃいけない」
などとほざくから手に負えない

110:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/18 01:04:00.07 Q8dxEHtp
 生まれてまだ間もない、世界の全てが不思議に映るような、自我すら
確立・決定されていない 新鮮なうちの子どもは、歴史をどう捉えるのか。

 人間は、自我が確立されてゆくに連れて、歴史の意味、有難味、その奥深さを
忘れてゆく面がある。その視点が再び自分に戻るのは、日々の仕事に忙殺
されている間などではなく、もう少し年月が過ぎて、自分がシぬことを考え出した時期だ。

 別に歴史に限ったことではないかも知れないが、少なくとも、歴史を知ることは、
創造主の意志を知ることに通底する。現代は、自然や文化だけでは括りきれない、
時間軸を乗り越える手段すら、とにかく色々知られ・研究されまくっていて、欲しいものがあれば
案外に 何でも手に入る 世の中にある。それゆえ、本当に強く求めてみないと、
「時間」の流れに逆らうということが、如何に奇蹟的なことかを ヒトは 意識できないでいる。

 あのお方が畢竟、善か悪なのかは、人間には分からない。しかし、ブローデルのような
視座に則れば、どんなに目立たないような平民にしても、王族のような目立つ人間
に隠れて分からないだけで、彼らとて しかと-何十年 生きていたのだし、そこには、
彼らの生きた記憶、ライフ・ストーリー(ライフ・ヒストリー)というものがあった。

111:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/18 01:09:48.85 Q8dxEHtp
 自分がこれからシぬ。この世から消えていなくなる。時の流れが、自分の生きた痕跡を、
どんどん消し去ってゆき、何十年もすれば、もう自分が生きていたことなんて、
世界中、誰も覚えていない。そうなると、何と切なくなるものか。
 しかし、それでも、人間は、縄文のような昔にも、しかとそこに生きていたのである。
そして、生活を育み、愛を育んでいた。もちろん戦争だってしていた。それでも、
あのお方は、そんな愚かな我々を、どういう意図か、その後も生み続けて、繁栄させてきた。

 何百年も何千年も前、ヒトが生きていた記録を読むことによって、彼らがこの世に
生まれたことに、理由は無いが、しかとした意味があったのだと、あのお方の意志に則って知る。
 そして、それと同じように、自分も、たとえどんなに愚かでも、自分がこの世に
生まれたことには、何かしらの意味があった、だから生んだのだと、うっすらと感じることが出来る。

 何百年も何千年も前、王族のような目立つ人間ではなくて、普通に暮らしを営んでいた
ような、一個の人間が生きた記録、その諸々の生活の営みを読むことによって、
自分が生きていることの有意味性のようなものを、どんどん心の内に培っていく。

112:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/18 01:14:36.70 Q8dxEHtp
 そして、何十年後か何百年後、いや ひょっとしたら 何千年後か何万年後、
自分がこの世に生きたことを、その歴史の史資料として刻まれた記録、碑文や亡骸、
肩身(土器のような痕跡)を通して、まだ見ぬ おそらく子孫の 誰かが文献史学的
あるいは考古学的に知り、そこから何か、あのお方との対話に繋がるような、
深いことを考える契機となるだろう。

 まさか、嫌われ者やかませ犬として、あるいは突如として 意味不明な事故に見舞われて
命を落とした古代人が、何万年後に発見されたことによって、人類の歴史を変えた、
なんてことは、当時の誰も、碌に予想などしていなかったに違いない。
 自分の生きた証、記録、その歴史資料をこの世に残すことは、自分の存在の意味を、
何かしらの、自分にも分かり得ぬような、神のみぞ知るミステリアスな形で、
この世に残す、あるいは 生み出す、ということなのである。

 そう考えると、歴史に自分の存在、その名を刻むということが、どれだけ奥深い
ことかが窺えてくる。人が一人、この世に生きたということ。それを後世に残し伝え、
知らせるために、史資料というものは存在する。それは最早、紛れもない奇蹟なのである。
 そして、葬式というものは、その逆の機能で、人が一人、シんだ、この世から消えて
亡くなった ということを、しょーもないことばかりに忙殺されて、本当のありのままの
世界の姿が盲目で観えなくなっている我々に、それを知らせるための儀式としてある。
それは やはり、あのお方の存在を 我々に教えるためにあるのだ。双方、同じ、お寺の住職の管轄にある。

113:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 01:52:58.55 B0BoF+Qo
 歴史資料を読むことも、文学小説を読むことも、結局は準経験に帰着する。
教育などという嫌な言い回しをすれば、いわゆる"ビルドゥング"である。
 しかし、この両者の性質違いを 明確に人前で 説明出来るようになれる
ということは、それは これから後の長い長~い人生経験の整理の上で、
大きく役立ってくるものではないだろうか。いまいち 頭の中で 混乱していて、
整理がついていないんだが…

114:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 02:25:18.39 B0BoF+Qo
 文学は、個人が「どう感じたか」を物凄く重んじる。もちろん、輪読、二次資料に
触れて自己を客観視するというのは、全ての文系科学・教育分野の基本だから、
世に高尚と言われる類の文学は、「ああ面白かった!」などで終わるものでは 決して無いのだが。
 それは、エビデンスの提示という、公式な社会場面のデジタルな実証ルール、
証拠至上主義の「第三者」からの判子社会の基に捨象されてしまった、個人の感性を、
虚構の世界に現実風刺として活かすもの。つまり、観察対象の行動というものは、
傍からは こういう目で アナロジックに見られているのだ という 一世界観を提示するもの。

 その世界観自体を、具現化・文字化・物質化された形で 提示することによって、
時に虚構の判を押されるような、「判子」を伴わないマイナーな視点が、実は
陰(いん) においては 膨大にあるのだと、読者にそれを教える。彼らは、行政そのもの、
世の中のルールそのものを、力関係や法治関係を超越して、それ自体を客観視することで、
次のような疑問を提示する。

 つまり、「『第三者』ってのは、純客観なのかい? それって あくまで、そいつが
利害マッチの恩恵を被った、運に恵まれた人間 や セコい人間 ってだけなんじゃない?」
「現実なんてものは、所詮、如何様にも諸行無常に変わっていくものであって、
これまで培われてきた史実や、その積み重ねとしての現実なんてものは、無限にある
クジが偶々当たっただけの、1つのパラレルな可能性の結果の1つに過ぎなかったのでは?」と。

115:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 02:54:42.47 B0BoF+Qo
 対して、歴史学の方は、まず何より「大元の史料」に直に触れる習慣を
身につけることを、まず子どもたちに教えなければならない性質のものである。
こちらの方は、アナロジー派の前者に対して、バリバリのデジタル派にあたる。
 近代-歴史学、要するに、現代-歴史学では、何故、史実、現実というものを、
芸術と看做すのか。それは、前者の文学に対して、「経験の抽象化」という誤謬性を
提示するためのモノ なのでは なかろうか。

 「どう感じたか」。このアナロジックな営みは、無意識的に、頭の中で、今までの経験を
類型化することによって 箱詰めして 整理している。しかし、それはあくまで、究極的に
一個人の、容量(HDD)の少ない 頭の中で為された話であって、史料学というものは、端から、
現実や史実は、そんなものが 客観的に 意味を為さないほど、それは自分の容量やメモリーを
超えたものなのだから、経験を抽象化なんざして箱詰めしたところで、それは所詮は誤りであって、
そいつが世間、史実・現実を知らないだけだ、感想ってのは、頭の中の知識・情報量など次第で、
如何様にも変わるのだと、その無常性を、また別の次元からそれを訴える。つまり、

「どうやったら時空間レベルの全知識、森羅万象を、おまえのその たかが せいぜい
1000立方cmほどの 容量の中に詰めれると言うんだ。抽象化なんて絶対無理だぞ。そんなこと
やってる暇があったら、どんどん他の新しい史料に触れて『視野を広げたら』どうなんだ。」

「一般化? おまえは、その頭の中にある チッポケな知識・情報・経験をもって、
自他未分裂的に全世界を観ていこうとするのか? それは、歴史人物の方よりも、
むしろ、賢者や専門家や中道を気取って、いちいち歴史人物にコメントを付け、
罵倒をしては悦に浸る、おまえの方こそ、自他未分裂に他ならないんじゃないのか?」という訳である。

116:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 03:17:00.55 B0BoF+Qo
 オレ個人的には、別にどちらか一方に偏るつもりはない。これはあくまで、
思考を効率化するために 便宜的に 二分化した話であって、実際、内心「文学は好きだけど
歴史学は嫌いだ」「歴史学は好きだけど文学は嫌いだ」なんて思う人間は、そうそう居ないと思う。

 経験の抽象化も、確かに大事。マイナリティーを重んじる心も、確かに大事。
しかし、他方で、権力者だとか、世の中のルールだとかのメジャーな達を「自分(たち)は
そんなものは超越したものだ」「制度は人(の総意)によって いくらでも 変えられる。
法律ってのは要するに解釈なんだ。よって、世間からの好き嫌いが命、世人こそが最高権力なんだ。」、
あるいは「世の中金だよ?」などと カウンセラーや経営者みたいに 倒錯的に 居直るのではなくて、
そういう人間たちを立てることも、これまた人生の正道として求められるのだ。
そういうことをし出したら、本当に 争いに キリが無くなる。

 「上に弱くて下の多勢には強い」「下の多勢には弱くて上に強い」「誰に対しても強い」
「誰に対しても弱い」。一体、それが一番善いのかは、オレにはまだ分からない。
あくまでケース・バイ・ケースで。

117:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 03:32:17.88 B0BoF+Qo
 経験は、抽象化・一般化されなければ、それは実存的に、
自分にとって意味のあるものへの変換は為されない。しかし、
同時に、その逐一の営みは、時として虚しくもあったりする。

 経験の抽象化・一般化・類型化。これを心理学では何と呼ぶのだろう。
記憶を整理し、纏めたり、時には、自分にとって不都合な記憶を消したり。
「記憶のバイアス化」?「記憶のフィルター化」?…

 しかし、この一連の行為に共通して言えることは、これらの回顧や
纏めとも言い表せる行為は、しばしば「床についている時」「寝ている時」
「目を瞑っている時」に、「夢」として為され易いということだ。
 この「夢」というものを、自分の人生の中で、どう位置付けすれば良いのか…

118:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 03:39:55.81 B0BoF+Qo
 人は、自分が抑圧している側、やってる側の時は、それに気が尽かない。誰だって、
自分が犠牲になる位ならば、他人が犠牲になる方が好い。その限りで、おまえが そうやって
現実問題に煩悶させられざるを得ないのは、自分が抑圧されている側の、やられている側の、
逐一 責任を取らされる、社会的弱者の人間であるが故に他ならないものなのではないか。
 そして、人は、そんな無惨な自分を受け入れられないが故に、虚栄心や意地から、
すぐに他責・転嫁したがったり、「オレたちはやる側の人間だ」と、倒錯的に
徒党を組みたがったり するのではないか。

 その限りで「正直者」や「善人」、果ては「道徳家」を気取る輩たちなんてものは、
それこそをもって、ルサンチマン混じりの欺瞞人たちなのでは? どうせ自分が
権力者になれば、その見苦しい理性も取り払われて、本性を剥き出しにし、自分が
汚物を見るような目で 偉そうに見ている 人間たちと、同じことをするようになるのでは?
 その限りで、それを隠そうとする、「紳士」などという言葉も、所詮は等しく、
彼ら権力者が 自身を表面上キレく着飾らせるために 編み出した、欺瞞的な概念に過ぎないのでは?

 …ああ、現実というものは、どこまでも分からないものだ…

119:名無しさん@お腹いっぱい。
13/09/23 03:55:44.59 B0BoF+Qo
 そもそも、法律や世間、人間、他人、刑事訴訟や団結・暴力行使の報復、
虐めそのものに 怯えない人間自体が、現実としているのかどうか…

 「雲の上の人間」なんてものは、何かに心を奪われている人間がハロー効果で
持ち上げているだけの人間に過ぎなくて、所詮は、人間一個人なんてものは、
みんな似たり寄ったりに過ぎなくて…

 だから、そんな己の無力さや他人のポストや振る舞いを 認められず、
受け入れられずに、自分の思い通りにならない故に、みんな互いに、
ああやって 我を突き通そうと、互いに意固地になり合って…

120:名無しさん@お腹いっぱい。
13/10/02 22:24:15.95 X24OdbLR
教育に統計なんて必要ない。空想があれば十分


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