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1949年頃 戦勝国によるサンフランシスコ条約草案検討中に韓国政府が竹島及び対馬の領有権を主張
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米国によって両方とも否定(米占領下の日本に決定権はない)
1949年12月 サンフランシスコ条約草案にて竹島が日本のものであることが規定される
また「韓国は戦勝国である」という韓国側の主張もあしらわれる
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1950年 怒った李承晩(イ・スンマン)は軍事演習と称して(対馬を軍事占領するために)部隊の半分を38度線から釜山に南下させる
それに米国が怒って防衛ラインを日本海まで下げる(事実上朝鮮半島から在韓米軍を引上げさせる)
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6月 その隙を見て北朝鮮軍が38度線を越えて南下、『朝鮮戦争勃発』 (慌てて部隊を北上させるも3日目にしてソウル陥落)
戦時のどさくさ紛れに親日思想家(単に真実の歴史を語る人)や共産主義者、反体制派を各地で大量虐殺
それに伴い済州島を中心に大量の難民が日本に不法密航
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7月 米軍を中心とした多国籍軍が結成され参戦するも苦戦が続く。8月には303高地で41人の米兵捕虜が虐殺
GHQが日本占領方針を転換。「レッドパージ」いわゆる「赤狩り」を発動 (NHKや朝日新聞を中心に検挙)
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10月 マッカーサー元帥がトルーマンに対して「東京裁判は誤りであった」と告白
翌年には米国上院において「日本がおこなった戦争は正当防衛であり侵略戦争ではなかった」と公式に証言
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1951年3月 (無能な李承晩が足を引っ張りまくったこともあり) 一進一退の攻防を続けるが双方決定打がなく休戦の流れに
「中国を叩きのめす」「原爆を使うべき」と主張していたマッカーサーが解任される
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8月 米国により「竹島は日本領」と韓国大使に最終回答 URLリンク(i.imgur.com)
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1952年1月 サンフランシスコ条約発効直前に突如として李承晩ラインを宣言
日米が抗議するも、戦時中の事実上の同盟状態にあったため強く主張できず
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2月 サンフランシスコ条約発効。竹島が日本領であることが最終確定。日米の戦争状態終結。日本に主権が戻る
米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用
GHQ撤収後、日弁連主導で「思想の自由」「人権尊重」を御旗に(特にマスメディアに対して)共産主義者の再雇用が大量に行われる
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1953年3月 (休戦下で軍に余裕が出たこともあり)李承晩ラインを根拠に韓国軍が竹島を軍事占領
ライン内に入った日本漁船を次々拿捕。計44人が死傷し、約4000人が人質として抑留される
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7月 朝鮮戦争停戦
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1954年8月 アイゼンハワー大統領の特命特使ヴァン・フリート(朝鮮戦争時の在韓米軍司令官)が「ヴァン・フリート特命報告書」にて
マッカーサーラインは誤りであったとし「竹島は日本領であり国際司法裁判所回附での解決が妥当、李ラインは国際法違反」と結論付ける
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1959年12月 韓国政府工作員による在日朝鮮人帰化事業を阻止する目的の「新潟日赤センター爆破未遂事件」発生
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1960年4月 大統領選の不正選挙に端を発した四月革命により李承晩失脚、ハワイに亡命
駐日米大使ダグラス・マッカーサー2世が機密電文3470号で「友好的な日韓関係の構築には武力により不法占拠された竹島を日本に
返還させることが不可欠。最低限国際司法裁判所へ付託することを主張すべき」と強く進言。ヴァン・フリートの主張を踏襲
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1961年5月 軍事クーデターにより朴正煕(パク・チョンヒ)が国家再建最高会議議長に就任、のちに大統領に
李承晩による「日本拒絶路線」から、朴正煕による「日本利用路線」への転換が図られる
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1964年10月 戦後復興の象徴である東京オリンピック開催、日本が先進国の仲間入りを果たす
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1965年6月 「両国間の財産、請求権の完全かつ最終的な解決」と(北朝鮮分を含む)多額の戦後補償の支払いなどを盛り込んだ
日韓基本条約が、(李承晩ライン問題による日本人人質解放の見返りとして)韓国が圧倒的に有利な条件で締結される
これに伴い国内にいた朝鮮人凶悪犯の解放と、不法密航者である在日韓国人(のちに朝鮮人も)に特別在留許可が与えられる
なお不法密航者の韓国への送還については韓国側が拒否。なおこの条約の存在自体、近年まで韓国民には知らされていなかった
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※ 2008年2月 日韓条約締結反対運動のリーダーでもあった李明博(イ・ミョンバク)が大統領就任
※ 2013年2月 朴正煕の娘である朴槿恵(パク・クネ)が大統領就任