【近代史】 日王強弁「満州事変は自衛戦争、上海占領は戦争防いだ」~上海事変とユン・ボンギル義挙[10/07]at NEWS4PLUS
【近代史】 日王強弁「満州事変は自衛戦争、上海占領は戦争防いだ」~上海事変とユン・ボンギル義挙[10/07] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
12/10/07 10:26:25.26

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[イ・ドクイルの事思史、近代を語る]満州国⑤上海事変とユン・ボンギル義挙

帝国日本には教育勅語と軍人勅語の二つの勅語があった。1890年日王メイジ(明治)が頒布した
教育勅語は「朕は我が皇朝らの道義国家実現という遠大な理想の基礎から生じた国と信じる。そ
して我が国民は忠孝という二大基本を主軸として……」で始まり軍国主義時代、すべての教師と
学生が敬って奉読しなければならなかった。

それより少し遅れた1882年1月、日王明治は‘軍人勅諭’を下す。「我が国の軍隊は代々天皇が
統率している」から始まる。軍人の政治参加を厳禁したことが特徴だった。(中略)これを破れば
「考えられない失敗を呼ぶ」という言葉は軍国日本の悲劇的終末で現実化した。陸軍幼年学校と
陸軍士官学校を出た戦争機械たちは幼い時から教育勅語と軍人勅諭を奉読して育ったが、彼ら
は「政治に関与するな」という当たり前の勅諭をうわのそらで聞き流した。

海軍将校、藤井斉(1904~1932)が憂国概言で軍人は戦争に備えるだけでなく「天皇の大権を奪
取して民衆の生命を盗む貴族、財閥、政党政治家、軍閥など内部の敵の亡国的行動を座視せず、
対処しなければならない」と主張したのがこれを表す。

戦後、日王ヒロヒトは昭和天皇独白録で自身は戦争責任がないと何度も弁解した。しかし、ヒロヒ
トは1932年1月8日、関東軍の満州侵略を自衛戦争として擁護するいわゆる勅語を下した。関東
軍が北満州を占領し南側では1932年1月3日、渤海沿岸の錦州まで奪うと、すぐに自衛戦争と
言葉の遊びでこれを擁護したのだった。
(中略:経緯説明。詳細は元記事参照)

日王、上海占領に「戦争防いだ」称賛

航空母艦2隻と駆逐艦4隻を含む大規模海軍兵力と前陸軍大臣だった白川義則隊長率いる上海
派遣軍が上海に進軍した。蔡廷カイ将軍率いる上海近辺の中国19路軍が連戦したが航空母艦
まで動員した日本軍を抑えることはできなかった。中国民間人死亡者だけで6000人余りに達した。
関東軍の予想通り英国、米国、フランス、イタリアなどが強く停戦を要求してきた。日本は上海で
戦闘を継続する一方1932年3月1日、溥儀を執政とする満州国を電撃的に建国した。そして二
日後戦闘を中止して3月24日から停戦協議に出た。

4月29日には虹口公園で上海占領および日王ヒロヒトの誕生日を祝う天長節行事を開催した。上
海を占領して勢いが非常に高かったこの行事場所に大韓民国臨時政府傘下の韓国人愛国団員
尹奉吉(ユン・ボンギル)が爆弾を投げた。上海派遣軍司令官、白川隊長と上海日本居留民団行
政委員長、河端貞次を爆殺、野村吉三郎・植田謙吉、両中将と村井倉松総領事、重光葵公使な
どが重傷を負った。

1933年、白川の命日に日王ヒロヒトは鈴木侍従長を通じて「少女たちのひな祭り(3月3日の伝統
祭り)の日、戦争を防いでくれたことを記憶して」という丹冊を下賜した(記者注:実際の御製は以下
のとおり「をとめらの ひなまつる日に いくさをば とゞめしいさを おもひてにけり」)。白川が南京
まで侵略、上海占領して3月3日に戦闘を中止したことを「戦争を防いでくれた」と絶賛したのだ。
日王ヒロヒトの正常ではない意識状態を垣間見ることができる。二日前に満州国を樹立した日本
としては所期の目的を全て達成したので戦闘を中止しただけだった。

ソース:中央日報(韓国語) 日王「満州事変は自衛戦争」強弁…米・英強力反発
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