20/01/14 22:39:34 CzHCAcQY0.net
>>782
近親者の葬儀でも作業を休むことは許されず、
病気になると農場内の鉄格子のはまった病棟に入れられましたが、抜き打ち検査で係官が目にしたその光景とは、
鉄格子から鼻をつく悪臭が外に漂い、数平方 メートルの空間に、
男 2 人、女 8 人、それから 24 時間前に死んだ死体が ひとつ臥していた。
飲み水も便所もなく、排泄物は土を掻き寄せて排泄物にかけて、壁の隙間から外に押し出すだけだった。
飲み水が欲しい場合には外を通りかかる労働者に頼み、1 日 1 回支給される食物を、水と交換しては手に入れていた。
病気を治す為の病棟どころか逆に、病気になった際の休養や、怠業をさせない為の
みせしめ としての 懲罰小屋 というのがその実態でしたが、現地人が虐待により死亡した場合でも
オランダ人農場主の責任が問われることはありませんでした。
太平洋戦争の際に ジャワ ( インドネシア ) 占領に参加した 近衛連隊の総山孝雄氏の記述 によれば、
オランダ人は高床の家に住み、現地人は土間に寝た。
オランダ人は 「 より取りみどり 」で現地の女性を現地妻としたが、オランダ人から夜に呼ばれ相手をさせられる場合に限り、
現地妻は床上に寝るのが許された。
オランダ人は統治戦略上、混血の子供には オランダ国籍を与えたので、
母親は裏の土間で寝たが、子供は床上に起居して 自分の母親を下女のように叱りながら、こき使っていた 。