14/05/04 18:14:27.56 FWQC22V+
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仏教議論スレッド97
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2:しんしょー君 ◆IHSXPiND6Q
14/05/04 19:33:34.73 abkdBQ70
2
3:神も仏も名無しさん
14/05/04 19:52:11.16 a11vFckl
じゃあー 3
4:アートマン Ⅱ
14/05/04 21:02:31.79 q7U9y4kr
対機説法
世の中は多種多様だから、相手に応じて説く必要があるのだろう。
しかし説法のベースは一貫していなければならない。
ここまでは当たり前、我々だって相手に応じて話し方を加減する。
これだけでも気を使うが、悟りへの道を説く場合はさらに微妙である。
悟りへの道が一直線ではないからである。そのうえ、巧みに話したところで、
相手の知らない果物の味を伝えることはついに不可能である。
相手に体験させないと伝わらない。
どうやって? 体験する方法を教える以外にない。
後は相手のヤル気なのだが・・・ヤル気のない相手だったら・・・
5:アートマン Ⅱ
14/05/04 21:38:40.99 q7U9y4kr
空論者に用意されている落とし穴 ~ 増長慢
悟りにおいては「空」を洞察することが欠かせない。
しかし、世間を空であると観じることは、世間でしか生きられない以上、
自分自身が空であることも意味している。
自分が空であること、無であることに同意する人間は通常いない。
自分には生きる価値があると思うから生きている。
では空論者は、自分の、いったいどこに価値を見出すのだろうか。
かれらは、空であることと、生きる価値という矛盾を解消してくれる、
「空という真理に通じたこと」に存在意義を見出す。
6:アートマン Ⅱ
14/05/04 21:55:54.80 q7U9y4kr
空論者に「増長慢をやめろ」と言っているのではない。
むしろ逆、増長や慢心、おおいにけっこう。
そうやって、いずれ破綻することで無明を突破でき、悟りが可能になる。
悟りとはそういったものなのですね。
空と言うのは、苦楽を相対化し、心に余裕を作ってくれる。
その余裕で、空を世間で実践すればいい。
世間では空など通用しないから、何年もしないうちに必ず破綻する。
そうしたら念願の「真の悟り」に到達できる。
それでも悟りたいか。そう思うなら、本当に悟ってしまうだろう。
7:ブラフマン Ⅴ
14/05/04 22:13:14.69 xsBGIZmQ
いやあ、ためになるねぇ子供の頃、見たはずなんんだがw
URLリンク(www.youtube.com)
8:神も仏も名無しさん
14/05/04 22:29:00.29 Vbyr9CvY
これ、なかなかいいよ
URLリンク(myanmarbuddhism.info)
9:神も仏も名無しさん
14/05/04 22:41:07.17 4NTXrNFK
「増上慢」な。
10:神も仏も名無しさん
14/05/04 23:10:39.52 Vbyr9CvY
最近、若い人が簡単に自分の言うことを信じるんでなかなか怖いわ
逆に姿勢が正される
これが子はかすがいか、自分の子じゃないけど
11:神も仏も名無しさん
14/05/04 23:17:35.58 Vbyr9CvY
別に宗教の勧誘での話じゃないからね
勧誘などしたこともない、ビビリなんで
12:神も仏も名無しさん
14/05/04 23:18:29.55 VhjkzjNr
>>5
空とは何か?何のことを空だと言っているのか?
空を洞察とか尤もらしく言うが、空とはそんなに難しいものでは無い
そして用語は正しく使わないとコンセンサスの難易度が上がって無駄になる
増長慢では無く、正しくは「増上慢」である
>>6
空は苦楽の相対化の事ではない
「有」と言う現象も「無」と言う現象も、「有無」と言う現象も
存在としては「有によって無が認識でき、無によって有が認識できる」となり
この存在としての理のことを「空」と表現するのである
しかも、その「空」という表現も、仮の名称であり真理とかではない
13:アートマン Ⅱ
14/05/04 23:35:17.55 q7U9y4kr
>>8
流し読みしたが、わかりやすくていい話だった。
ただ、許しの問題はそう簡単ではない。この問題は愛の構造に関係する。
人間は愛されることで愛を知る。許されることで許すことを知る。
潜在的に持っている愛を、形にして表現できるようになる。
しかし、家庭的に不幸だと、愛を知らない大人になってしまう。
愛されなければ愛せないのに、大人を愛してくれる存在などどこにもいない。
この事情があるから、釈迦やイエスは究極まで行ってしまう。
悟り、あるいは、神に出会うことで愛を知る。
14:神も仏も名無しさん
14/05/04 23:45:20.79 VhjkzjNr
お外道さんは心の事にご執心で何も解ってないのね
それじゃあ仏教が遠い話になるのも無理ない話
15:アートマン Ⅱ
14/05/04 23:49:34.89 q7U9y4kr
>>8
一休さんね。性に執着して、死にとうないと言ったとか。
>>9
増上慢だったね。使い慣れない言葉だったのでスマン orz
>>12
同じく増上慢だった。スマン orz
>この存在としての理のことを「空」と表現するのである
実質、唯物論のように感じるのは気のせいか。
16:神も仏も名無しさん
14/05/05 00:18:46.23 EWE1nXno
>>13
リンクはまだ読んでいないが、イエスやクリスチャンのいう「許し」とは、
「自分は正しく、相手が間違っている」という「思い上がり」を前提とする。
本当の「許し」とは、「自分が間違っていた」と認めることでなければならない。
17:神も仏も名無しさん
14/05/05 00:23:57.87 JXIULiUJ
仏教議論スレッド97
//ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1398306944/920-921 の続き
//home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第十八章 自己と実在物の考察
5.
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する
18:神も仏も名無しさん
14/05/05 00:36:04.86 u2kJJtq6
>>15
何を以って「唯物論」と捉えるのか、視点の問題かと
仏教では「心」と呼ぶ現象を副次的に捉え、それは結局
肉体と言う物理的機構が物理的に機能して織り成して「心」と呼ぶ
事象を感覚に感じさせてるに過ぎないと観るので、唯物は否かは問題にならない
何故なら、唯物論も結局「心」のもとに思考で考え出された理論に過ぎないからだ
この世界は物しかないのが真実、どこに「唯物」などと言う戯論があろうか
19:神も仏も名無しさん
14/05/05 00:44:09.31 u2kJJtq6
因みに仏教の各教説も所詮は戯論なのである
人間は戯論を用いねば考察が出来ないので、仏教も戯論を用いて
この世界の真実を悟る、その道筋を正して示したのが仏道となるのである
要するに涅槃では仏道も教説も寂滅する、と言う事実を気付く事が
端的に言えば悟りである
20:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:04:10.25 oHS2a0gn
涅槃も、一歩まちがえれば創設者の煩悩であり我欲でもある、お経も聞く人がきけば音楽になるから五戒のうちの一つの違反になる、人の考え方っていうか文明自体もぶっ壊して退化させ、考える必要のない世界を構築すればいい
21:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:06:29.97 nrtcTSC2
>>18
唯物論は思考で考え出された理論(戯論)である。
>>19
仏教各教説は思考で考えだされている戯論である。
戯論を用いてこの世の真実を悟るのが仏教。
ならば、仏教以外、例えば唯物論も戯論を用いてこの世の真実を悟る。
しかし、仏道の道筋の、この世界の真実は、涅槃に行きつくものであり、
涅槃は仏教も各教説(考察で考え出された理論=戯論)
も寂滅するという事実があり
その事実に気付く事が、悟り(この世界の真実)である。
まず、ここまで、これでよいか?
22:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:10:36.23 JXIULiUJ
> 仏教も戯論を用いて、この世界の真実を悟る
//home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
8.9.10.
世俗諦〔せぞくたい〕・勝義諦〔しょうぎたい〕
この二つの間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
〔例えば、仮に
心的に作り出された(戯論)に由来するものは、空性によって消滅する、という〕
重要性を理解することなしに解脱(涅槃)は達成され得ない
23:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:18:56.34 1/MjIsyA
真実なるものは存在しない。
24:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:22:35.37 1/MjIsyA
>>21
>仏道の道筋の、この世界の真実は、涅槃に行きつくものであり、
涅槃は通過点でしかない。
25:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:22:42.80 oHS2a0gn
対極な存在は常にある、暗い明るい、悲しい嬉しい、善悪。戒律によって修行を行い煩悩を封じ片方を消す事でもう片方の存在意義や意味がなくなり最終的には自分が何者なのかもわからなくなってしまうんじゃないのか、悪を知る悪を食す事ももしかしたら必要だと思いました
26:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:23:07.49 LWdO3wVv
空てそこらの坊主も仏教学者も説明できへん
だれが思いついた概念かしらんが
27:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:31:28.32 JXIULiUJ
> 戯論も寂滅するという事実があり
> その事実に気付く事が、悟りである
(実践したことはないけど↓教学としては)
//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
止(サマタ禅定)・観(ヴィパッサナー智慧)
「正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」の七種の正道によって
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられて
正見によって「縁起・空・無我の観察をする」
ということであるらしい
28:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:38:36.55 nrtcTSC2
>>24
涅槃(ニルバーナ)=寂滅=悟り、
これが通過点でしかないとしたら、着地点がある。
ここまでよいか?
29:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:40:16.34 1/MjIsyA
>>21
>戯論を用いてこの世の真実を悟るのが仏教。
まだ、こんなことをいっているw
これだと思考で考え出された理論(戯論)を用いてこの世の真実を悟るのがキリスト教、ユダヤ教、
イスラム教などの信仰宗教だとも定義できる。
「この世の真実」は各宗教によって無数有り得ることになる。
仏教でなければならない必然性はない。
30:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:43:48.44 1/MjIsyA
>>28
>着地点がある。
着地点は無い。
31:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:50:46.17 JXIULiUJ
(これも実践したことはないけど教学としては↓こんな感じであるらしい)
チベット・ゲルク派の場合は
//rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
「空」の意味を知るには
中観自立派と中観帰謬派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです
中観自立派と中観帰謬派の見解の差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です
中観自立派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
(これに対して)
中観帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
32:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:52:19.23 3hp0FQin
>>29
>「この世の真実」は各宗教によって無数有り得
>仏教でなければならない必然性はない
「この世の真実」は複数あっていい。
仏教以外を軸にする道があってもいい。
ただ、仏教は「えくぼもあばた」(≒一切皆苦)というスタンスであるわけで、
そこを、えくぼありあばたあり(≒人生楽ありゃ苦もあるさ)にグレードダウンさせちゃ駄目。
それだけのこと。
33:神も仏も名無しさん
14/05/05 01:58:54.29 nrtcTSC2
>>22
手段として空性の体得は、四聖諦を観、悟りを達成するには、必要不可欠だ。
ここまで よいか?
34:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:01:45.98 nrtcTSC2
>>30
通過点はあるが、着地点はない。
ここまでよいか?
35:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:03:46.19 u2kJJtq6
>>21
まあ、そんな感じ、道端の石ころに「思い」や「戯論」は無い
しかし人にはエゴがあるので「石ころと人間は同等では無い」と言う思い込みが事実として起こる
そのエゴを超克した所に涅槃故の悟りが厳然とする
これは増上慢のものは絶対に受け入れられない事実である、
何故かと言うと、人の凡その哲学的・宗教的想定が全て崩壊してしまうからで
認めるわけには行かなくなるからである
>>27
「衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた [中論観四諦品第二十四]」
「業報有りて而も作者なし、この陰滅し已わりて、異陰相続す」
>>28
説明上は「涅槃(ニルバーナ)=寂滅」だが
実際は全ての戯論が滅し已わるとそれが「涅槃」
>>29
>理論(戯論)を用いてこの世の真実を悟るのがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの信仰宗教だとも定義できる。
仏教の涅槃は目の前に見えてる、見えてるが涅槃にならない、心が寂滅して無いから
自分も含めた事物一切が既に涅槃に有って、しかし心が有る故に涅槃では無い事実を如実知見する
それが悟りであり、煩悩解脱の最初の一歩となる
36:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:04:17.56 E5IHiu6a
欲望を捨てる!
以上だ
37:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:07:04.48 1/MjIsyA
>>33
>手段として空性の体得
『万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。』(道元)
これは『心不可得』(金剛般若経18)と同趣旨。
心不可得なのに悟りなど有り得べくもない。
ゆえに『しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり。
おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。』(道元 正法眼蔵 心不可得より)
38:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:08:31.06 3hp0FQin
>>34
逆だろw
着地点(涅槃)はあるけど、通過点(順位)はない、と。 (´∀`)b
*(通過“点”なんて、どう線引きするんだ?
お酒は二十歳になってから、なんて宣伝もあるが、時間(期間・歴史)の区分なんて恣意的だ。
当人が通過点だと見做せば(区分、ラベリングすれば(→意識、自覚、直感すれば))そこが通過点だw)
39:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:11:09.42 1/MjIsyA
>>34
>通過点はあるが、着地点はない。
『心不可得』(金剛般若経18)なのに涅槃も夢の如くなり
40:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:11:29.58 E5IHiu6a
自分は心じゃないから悟る!
欲望を捨てる!
41:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:14:52.15 mw/7JyXV
集団的自衛権に戸惑う自衛官 「撃ったり撃たれたりする覚悟をせずに入隊した」
スレリンク(poverty板)
42:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:15:41.71 u2kJJtq6
>>37
仏法は無我にて候、故に心も最初から実在してない
最初から実在してないんだから不可得も何も無い
心で得ようとする事に対して「心不可得」なのである
悟りが無いのは涅槃であり、我々が悟るのは智慧である
この紙一重が中々超克できずにお悩みの諸兄が多い事もまた事実
何もない世界(涅槃)に実際に行くのが仏道の目的なのではない
戯論と言うものがこの世界に実は実在してない事を悟るのが目的なのである
つまり、仏道の根本目的は「涅槃を証する事」これに尽きるのである
増上慢のものは絶対にこの真理を受け入れられない(法華経方便品)
43:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:18:00.92 nrtcTSC2
>>27
空性を体得するには、止観=精神を集中し縁起・空・無我を観察する。
これでよいか?
44:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:19:54.02 E5IHiu6a
涅槃はない!
欲望を捨てる!
45:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:23:45.44 JXIULiUJ
> 手段として空性の体得は、四聖諦を観、悟りを達成するには、必要不可欠だ
(これも実践したことはないけど、チベット・ニンマ派の場合は↓こんな感じであるらしい)
チベット・ニンマ派
//www.tibethouse.jp/culture/37_04.html
3)仏法の本質
煩悩障と所知障を取り除くための方便を示すのが、仏法です
障害のなかでも基本となるのは
煩悩の障害(煩悩障)と智慧の障害(所知障)です
戒律・禅定・智慧を修して
様々な障害を浄化したところで、滅諦へと到るのです
滅諦(苦の滅した状態、涅槃にまつわる真理)
道諦(涅槃にいたる修行の道にまつわる真理)
四諦(したい)苦集滅道
46:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:28:37.37 1/MjIsyA
>>42
>仏法は無我にて候
『万法ともにわれにあらざる時節』(>>37)
>仏道の根本目的は「涅槃を証する事」これに尽きるのである
「涅槃を証する事」も夢の如くなり
47:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:36:26.24 JXIULiUJ
> 空性を体得するには、止観=精神を集中し縁起・空・無我を観察する
仏教議論スレッド97
//ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1398306944/920-921
>>17 >>22 >>27 >>31 >>45
//www.onedhamma.com/
14/4/29 日本の禅を全体の文脈のなかへ
山下良道(スダンマチャーラ比丘)法話
↑ この人の法話も参考して下さいませ よろしく
48:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:39:34.51 EWE1nXno
>>31
>中観帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
「人間」にとっては、そのような自相は「有る」のだよ。人類は、その
発生以来、五感の知覚により「有無」を「一義的に」区別することによって
のみ、生存してきた。これが、法の中の法である。中観帰謬派は、己が
「人間」という動物の一種属に過ぎないことをすっかり忘却するという倒錯に
陥っている。ただただ、釈迦の勘違いに過ぎない「無」に合致させたい一心。
開祖の盲信極まれりである。中論は、物理現象や世間の一切の慣習を「無条件
の前提」としている。
49:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:41:57.20 u2kJJtq6
>>46
>「涅槃を証する事」も夢の如くなり
道元は不可知論を説いてない
『万法ともにわれにあらざる時節』これ自体が無我であり仏法の正体
これを智慧によって体得して初めて「眼横鼻縦」の真の意味を悟れる
50:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:43:20.35 E5IHiu6a
人間は動物の1種属ではない!
欲望を捨てる
51:神も仏も名無しさん
14/05/05 02:52:42.16 nrtcTSC2
>>31
中観帰謬派は、火の燃えかすからたなびく煙さえ
煩悩の燃えかすのごとく、それさえ断じてしまえ。
>>45
悟った釈迦がはじめて説いた実践の理想、
四(聖)諦=苦集滅道
チベット・ニンマ派では、煩悩障・所知障 この障害を除き、断ぜよ。
・・・・
みなありがとう。 おやすみ。
52:神も仏も名無しさん
14/05/05 03:27:02.78 JXIULiUJ
> 此の陰滅し已らば異陰相續する
> (我愛を断滅することせざるがゆえに
> 此の蘊を捨て己(おわ)っても異蘊相続して
> また次の、この世の生に戻り来る)
因と縁の依存によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛によって「ある・ない・肯定・否定」と誤ったあり方を掴んで、固執/掴むこと(取)も生じて
五蘊(色受想行識)の仮和合の仮の状態が現れて(輪廻を繰り返して)いるかも
… … …
→ 無明の暗闇に覆われて
→ 渇愛によって、誤ったあり方を掴んで離さないような、固執/掴むこと(取)も生じて
→ 五蘊(色受想行識)の仮和合の仮の状態が現れて
→ (この現世で肉体が滅しても)色即是空
→ 地+水+火+風 = 空
→ (また次の、この世に戻り来て)空即是色
→ 無明の暗闇に覆われて
→ 渇愛によって、誤ったあり方を掴んで離さないような、固執/掴むこと(取)も生じて
→ 五蘊(色受想行識)の仮和合の仮の状態が現れて
53:神も仏も名無しさん
14/05/05 03:33:20.85 EWE1nXno
>>52
> → 五蘊(色受想行識)の仮和合の仮の状態が現れて
と、「考えている」のは、釈迦の「我」www。
54:神も仏も名無しさん
14/05/05 03:42:08.02 JXIULiUJ
> 衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ!と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
55:神も仏も名無しさん
14/05/05 04:00:08.68 EWE1nXno
>>54
中論は、「執着すべき自性がないから『空』だ」と言ってるだけで、釈迦のように
「無我」「無」というアホなことは一言も言っていない。
中論は、「もろもろの存在は厳然たる実在だが、それが相互依存性・関係性・相対性
という抽象観念によって構成されている」と言っているだけ。現代の量子力学、相対
性原理そのまま。
「幻のような」は、「幻」や「無」ではない。例えば、「雲」は「幻のよう」だが、
「水滴の集まり」という厳然たる実在である。
56:神も仏も名無しさん
14/05/05 04:18:18.09 JXIULiUJ
>> 五蘊(色受想行識)の仮和合の仮の状態が現れて
> と、「考えている」のは、釈迦の「我」
龍樹(りゅうじゅ)は、バラモンと伝えられているらしので
バラモン由来の禅定(ぜんじょう)とか
釈迦(しゃか)由来の禅定とかによって
龍樹も「我・我所を滅させる因と縁の依存によって、無我・無我所を得て、智慧を決定した」かも
//www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する
(想受を滅させる為の)滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
//home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
11.
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
57:神も仏も名無しさん
14/05/05 04:35:28.18 wrRSDZDD
>>55
無我ってバカなことなの?
なんで?教えて?
58:神も仏も名無しさん
14/05/05 04:37:30.46 wrRSDZDD
無自性なら存在論としては無我じゃないの?違う?
59:神も仏も名無しさん
14/05/05 04:43:16.58 wrRSDZDD
>>55
> 中論は、「もろもろの存在は厳然たる実在だが、それが相互依存性・関係性・相対性
> という抽象観念によって構成されている」と言っているだけ。
ん?相互依存や関係性が抽象がいねんってどういうこと?
あらゆる因果や法則は幻想だということ?
>現代の量子力学、相対性原理そのまま。
これもなんかずれてるような・・・
60:○
14/05/05 07:07:03.00 UDqzv96h
また「空」ですか。。
釈尊は常見者を涅槃に導く際に「諸行無常」、「諸法無我」を説かれたそうです。
また断見を涅槃に導く際には「三世輪廻」を説かれたそうです。
と龍樹による釈尊の対機説法解説のご紹介も輪廻します。
61:○
14/05/05 07:13:20.21 UDqzv96h
>>60
もし常見者に「三世輪廻」を説かれ、断見者に「諸行無常」、「諸法無我」を説かれたら益々固執したでしょう。
でもこの対機説法での特徴を知らずに、常見者は「三世輪廻」を主張し、断見者は「諸行無常」、「諸法無我」を
主張して言い争っているのが末法の世の現状かとも観じられます。
62:神も仏も名無しさん
14/05/05 07:29:57.93 cNbx2xq6
また自己陶酔キモい60 :○ですかw
消えろw
63:○
14/05/05 07:33:38.08 UDqzv96h
>>61
>もし常見者に「三世輪廻」を説かれ、断見者に「諸行無常」、「諸法無我」を説かれたら益々固執したでしょう。
この龍樹解説『四悉壇』は法華経「如来寿量品第十六」の一節ともよく整合しているように思料します。
衆生見劫盡 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満 (中略)
我浄土不毀 而衆見焼盡
まあ法華経は偽経で、大智度論は偽論だと断じる御仁には東風でしょう。
64:神も仏も名無しさん
14/05/05 07:54:39.91 2ID6jh29
我でなく、他でもなく、その両方でもないという様相というのは有る。
無自覚に勝手に物事が進んでいく様。例えば、爪が伸びる。
思いというものは無いといえば無いのだが心的作用と肉体作用は、
密接な関連があるのは否定される所ではない。
五感を所持するため気のせいでは済まされない様相に発展する場合もある。
無自覚に進んでいく物事にちょっと目をやれば新たな発見がある。
悟りスレに抑圧がどうのというのが昔いたが(今もいるのかな?)
目に見えないプレッシャーというのは確かにある。
試しにプレッシャーになりそうなものを一つ除いたら、解放感は確かにある。
普段、何かと忙しく無自覚であれば軽くスルーされてしまいそうな感じでもある。
趣味が高じてしまえば、欲望が行き過ぎてしまえば、常識に囚われてしまえば、
他人に何かを言われれば、肌寒くちょっと不快とか、
そんな所に目に見えないプレッシャーはゴロゴロ転がっている。
場合によっては目に見えないプレッシャーは肉体を押し潰す。
65:神も仏も名無しさん
14/05/05 07:56:54.37 cNbx2xq6
>まあ法華経は偽経
お前自体が偽書き込み佛教論だろうがw
ばかものw
お前に評論する資格はないw
66:アートマン Ⅱ
14/05/05 07:57:06.31 Amve+3k2
>>16
>本当の「許し」とは、「自分が間違っていた」と認めることでなければならない。
サイトでは、相手の非を許すだけでなく、相手への非を謝罪することも説く。
前者も難しいが、後者はそれ以上に難しい。謝罪された方も困る。
目下なら「ドンマイ」になるが、目上なら「こっちこそ恐縮です。気にしないで
ください」になるだろうか。否。目下への「甘え」が見透かせるからだ。
口先で謝るのではなく、態度や行動で借りを返すのがスジではないだろうか。
自分の罪はそのままにし、心のトゲとして甘受すべきである。
67:アートマン Ⅱ
14/05/05 08:17:26.69 Amve+3k2
>>18
>何を以って「唯物論」と捉えるのか
何をもって世界の第一原因とするか。物質にするのが唯物論、
心にするのが観念論である。
>この世界は物しかないのが真実・・・
命がある。人間は命と物質の矛盾を生きている。
68:神も仏も名無しさん
14/05/05 08:25:53.83 cNbx2xq6
またか○とポンコツマン2は同一人物かもな。
自己陶酔がキモいw
69:神も仏も名無しさん
14/05/05 08:53:13.94 cNbx2xq6
○とポンコツマン2の共通項は中途半端に理解した佛教知識を
当人の思いつきと自己陶酔で本来の仏教の知識の意味を改変し続けて
議論していると思い込んでおられる目出度い自己陶酔御仁w
70:アートマン Ⅱ
14/05/05 09:19:28.85 Amve+3k2
フロイト、ユング、十牛図(悟り)、精神分裂(統合失調)・・・
これらを並べているうちに精神分裂の正体がおぼろげに見えてきた。
ユングは精神分裂を、感情記憶、言葉、イメージなどの連関作用が、
必要以上に緩んでしまったために統合を欠いている、と考えた。
~ これはフロイトにおける意識の圧縮機能
ここで脳ミソの記憶がいかにしてなされるかを再確認しよう。
意識は経験したことを瞬時に判断して記憶する。
その見出しは、愛憎、善悪、苦楽などの判断基準である。
簡単に言えば、愛憎によって記憶は色分けされ、統合されている。
71:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:27:07.10 2ID6jh29
形あるものいつかは壊れる
これが理解できていない者はメンテに余念がない
心臓に毛が生えているような者は軽くスルーしてしまうだろう。
メンテ自体が抑圧が形を変えて無自覚に発生したものである。
メンテは怒りとか中傷とか自己陶酔とかにも変形する。
抑圧とは苦と言い換えても差し支えはないだろう。
その基準は常に困る、困らないである。
抑圧が薄れれば、自然の流れで困るは薄まる。
個々の対象に限定すれば意図的に抑圧を薄くすることは可能。
消してしまえば忘却という形で意識にも昇ってこないだろう。
72:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:34:48.79 hEt81boB
> 何を以って「唯物論」と捉えるのか、視点の問題かと
> 仏教では「心」と呼ぶ現象を副次的に捉え、それは結局
> 肉体と言う物理的機構が物理的に機能して織り成して「心」と呼ぶ
> 事象を感覚に感じさせてるに過ぎないと観るので、唯物は否かは問題にならない
> 何故なら、唯物論も結局「心」のもとに思考で考え出された理論に過ぎないからだ
> この世界は物しかないのが真実、どこに「唯物」などと言う戯論があろうか
ならば肉体そのものをしてその主張を有らしめよ。
貴公の主張の分だけ、貴公は心的であると墓穴を掘っているのだよ。
あまつさえ、それは物に過ぎず取るに足らず、煩悩ある路傍の石に過ぎぬとの主張。
呵々。
73:○
14/05/05 09:35:06.78 UDqzv96h
>>62
>また自己陶酔キモい60 :○ですかw
> 消えろw
>>65
>お前自体が偽書き込み佛教論だろうがw
>ばかものw
『八不』に準拠すれば、『自己陶酔』、『お前』、『ばかもの』などどこにあろうか。
よってどうして『消えろ』と言えるのであろうか。
と龍樹風に語ってみます。
もし詭弁だと思うのであれば、『八不』が帰謬法に過ぎないからでしょうか。
74:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:39:58.74 hEt81boB
>>29
般若智、直証(証悟)、信等の回復が【仏教】また、あらゆる宗教の基本である。
仏外・仏内の区分など、実存の表層に座す概念遊戯者の戯言にすぎぬ。
75:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:44:44.62 cNbx2xq6
ポンコツマン2は自己愛性人格障害だから安心しろw
76:アートマン Ⅱ
14/05/05 09:45:28.14 Amve+3k2
では統合が失われるのはなぜか。
愛と憎の判断基準に問題が生じているからに他ならない。
周囲から愛されないと、本来持っているはずの愛が活性化せず、
愛情不足から判断基準が十分に機能しない状態になる。
その状態が続けば、やがては統合されていた記憶まで崩れ始める。
愛憎という見出しを失えば、記憶は有機的な連関を失ってしまう。
これが精神分裂の正体である。
77:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:47:52.59 cNbx2xq6
>『八不』に準拠すれば、『自己陶酔』、『お前』、『ばかもの』などどこにあろうか。
よってどうして『消えろ』と言えるのであろうか。
根本解釈が狂っている意見、○の自己陶酔外国語は意味不明ですなw
仏教語を、きちんと学んでから出直してこい!
78:神も仏も名無しさん
14/05/05 09:53:47.83 cNbx2xq6
ポンコツマン2のかまってくれw自己愛も○と同じく佛教知識の記憶を改変するぞw
79:アートマン Ⅱ
14/05/05 10:02:24.27 Amve+3k2
この人に必要なのは周囲からの愛情なのだが、
いい大人を子供のように愛してくれるような人はどこにもいない。
逆に風変りを警戒され、常に冷たくあしらわれる。
集団で周囲から憎まれると悲惨なことになる。
10人の集団なら、10人が1回叩くと10回叩かれる。
50人なら50回叩かれる。
こうして愛される人はますます愛され、憎まれる人はますます憎まれ、
周囲によって、精神分裂が進行する方向へと誘導されている。
この病気も進行性も、周囲や社会によって生み出される。
80:神も仏も名無しさん
14/05/05 10:04:49.05 yJO1cfVP
>>8
ダンマパダの偈でおえつ泣してまいました
ありがとう
81:神も仏も名無しさん
14/05/05 10:15:12.70 cNbx2xq6
ぽんこつまん2は自己の精神を語り始めたのか・・・・。
82:エイトマン Ⅱ
14/05/05 10:15:23.14 M+ct7nrD
仏教知識の披露ばかりでサーンキャ哲学と両方を学び対象対比して考察した人は、
ここにはいないようだw
だから全てを含むインド哲学を習得したのが、ここへ出てきて一休トンチで
みんなボコボコにされるw
83:神も仏も名無しさん
14/05/05 10:22:01.62 cNbx2xq6
82 :エイトマン Ⅱ:2014/05/05(月) 10:15:23.14 ID:M+ct7nrD
仏教知識の披露ばかりでサーンキャ哲学と両方を学び対象対比して考察した人は、
ここにはいないようだw
おまえは中途半端佛教知識だけwwポンコツマン2w
ポンコツマン2の中途半端な仏教知識の垂れ流しはお断りだw
84:神も仏も名無しさん
14/05/05 10:30:24.74 JXIULiUJ
> また「空」ですか
> 八不
//repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
2 諸法は夢の如しと訓練しなさい
3 空性は防御の最上のもの
『中論』冒頭の帰敬偈において
不滅・不生・不断・不常・不一・不異・不来・不去
という八不によって仏陀が形容されている
〔何ものも〕滅することなく (不滅)
〔何ものも〕生ずることなく (不生)
〔何ものも〕断滅ではなく (不断)
〔何ものも〕常住ではなく(不常)
〔何ものも〕同一であることなく (不一義)
〔何ものも〕異なっていることなく (不異義)
〔何ものも〕来ることなく (不来)
〔何ものも〕去ることのない (不去)〔ような〕
〔また〕戯論 (想定された論議) が寂滅しており …
85:エイトマン Ⅱ
14/05/05 10:31:52.40 M+ct7nrD
>おまえは中途半端佛教知識だけwwポンコツマン2w
という御仁の宗教哲学が唯一の仏教知識で中途半端よりはいいねー♪
86:アートマン Ⅱ
14/05/05 10:44:25.83 Amve+3k2
命かつ物質の矛盾を生きているのが生物である以上、
精神が分裂する傾向を、本質的に内包していると言っていいだろう。
人間に顕著なのは、言語力や思考力が群を抜くからである。
軽い分裂程度なら、多くの人が何らかの違和感を自分に抱いている。
通常、貧病争が契機になるが、これらは宗教の土壌でもある。
キリスト教などの宗教は、神や仏を設定し、信者の苦悩を和らげ、
精神が分裂の深みに嵌ることを防いでいる。
宗教はアヘンだと言われるが、他に救いを提示できない以上、
むげに否定するわけにもいかないのかもしれない。
87:神も仏も名無しさん
14/05/05 10:50:27.99 JXIULiUJ
> サーンキヤ
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャは
プラクリティから様々な原理が展開してゆくことを観察するのみで
プルシャ それ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
世親は「唯識二十論」で
「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない → 実体がある ← とした
88:エイトマン Ⅱ
14/05/05 11:01:57.88 M+ct7nrD
>>87
日本では、そちらにツーカーであるIARPの本山博氏やヨーガスートラの佐保田鶴治氏の
見解は出ないかと期待したが、
なーんだウェイキペィアで即席に調べたのかw
89:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:03:49.01 ERQrP7Pt
>>57
無我を説いているのは、釈迦の我(生命)。釈迦はそのことをうっかり忘れていたw。
小学生にでも判る滑稽な初歩的論理矛盾、勘違い、誤り。
>>59
量子力学では、君の隣に横たわる彼女の裸体は、実は超高速で運動する粒子の関係的
集合体。つまり、中身スカスカ。これが空。しかし。君にとっては豊満な女体。
歩いている人間は、その歩くという動作を同時に二度行なうことは出来ないのだから、
もはや歩けない。しかし、静止している人間から見れば、明らかに歩いている。
二本の軌道の上を等速で同方向に走っている二両の電車を、一方の電車から見れば
他方の電車は停止している。しかし、一方の電車が停止すれば、他方の電車は動いて
いる。つまり、観測者の状態次第(相互関係)である。これが相対性理論。
もろもろの存在は、関係性という空間の上を漂う粒子の雲。中身スカスカ。しかし、
人間という観測者から見ると、固定した確固たる実在。例外は皆無。これが、中論の
「空」である。
90:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:06:01.04 JXIULiUJ
//d.hatena.ne.jp/hotokenomichi2008/20091011/1255250353
(例えば「仮設としての」と言う意味で仮に)
有相唯識派
阿頼耶識は実有なるものとする派です
無相唯識派
阿頼耶識も縁起なるものとして空とし、その実体・自性を否定する派です
91:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:08:09.23 JXIULiUJ
//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
とりあえず心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
92:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:19:46.55 JXIULiUJ
> サーンキヤ と 仏教 の対比
>>87 >>90 >>91 の続き
//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心(末那識・我愛)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
_ _ _
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
93:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:21:31.63 hEt81boB
> では空論者は、自分の、いったいどこに価値を見出すのだろうか。
> かれらは、空であることと、生きる価値という矛盾を解消してくれる、
> 「空という真理に通じたこと」に存在意義を見出す。
ここにお前の龍樹批判のからくりがある。
まともな読解力がまずない。
空とは何も、生きる価値がないことを意味しない
価値における、交換価値と使用価値を混同している。
希少性が高くなければ無価値だというお前の考えこそは、
お前が物事を表層的にしか判断していない証左である。
【生において、ありふれているものは価値がない】
↑これでは仏教(宗教)を理解できる水準ではない。
※芸術品などに価値を見いだす観察眼とは別の話。
.
94:神も仏も名無しさん
14/05/05 11:47:56.17 ERQrP7Pt
己が「万物・万人との関係性の中に存在している」という自覚により、初めて、
精神の大いなる安定と平安が得られる。本当の意味での「悟り」と「無我」が
達成される。
意図的に無我を求めて幾ら修行しても、「自我意識」が増すばかりであり、
悟りも無我も永遠に得られることはない。
95:エイトマン Ⅱ
14/05/05 12:01:46.87 M+ct7nrD
サーンキャ学
静かなる車軸をプルシャ=アートマン=ブラフマンと重ね合わせ、
躍動する車輪を輪廻するプラクリティ=人間的生存=『心』と
重ね合わせる基本的な思考の枠組
________________________________
現象世界=プラクリティ
自己(真)自我心(末那識・我愛)=アートマン
阿頼耶識=プルシャ
12縁起
「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、
これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す。」
この深層的な自我心(末那識・我愛)を滅することによって、
我々は初めて真の無我行を実践することができる =ブラフマンにすぎない。
96:神も仏も名無しさん
14/05/05 12:05:14.31 cNbx2xq6
>我々は初めて真の無我行を実践することができる =ブラフマンにすぎない。
んなこと書き込んで自己陶酔ポンコツマンを養殖したいのかw?
97:エイトマン Ⅱ
14/05/05 12:13:33.65 M+ct7nrD
ブラフマンとは宇宙の顕れ全ての神はブラフマンから生まれたという概念を当てはめただけだけどね
>>96=己こそフレッシュマンと妄想執着する御仁は全てがポンコツマンに見えるのもブラフマンw
98:神も仏も名無しさん
14/05/05 12:19:21.70 cNbx2xq6
教祖自己陶酔ポンコツマンぶりはキモいなあw
議論の基本すら無いのに自己陶酔うぃや自己顕示欲かもなwポンコツマンのw
99:神も仏も名無しさん
14/05/05 12:44:51.43 JXIULiUJ
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である - アタルヴァ・ヴェーダ
ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマンは、アートマンと同一であるとする
ブラフマー(創造者)は三神一体の神々の1つであり
ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
アートマンは、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される
仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる
無我を知ることが悟りの道に含まれる
関連項目
中観派
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
100:神も仏も名無しさん
14/05/05 12:54:35.95 cNbx2xq6
ブラフマンがどうだのという是が非かはどうでもいいが、
佛教議論スレでブラフマンを力説するような異常な自己顕示欲はキモいなw
101:エイトマン Ⅱ
14/05/05 13:02:15.40 M+ct7nrD
>釈迦によれば「我」は存在しないとされるため
>>95で示しているように
我は12縁起で滅したから存在せず12縁起で生じたから存在するが正しく
「我」は存在しないのでなく、存在不存在のどちらでもないのが無我(アナートマン)として正しい。
ヴェーダやヨーガは三界の骨組みで特に色界の心の科学にあって
ID:cNbx2xq6は最初から色界も無色界も飛ばして頭が真っ白けっけのフレッシュで
皆がポンコツマンに見えるのよねw
102:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:03:24.66 JXIULiUJ
「我」 と 「五蘊の仮和合」 の対比
>>87 >>90 >>91 >>92 の続き
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャ それ自体は変化することがない、とする
//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
〔バラモン(ヒンドゥー)とかの〕
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである
( - これに対して - )
釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
103:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:18:14.53 4YSb9GH5
日本がおかしくなった原因
スレリンク(poverty板)
104:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:20:28.80 cNbx2xq6
>ID:cNbx2xq6は最初から色界も無色界も飛ばして頭が真っ白けっけのフレッシュで
皆がポンコツマンに見えるのよねw
ヨガの味は知っているが、おまえの自己陶酔自己顕示欲の気持悪さは十分ポンコツマンだw
105:エイトマン Ⅱ
14/05/05 13:38:09.79 M+ct7nrD
〔バラモン(ヒンドゥー)とかの〕
( - これに対して - )
この二つを合成した文にしてみよう。
我は、無我であり無常である。
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
無我とは他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで執着を解き自由自在の解脱をもつとした
これを色受想行識の五蘊について説き 、この無我によって人間生存に根拠付けられた
支配を免れると考えるのである。
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
バラモン(ヒンドゥー)とかは カーストを守るため無常無我にはできなかったというとこかな。
どちらにもしても社会との和合は無理だよ、出家の傲慢によって出家の前面を強く在家に押し出してインドで
滅んだんだから。
布施どころか何もかも在家から取り上げたら、そりゃあもう、おしまい。
出家のサンガが傲慢になったのってマウリア王朝の権力と結びついたから堕落したんだろうな。
106:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:41:15.97 cNbx2xq6
ポンコツマンは自己陶酔自己顕示欲の気持悪さを止められないかw
ポンコツだからなあw
佛教議論スレで書き込む虚しさを普通感じるものだがw自己顕示欲と自己陶酔で脳がオカシクなっているんだろうなw
107:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:44:19.43 JXIULiUJ
「上座部である部派仏教徒の一部」 と 「大衆部」 の対比
>>87 >>90 >>91 >>92 >>102 の続き
//www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
上座部である部派仏教徒の一部は
五蘊(色・受・想・行・識)
十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根処と色・声・香・味・触・法の六境処)
などの法は存在するという「我空法有」を主張し、そしてその法は現在だけでなく
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという
説一切有部の「三世実有法体恒有」の思想を展開させたのである
( - これに対して - )
大衆部はこれに対し「現在実有過末無体」を唱えた
五蘊、十二処、などの法は
現在の一刹那のみが実有であって、過去と未来は実有はないとするのである
_ _ _
五蘊の仮和合の仮に現れている状態なので
現在の一刹那のみも実有ではないとする
108:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:46:25.89 cNbx2xq6
ポンコツマンの自己陶酔と自己顕示欲の気持ち悪さが、ブラフマンとかねw
109:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:47:57.89 E5IHiu6a
要するに同じ事言ってるんでしょ。
釈迦は我はないで、バラモンの単独の存在は同じ事。
110:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:51:49.69 cNbx2xq6
>要するに同じ事言ってるんでしょ。
残念だな、釈迦の方は物事の正確な把握にウェイトを置いている。
ヒンズーは神気分で、ラリっていたらいいだけさw
111:神も仏も名無しさん
14/05/05 13:56:28.52 psodnzsT
1スレで十分なのに98スレも同じ事を繰り返しているw
まさに輪廻~くるくる同じ円状を回るだけで進歩が無い。
112:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:00:17.69 cNbx2xq6
ポンコツ自己陶酔、自己顕示欲のエネルギーで運動がスレの流れの中心だからなあw、
ポンコツマングループが虚しいと自覚ができるのが正気の第一歩w
佛教だろうとヨガだろうともw
ポンコツ自己陶酔、自己顕示欲のエネルギー輪廻しているようじゃ所詮ww
113:エイトマン Ⅱ
14/05/05 14:00:29.08 M+ct7nrD
>>110
>残念だな、釈迦の方は物事の正確な把握にウェイトを置いている。
>ヒンズーは神気分で、ラリっていたらいいだけさw
と間違って心がオシャカになったからポンコツに観えるんだねw
114:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:01:03.08 wrRSDZDD
>>64
> 目に見えないプレッシャーというのは確かにある。
> 試しにプレッシャーになりそうなものを一つ除いたら、解放感は確かにある。
> 普段、何かと忙しく無自覚であれば軽くスルーされてしまいそうな感じでもある。
>
> 趣味が高じてしまえば、欲望が行き過ぎてしまえば、常識に囚われてしまえば、
> 他人に何かを言われれば、肌寒くちょっと不快とか、
> そんな所に目に見えないプレッシャーはゴロゴロ転がっている。
> 場合によっては目に見えないプレッシャーは肉体を押し潰す。
フロイト先生ですか
115:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:02:27.83 cNbx2xq6
>と間違って心がオシャカになったからポンコツに観えるんだねw
自己顕示欲と自己陶酔でポンコツ化している自覚がないのかw?
やっぱりポンコツ輪廻エネルギーだなw
116:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:04:23.72 wrRSDZDD
>>67
命また物理的な現象でしょう。
>>18
唯物論と唯心論を止揚したのが仏教的な世界観じゃないのかね
117:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:05:29.17 13tjSu5l
現在ウパニシャッドを読んでいるんだけど、創造主はプラジャ=パティ神だよ。
インドラ神はプラジャ=パティ神の元で101年修行した。
118:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:10:20.39 cNbx2xq6
ほんとwポンコツマンの自己顕示欲と自己陶酔で養殖しているなあw変なのがw
119:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:21:25.38 JXIULiUJ
> 1スレで十分なのに98スレも同じ事を繰り返している
> まさに輪廻~くるくる同じ円状を回るだけで進歩が無い
私自身本人が
無明の暗闇に覆われて
この現世において肉体が滅しても
誤ったあり方を掴んで離すことの出来ない、渇愛によって
輪廻を繰り返して
また次の、この世の生に戻り来る
//home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
1.
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
三種類の行為を行う(カルマを積む)
(身体的な行為、言葉による行為、心による行為)
6.
渇愛によって
誤ったあり方を掴んで離さないような、固執/掴むこと(取)も生じる
11.
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
120:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:23:43.35 wrRSDZDD
>>89
> 無我を説いているのは、釈迦の我(生命)。釈迦はそのことをうっかり忘れていたw。
我って生命ってことじゃないでしょ。形而上の普遍性のことでしょ
> 量子力学では、君の隣に横たわる彼女の裸体は、実は超高速で運動する粒子の関係的
> 集合体。つまり、中身スカスカ。これが空。
空とそのことも関係ないでしょ?空というのは微粒子自体もそれ自身で存在するのではない、ということじゃないの?
> 歩いている人間は、その歩くという動作を同時に二度行なうことは出来ないのだから、
> もはや歩けない。
これも色々おかしい。二度同時に行えないから一度も起こっていない、ということにはならないよね
> 二本の軌道の上を等速で同方向に走っている二両の電車を、一方の電車から見れば
> 他方の電車は停止している。しかし、一方の電車が停止すれば、他方の電車は動いて
> いる。つまり、観測者の状態次第(相互関係)である。これが相対性理論。
異なる運動をしている主体にとって光の速度が同じであることが相対性理論の肝じゃなかった?あなたの言い方でいうとある光源から発せられた光を走ってる電車の中から見ても地上で立ち止まってる人が見ても同じ速さに見えるとかなんとか
> もろもろの存在は、関係性という空間の上を漂う粒子の雲。中身スカスカ。しかし、
> 人間という観測者から見ると、固定した確固たる実在。例外は皆無。これが、中論の
> 「空」である。
空というのはその微粒子そのものは空ではない、ということ?そうは言ってないでしょ。むしろ微粒子がかりそめに物質の形に集合していることにも縁起がある、ということを言ってるんじゃないのかね
121:エイトマン Ⅱ
14/05/05 14:30:50.56 M+ct7nrD
伝統思想シリーズ2 ダルマと王権.pdf - 龍谷大学現代インド
マウリヤ朝の王権が庇護する宗教は仏教でした。北イン. ドの王都の中では、 ......
構造を明解に示されたのですが、サンガを保護することが王権の正統性を得ることだと説明されていました。
URLリンク(rindas.ryukoku.ac.jp)
122:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:35:05.26 cNbx2xq6
ポンコツマンと自己顕示欲と自己陶酔の方が重要なテーマかもなw
123:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:36:46.87 E5IHiu6a
バラモンの単独の存在を釈迦が勘違いしてたんじゃない?
この単独の存在を我だと執着している人がいっぱいいたから当時。
で、無我だけど、無我は無じゃない、我が無い。
124:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:43:52.19 wrRSDZDD
>>123
我ってのはそのもの自体の本質、要するにイデア的なもののことでしょ?
科学的にはイデアはあると言えない、これが無我でしょ?
125:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:43:53.42 cNbx2xq6
>バラモンの単独の存在を釈迦が勘違いしてたんじゃない?
この単独の存在を我だと執着している人がいっぱいいたから当時。
で、無我だけど、無我は無じゃない、我が無い。
それはあなたの空想の中の「釈迦」。
126:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:51:32.28 wrRSDZDD
>>94
> 意図的に無我を求めて幾ら修行しても、「自我意識」が増すばかりであり、
> 悟りも無我も永遠に得られることはない。
我ってのを「自我」と誤解してるんじゃないの?我ってのはイデアであって、自我は自分のイデア。
つまり我ってのは自我も含むけどコップの我(イデア)とか枕の我(イデア)とか諸々のイデアが想定できる。自我に限らない。
そんで、そういった様々なイデア(自我も含めた)全てが実は無いよ、イデアなんて無いんだよ
というのが無我ってことじゃないのかな。
127:神も仏も名無しさん
14/05/05 14:56:16.44 ERQrP7Pt
>>120
「形而上の普遍性」とは一体何か。そんなアホなことを考えているのも、釈迦の
我(生命)。釈迦が死ねば、一切不可能。
微粒子を構成する素粒子も次々に発見されており、発見され続けるだろう。
つまり無限小=ゼロとなる。
128:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:02:19.26 hb4rsI3p
>>127
地球や太陽に生命とやらがあるのか?
君が履いているパンツに我はあるのか?
そもそも生命やら我やらは人間が勝手に「有る・無い」と定義し考えたもの
釈迦はその次元で無我を言及して居ない
129:エイトマン Ⅱ
14/05/05 15:03:47.86 M+ct7nrD
>>122 ID:cNbx2xq6=ヨガの味というフレッシュマンにいい話だなw
第十六章 悪魔の出現
その時ゴーダマにおかしなことが起った。
木の下で目をつぶり座禅をしているゴーダマの魂が宙に舞いあがったのである。
ゴーダマの肉体は木の下で座禅をしている。しかし、
ゴーダマの魂が宙に浮いて木のしたのゴーダマの肉体を見ているのである。
ゴーダマは喜んだ、自分の魂が肉体を離れたのである。これこそ幽体離脱である。
その時ゴーダマは目を開いた。目を開いた瞬間、肉体と魂は一体となった。
URLリンク(www1.clovernet.ne.jp)
130:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:05:15.21 ERQrP7Pt
>>126
他人のイデアなど、その他人に成り変らなければわからないのだから、我の
知ったことではない。
131:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:06:58.70 cNbx2xq6
127の北朝鮮隠居将軍様のチェチェ思想だから、
>地球や太陽に生命
はあるかもよw
全知全能のゴインキョー将軍様に不可能の文字はないw
132:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:07:47.35 hb4rsI3p
>そんなアホなことを考えているのも、釈迦の我(生命)。
この上記の戯論が成立する為には、釈迦が「生命や我」を「有る」と言えば成り立つ
しかし、釈迦はこれらを根本問題とせず、敢えて「そんなものは最初から無い」と言う立場である
無い事を「想像」したのではなく、無いものを「無い」と言及したに過ぎない
無い事を思いで語った訳でもない、無いものを証言したに過ぎない
故に「釈迦の我」に執着しそれを目の敵に言うのは愚考と言わざるを得ない
外道は修行によって身をもって体現させる方法を知らない為、この愚行に陥って出てこれない
133:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:09:35.22 cNbx2xq6
129ポンコツマンの止まらない自己顕示欲と自己陶酔の悪魔の心配しろよw
134:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:10:12.95 wrRSDZDD
>>127
> 「形而上の普遍性」とは一体何か。そんなアホなことを考えているのも、釈迦の
> 我(生命)。釈迦が死ねば、一切不可能。
死ねば不可能だけど、死んでないよね。
で、「『形而上の普遍性』について考えてもそんなものあると言えないよ」という釈迦の発言内容は釈迦が死んでても死んでなくても関係なく成立するよね?
つまり釈迦の生き死には発言内容の真偽と関係ないから、
あなたが釈迦の生き死にを持ち出して発言内容を偽だと言うことは的外れじゃないのかな、ってこと。
> 微粒子を構成する素粒子も次々に発見されており、発見され続けるだろう。
> つまり無限小=ゼロとなる。
ん?素粒子が発見されたら素粒子はあるってことになるでしょ?で、その素粒子自体はあるんだけど、
どんなに物を細かく分解してみても素粒子まで分解しても素粒子のそのまた素にまでさらに分解しても、って繰り返しても、
その奥の奥からイデアがひょっこり転がり出てくる・・・なんてこたありませんよ、
なぜならイデアなんて無いんだから
というのが「空」じゃないの?
形而上の普遍性って、つまりイデア的なもののことね
135:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:13:25.09 wrRSDZDD
>>130
> 他人のイデアなど、その他人に成り変らなければわからないのだから、我の
> 知ったことではない。
いや、あんたが知ったことか知らないことかにかかわらず、
あんたにも万物それぞれについてもイデアってものがあると言えない、ってことじゃないのかなと。
136:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:22:51.59 wrRSDZDD
>>132
> 外道は修行によって身をもって体現させる方法を知らない為、この愚行に陥って出てこれない
修行しなきゃわからないってこともないと思うけど・・・ってか現代哲学かじれば誰でも辿り着くというか、現代哲学がようやく釈迦に追い付いてきたというか・・・
でもこれからは現代哲学の進歩おかげで釈迦の言わんとしてたことがかなり身近になるんじゃないかと思う。
現代哲学は釈迦の言葉や仏教用語を現代日常語に翻訳するツールになる、という気がする。そしたらこれからは(宗教としての仏教は別として)釈迦の言葉が現代人に受け入れられやすくなる。
すると職業坊主は廃業かもしれんが、それもまた縁起でしょうね。
137:神も仏も名無しさん
14/05/05 15:41:26.13 sT9usw6d
世界が存在するのは、完璧な対称からわずかにずれているから。
138:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:02:42.16 E5IHiu6a
諸法無我なんだからイデアであろうが、すべて無我って意味じゃないの?
でもブラフマン=アートマンを発見した人たちが、それを我だと勘違いして執着していることを指摘していた。
空想しすぎてごめんw
139:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:08:43.73 sT9usw6d
小林-益川行列の混合角がすべて0なら、宇宙の始まりには光子しか存在せず、それ以外の物質も質量も
存在しなかった。
140:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:12:20.50 wrRSDZDD
>>138
> 諸法無我なんだからイデアであろうが、すべて無我って意味じゃないの?
諸法無我
つまり、全て「無我」、
つまり、全てにおいて「無・イデア」
要するに、全てにおいてイデアっつーか観念的なものっつーか普遍的な本質っつーか、とにかくそういう現実から離れた変わらぬ本質ってのは無いですよ、
という意味かな、と。
141:エイトマン Ⅱ
14/05/05 16:12:31.26 M+ct7nrD
ま日本人が大乗経典を偽教と知ったのは明治時代に日本仏教の代表がヨーロッパへ行き
当時から仏教を論破するためにヴァチカンが仏教を研究していてヴァチカン関係者に指摘されてからだしね。
キリスト教が上座仏教の僧との論破合戦に破れてもキリスト教は大健在。
幾ら無いとか無明によって神があるとかいって否定しても無駄。
空海が大日如来と一体化という即身成仏を見せ釈尊が舎衛城でみせた千仏分身などで
異教徒を調伏した技術は煩悩解脱の法でなく三界・ヨーガの技だから。
142:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:33:03.64 hb4rsI3p
>>136
諸行無常 諸法無我を解明できたのは仏教だけ
そしてそれは未だに論争が絶えなく、哲学思想如きでは解明できない
他の宗教・思想では絶対に解明できない
当の同門の僧侶さえ解明出来てないのが多いのだから仕方ない
>>137
甚深微妙の法の意味はその視点に無い
真の現実(仏法の視点)と娑婆の現実(凡夫の視点)の違いは
後者が前者にとって人の「思い」の分だけ誤謬が上乗せになってるって事
つまり、人間が勝手にこの世界の真の現実に対して妄想を抱き、誤謬の眼で見て
日常を送り、苦悩を繰り返している
その「思い」の分だけの誤謬を説明してやるには、相当難しく
説明された相手が増上慢だと、その者の想定がなし崩しにされる為に強烈な拒絶を起こす
これが甚深微妙にして難解難入なる法の意味となる
143:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:35:47.46 E5IHiu6a
イデアをわかってなかったから調べたら、真我のことだよね。
アートマンのことをプラトンがイデアって言ったわけでしょ。
で、アートマン=ブラフマンは我だというのは間違いだ。
だから、我ではないっていうのと単独の存在はブレてなくない?
無ではなく、我ではないってことでしょ。
144:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:38:53.02 3hp0FQin
>>143
だからと言って、
“どこかに”「我」がある(いる)
とは限らない―いや、いる筈もなし―ってのが、諸法無我でしょ。
145:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:41:46.20 hb4rsI3p
>>143
西洋哲学が好きなら何も仏教に首を突っ込んで挑む必要は無い
西洋哲学の限界は「観察者」は除外して考察する矛盾を回避できないところにある
それはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が示すとおり、自分自身の解明がそこまでしか出来ない事を意味する
仏教はそれより深い部分を考察では求めない、哲学は考察だけで求めようと苦心する
哲学と仏教を混ぜて考えてはならない、同時に仏教を宗教として考えてもならない
146:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:46:42.70 E5IHiu6a
>>144
完全同意します。
147:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
14/05/05 16:53:17.05 cHk1iBps
>>137
これは「ゆらぎ」のことかな?
ドリップ式のコーヒーだと、その日によって味が変わる。
実はそういった「味の変化」というのを見極めることが一番大事で、
では見極めたら、最高の味を出すことを考える。
ところが、最高の味を出そうとして一生懸命になってても、上手くいかない場合がある。
そうかとおもうと、忙しい日で、無造作に入れたところが非常に美味な味が出たりする。
これは私じゃなくても、そういう経験のある方は多い。
一応はそういう世界で喫茶技術を究めた人はね。
気分がイライラしている時は、ほとんどがコーヒーを美味く抽出するのは難しい。
かといって、気分が高揚していても、必ず美味いコーヒーを抽出できることもない。
同じようなことの繰り返しが、
同じようなことになるのは、いたって難しいことなのだ。
大事なのは、全てをまったく同じ状態で再現し続けるということは半端ない労力を要する。
ということを知る。ってことだだろうね。
茶の湯にも通じる。
148:神も仏も名無しさん
14/05/05 16:55:46.14 wrRSDZDD
>>142
> 諸行無常 諸法無我を解明できたのは仏教だけ
その昔ヘラクレイトスは万物は流転すると言ったけど、
特に近代以降、カントは純粋理性を批判したし、科学では反証主義で形而上から離れたし、ニーチェは神の死を言ったし、かたや実存主義以降、かたやレヴィストロース以降の流れで構造主義が生まれ、
そういった色々が釈迦においての六師外道のように今後の西洋哲学に作用するんじゃないかな。
これらをもう少し進めて統合したら釈迦の思想というか言葉の理解に至るのじゃないかなあ。
> そしてそれは未だに論争が絶えなく、哲学思想如きでは解明できない
> 他の宗教・思想では絶対に解明できない
> 当の同門の僧侶さえ解明出来てないのが多いのだから仕方ない
149:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:05:20.15 wrRSDZDD
>>145
> 西洋哲学が好きなら何も仏教に首を突っ込んで挑む必要は無い
現代西洋哲学と仏教(少なくとも宗教的な部分を除いた哲学的な部分の仏教)は親和するよ。
> 西洋哲学の限界は「観察者」は除外して考察する矛盾を回避できないところにある
> それはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が示すとおり、自分自身の解明がそこまでしか出来ない事を意味する
それは近代以前の西洋哲学。デカルトからはもう離れたところに来ている。
> 仏教はそれより深い部分を考察では求めない、哲学は考察だけで求めようと苦心する
科学哲学の発展で、西洋哲学の考察方法も科学的なものになった。信仰から離れたといってもいいかもしれない。ザックリ言うと存在論と認識論になった。
そういう意味では釈迦に近づいたとも言えると思うが。
> 哲学と仏教を混ぜて考えてはならない、同時に仏教を宗教として考えてもならない
宗教として維持されてきた側面もあるけど、それ以前に仏教の根本は存在論と認識論ではないのかな。
150:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:13:53.14 ERQrP7Pt
釈迦や釈迦カルトがいくら足掻いても、「己の我を以って無我を説いた」と
いう釈迦の初歩的論理矛盾、勘違いは解消されない。小学生からも笑われる。
人前では言わないほうがよいw。
また、「苦楽」は相対的概念で、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」で一発
でチャラ。「一切皆苦」は、釈迦の鬱病の症状以外の何物でもない。釈迦仏教とは、
釈迦の精神病の感染であるという病識を持つ努力をしよう。
151:○
14/05/05 17:22:13.61 UDqzv96h
>>142
> 諸行無常 諸法無我を解明できたのは仏教だけ
>>150
>「一切皆苦」は、釈迦の鬱病の症状以外の何物でもない。
「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」は常見者向けの対機説法だったそうですので
あまり固執して議論する必要はないでしょう。
もし、断見者向けに「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」を説かれた仏典をご存じの方は
(大智度論への反論として)御紹介いただければ幸甚に存じます。
断見者にそのような説法をすれば、虚無論者に陥るかも知れませんね。
152:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:29:56.61 E5u6ZitZ
36: おさかなくわえた名無しさん@転載禁止 [sage] 2014/05/05(月) 15:17:46.75 ID:EuDTucGj
お前ら宗教板の議論スレにでも行けよ。
この世界が妄想なら確かめようのないことは尚更大妄想だから。
それにお前みたいに頑張って仏教の知識だけつけても
いつも不毛な議論に時間を費やしてばかりってなるだけで
結局は何の実り無く、虚しい人生で終えるのがどうせオチなんだから
他人までを自分の下らん妄想に付き合わせて巻き込もうとするなよな。
迷惑なんだよ。
153:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:42:25.27 psodnzsT
>>152
激しく同意するwww
154:神も仏も名無しさん
14/05/05 18:28:13.53 wrRSDZDD
>>150
> 釈迦や釈迦カルトがいくら足掻いても、「己の我を以って無我を説いた」と
> いう釈迦の初歩的論理矛盾、勘違いは解消されない。小学生からも笑われる。
「釈迦は己のイデアを根拠に万事にイデアが存在しないことを説いた」のではないよ。
完全に間違って理解してる。
デカルトは「人間は考える葦である」と言って、己のイデアから物事のイデアを考えようとしたけど、
現代哲学はイデアは論証できないことに気付いて今に至る。
釈迦はその遥か昔に既にそこにいた。イデアは論証できないからあると言えない。
つまり科学的に言えば「イデアは無い」
それが諸法無我
だと思う。
155:神も仏も名無しさん
14/05/05 18:58:58.86 13tjSu5l
「イティブッタカ」オススメだよ。
無我に拘るよりも、鼻孔下に意識を置いて入出息の観察をしたり、
身体の感官を感じ取ったり、一歩引いたところから感情・思い・考えを観察する。
さらには、感情・思い・考えの生起を観て捉える。
こうした事からやっていった方が良いと思う。
深い集中状態で心身が親和した状態になってから、色々気付く事ができて深い理解ができるんじゃないかな。
156:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:16:30.32 ERQrP7Pt
>>154
「考える葦」はパスカル。
デカルトの「我思う、故に我あり」では、いくら自分で「我あり」と思っても、
共同体の不特定多数の成員が我の身体を知覚してくれなければ「我は無い」。
人間の共同体性の視点が完全に欠如している。西洋哲学の誤謬の根源である。
釈迦の「無我」は、デカルトの裏返しに過ぎない。尚悪いw。
157:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:27:10.05 wrRSDZDD
>>156
> 「考える葦」はパスカル。
すまんwwwさっきパスカルのこと書いた本読んでたから間違って書いちゃったすまんパスカル
> デカルトの「我思う、故に我あり」では、いくら自分で「我あり」と思っても、
これこれ。
158:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:48:25.65 wrRSDZDD
で、現代哲学はイデアを克服して構造主義が現れ今に至る。釈迦の無我に追い付いてきてる
159:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:20:15.21 MlQh63Ni
どこで質問すればいいのかわかんないんですけど、ここでいいのでしょうか。
お釈迦様は偉大な方なんですが、お母様はマヤ夫人ではなくてブチャラーパティー様だと
思うのですが違いますか?
あとスジャータさまは乳粥というか母乳をお釈迦様に与えてそれで悟りを開いたらしいんですが、
これも真実でしょうか。 いつもスジャータさまをたたえる歌としてコーヒーミルクの
スジャータのCMが有名ですが、これも日本沈没を促す歌として強く歌われているらしいのですが、
やはり真実なのでしょうか。
160:コレ悟りかよ!?w
14/05/05 20:37:25.16 m+eetlFF
>>159
俺もスジャータの母乳が飲みたいです。
すいません・・・想像したらちょっと興奮してきました
161:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:52:36.89 MlQh63Ni
ブチャラーパティー様が手を結んだ悪神は相当に悪い連中であり、
ときにはスサノオ、あるときはアメノホヒ様かアメノホシオミミ様で
実はやはり悪神であるということらしいのですが。 偽ユダヤの総帥になっているともいわれている方だそうなのですが。
何か心当たりがあるかたがいらしたら、是非教えてください。 お願いします。
162:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:59:23.87 ERQrP7Pt
>>158
構造主義も現象学も、むしろ中論ではないかな。
中論は、量子力学や相対性原理はもとより、ソシュールの言語学さえ先取り
している。ハイデッガーの「世界内存在」もそうだね。唯識は、フロイトの
先取り。
釈迦の無我が、西洋哲学にどんな影響を与えているのか判らない。サルトルは、
本質は認めないが、その前に実存を認めている。釈迦は、実存さえ否定する。
ニーチェは、仏教を「唯一の実証的宗教」として絶賛したが、これも大乗仏教
のことだろう。
163:神も仏も名無しさん
14/05/05 21:44:26.40 2ID6jh29
>>162
縁起があるから自性を否定してるだけで、実存は否定してないだろ。
意味・思考は必ず記憶映像に準ずる。つまり後付け。
肉体・精神はほぼ無自覚に動く。
164:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:12:17.02 wrRSDZDD
>>162
>唯識は、フロイトの
先取り。
現象学とか実存主義は唯識に繋がるんじゃないかね
165:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:13:19.92 2ID6jh29
自性がないから十二支縁起というものが成り立つわけで
自性があるなら十二支縁起というものは成り立つわけがない。
それがどうしたに繋がるが、
四諦が言いたいがためのように思う。
166:ルパーン Ⅲ
14/05/05 22:14:18.18 M+ct7nrD
禅定による脳内メカニズム。
禅定によって脳内に高揚感ホルモンの
解脱物質と言われるエンドルフィンが分泌される。
そして分泌の揺らぎで高揚感が生起消滅し移り変わり無常を感じとる。
そして高揚感も消してゆく(エンドルフィンの分泌が抑止)されてゆく。
そして感受作用が断絶して滅尽定となる。
167:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:30:05.27 wrRSDZDD
>>163
> 縁起があるから自性を否定してるだけで、実存は否定してないだろ。
存在論としては唯物論的、構造主義的だけど
認識論としては唯心論的で実存主義的な部分があるとおもう。
ただ、実存というと現実のしがらみから離れた自由な自分というニュアンスもあるからその意味では実存を否定したともいえるかも。
私としては存在論としては唯物論的構造主義的に存在するからその意味では存在は規定されており本来は決定論的に必然で世の中が動くけど
人間の能力的に決定論的必然を知り尽くすことができないから
認識論としては不完全な認識能力から未知が生じることで人は自由な気分実存の気分を味わえる、
また不完全な認識能力ゆえに人は未知に規定された主観を通じてしか物事を認識できず
ゆえに究極的には唯識論的にしか世界を認識できない、
ということになると思う。
168:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:34:27.21 O9ii+pjQ
>人間の能力的に決定論的必然を知り尽くすことができない
謙虚なフリした傲慢だな。