14/05/05 16:55:46.14 wrRSDZDD
>>142
> 諸行無常 諸法無我を解明できたのは仏教だけ
その昔ヘラクレイトスは万物は流転すると言ったけど、
特に近代以降、カントは純粋理性を批判したし、科学では反証主義で形而上から離れたし、ニーチェは神の死を言ったし、かたや実存主義以降、かたやレヴィストロース以降の流れで構造主義が生まれ、
そういった色々が釈迦においての六師外道のように今後の西洋哲学に作用するんじゃないかな。
これらをもう少し進めて統合したら釈迦の思想というか言葉の理解に至るのじゃないかなあ。
> そしてそれは未だに論争が絶えなく、哲学思想如きでは解明できない
> 他の宗教・思想では絶対に解明できない
> 当の同門の僧侶さえ解明出来てないのが多いのだから仕方ない
149:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:05:20.15 wrRSDZDD
>>145
> 西洋哲学が好きなら何も仏教に首を突っ込んで挑む必要は無い
現代西洋哲学と仏教(少なくとも宗教的な部分を除いた哲学的な部分の仏教)は親和するよ。
> 西洋哲学の限界は「観察者」は除外して考察する矛盾を回避できないところにある
> それはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が示すとおり、自分自身の解明がそこまでしか出来ない事を意味する
それは近代以前の西洋哲学。デカルトからはもう離れたところに来ている。
> 仏教はそれより深い部分を考察では求めない、哲学は考察だけで求めようと苦心する
科学哲学の発展で、西洋哲学の考察方法も科学的なものになった。信仰から離れたといってもいいかもしれない。ザックリ言うと存在論と認識論になった。
そういう意味では釈迦に近づいたとも言えると思うが。
> 哲学と仏教を混ぜて考えてはならない、同時に仏教を宗教として考えてもならない
宗教として維持されてきた側面もあるけど、それ以前に仏教の根本は存在論と認識論ではないのかな。
150:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:13:53.14 ERQrP7Pt
釈迦や釈迦カルトがいくら足掻いても、「己の我を以って無我を説いた」と
いう釈迦の初歩的論理矛盾、勘違いは解消されない。小学生からも笑われる。
人前では言わないほうがよいw。
また、「苦楽」は相対的概念で、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」で一発
でチャラ。「一切皆苦」は、釈迦の鬱病の症状以外の何物でもない。釈迦仏教とは、
釈迦の精神病の感染であるという病識を持つ努力をしよう。
151:○
14/05/05 17:22:13.61 UDqzv96h
>>142
> 諸行無常 諸法無我を解明できたのは仏教だけ
>>150
>「一切皆苦」は、釈迦の鬱病の症状以外の何物でもない。
「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」は常見者向けの対機説法だったそうですので
あまり固執して議論する必要はないでしょう。
もし、断見者向けに「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」を説かれた仏典をご存じの方は
(大智度論への反論として)御紹介いただければ幸甚に存じます。
断見者にそのような説法をすれば、虚無論者に陥るかも知れませんね。
152:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:29:56.61 E5u6ZitZ
36: おさかなくわえた名無しさん@転載禁止 [sage] 2014/05/05(月) 15:17:46.75 ID:EuDTucGj
お前ら宗教板の議論スレにでも行けよ。
この世界が妄想なら確かめようのないことは尚更大妄想だから。
それにお前みたいに頑張って仏教の知識だけつけても
いつも不毛な議論に時間を費やしてばかりってなるだけで
結局は何の実り無く、虚しい人生で終えるのがどうせオチなんだから
他人までを自分の下らん妄想に付き合わせて巻き込もうとするなよな。
迷惑なんだよ。
153:神も仏も名無しさん
14/05/05 17:42:25.27 psodnzsT
>>152
激しく同意するwww
154:神も仏も名無しさん
14/05/05 18:28:13.53 wrRSDZDD
>>150
> 釈迦や釈迦カルトがいくら足掻いても、「己の我を以って無我を説いた」と
> いう釈迦の初歩的論理矛盾、勘違いは解消されない。小学生からも笑われる。
「釈迦は己のイデアを根拠に万事にイデアが存在しないことを説いた」のではないよ。
完全に間違って理解してる。
デカルトは「人間は考える葦である」と言って、己のイデアから物事のイデアを考えようとしたけど、
現代哲学はイデアは論証できないことに気付いて今に至る。
釈迦はその遥か昔に既にそこにいた。イデアは論証できないからあると言えない。
つまり科学的に言えば「イデアは無い」
それが諸法無我
だと思う。
155:神も仏も名無しさん
14/05/05 18:58:58.86 13tjSu5l
「イティブッタカ」オススメだよ。
無我に拘るよりも、鼻孔下に意識を置いて入出息の観察をしたり、
身体の感官を感じ取ったり、一歩引いたところから感情・思い・考えを観察する。
さらには、感情・思い・考えの生起を観て捉える。
こうした事からやっていった方が良いと思う。
深い集中状態で心身が親和した状態になってから、色々気付く事ができて深い理解ができるんじゃないかな。
156:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:16:30.32 ERQrP7Pt
>>154
「考える葦」はパスカル。
デカルトの「我思う、故に我あり」では、いくら自分で「我あり」と思っても、
共同体の不特定多数の成員が我の身体を知覚してくれなければ「我は無い」。
人間の共同体性の視点が完全に欠如している。西洋哲学の誤謬の根源である。
釈迦の「無我」は、デカルトの裏返しに過ぎない。尚悪いw。
157:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:27:10.05 wrRSDZDD
>>156
> 「考える葦」はパスカル。
すまんwwwさっきパスカルのこと書いた本読んでたから間違って書いちゃったすまんパスカル
> デカルトの「我思う、故に我あり」では、いくら自分で「我あり」と思っても、
これこれ。
158:神も仏も名無しさん
14/05/05 19:48:25.65 wrRSDZDD
で、現代哲学はイデアを克服して構造主義が現れ今に至る。釈迦の無我に追い付いてきてる
159:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:20:15.21 MlQh63Ni
どこで質問すればいいのかわかんないんですけど、ここでいいのでしょうか。
お釈迦様は偉大な方なんですが、お母様はマヤ夫人ではなくてブチャラーパティー様だと
思うのですが違いますか?
あとスジャータさまは乳粥というか母乳をお釈迦様に与えてそれで悟りを開いたらしいんですが、
これも真実でしょうか。 いつもスジャータさまをたたえる歌としてコーヒーミルクの
スジャータのCMが有名ですが、これも日本沈没を促す歌として強く歌われているらしいのですが、
やはり真実なのでしょうか。
160:コレ悟りかよ!?w
14/05/05 20:37:25.16 m+eetlFF
>>159
俺もスジャータの母乳が飲みたいです。
すいません・・・想像したらちょっと興奮してきました
161:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:52:36.89 MlQh63Ni
ブチャラーパティー様が手を結んだ悪神は相当に悪い連中であり、
ときにはスサノオ、あるときはアメノホヒ様かアメノホシオミミ様で
実はやはり悪神であるということらしいのですが。 偽ユダヤの総帥になっているともいわれている方だそうなのですが。
何か心当たりがあるかたがいらしたら、是非教えてください。 お願いします。
162:神も仏も名無しさん
14/05/05 20:59:23.87 ERQrP7Pt
>>158
構造主義も現象学も、むしろ中論ではないかな。
中論は、量子力学や相対性原理はもとより、ソシュールの言語学さえ先取り
している。ハイデッガーの「世界内存在」もそうだね。唯識は、フロイトの
先取り。
釈迦の無我が、西洋哲学にどんな影響を与えているのか判らない。サルトルは、
本質は認めないが、その前に実存を認めている。釈迦は、実存さえ否定する。
ニーチェは、仏教を「唯一の実証的宗教」として絶賛したが、これも大乗仏教
のことだろう。
163:神も仏も名無しさん
14/05/05 21:44:26.40 2ID6jh29
>>162
縁起があるから自性を否定してるだけで、実存は否定してないだろ。
意味・思考は必ず記憶映像に準ずる。つまり後付け。
肉体・精神はほぼ無自覚に動く。
164:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:12:17.02 wrRSDZDD
>>162
>唯識は、フロイトの
先取り。
現象学とか実存主義は唯識に繋がるんじゃないかね
165:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:13:19.92 2ID6jh29
自性がないから十二支縁起というものが成り立つわけで
自性があるなら十二支縁起というものは成り立つわけがない。
それがどうしたに繋がるが、
四諦が言いたいがためのように思う。
166:ルパーン Ⅲ
14/05/05 22:14:18.18 M+ct7nrD
禅定による脳内メカニズム。
禅定によって脳内に高揚感ホルモンの
解脱物質と言われるエンドルフィンが分泌される。
そして分泌の揺らぎで高揚感が生起消滅し移り変わり無常を感じとる。
そして高揚感も消してゆく(エンドルフィンの分泌が抑止)されてゆく。
そして感受作用が断絶して滅尽定となる。
167:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:30:05.27 wrRSDZDD
>>163
> 縁起があるから自性を否定してるだけで、実存は否定してないだろ。
存在論としては唯物論的、構造主義的だけど
認識論としては唯心論的で実存主義的な部分があるとおもう。
ただ、実存というと現実のしがらみから離れた自由な自分というニュアンスもあるからその意味では実存を否定したともいえるかも。
私としては存在論としては唯物論的構造主義的に存在するからその意味では存在は規定されており本来は決定論的に必然で世の中が動くけど
人間の能力的に決定論的必然を知り尽くすことができないから
認識論としては不完全な認識能力から未知が生じることで人は自由な気分実存の気分を味わえる、
また不完全な認識能力ゆえに人は未知に規定された主観を通じてしか物事を認識できず
ゆえに究極的には唯識論的にしか世界を認識できない、
ということになると思う。
168:神も仏も名無しさん
14/05/05 22:34:27.21 O9ii+pjQ
>人間の能力的に決定論的必然を知り尽くすことができない
謙虚なフリした傲慢だな。