09/05/20 11:18:24
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在してゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。
さういふときは、餅網は餅が黒焦げになるに委せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。
餅網の論理にとつては、罪と罰は一体をなしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に恩恵を蒙つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。
三島由紀夫
「法律と餅焼き」より
396:名無しさん@社会人
09/05/20 11:19:34
かくて、終局的に、責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。
三島由紀夫
「法律と餅焼き」より
397:名無しさん@社会人
09/05/20 11:20:20
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。
古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを目的として、
おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を逸してしまふといふことである。
三島由紀夫
「法律と餅焼き」より
398:名無しさん@社会人
09/05/29 10:40:25
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。
精神といふと、またいつもの精神主義かといはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松蔭の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思つてゐる。
「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫
「『孤立』ノススメ 六、松蔭は狂はなければならなかつたといふことについて」より
399:名無しさん@社会人
09/05/29 10:41:26
吉田松蔭が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松蔭の時代にも、全てをシニカルに見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、
とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。
さういふ状況の中で、松蔭は、孤立して狂つてゐるのではないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。
そして、松蔭が異常に孤立した、自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫
「『孤立』ノススメ 六、松蔭は狂はなければならなかつたといふことについて」より
400:名無しさん@社会人
09/05/29 10:47:29
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。
わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
三島由紀夫
「『道義的革命』の論理―磯部一等主計の遺稿について」より
401:名無しさん@社会人
09/05/30 12:24:24
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしくなくてはならぬ。
おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
…知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
三島由紀夫
「わが漫画」より
402:名無しさん@社会人
09/05/30 12:27:01
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならないのだ。
あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
…もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況である。
漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。
…さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて書いてゐる、といふその状況である。
三島由紀夫
「わが漫画」より
403:名無しさん@社会人
09/06/10 10:40:04
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」
と言ひ出すのを見ては、私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
…思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、いくら割り引いてみても、
知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
…大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。
社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で押して来られたら一トたまりもない。
幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をしてゐられるから、
平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと同じである。
三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ」より
404:名無しさん@社会人
09/06/10 10:42:39
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。
子供にだつて、シュークリームとあんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、
自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを与へつづければ、
世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、
われわれは言論を通じて、公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。
三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ―日本文化会議発足に寄せて」より
405:名無しさん@社会人
09/06/10 10:44:46
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、
そのフィルターにくつついた煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。
かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、被圧迫者を装つて、
フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、
フィルターの権威を落すものであると考へる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。
三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ―日本文化会議発足に寄せて」より
406:名無しさん@社会人
09/06/15 13:26:37
Q―現代のビジネスマンに要望することは?
三島由紀夫:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。
あれは商人のお祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね。武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところですよね(笑)。
武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。
明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。
商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。
今の商人といふのはさういふ気持がないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。
三島由紀夫
「武士道に欠ける現代のビジネス」より
407:名無しさん@社会人
09/06/15 13:27:21
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。
どんな国の、いかにも民族資本でもね、インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。
ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。
そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。
自分らが企業体の中で活躍するとき、いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、
さういふものによつてをかされていくといふのは、青年として耐へがたいだらうと思ふ。
三島由紀夫
「武士道に欠ける現代のビジネス」より
408:名無しさん@社会人
09/06/15 13:28:06
Q―士道とは何か。
三島由紀夫:…ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。
内面的なモラルといつてもいい。
内面的なモラルといふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。
それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。
ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。
三島由紀夫
「精神的ダンディズムですよ」より
409:名無しさん@社会人
09/06/17 10:35:51
抵抗に死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。
たとへば抵抗は楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。
ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないで
フランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが非常にいやなんです。
抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。
内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。
…自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。
抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
三島由紀夫
「精神的ダンディズムですよ」より
410:名無しさん@社会人
09/06/17 10:36:32
Q―「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。
「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、
自分で考へてごらんなさい―といふだけなんです。
「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。
われわれの心の中を探つてみると、心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。
やましいものがあれば、士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。
なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。
一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。
三島由紀夫
「精神的ダンディズムですよ」より
411:名無しさん@社会人
09/07/01 12:14:09
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、
死なずにしかも「死」と同じ虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。
同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」「本当に命を賭けた行為ではない」
といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。
現実世界に生きる生身の人間が、ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、
永久にフィクションである芸道には、決して到達することのできない境地である。
「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。
いかなる大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。
彼はただそれを表現しうるだけである。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
412:名無しさん@社会人
09/07/01 12:17:59
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。
今は野球選手や芸能人が大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と
仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、
フィクションの世界観を以て、心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。
現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が見られないのは、一つは、
民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の質と化する
マス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。
小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた
「私小説」のやうな例もあるが、ここではそれに言及する遑はない)
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
413:名無しさん@社会人
09/07/01 12:19:17
ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、
石にかじりついても生きてゐなければ成就されない道だからである。
「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。
これは、唯一偏に貪着する故なり、愚痴ゆゑ、余念なくて上手に成るなり。
何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。
「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、
あらゆるスポーツ、いや、武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。
三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より
414:名無しさん@社会人
09/07/06 16:28:28
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞を
うまく成功させたのは、あの人だけでしょう。
それはどこから学んだかというと、イギリスですね。
日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、
吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。
あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。
それにまたみごとに乗せることができたのは、イギリス的な教養が彼にあったからだけど、
イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。
いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
415:名無しさん@社会人
09/07/06 16:29:40
ところが吉田茂は、そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。
これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。
政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。
国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。
今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。
あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。
欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より