哲学の基本は対話 4の章at PHILO
哲学の基本は対話 4の章 - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
08/06/12 21:06:59 0
哲学の第一命題は
「人間は言葉をしゃべれる生き物だ」
だよな。

3:考える名無しさん
08/06/12 21:49:15 0
聾唖(ry
いやそんなのが問題じゃねえよっつーあれだよな

とりあえず「ある第一命題は共有されうる」ってのはどうだ

4:考える名無しさん
08/06/13 16:16:37 0
しゃべれるじゃなく「しゃべる」じゃないのかな?
はかの生き物はしゃべれないんじゃなくてしゃべる必要がないのかも
知れないし。
人間はことばという道具で自然と自分をつないでいるのかもしれない。
それは最初、対象を持たない叫びであったというけど。

「おぎゃーおぎゃー」とかそうなのかな?

5:考える名無しさん
08/06/13 16:21:12 0
それでおっぱい(対象)を与えられるんだよね。
精神分析ではそう言ってる。

6:考える名無しさん
08/06/14 01:15:57 0
>>2
> 哲学の第一命題は
> 「人間は言葉をしゃべれる生き物だ」

この命題を否定できたら、賞金100万円。




7:考える名無しさん
08/06/14 01:20:09 0
>>6
頭がんで声帯を取ってもそれで人間でなくなることはないから、
言葉をしゃべることは人間の必要条件ではない。
オウムは言葉をしゃべるが人間ではないから、
言葉をしゃべることは人間の十分条件ではない。
否定終わり。・・・・・・100万円くれ。



8:考える名無しさん
08/06/14 01:21:32 0
「喉頭がん」の「喉」が抜けてやがんの。一字のミスで100万円逃したw

9:考える名無しさん
08/06/14 03:40:26 0
「しゃべる」じゃなくて「つかう」じゃないの。


10:考える名無しさん
08/06/14 03:50:12 0
叫びもことばなんだよ。それは動物の吠えや唸りとは違う
存在論的欲求なんだよ。
「しゃべれる」というのは何度もいうようだけどおかしいよ。
優位性の根拠はどこにもないんだから。言葉をつかうために大きくほかの
生き物よりコミニュケーションの齟齬をきたしてもいるのが人間なんだから。

11:考える名無しさん
08/06/14 03:57:31 0
そうか命題としてね。失礼しました。
でもやっぱり間違ってたじゃん。>7
さん、なんで喉、忘れたの?>6と同じ人なの?

12:考える名無しさん
08/06/14 04:03:30 0
でも、やっぱり「しゃべれる」っておかしいな。
優位性の根拠ないもんね。

13:考える名無しさん
08/06/14 04:11:08 0
答えは優位性の根拠はないだけど100万円はいらない。


14:考える名無しさん
08/06/14 06:09:55 0
>>6は馬鹿だけど、

哲学の第一命題は
「人間は言葉を使う生き物だ」
でどう。

この命題を否定できたら、賞金はオレの全財産。


15:考える名無しさん
08/06/14 06:20:50 0
結構深いかもね。

「我思う、故に我あり」と言ったって、
言葉を使ってそう言ってるんだからな。

16:考える名無しさん
08/06/14 06:40:37 0
ぴかぁ~の「言語ゲーム論」を肯定しそうな流れだね。

17:考える名無しさん
08/06/14 09:02:05 0
結局、哲学って
ソクラテスに始まって、ウィトに終わる
ってことだよ。

18:考える名無しさん
08/06/14 13:47:46 0
終わっちゃたの?

19:考える名無しさん
08/06/14 15:56:14 0
でも言葉が人間にとって最も本質的なものなのかどうかはわからない。
言葉が無くても人間の意識はあると思うけど、それがどんな意識なのかわからない。
現に言葉があるんだから、言葉がない状態がどんなものかは知り得ない。
言葉がなければ「私」もないだろうか? 最高位に聞いてみようw

20:考える名無しさん
08/06/14 16:08:59 0
最高位なら「誰が言葉を使ってるんだ?」って言うかも…

「私」が言葉を使っているのか?
それとも、言葉が「私」を使っているのか?

この辺は決着がつかない問題だろうねぇ…

21:考える名無しさん
08/06/14 16:24:41 0
「私」が無くても言葉はある、とか、「はじめに言葉ありき」
っていうのは、いわゆる「超越的視点」「形而上学」
「信仰(あるいは『妄想』)」なんじゃないの?



22:考える名無しさん
08/06/14 17:58:50 0
そうじゃなくて、
「哲学の第一命題」ってところが肝だな。
哲学の枠組み内では、
言葉が無ければ始まらない
というわけか。

23:考える名無しさん
08/06/14 18:42:27 0
>>21
でも、「超越的視点」「形而上学」「信仰(あるいは『妄想』)」というのもまた同じように言葉だ
それらの言葉で指し示される第一命題はおそらくナンセンスなものになるのだろうけど、
それを言ったらナンセンスじゃないものなんかあるか?とも思う

まあ、ここで問題になるのは「私」を消去した先の世界についての哲学は、
ことごとくナンセンスなものになりはしないかってことなんだろうけどね
「私」を消去するほうがナンセンスなのか、
それとも言語を消去するほうがナンセンスなのか、
哲学そのものを消去してしまいかねない問題

僕個人としては哲学はあるひとつの方法でしかないと思ってるので、
単純に第一命題というのは一通りには定まらないだろうとしてるのだけど

24:考える名無しさん
08/06/14 19:04:32 0
早くも新スレとは!
乙ですな~>1

25:考える名無しさん
08/06/14 21:17:24 0
>>19
ニーチェの「力への意志」がありますよね。
本質と言えばこちらのほうが本質?でもそれを指し示すのにことばを
やはり用いてる(笑)

26:考える名無しさん
08/06/14 22:01:54 0
>>23
>「私」を消去するほうがナンセンスなのか、
>それとも言語を消去するほうがナンセンスなのか、
>哲学そのものを消去してしまいかねない問題

「私」も言語も、どちらも消去はできないと思うんだけど、
でも、物質の根源性を主張する唯物論のあやしさと同じような
あやしさが、言語の根源性の主張にはあるような気がする。
存在を「物質」として規定しているのが「私」であると
同じように、ある特定の記号的なものを「言語」として
規定しているのも「私」なのかもしれない。

人は言葉なしには思考できないということを良く聞くけど、
ほんとうにそうなのかな。
もっとぼんやりした、言葉以前の思考もあるのではないかな。

27:考える名無しさん
08/06/14 23:24:13 0
言葉以前の思考というとちょっと今度は超自然のほうにあやしくなりそうで
むつかしいです。

言葉は中間項として扱えばいいんじゃないですか?

28:考える名無しさん
08/06/14 23:30:17 0
意識の流れとか思念の流れとかあるでしょうね。
ぼんやりしながら何かに思い当たるのを待っている時間のような。
これを思考というのは文学的表現になるのかな・・・。

29:考える名無しさん
08/06/14 23:49:55 0
前スレがまだ続いています
前スレからの議題以外の話はしないでください

30:考える名無しさん
08/06/15 00:07:47 0
沈黙とことばです。ニーチェと精神分析です。

31:考える名無しさん
08/06/15 00:14:22 0
つながりわからないのかな

32:考える名無しさん
08/06/15 00:22:08 0
シニフィアンとシニフィエの話になるんだろうねこうなってくると
非言語的イメージ(シニフィエ)は確かに存在するはずだと個人的には思いたい
でも、「人間はシニフィエを持つ生き物だ」なんて、
第一命題としてはあまりにも技術的すぎるし、
そう思うとなんか「人間は考える生き物だ」
みたいなののほうがまだ哲学の第一命題としてふさわしいのではないかとも思う

33:Absalom ◆owNN8RDlXo
08/06/15 00:23:39 0
気分や考えを言葉という形にすることによって、整理できる。そして言葉は論理に従うから、数学の計算をするように、
考えを前に推し進めることができる。

34:エートル・オートル
08/06/15 02:46:26 0
>>1さん
新スレ感謝。また書かせていただいていいですか?

言葉と沈黙をめぐるトピックの流れだと思うけれど、
言葉をめぐる思考も言葉でしか表現できないわけで
自分の尻尾をかみながらぐるぐる回らざるを得ないような
そんなもどかしさがあるね。

35:Absalom ◆owNN8RDlXo
08/06/15 06:35:10 0
人間は言葉だけでは思考できないでしょう。感情がいるでしょう。感情を元に価値付けをするでしょう。

36:考える名無しさん
08/06/15 06:59:23 0
哲学以前なのか哲学以後なのかをはっきりせよ。
スレタイは「哲学の基本は対話」なのだから、哲学以後なのでは。

37:考える名無しさん
08/06/15 07:10:39 0
哲学と呼ばれるような行為は文字が発明される前からされてきたのでは。だから、いつから哲学が始まったか
というような問いはここでは有効ではないでしょう。

38:考える名無しさん
08/06/15 07:11:09 0
どうぶつはさ、「人間てまだ言葉とか使ってんの?wだせえw」って思ってるだろうな。触毛部分で。

39:考える名無しさん
08/06/15 07:43:59 0
>>36
哲学以前なのか哲学以後でなくて、
哲学内なのか哲学外でなのでは。

というか「哲学の範囲」をしっかり定めよだろう。


40:考える名無しさん
08/06/15 08:28:11 O
39
哲学の範囲を知ることは宇宙を知ることである。誰にもできないだろう。

41:考える名無しさん
08/06/15 08:30:28 0
>>38
ことばをつかうのは人間が最初じゃないの。?

42:考える名無しさん
08/06/15 08:43:15 0
猫だって言葉は使うけど、哲学は出来ないよ。

43:考える名無しさん
08/06/15 08:47:53 0
猫が 言葉を使うなら命題が成り立たないじゃない

44:考える名無しさん
08/06/15 09:15:14 0
猫だって哲学してるよ? 猫語だから人間には読めないけど。

45:考える名無しさん
08/06/15 09:16:17 0
言葉はものを象徴的に扱うわけで猫はそんなこと
やってるかな?「お父さんとか、お母さんとか」

46:考える名無しさん
08/06/15 09:30:32 0
>44
人間に読めないならそれを言っても仕方ないじゃない。
確証はないんだろうから。

47:考える名無しさん
08/06/15 09:32:57 0
もし、ことばをつかってるなら文化が生まれる筈なんだけど。

48:考える名無しさん
08/06/15 09:48:22 0
>>46
だったら、人間以外が言葉を使っているか否か、
哲学をしているか否か、文化があるか否かは人間には分からない、
と正直に言えよ。確証なしに否定するなよ。

49:考える名無しさん
08/06/15 09:54:33 0
>48
ごめん。だけど君も確証なしに断言してるから。(笑)


50:考える名無しさん
08/06/15 09:59:39 0
ねこに文化はないよね。

51:考える名無しさん
08/06/15 10:55:30 0
我輩は猫である

52:考える名無しさん
08/06/15 11:22:28 0
アタゴウルは猫の森
「人間は想像力豊かだニャ~(ひでよし)」
「ことばの機能です(作者)」

53:考える名無しさん
08/06/15 11:24:42 0
で、ことばに振り回されたりもします。

54:考える名無しさん
08/06/15 11:28:05 0
ことばがすべてを言い表してくれないからだよね。

55:考える名無しさん
08/06/15 20:57:15 0
>>50
猫の集会ってあるじゃないですか。あと、猿のいも洗いとか。

56:考える名無しさん
08/06/15 21:17:15 0
人間でも、
たとえば、AさんがBさんをフットボールの観戦に連れて行き、見せる。
ただそれだけ。その時、Aさんのそのフットボールの試合に対する諸々はBさんに伝わってはいない。
Bさんには、同じ環境がBさんの世界に現われているだけ。
解釈も、その試合の持つ意味も伝わってはいない。
猫(動物)でも、そのように『同じ経験』をさせることは可能かもしれない。
しかし、その時、Aさんが解説をしてBさんにAさんの解釈やらどこが重要かとかを伝えるように、
猫(動物)が、A猫が感じ、解釈している世界像をB猫に伝え得るのだろうか。
猫に言語的なものがあったとして、猫語はそれを可能とするだろうか。

57:考える名無しさん
08/06/15 21:24:10 0
あれ文化っていう?八チとかも情報交換するらしいけど自然的本能的な
ものだよね。サルのイモ洗いは確かにみんなが真似してるから文化なのかなぁ?
サルは枝をつかって蜂蜜だかありだか食ってたな?でも文化というと
死との関わりが問題となって出てくると思う。お墓をつくるとか。
そういうのが出てきたら文化といえると思うんだけど。
死の意識ね。それと交換。芋と木の実の交換とか。めずらしい葉っぱとの交換とか
人間の場合もそうなってはじめて文化って言われるしさ。
あとは羞恥ね。アダムとイブが急に裸をはずかしくなったみたいに。


58:考える名無しさん
08/06/15 21:32:59 0
>>57
死については、象の墓場とかいう本当か嘘か分からない事がありますね。親は子供の死を悲しむというのは、
動物の世界でも同じです。人間くらい手先が器用なら、墓のようなものも作るかもしれない、と思いました。

59:考える名無しさん
08/06/15 21:38:28 0
>>56
>猫(動物)が、A猫が感じ、解釈している世界像をB猫に伝え得るのだろうか。
>猫に言語的なものがあったとして、猫語はそれを可能とするだろうか。

多少は伝わってるんじゃないのかな。
でもそういうのって、結局は、程度問題になってくるのかも。
人間の言語は他の伝達手段と比べるとより明晰化してるんだろうけど、
動物にもそれなりの伝達の仕方はあるでしょう、たぶん。

人間でも、言語以外に、アイコンタクトだとかスキンシップによる
会話らしきものもあるし。


60:考える名無しさん
08/06/15 21:44:04 0
悲しむのか不可解なのかわからないと思うよ。ひからびたら
水洗いとかしてるのみたけど。それと動物は種としての連続性が
あるといわれるから人間のような慟哭はないと思うな。
立派な墓じゃなくていいんだよ。しるしで。
サルぐらいならつくれると思うよ。象の墓場も残ったものの方の意識
だよ。そこへお参りにいくとか。そういう兆候があればね。

61:考える名無しさん
08/06/15 21:52:25 0
動物はことばはつかわなくてもいいし
哲学もしたくないんじゃないかなぁ(笑)
自分は誰かなんて興味ないんじゃないかなぁ

62:考える名無しさん
08/06/15 22:00:30 0
>>61
人間の言葉が悲劇を生むという運命は、ソポクレスの「オイディプス王」にくわしいですよね。

63:考える名無しさん
08/06/15 22:06:15 0
最高に進化した宇宙人は、
「人間では哲学がわからんだろう」
といってるかも。

64:考える名無しさん
08/06/15 22:17:36 0
哲学がわからないって?

65:考える名無しさん
08/06/15 22:19:29 0
最高に進化した宇宙人がわからない。

66:考える名無しさん
08/06/16 08:13:28 0
>人間でも、言語以外に、アイコンタクトだとかスキンシップによる
>会話らしきものもあるし。

目は口ほどにものを言う。
いくら営業スマイルで頑張っても、
どうしても好きになれない人に対しては、
目がそれを語ってしまうらしい・・・w
動物でも、そういうのはあるだろうね。

67:考える名無しさん
08/06/16 09:02:15 0
>>53
>で、ことばに振り回されたりもします。
>>54
>ことばがすべてを言い表してくれないからだよね。

言葉のネガティブな側面について
言葉によって世界を分節することを、丸山圭三郎は「言分け」と言っていて、
生物としての感覚世界で世界を分節する「身分け」構造に加えて、
人間は言葉による「言分け」構造を持ったとしている。

そういう、言語のもつ分節化作用はポジティブにもネガティブにも
受け取り得ると思うけれど、ネガティブに受け取った代表的な例が、
禅仏教の「不立文字」だと思います。
禅仏教は「言分け」によって分けられたものを「妄想」としてネガティブに受け取った。

西洋哲学ではたぶんデカルト~カントあたりで、この「分ける」ということの
問題点が浮き彫りになってきた。
デカルトは物と心を分けたために、あとでそれを結びつけるのに難儀した(心身問題)し、
カントも分けるのが好きな人で「現象と物自体」「感性と悟性」「理論理性と実践理性」
等々と分けたけれど、あとでそれを結びつけるのに苦心した。

カント以降は、そういうふうに「分ける」ことそれ自体に問題点がある
のではないかという考え方が広まってきたと思います。
ヘーゲルもたぶんその一人で、ヘーゲル流にいえば「分ける」ということは
そもそもそこに共通の根があるから分けられる。
分けられたものを固定的にとらえないで動きとしてとらえて、
分かれる以前のところを考える。そういう考え方はヘーゲルにも仏教にも
カント以降の現代思想のいくつかにも共通していると思う。

68:考える名無しさん
08/06/16 09:54:44 0
>>67
「ハイデッガーの無は何もないという無ではない。」
と前スレで誰かおっしゃっていましたがそういうことですかね。
存在を裏打ちしている無というか。

ハイデッカーの「存在と無」について話したいというかたがおられましたが
お願いします。
わたしはハイデッガー読んだことありません。(笑)

ことばについて考えるのは私たちが想像的に空想的にあまり言葉に取り込まれたり
しないためにも大切だと思います。
言語の構造を知るということは。

69:考える名無しさん
08/06/16 12:39:10 0
これ、次スレから>>1に入れるといいんじゃないかな。
前スレに埋もれてしまうのはもったいない。

999 名前:対話スレ1章の1です[sage] 投稿日:2008/06/16(月) 10:24:44 0
以下はうろ覚えながら、当時の「Sさん」の荒らしに対するコメントです。

―たとえどのような挑発的な煽りや罵倒であれ、こうしたところに書き込むという
行為は、誰かと対話したいという切実な表明なのです。
そうした名もない彼らにとってどのようなコテであれ、すべてのコテは
闇夜に提灯なのです―。

これを読んで深く同意しました。
まさしくコテさんたちは闇夜の提灯であり、暗い海を航海する船乗りたちの指標となる
燈台の灯りなのですね。。。
船乗りのなかには、名前のある豪華客船の一等航海士もいれば、無名の漁師たち、
怪しげな密航船や海賊船の人夫たちもいるのでしょう。
燈台の灯りは彼らすべてにとって大切な指標なのです。

ここに来ればこのコテさんに会える、あそこに行けばあのコテさんに会える、
すべての名無したちにとってコテはまぎれもない道標なのですから。

70:考える名無しさん
08/06/16 13:01:22 0
>>69
>すべての名無したちにとってコテはまぎれもない道標なのですから。

これを書いた人は、カオルを良コテとしてる時点で。。。
(これほどのコテ擁護者であるところから普通に考えて
これを書いた人自身がコテの一人なわけだが・・)

ここの前スレを荒らしてたのもコテだったんでしょう?


71:考える名無しさん
08/06/16 14:48:54 0
>70

>これを書いた人は、カオルを良コテとしてる時点で。。。
当時のカオルさんをご存知の方でしょうか?
わたしは一回だけしか対話したことはありませんが、
親切なコテさんでしたよ。
ベッド・ミドラーの「The Rose」について語り合いました。
コテさんに対する印象は人それぞれなのでしょうね。。。

>(これほどのコテ擁護者であるところから普通に考えて
>これを書いた人自身がコテの一人なわけだが・・)
コテを擁護していると>>70さんが受け取られるのはご自由ですが、
わたしはここの対話スレではいつも名無しです。
対話スレ1章の1であるわたしが、対話スレに熱心に書き込んでくださるコテさんたちに
感謝し、敬意を抱くのは特別なことではないと思うのですが。。。
何か>>70さんのお気に障ったのでしょうか?


72:考える名無しさん
08/06/16 15:17:47 0
べつに最初に書き込むことないいんじゃない?そのつど言えば。
71さんがそう思うのはいいですけど。
熱心にかきこめば敬意を抱くというのも歯切れ悪いですね。
いいコテさんならそりゃ敬意も抱くでしょうけど。
コテハンの方は批判を受けると逃げも隠れも出来ない感じで大変です。
しかもイメージ枠があるような気がしてせまっくるしい。
たたき台にされても本望だ。復活なんて望まない。
そんなコテさんなら私も敬意を表します。
ところでコテさんが絶対いないとダメなんでしょうか。そんなにアッピール
しなきゃいけないんでしょうか?私は掲示板不慣れなものでわかりません。

73:考える名無しさん
08/06/16 15:22:02 0
対話だからあんまりコテさんが意味を込められると
ヘンじゃないですかね。

74:考える名無しさん
08/06/16 15:47:12 0
ドットさんのようなコテさんはある意味すごいですよね。

75:考える名無しさん
08/06/16 16:56:57 0
>>69
>前スレに埋もれてしまうのはもったいない。
ありがとうございます。
そのように好意的に受け取っていただき大変光栄です♪
お礼のほうが遅くなってしまいました。

>>72
>コテハンの方は批判を受けると逃げも隠れも出来ない感じで大変です。
同意です。

>ところでコテさんが絶対いないとダメなんでしょうか。そんなにアッピール
>しなきゃいけないんでしょうか?
もちろん>>72さんのような名無しさんでも大歓迎ですよ♪
ただ、コテをつけるとわかりやすいという利点はありますね。

>私は掲示板不慣れなものでわかりません。
ようこそ、対話スレへ!
新しい方は大歓迎ですよ。
恥じることなく臆することなくどんどん書き込んでください♪


76:考える名無しさん
08/06/16 16:57:57 0
>>73
>対話だからあんまりコテさんが意味を込められると
>ヘンじゃないですかね。
う~ん、そんなにコテさんに対して構えなくてもよいかと思いますね。。。
コテさんはたとえていうならば、渡り鳥たちが海を渡るときに、遠路ゆえの羽を休めるため
波に浮かぶ流木の役割に近いのではないでしょうか。
あっ、流木がある! 少し止まろう、みたいな。。。

>>74
>ドットさんのようなコテさんはある意味すごいですよね。
はい! まったく同意です! 
すごすぎまする。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。(汗、汗、汗、、、)


77:考える名無しさん
08/06/16 17:29:46 0
>>76
コテかコテじゃないかなんてどうでもいいでしょう?
ということを>>73さんは言っているんだと思うけど。
(まあこんな話も、つまらないのでやめよう。)

78:考える名無しさん
08/06/16 17:46:53 O
(`_´)ゞ了解!
失礼しましたm(_ _)m

79:67
08/06/16 19:20:02 0
>>68
>「ハイデッガーの無は何もないという無ではない。」
>と前スレで誰かおっしゃっていましたがそういうことですかね。
>存在を裏打ちしている無というか。
>ハイデッカーの「存在と無」について話したいというかたがおられましたが
>お願いします。

上の引用文に似たハイデガーの文章を一つ引用してみましょう。
「無は決して何ものでもないのではなく、さりとて、ある対象という意味での
あるものでもない。無は存在そのものであり、人間がその真理を委ねられるのは、
人間が主観としての自己を克服したとき、したがって、存在者をもはや客観として
表象しなくなったときである。」

「客観」(対象)として表象してしまうと、表象された対象は、主観によって
意味づけられた何かある物(something)になってしまう。
「無(=存在)」はそういう‘something’ではなくて、主観によって意味づけ
られる以前の、何であるか(本質)を言うことができないもの(nothing)。
>>67につなげて言えば、それは言葉によって分節化される以前の‘nothing’。

もう一つ大事なのは、「無」を「無(=存在)」として受け取ることができる
ためには、「主観としての自己を克服」していなければならないということ、
つまりそれは主体の側の問題だということ。

それは、仏教でいわれる「空」を「空」として見るためには、主体の意識の側も
空化していなければならないと言われていることと同じだと思う。
AはあくまでもA、BはあくまでもBと、自己同一的に自立したものとして、
世界を意味づけて、世界を対象化している主体の意識のあり方を変えないと
「無」を「無(=存在)」として受け取ることはできないということでしょうね。


80:67
08/06/16 19:34:15 0
対象化できないはずのものを、言葉によって対象化して語っているんだから、
言葉の用法が日常的な普通の用法とはちがってきますね。
ハイデガーの文章が奇妙で難解なところがあるのも、ハイデガーが新しい造語を
多く使うのも、そういうところからきていると思います。

永井均氏の〈 〉の記号なども、言葉以前のものを表そうとする記号でしょうね。
禅問答の言葉が日常的な意識から見れば意味不明であるのも同じようなことでしょうね。


81:考える名無しさん
08/06/16 19:58:47 0
「存在」という無理筋をいくら読んでも無駄なのでは。
こんなことウィトゲンシュタインも言ってたが。


82:67
08/06/16 20:10:11 0
>>81
>「存在」という無理筋をいくら読んでも無駄なのでは。

まあ、無駄だと思う人には無駄なんでしょうけど。

ただ、その辺のことを思索している哲学者(それを読む人も)は、どこまでが
無駄でないのか、どこからが無駄なのか、どこまでが「哲学」といえるのか、
ということも同時に考えていると思うんですよね。
その境界線はあいまいなものだから。


83:考える名無しさん
08/06/16 20:56:18 0
もちろん、読者は均一で無いから、
一部には受けて、また一部には無視されるってところかな。

84:佃煮マニア
08/06/16 21:46:29 0
>>79
ほぼ同内容ですが、すこし言葉を変えると、
イデアの投射によるポイエーシスでもって現前されたものが存在で、
未だ手つかずのものが無ということですよね。その、ものを基体と呼ぶとして、
最初から終わりまで手つかずだった基体が、本来手を加えられるべきなら、
基体は存在する可能性を含んだ無であって、存在は無の原型だから、
あながち対立した概念とも言えなくなるという事ですよね。

>もう一つ大事なのは、「無」を「無(=存在)」として受け取ることができる
>ためには、「主観としての自己を克服」していなければならないということ、
>つまりそれは主体の側の問題だということ。
この辺を例をとりながらくわしく見ていくと、、、
どうしても存在と無がイコールとして見られず、どうでもよくなってしまう意識が、
無=存在の矛盾を生み出すケースは確かにあります。
ちょっと極端ですが、





85:佃煮マニア
08/06/16 21:47:50 0
例えば、寝坊をした朝、朝食を抜いて出かけてしまおうと思いつつ
今どうしても目玉焼きの半熟を食べたい、猛烈にお腹がすいている、
よし5分で作って1分で食べよう、と、勢いよく冷蔵庫を開けるも、
ラックに卵が存在しない、でも今食べなきゃ嫌だ!というような場合。

86:佃煮マニア
08/06/16 21:48:59 0
こういう、精神的にゆとりがなくなっている時、
「卵のラックにイデア性が欠如していたために非存在つまり無なのだ、
だが存在する可能性をはらんだ無なのだな、なるほど。なるほどなあ。」
と納得する事など到底出来ず、むしろそんな理屈は、
ポイエーシスを執り行う人間の、自由意志による自らの生成、
つまり空腹を半熟で満たす事を前提条件としてもらって、
それから受け入れられるべき非存在である訳だし、

87:佃煮マニア
08/06/16 21:50:16 0
もっと俯瞰するとして、
「この状況こそが、神の手によってポイエーシスされた、
存在と非存在の同一性をくぐり抜けるイデアの美なのだな、なるほど。」と
無理矢理納得しようとしても、人間の生成はますます脅かされるばかりで、
この矛盾を何としても問いたださなければなるまい。という考えに至り、

88:佃煮マニア
08/06/16 21:51:20 0
主体である私が時間がないし空腹のあまり憤慨していている事を
まずは反論の動機として意志表明しなければ説得力を持てないので、
「どらあ」と奇声を発し、冷蔵庫の中の調味料や麦酒を片っ端からその場にぶちまけ、
その上でのたうち回りながら泣きわめいてみたらどうか。それしかない。
と思い詰め、くだらないアクションをとって自暴自棄になりつつ
「このようにリスクを冒してでも、全力で存在と無の相反を主張するものである。」
と一人ごちる結果になるのです。

89:佃煮マニア
08/06/16 21:52:39 0
つまり、制作や生産、それに関わる生活に精神的ゆとりが持てない場合、
存在と無が極度に離反されていくのです。

だから、卵がない場合なども、
「そうだ、ちょっと遅刻してホテルで朝食とっちゃおうかな、フフフ」
で済めば、矛盾は解消されるでしょう。

90:67
08/06/17 00:19:39 0
>>84-89
>ほぼ同内容ですが、すこし言葉を変えると、・・・

ハイデガーの「無(=存在)」は、「非存在」ということとは違うと思うので
「非存在」についての話は、また全然別の話になりますね。

ハイデガー流にいえば、卵の非存在は卵という「存在者」を前提としていて、
「存在者」の否定であるにすぎないので、「無(=存在)」ではない、
ということに、たぶんなります。


91:考える名無しさん
08/06/17 01:11:32 0
初心者でわからん。
「存在」の話はなんか役に立つのですか?
目的もわからないので。

92:考える名無しさん
08/06/17 01:16:50 0
>>91
他者及び外界の存在を信頼すること無しに(→他者及び外界の存在想定すること無しに)、
貴方が日常を送れるというなら、「存在」に関しては等閑視しても構いませんよw

93:佃煮マニア
08/06/17 01:21:00 0
えっそうなの?なんかややこしい・・・
無と非存在では正確にはどう違うんですか?


94:考える名無しさん
08/06/17 01:26:27 0
独我論や懐疑論、認識の限界、認識の壁、
これらと日常(≒実際の生活)との戦いが、哲学の出発点かもしれませんw

95:67
08/06/17 01:45:30 0
>>93
卵の非存在については、存在者の否定として、「卵がない」と客観的に語る
ことができる(語ってもおかしくない)と思うけど、「無」そのものについて
客観的に語るのはおかしいんですよね。
客観化(対象化)されたものが「無」であるというのは、おかしい。

ハイデガーのいう「存在」も、そういうものなので、ハイデガーは
「客観化」とか「対象化」とか「表象」ということを嫌うんですね。
「客観化」され「対象化」され「表象」されたものは、「存在(=無)」
ではなくて、何かあるもの(someting)になってしまう。


96:考える名無しさん
08/06/17 08:24:49 0
「無」そのものなんてそれこそ無いんじゃ?

97:考える名無しさん
08/06/17 10:07:50 0
言葉遊びとそう無い部分(あればの話だけど)の境目がわからないな。

98:考える名無しさん
08/06/17 11:09:41 0
>>95
英語で無をnothingというとおかしいのでしょうか。いうなら、noでしょうか。

99:考える名無しさん
08/06/17 16:12:05 0
nothingでいいよ。

100:考える名無しさん
08/06/17 17:00:35 0

☆☆お知らせ☆☆

対話スレ・3の章が本日dat落ちしてめでたく殿堂入りを果たしました。
過去ログは以下、無料で「哲学保管庫」もしくは「23ちゃんねる」で閲覧できます。

【哲学保管庫 2ch_174/philo 】
「哲学の基本は対話・2の章」
URLリンク(wannabe.fam.cx)

「哲学の基本は対話・3の章」
URLリンク(wannabe.fam.cx)


【23ch.info】
「哲学の基本は対話・2の章」
URLリンク(www.23ch.info)

「哲学の基本は対話・3の章」
URLリンク(www.23ch.info)


101:エートル・オートル
08/06/17 22:54:21 0
>998@前スレ
哲学板の歴史はまったく知らないけれど、
スレ主「Sさん」と言葉を交してみたかったですね。
>1000@前スレ
こちらこそ書かせてもらいありがとう。
もちろん1さん@前スレにも感謝を。
(たぶんこの4スレ目がこの板での最後の書き込みになるかな)

102:エートル・オートル
08/06/17 22:58:51 0
無は非存在ではないのか、無は存在するのか、
無というものをどう考えればいいのか、というトピックは、
語るのが困難なだけに興味深いね。、
言葉遊び、というよりも、言葉に弄ばれる事態に陥りそうになるのは、
おそらく存在そして/あるいは無、というペアが、
言葉そして/あるいは沈黙、というペアに密接に関わっているからでは、
という思いを抱きつつ、レヴィナス『時間と他者』から。

―「万物が無に帰した様を想像してみよう。
その場合、我々は純粋な無に出会うことになるのだろうか。」―

レヴィナスはそう自問しながら続けて「ある」に向かう。

―「万物のこのような想像的破壊の後に残るのは、
何ものかではなく、ある(イリヤ=il y a)という事実である。
万物の不在が、ひとつの現存のように回帰する。」―

そして、「すべてが失われた場所として」「空虚の充溢として」「沈黙の呟きとして」
立ち戻ってくるのだと、レヴィナスは語る。

103:エートル・オートル
08/06/17 23:22:49 0
レヴィナスはいう、すべてのもの(エヴリシング)が消え去った後、
何ものか(サムシング)ではなく、エヴリシングの不在が回帰する、という。
それは、純粋な無(ナッシング)というよりも、「ある(イリヤ)」それ自体で、
存在するものがすべて消え去ったあと、「ある」という存在することが回帰する、と。

言葉は、固定化/対立化に向かう傾向があり、それが言葉が仕掛ける罠となる。
言葉を固定化(名詞化)するのではなく、流動化(動詞化)させることで、
罠をかいくぐれるんじゃないだろうか。
「虚無の充溢」「沈黙の呟き」という言葉をもっと動詞的にとらえられれば。

レヴィナスと学生時代からの友人であったブランショ『文学と死ぬ権利』から。
―「語は私に存在を与えるが、存在を奪われた存在を与えるのだ」―

104:考える名無しさん
08/06/18 07:20:18 0
ことばについて語ると堂々めぐりになりますね。
そこではことばの空想的役割が極力避けられて観察の対象になっているから。
そこから抜け出すにはことばの空想の働きをいくらか回復して
羽ばたくよりほかはない。
ですからこういう「存在」の堂々めぐりは逆に大きく空想を働かせているのだ
と捉えてもいいのかも。
そういうことばの働かせかたに興味を持たない人もいるでしょうね。
ウィトゲンシュタインのことが出ていましたが。>81
私もそんなには好きではありません。空想は楽しいですが(笑)
もちろんまったく無駄とも思いません。というかよくわかっていないのかも
しれません。


105:考える名無しさん
08/06/18 07:37:43 0
もとろん言葉の空想的働きを極力さけて言葉について語ること考えることは
大切なことです。

106:エートル・オートル
08/06/19 00:03:11 0
>>104>>105
空想のはばたき。これは異常性に踏み込む第一歩かもしれないですね。

日常性のなかに、理性のなかにとどまりつつ、
語りうることのみを語りつくそうという姿勢では
確かに前期ウィトゲンシュタインがその最北に赴いたでしょうね。

しかしながら、>>79-80で67さんが書いていた、
「言葉によって分節化される以前の‘nothing’」を
それでも言葉でもって考え、表現しようという暴挙に出ようとするとき、
「大きく空想を働かせて」思弁的になっていくように見えながらも、
言葉を脱臼させながらも、それを武器にせざるをえないという
自分の身を削ってゆくような難しさがある気もします。

107:エートル・オートル
08/06/19 00:15:36 0
だから、下僕さんが前スレで書いていたように、
存在/無、言葉/沈黙、生/死が対立しない視点というのは、
気違いじみた異常性の領域に導く面があるのでしょう。

上/下や左/右という対概念は、
それが空間という固定化の視点で分節された言葉である点で、
言葉/沈黙、存在/無、生/死というペアとは質的に異なっています。
生/死という名詞を、生きる/死すという動詞に変えてみること。
そして名詞がいかに運動を抑圧しているかに気づくことが、
言葉の罠をかいくぐるひとつのスキルだと思えます。

108:エートル・オートル
08/06/19 00:23:01 0
佃煮さんが例にあげた「冷蔵庫の中に存在しない卵」。
卵の「消失」「不在」がもっていた具体性、現実性が、
哲学的なコンテクストの中ではそれこそ失われてしまいます。

しかしながら、これは「抽象化」という言葉の罠なのでしょう。
言葉には、もともとそういう具体性を殺す働きがあります。
「薔薇」という言葉には、この薔薇、あの薔薇という個別性を殺してしまう。
「卵」という言葉も、今朝半熟にするはずのあの卵という現実性を消す。
―「語は私に存在を与えるが、存在を奪われた存在を与えるのだ」―
というブランショの言葉は、こうした文脈と無縁ではないでしょうね。


109:考える名無しさん
08/06/19 00:23:40 0
しかし、ヒトの認識に於いて、
動的な(状態)のまま対象を捉えることは難しい・・。
いや、寧ろ不可能なのではないか?
ヒトは、対象を静的に捉えることしかできないのではないか?
動的なまま捉えているように錯覚しているが、静止画の連続としてしか捉えていないのではないか?

110:エートル・オートル
08/06/19 00:40:43 0
ブランショは、死(モール)という名詞の中に死にゆく(ムーリール)という動詞を与えます。
そのとき、生きることと死にゆくことは限りなく近づくでしょう。

またブランショのレシを読んでも度々目にするのは、
夜と昼が、遠さと近さが、現前と消去が、終わりと始まりが
「そして/あるいは」という接続詞で結ばれているような関係です。
―「この近さを常軌を逸したもののように思わせていたのは、
この現前が遠ざかってゆくということの切迫だったのである。」―
       (『私についてこなかった男』)

111:エートル・オートル
08/06/19 00:47:17 0
>>109
対象として「捉える」という行為自体が、固定化することでしょうね。
知は、対象化し、辞書に掲載し、図書館に所蔵しようとする。
だから、バタイユは無謀にも「非知」という言葉を使ったのでしょう。

112:考える名無しさん
08/06/19 01:21:21 0
いや、それはすでにわかったことなのですが宙ぶらりんになるのは嫌だなと言うことです。
ウィトゲンシュタインも「読者は、いうなれば、梯子を登りきったのち、
それを投げ捨てなければならない」といっていますが自分はデッキチェアにでも
身を横たえてゆっくり高見の見物なと思うのでかれの言葉に唆されることなく
趣味じゃないよと言う人はゆっくりしたほうがよかろうということです。
かれが言うようにそちらの方向だけに哲学があるわけではないでしょう。
人が語れないがゆえに語りだすのもわかってはいますが。


113:考える名無しさん
08/06/19 01:30:11 0
人間にはやはり生物学的な身体もあるので形而上的なというか観念・概念的な
ことを語るにしてももう少しおっとりゆこうよ。ということでしょうか。

114:考える名無しさん
08/06/19 04:20:22 0
>>109
ゼノンのパラドックス

115:考える名無しさん
08/06/19 09:15:20 0
エートルさん。本編をお願いしたいんですよ。

116:考える名無しさん
08/06/19 09:28:56 0
上下は単に対概念じゃなく反対概念だったでしょう?
やっぱ上下左右は空間概念であって反対概念ではないと?(笑)

誕生と死だったらどうなんでしょうね。
生と死なら“いま”の私のなかでたしかに進行してるわけなんですけど。


117:佃煮マニア
08/06/19 18:54:34 0
>>95
無の中に滞留して、無を客観的に語る事は出来ない、
存在者がどんなにがんばっても無を対象化する事は出来ない、
観念上の無は意識の中に取り入れる事すら出来ない、って事ですよね?
ちょっと言葉を間違えちゃったかもしれません。
ご指摘ありがとう。

118:佃煮マニア
08/06/19 18:54:55 0
存在の正体をつかもうとして、うっかり、人間の最大の道具である
言葉に手を借りようとして、下手をすると言葉はたちまち瓦解を始めます。
じゃあどうしたらいいのか?
存在と無を同時に獲得するにはどうしたらいいのかなんて考え始めて、
これに
世界とは知覚された意識の有り様だ、というような観念的世界観をプラスすると、
人間の経験の重み、日常性の価値がたちまち希薄化してしまいます。
藤村操って人がいますが、この人もやはり、
哲学のために対概念を同時に獲得しようとしたのかは、定かじゃありませんが
「大いなる悲観は大いなる楽観に一致する」なんて言葉を遺して、
二十歳の時に、けっこうポジティブな気持ちで死を決断しました。
こんな例もあります。
誰彼となくメランコリックにさせる観念哲学っていうのは、
甘い毒を含んでいますね。

119:佃煮マニア
08/06/19 19:00:03 0
>>107>>110
名詞を動詞に変えるのはいいアイデアですね!
また、
動的なイメージを日常で上手く捉えてる言葉ってありますが
名詞のあとに「みたいなの」「とか」「っぽい」と使ってみると、
固定化された語のイメージの輪郭が揺らぎ始めます。
あいまいさの元となる代名詞や副詞をできるだけ避けずに
かつ明晰に、動的なイメージの連続(観念)を表現出来ればいいですが、
これは、今の所、哲学より文学の方が得意としている所ですよね。
こういう事もあってブランショは文学を選んだんですかね?
一方哲学は・・・
あいまいさを哲学によって描写していく術って、他にも色々あるんでしょうか。

120:佃煮マニア
08/06/19 19:01:12 0
エートルさん、もう話せなくなってしまうんですか?
泣きたい。。。
もしよければ、理由を聞かせてもらってもいいでしょうか。
もし、私の無神経で恥知らずな書き込みが、理由に絡んでいるなら
本当にごめんなさい。

121:考える名無しさん
08/06/20 13:13:35 0
他のみんなは歓喜。。。

122:考える名無しさん
08/06/20 16:39:41 0
そういうこと言わないの

123:エートル・オートル
08/06/22 02:09:51 0
>>120
どうかあやまらないでくださいヨ。
というか、どうしてあやまるんですか(笑
というか、あやまるような誤解を与えてしまったようなので、
こちらこそすいません。
佃煮さんはもちろん、他の誰のどのレスに対してもそうですが、
ここで不快に思ったことなど一度もないですヨ。

実は7月下旬あたりから長期出張が入りそうなので
持続的に書けなくなりそうだなあと思ったのです。
それに1スレからかなり書いてきたなあとも思い、
出張から戻ったあと、そろそろ別の板に視点を戻そうかな、
ということを考えていたのでした。

佃煮さんとは文学や芸術にも関心があるようなので
場所を変えてもまた話ができるかなあと思ってました。

124:エートル・オートル
08/06/22 02:21:20 0
>>119:佃煮マニアさん
>名詞のあとに「みたいなの」「とか」「っぽい」と使ってみると、
というスタイルでも固定化を逃れることはできますが、
そういうファジーな方向への脱固定化というよりも、
やはり名詞を動詞化する方向での脱固定化を図りたい、
というのが当方の考えです。
佃煮さんも書いているように「動的なイメージ」です。

>動的なイメージの連続(観念)を表現出来ればいいですが、
>これは、今の所、哲学より文学の方が得意としている所ですよね。
というのは同意で、多くの哲学は概念を厳密に規定しようとする分、
言葉=概念を固定化する方向に強く動いてきたわけですが、
絶えず揺れ動くエモーションを描写してきた文学のほうは、
言葉のモーションを尊重する方向に動いてきたといえるでしょうね。

125:エートル・オートル
08/06/22 02:30:30 0
(つづき)
>こういう事もあってブランショは文学を選んだんですかね?
もしかしたらそうかもしれませんね。
レヴィナスは哲学のほうへ、ブランショは文学のほうへ向かいましたが、
「エートル(存在)」という言葉を「イリヤ(ある)」に置き換えはしても、
レヴィナスの言葉は当方にはまだ静的に見えます。

思想を知の対象にさせないこと、思想を固定化させないこと、
思想を動的なダイナミズムの中で生きさせる(体得させる)こと、を考えるとき、
ニーチェが『ツァラトゥストラ』を書くにあたって、
非哲学的=文学的形式を選んだことは示唆的ではないかと思います。

126:エートル・オートル
08/06/22 02:38:50 0
(つづき)
>あいまいさを哲学によって描写していく術って、他にも色々あるんでしょうか。
言葉の両義性を思考した哲学者では、やはりデリダをまず想起します。
パルマコン(薬そして/あるいは毒)、イメン(処女膜そして/あるいは婚姻)などは、
デリダが特権的に焦点をあてた言葉の例ですが、さらに興味深いのは、
存在と無の境界を指示するために「痕跡」という言葉を多用していることです。

>>118
藤村操の「大いなる悲観は大いなる楽観に一致する」ですが、
ニーチェの影響(健康そして/あるいは病気)がありそうな言葉ですね。

127:エートル・オートル
08/06/22 02:43:00 0
最近読んだ本にアガンベン『スタンツェ』がありますが、
そこにもこのトピックに関連したところがあったので、
今度引用してみます。

他のレスについてもそのときに。

128:考える名無しさん
08/06/22 14:27:34 0
>>120
>もし、私の無神経で恥知らずな書き込みが、理由に絡んでいるなら
>本当にごめんなさい。

「蓄群ちゃん」がどうのこうのと携帯から書き込んでたのは佃煮さんだったの??

129:佃煮マニア
08/06/22 16:50:02 0
>>128
ちがうちがう~。
私も日頃、困った人に「反論ちゃん」とか「東京大学物語くん」とか
使って揶揄したりはするけど、ここで「蓄群ちゃん」はないですよ。
ニーチェ知ったの最近だし。
それに、携帯で掲示板見ると、画面が小さ過ぎて、
せっかく改行に凝ってる人の文が台無しになってイヤなので、見ません。

130:佃煮マニア
08/06/22 16:53:14 0
>>123
長期出張ですか~。お仕事頑張っているようですね。
もう梅雨で体調も崩れやすい季節ですので、お体に気をつけて行ってらっしゃいませ。

ここは、哲学板に初めて来て「いいな~」と思って飛び込んだスレで、
ずいぶん愛着があります。。。
知り合いに「最近理屈っぽくなってない?」と言われつつw
哲学書を読みふけるいい機会を与えてくれた所です。

だから、これからも、気まぐれに何か書き込むかもですが、
もし別の場所でまたエートルさんとお話できるなら、とても嬉しいです。
文学は偏った好みですが、大好きですし、
芸術も、いままで美術やってきましたけど他分野も興味ありますので。

131:佃煮マニア
08/06/22 16:54:38 0
前スレでカーペンターズが出たようなので、少し・・・。
高校の頃、英語の勉強にと集めて、よく鼻唄してました。

ブランショを想起するといえば、カーペンターズもそうですし、
私的にはサティとかRadioheadがピッタリ来ます。
サティもそうですが特にRdioheadの「Rainbow」は、
どこかしら観念的で・・・自らの病に疲れ果てながらも、
目の前に開かれた内的世界に没入せずにはおれない、というような
ある種の「けだるさ」が、透明感あふれるサウンドの中に漂っています。

132:佃煮マニア
08/06/22 17:00:10 0
>>124>>125
その、固定化を嫌い、常にランダムで流動的な意識を記述する為に
精神分析では自由連想の分析とか、文学ではお筆書きなんてのがあります。
(他の分野でも何か似たようなものがあるかもしれませんが)
精神医学では、こういった手法が治療を疎外するので、
最近はまったくやらないというか批判されつつありますし、

お筆書きも、部分的に取り入れてトランス状態の表現に活用するとか
例外的な方法はありますけど、やっぱり邪道とされてますよね。
ブランショも批判していたと思います。

こういった手法は、ドラッグカルチャーと密接に結びついているので、、
あんまり押し進めて社会で普遍化されると、社会が退廃に向かってしまいます。
デリダは礼賛したけれど、あの人はマリファナ所持で逮捕されましたよね。

ポストモダニズムの台頭が昔ありましたが、、熱が冷めてみると
合理的に整えられた文章に安心感を覚えている事に、みんな気づくんです。
それを壊すのは、誰かに芸としてやってもらいたいと思ってます。
一方、絵画や音楽など純粋芸術分野は、夢や下意識の表現を良しとしています。
芸術には、どんなに退廃してもらってもかまわないという、
社会の認知があるらしいですw

>>126については次にレスします。

133:エートル・オートル
08/06/22 20:37:27 0
>>130 :佃煮マニアさん
>ここは、哲学板に初めて来て「いいな~」と思って飛び込んだスレで、
>ずいぶん愛着があります。。。
そうでしたか。1さん@スレ1とも相談してみますね。

>文学は偏った好みですが、大好きですし、
>芸術も、いままで美術やってきましたけど他分野も興味ありますので。
へー美術畑が専門ですか!
そのへんの話もぜひ聞きたいですね。

>>131
>>前スレでカーペンターズが出たようなので、少し・・・。
えっと、ジョン・ケージ絡みで名前が出たのは、
「沈黙の音」のサイモン&ガーファンクルでは。。。(笑

>私的にはサティとかRadioheadがピッタリ来ます。
サティやグールドは興味ありますね。

134:エートル・オートル
08/06/22 22:21:42 0
>>112 :考える名無しさん
語りうるものと語りえぬものとの境界で
宙ぶらりになるのもいいものかもしれませんよ。
そのとき「宙吊り」の意味も価値も変容するかもしれません。
ウィトゲンシュタインに抗して、こう書いてみましょうか。
語ろうとしてみないことには、
それが語りえぬものかどうかはわからない、と。

>>115 :考える名無しさん
どのトピックについての本編?

116 :考える名無しさん
最初の2行はちょっと意味が不明ですね。
書いてあることだけを再度拾ってみてください。

後半の2行ですが、
>誕生と死だったらどうなんでしょうね。
「生/死」を「生きる/死にゆく」としたとき
その概念は、動詞的に、また流動する時間的概念になりましたが、
「誕生/死」としてしまうと、時間のなかの定点を指示してしまうので、
時間を空間化してしまうといえるでしょう。

135:エートル・オートル
08/06/22 22:22:26 0
>>132 :佃煮マニアさん
「ランダムで流動的な意識を記述する」ということでは
ブルトンらのシュルレアリスムが「自動筆記」をやりましたが、
ウルフ、ジョイスからクロード・シモンに至る文学の系列では、
「意識の流れ」を何とか言語化しようという試みがありましたね。
ただ、哲学においては、流動性=動詞性をいかに概念に与えるか、
これがテーマになるんでしょう。

>デリダは礼賛したけれど、あの人はマリファナ所持で逮捕されましたよね。
いや、所持は捏造で、あれはチェコにはめられたんです。

136:エートル・オートル
08/06/22 22:29:55 0
境界性、両義性に関して、ジョルジョ・アガンベンの言葉です。

―「意味作用のもつこうした両義性は、根本的に、
現前が原初的な亀裂の中にあることから生じる(中略)
現前へともたらされるものすべては、表明することが
同時に隠すことである限りにおいて、すなわち
存在が欠如を提示するという限りにおいて、
遅延や排除の場として現われる(後略)」―
    『スタンツェ』(ちくま学芸文庫)から


137:エートル・オートル
08/06/22 22:38:44 0
「表す/隠す」「存在/欠如」の両義性を語るアガンベンは、
痕跡や差延を語るデリダから影響を受けています。

そうそう、デリダのチェコでの麻薬所持捏造逮捕ですが、
カフカについての講演のためにチェコに行ったデリダは、
自ら語っていたように、思い当たる理由もなく逮捕されるという
カフカ的状況に遭遇したわけですね。

138:67
08/06/23 17:18:16 0
名詞の動詞化というような、表現方法の話になっていますが、
そういうことは、たぶんあまり本質的な問題ではないと思います。
むしろ、表現方法にとらわれることは言葉にとらわれることだと思う。
名詞であれ動詞であれ、大事なのは、その言葉によって思惟されていることが
どのような事態であるのかを思惟することです。

世界の流動性、固定化不可能性を表す語としては、昔から、哲学では「生成」、
仏教では「無常」などの語が使われてきましたね。
ヘラクレイトスの「生成」は、彼の言葉に「同じ川に、二度入ることはできない」
とあり、その「入る」という主体的行為に表れているように、自己を含めた万物流転です。
「無常」も、生滅・転変する世界を「はかない」と嘆くような消極的無常観は本来の
無常観ではないと言われます。
世界を対象化して無常であると観ずるのではなく、本来の無常は、世界と一如である
自己が積極的にその無常である世界の中に入って共に流れるということだそうです。

言葉にとらわれるのではなく、言葉によって思惟されている事柄がどのような事態で
あるのかを考えれば、上の「生成」と「無常」は、ハイデガーの「存在」と遠くはないでしょう。
(ヘラクレイトスの「生成」や仏教の「無常」という語で思惟されている事柄をそれと
全く同じように思惟することはできないけれども)



139:佃煮マニア
08/06/24 20:16:44 0
今日はいろいろ質問させて下さい。

>語ろうとしてみないことには、
>それが語りえぬものかどうかはわからない
これは同意!
語り得ぬ事が語り得ぬ事であるという証明をとるためには、
語ってみるしかないでしょうね。
ただ、記述の意図を第三者が正確に把握できるかどうか、で
語れる語れないが判断されるんでしょう。
追体験が起こりえないとしても、やってみるべきです。
ところで、追体験ってあると思いますか?

140:佃煮マニア
08/06/24 20:18:04 0
>パルマコン(薬そして/あるいは毒)、イメン(処女膜そして/あるいは婚姻)などは、
>デリダが特権的に焦点をあてた言葉の例ですが、
デリダの「痕跡」というのが今ひとつくっきりとイメージできません。
薬、毒の間に痕跡があるのは、日常的にわかりやすいのですけど、
処女膜と婚姻は何でしょう?処女性と娼婦性の間の痕跡、でいいのでしょうか?
ちょっとずれるのかな・・・

141:佃煮マニア
08/06/24 20:23:37 0
>そのへんの話もぜひ聞きたいですね。
ランドスケープとか建築、映像の方面もちょっとだけ勉強しましたが、
絵画全般が大好きです。特にヒエロニムス・ボッシュとかブリューゲル、
最近の若い作家ではイサオ・アンドリューとかKOZYNDANとか。
URLリンク(www.esao.net)
URLリンク(www.kozyndan.com)

エートルさんが絵描きさんだという書き込みがありましたけど
そうなんですか?

142:佃煮マニア
08/06/24 20:28:33 0
>流動性=動詞性をいかに概念に与えるか
この作業をするのが哲学というのは確かにそうです。そうしてみると、
動詞性を概念に固定化、固定化した概念をまた動詞化、という一種のループ現象が
起こってくる様に思えますが、これは、ただ同じ所を堂々巡りしている訳ではなく、
それは、恐らく、螺旋を描きながら、ある地点に向かうものであるでしょう。
どの地点を着陸点と定めたループなんでしょうね?
つまり、この哲学は、どこに向かっているんでしょう。

143:佃煮マニア
08/06/24 20:30:30 0
>むしろ、表現方法にとらわれることは言葉にとらわれることだと思う。
たしかに、本質を露出させる為の記述であり、
正確に記述する為には、記述の様式は一通りしかないのかもしれません。
記述された言葉の配置が一カ所違うだけで、掴もうとした本質の内容が
変質していきます。
その、一カ所二カ所ずれた記述が、また別の、何かを言い表す事もあると思いますが、
それが本質とは別のものであるとしても、それがまた、本来の記述との間のブレから、
流動性が生まれてくるのではないでしょうか。
この流動性を概念化する試みは、意味がないでしょうか。

144:佃煮マニア
08/06/24 20:32:02 0
>「無常」も、生滅・転変する世界を「はかない」と嘆くような消極的無常観は本来の
>無常観ではないと言われます。
無常は万物流転のさまを言い表したもので、
ぶっちゃけ無常は生成のありかたを言い表したもの、ということでしょうか。
面白い考えですね!大賛成です。
こうなると、何事も一事は万事という事で済まされていく様に感じますが、
万物がたった一言でまとめられてしまうのに何か、
はかなさを覚えてしまいます。そして本来的ではない消極的無常観に陥ります。
それを本来の無常に引き戻すには、何が必要なんでしょうか?

145:考える名無しさん
08/06/24 20:57:03 0
>>144
>万物流転のさまを言い表したもので、
は、拡大解釈としてアリかもしれませんが、
>生成のありかたを言い表したもの
は、行き過ぎかとw
無常の本義は「固定化されていない」「恒常的に維持されない」くらいの意味ですから。

> それを本来の無常に引き戻すには、何が必要なんでしょうか?
自分の経験(入力される情報)全てを肯定的に価値付けしていったらどうですか?
たとえ自身にとって負となる情報(経験)であっても、
それを「負と見做さない」とか、「負の情報が入ったこと」そのことを糧とするような・・・。
失敗を重ねた人間は、一度も失敗したことのない人より頼れるかもしれません。
フラレタ経験の多い人は、接し方の多様さを学んでいるかもしれません。
傷つくことを知る人間は、それを知らない人間より、優しい眼差しを持てるかもしれません。

無常であるということは、(→自分が無常であるということは)、
成長の可能性があるということです。

>>138
>世界を対象化して無常であると観ずるのではなく、本来の無常は、世界と一如である
>自己が積極的にその無常である世界の中に入って共に流れるということだそうです。
は、美しいですね。仏教外からこういう言葉が出てくるとは思っていませんでした。
素晴らしい一文だと思います。

146:エートル・オートル
08/06/25 00:37:05 0
>>138
ヘラクレイトス、仏教、ハイデガー。
このへんの名前が出てくるのは哲学板らしくていいですね。
ヘラクレイトスの「万物流転」。仏教的な「諸行無常」。
ハイデガーの「存在」、さらに付け加えるならば、
ニーチェの「生成の無垢」、ベルクソンの「エラン・ヴィタル」など、
世界を空間軸よりも時間軸に重点をおいて流動的に捉えようとする試みは
哲学史上も決して少なくはなかったし、
武田泰淳なんかも諸行無常という言葉を放さなかったけれど、
思考にダイナミズムがあるかどうか、それからまた、
形而上学的ヴェクトルにどう抗しているかが問われるでしょう。

147:エートル・オートル
08/06/25 00:38:20 0
(つづき)

たとえば、まず表現形式と表現内容を分けて考えることは、
プラトニスム的傾向にあるといえるでしょうし、
「言葉によって思惟されていることがどのような事態であるのかを思惟すること」
を実践するとしたら、名詞の動詞化という言葉の中にも、
そこに何が賭けられているのかを思考することが重要になるでしょうね。

名詞の動詞化という例にリンクしていくところのものは、
言葉の逆説性や両義性や境界性であり、概念を対立させるがままにしない思考、
そして空間化、固定化に抗い、多様化に向かう思考といえるでしょう。
つまり、言葉による表現は思考の運動と密接につながっているのですね。

だから、表現形式に注意を向けなければ、、
逆に言葉にとらわれてしまうことにもなるでしょう。
たとえば、デリダが差延(ディフェランス)という造語を使う表現形式にも、
脱構築の実践が賭けられているわけで。

148:エートル・オートル
08/06/25 00:39:11 0
>>139 :佃煮マニアさん
>今日はいろいろ質問させて下さい。
はい、答えられる範囲で(汗

>ところで、追体験ってあると思いますか?
佃煮さんは前に「同伴」という言葉を使ってましたね。
その「同伴」を「追体験」に限りなく近づけられるなら、
それは可能だといえるのではないでしょうか。
ゴッホの絵を見て、ゴッホの筆の動きをなぞること、
グールドのピアノを聴いて、そのタッチを脳裏に描くこと、
ベケットの本を読んで、その思考に随伴してみること、
見る、聴く、読む、というこのレクチュールなしには、
絵画、音楽、文学のエクリチュールも不完全でしょうから。

149:考える名無しさん
08/06/25 00:41:57 0
エートルさんはダイナミズムとか言葉だけやたら派手なんですが。

150:エートル・オートル
08/06/25 00:42:03 0
(つづき)

>処女膜と婚姻は何でしょう?
「イメン」という言葉は処女膜も婚姻をも同時に意味していたようですが、
二項対立図式(そして弁証法的和解も)を崩す両義性が
デリダの注意を浴びたのでしょうね。
前に書いたニーチェの「真理=女=ヴェール」の関連で捉えてもいいかもしれません。
真理は非真理でもあり、覆うと同時に存在を示しもするヴェールとして。
それから「処女航海」という言葉がありますが、
処女航海においては処女性が示されると同時に破れらてもいるといえるでしょう。

>特にヒエロニムス・ボッシュとかブリューゲル、
>最近の若い作家ではイサオ・アンドリューとかKOZYNDANとか
そのへんの話をもっとつっこんで聞きたいですね!
当方はイヴ・クラインの「青」が好きです。

>エートルさんが絵描きさんだという書き込みがありましたけど
誰かさんの空想の産物です(笑
絵画はとても好きですが、自分では何も描けません。

151:エートル・オートル
08/06/25 00:47:55 0
(つづき)

>どの地点を着陸点と定めたループなんでしょうね?
>つまり、この哲学は、どこに向かっているんでしょう。
「着陸点」はおそらく不明でしょうね。
ただし、向かう方向性は多様化と流動化だといえるんじゃないか、
と考えています。
「着陸点」とはそれがひとつの地点である限り空間化された観念です。
空間化は固定化につながり、固定化は概念の対立をもたらします。
わかりやすい例でいえば、ゴール地点を設定すればスタート地点も設定される。
つまり、起源と終焉が設定され、時間が空間化されることになります。

152:エートル・オートル
08/06/25 00:52:53 0
(つづき)

>デリダの「痕跡」というのが今ひとつくっきりとイメージできません。
デリダに沿って語るのはかなりしんどいですが(笑
次の機会に痕跡や差延などについてもう少し付言してみますね。

153:考える名無しさん
08/06/25 01:00:29 0
エートルさんはいつまでも生きてるつもりですか?

154:考える名無しさん
08/06/25 01:17:06 0
空間を持たないってどういうことなんだろうな?

155:考える名無しさん
08/06/25 01:32:27 0
なにか語られているようでなにも語られていない。
というのではないですね?

156:考える名無しさん
08/06/25 03:25:35 0
佃煮さんは女性なんですか?

157:考える名無しさん
08/06/25 03:32:50 0
生と死の対立概念を無効にしてもやっぱり俺死ぬんだよな
という気がするんだけど。

158:考える名無しさん
08/06/25 03:41:32 0
その死とはなんなんだろうと考える。池田晶子は「死は無い」と言った。
心構えは確かに変わるだろうな。
でも、やがて人生は終わる。
表現形式に目を向けるのはいいんだけど、なんか浮遊して冗語になっていく
ような感じもあるな。
しかも構想ばかりの文学的対話だもの。間違い?

159:考える名無しさん
08/06/25 03:45:30 0
>>150
「真理は非真理でもあり」というのが真理じゃないの?

160:考える名無しさん
08/06/25 04:21:37 0
あるいはそれさえも非真理を含むのなら
「真理という範疇はつねに空虚のままにしておかなければならない」
のかもしれないけど。


161:Absalom ◆owNN8RDlXo
08/06/25 05:44:06 0
>>148
私の体験を追体験することが、ニーチェ的な永劫回帰の思想なのではないでしょうか。

162:67
08/06/25 17:03:48 0
>>139
>語り得ぬ事が語り得ぬ事であるという証明をとるためには、
>語ってみるしかないでしょうね。
>ただ、記述の意図を第三者が正確に把握できるかどうか、で
>語れる語れないが判断されるんでしょう。

語りうるものと語りえぬものというその話題は、言葉の問題というより、
根本的には認識論の問題ですよ。
それが哲学的認識と言えるのかどうかの問題。

神についてだっていくらでも語ることはできるし
神について語られた内容を理解することはできる。
でもそのことと、その神が実在するかどうかは別問題。
哲学的に考えれば実在するかどうか分からないものを
実在するものとして語ってしまえば、それは哲学的にではなく
宗教的に語っていることになります。

神のような極端な例でなくても、認識の対象が認識から独立して
客観的に実在するという考え方(たとえば人間の認識とは全く関係なく
地球は太陽のまわりを回っているというような)は、観念論的な
考え方から見れば、語りえぬことを語ってしまっていることになります。
(唯物論は、観念論や実証主義の立場からは「形而上学」とみなされる)

そういうわけで、「語りうるもの」というのは、認識論上の考え方の
違いによって、全然違ってきます。


163:67
08/06/25 17:04:51 0
>>144
>ぶっちゃけ無常は生成のありかたを言い表したもの、ということでしょうか。

それも、「生成」という語で思惟されているのがどういう事柄なのかによるわけです。
仏教で無常という語で思惟されている事柄は、本当は仏教全体(とくに「空」)が
分からないと分からないのだと思います。
龍樹は、縁起だから空だと言ったらしいですが、
視点を変えてみれば、無常だから空だともいえると思います。


164:考える名無しさん
08/06/25 17:07:09 0
>>145
>無常であるということは、(→自分が無常であるということは)、
>成長の可能性があるということです。
可能性とは未知のものに対する動きでありますね。
この先いくらでも柔軟に流動するという。

>>138
>自己が積極的にその無常である世界の中に入って共に流れるということだそうです。
「流される」というと本意ではない感じがしますが、「流れる」は意志が感じられますね。
鴨長明「方丈記」には、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」と
記されていますが、まさにこの世は「流れゆく」ものであり「移ろう」ものであります。

>仏教外からこういう言葉が出てくるとは思っていませんでした。
実はパウロも同じことを言ってるんですね。
「この世のありさまは過ぎ去るからです」―コリント第一7章31節
それゆえ、この世のもろもろのことに執着しないように、と説いています。
つまり、今、苦境にいる人はいつまでも同じ状態が続くわけではないということです。
そして、順境にいる人は自戒せよ、ということですね。


165:考える名無しさん
08/06/25 17:18:21 0
>>164
>順境にいる人は自戒せよ

痛い言葉ですね・・・w

166:164
08/06/25 17:44:54 O
さっそくのレスありがとうございます
パウロは好きです
彼は法律家にも哲学者にもなれた人物です
それらをすべて捨ててイエスに従いました
彼はあちこちの教会に手紙を書きました
手紙は一方通行の対話でしょうか?
いいえ、読み手に届いた瞬間から、いえ、書いた瞬間から手紙は呼びかけの対話なのです

167:67
08/06/25 17:58:55 0
>>164
>「流される」というと本意ではない感じがしますが、「流れる」は意志が感じられますね。

そうですね。どの宗教の根底にも絶対的な受動性のようなものがあるとは思うけど、
受動性と能動性の交錯するところで人は生きていると思います。
「流される」という受動性は、流れと一体になっていないから出てきてしまう
受動性のような気がします。
流れと一体になったところに生命としての能動性が底力のように出てくるのではないかと。

>それゆえ、この世のもろもろのことに執着しないように、と説いています。
>つまり、今、苦境にいる人はいつまでも同じ状態が続くわけではないということです。
>そして、順境にいる人は自戒せよ、ということですね。

少し意味がずれるかもしれませんけど、「苦境」と「順境」ということで思い出した、
好きな言葉があるので引用します。

「自己の真実として大切なことは、逆境を捨てて、順境に赴くことではありません。
かえってただ、今自分が出逢っている生命の実物どおり、まっすぐに生きる姿勢
こそが大切です。」(安泰寺六代目住職の内山興正のことば)

つまらない欲をすてて流れと一体になれということだと思います。

でも今は流れと一体になりにくい時代、生きる実感を得にくい時代、
何がリアルであるかが分かりにくい時代であるような気もします。


168:164
08/06/25 19:05:30 O
貴重なお言葉をありがとうございます
確かに今は流れと一体になるのは難しい時代ですね…
宮沢賢治は法華経の信奉者ですが「銀河鉄道の夜」ではキリスト教に基づいた自己犠牲を描きました
仏教とキリスト教は融合するところがありますよね

瓶に入った手紙は流れに乗って「流れる」ならば相手に届きますが、
ただ「流される」だけなら岩にぶつかり瓶は割れて
手紙は届かないでしょう

ラカンは「手紙は必ず届く」と言い
デリダは「手紙は届くとは限らない」と言いました

斎藤環さんは賢治は絶対にラカンを読んでるね、と力説されています

自らの意志で流れることは手紙を届けるという表明なのですね

169:佃煮マニア
08/06/27 21:17:36 0
瓶入りの手紙としてみると、ここでの対話も何か
情緒的な雰囲気を帯びてきますよね。いいなぁ~(´ー`)

誰の為に書くのか、自分の為か、他者の為か、という議論をデリダがしていて、
これは日常でもよく話される様になりました。
レヴィナスは「方向をうしなった発話は意味がない」と言ってはいたけれど、
例え自分の為であっても、発話は自分の他者性に向けてのものでもあり、
意味があるんですよね。発話は本人の意識の中でよどみを作るだけでも、
上で挙がっていたような「流れ」の一部分を形成するもので、
常に発話は他者をたばねる円環のなかで、受動的に完結します。

>>168で手紙に関してラカン派かデリダ派でいうと、私はラカン派かな。

170:佃煮マニア
08/06/27 21:20:03 0
>>161
確かに!そうですね。すばらしい考えだなぁ。
うちの親がガチガチの唯物論者で、「追体験なんてないんだよ~」
「人間の言語なんて不完全なんだよ~」と言い聞かされて育ったのですが・・・
>>148のエートルさんやAbsalom さんの意見を受けて、
やはり、それは「ある」と仮定した上で、永劫回帰を追っかけてみたくなりました。
>>155
哲学をやっていると、いつもそんな疑問がよぎりますよね。
学問としてやっているなら、ここでのことは、
日常での頭の働かせ方の訓練になっているんじゃないでしょうか。

>>156
最近撮った私の写真を貼ってもいいですよ。見ますか?

171:佃煮マニア
08/06/27 21:21:14 0
>>151
エートルさん、質問攻撃に全て応えてくれてありがとうございます!
ほんとに優しくて真摯ですね。ちょっと困らせちゃったかな・・・

時間を空間としてとらえて座標を設定していく発想ではなくて、
時間と言う流動的な「場」において成熟していく人間の実存が、
ハイデガーの哲学なんでしょうか。
設定された終わり、始まりの中で生きるのではなくて、
生成された時間をもった私が、伸び伸びになっていく、
その流動性を、ハイデガーは生起と呼んだようですね。
そして、世界の中で共生起されている私たちは、
主観と客観を一致させられる・・・
イメージしてみると何か、私たちはアメーバのようですね~^^

172:佃煮マニア
08/06/27 21:22:23 0
>>151
処女航海の例をみると、わかりやすいですね!な~るほど。
ナニナニとかけてナニナニと説く、ということが日常にあふれていますけど、
デリダにかかると、それらが解体されてしまいますね。
彼は落語とかはあまりお好きじゃないのだろうか・・・w

>>150
ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」って絵がありますけど、
悪魔があの手この手でアントニウスを誘惑するんですよね。
ボッシュは己の感覚を脱臼させて、分析不可能なくらい不可思議な生き物達を
描きましたけど、この誘惑者は、ニーチェの畜群と共通点をもちながらも、
悪とは言い切れない愛嬌があります。笑っちゃう程コミカルな魔物もいます。
そして、ニーチェは畜群を断罪したけど、
ボッシュが、おそらく自己を投影させたのだろうアントニウスは、
ただ魔物達の中でじっとガマンし、受け入れているんです。
ごったがえす魔物に翻弄される自分を、不気味ながらも楽しげに描く
ボッシュのキャラクターが可愛くて好きです。

173:考える名無しさん
08/06/28 09:53:17 0
>>170
日常での頭の働かせかたの訓練?そんなものですか?


174:考える名無しさん
08/06/28 10:00:35 0
日常は事務的な作業、取り決めが多く役にたってるとも思いませんが
対話とはそうしたものなのでしょうか?
デイ・ケアみたいな・・・(笑)

175:考える名無しさん
08/06/28 10:10:33 0
>>170
>哲学をやってるといつもそんな疑問がよぎりますよね。
そんなことはありません。哲学に限らず多くの学問が
これは普遍について語っているのかそうでないのかを告げ知らせてくれます。
まあ、宗教でもそういうものが残るのでしょうが。

176:考える名無しさん
08/06/28 10:13:06 0
>>169
単に情緒的雰囲気に流れるのは曲者でもありますけどね。(笑)

177:168
08/06/28 20:59:05 O
ごめんなさい…
どうもわたしは感性に走ってしまう傾向にあります
哲学には向いてないですね……

178:考える名無しさん
08/06/29 16:26:56 0
>>176
その場合は「流される」でしょ。(笑)

179:考える名無しさん
08/06/29 17:39:20 0
(爆)

180:エートル・オートル
08/06/29 22:01:17 0
>>149
まあ遠近法による見え方の違いでしょう。
地味に抑えてるつもりだけど(微笑

>>153
「おまえはもう死んでいる」という北斗の拳の言葉に抗して
デリダは「私はまだ生まれていない」と語ったみたいだけど(微笑

>>159
160でおそらく自答してるようだから、
その問いは既に解消されたんだろうけれど、
159の論理はヘーゲル的な弁証法的欺瞞ですね。

>>161 :Absalomさん
ニーチェの場合、永遠回帰は運命愛の定式につながるから、
「この生をもう一度」という意志の境位に強調点がありますね。

>>168 :164さん
手紙をめぐるラカン、デリダの考察は興味深いですね。

>>169 :佃煮マニアさん
>レヴィナスは「方向をうしなった発話は意味がない」と言ってはいたけれど
フランス語の「サンス」は方向も意味も指しますから。

181:エートル・オートル
08/06/29 22:10:02 0
王妃は手紙の宛名面を裏返す。王はその身振りに気づかない。
しかし大臣は王妃のうろたえた仕草を見て取り、
別の手紙とすりかえる。
探偵デュパンは大臣の部屋で盗まれた手紙を発見し、
これまたそれを別の手紙とすりかえる。

ポオ『盗まれた手紙』は分析しがいのあるテクストで、
手紙の内容は明かされぬままに物語は進行する、
というよりも内容が不明であるために、
ラカン的にいえば浮遊するシニフィアンであるために、
手紙=Ⅹが物語を動かしていく。

王妃→大臣→デュパンというテクスト内の構図を
ポオ→ラカン→デリダに重ねてみるのも一興でしょうか。
つまりポオの作品をラカンがまず盗み、
それをまたデリダが盗み返すというような。

182:エートル・オートル
08/06/29 22:25:22 0
>>171:佃煮マニア
>ちょっと困らせちゃったかな・・・
いえいえぜんぜん大丈夫ですよ

>時間を空間としてとらえて座標を設定していく発想ではなくて、
>時間と言う流動的な「場」において成熟していく人間の実存が、
>ハイデガーの哲学なんでしょうか。
空間化、固定化に抗いながら流動自体をとらえようとする思考は、
不可能性にのぞんでいく思考スタイルでもあると思いますが、
ハイデガーの存在論的差異も生起もまだ充分流動的じゃないというのが私見で、
デリダがそれを極限に近づけたとは思うのですが、
むしろハイデガー~デリダの系ではない別の系、
ベルクソン~ドゥルーズのほうに流動性を感じます。
(ちょっとこのへんは先走りになるのでまた改めますね)

>イメージしてみると何か、私たちはアメーバのようですね~^^
万物はすべて動いてますから、アメーバみたいなもんですね。
石さえも早回しで見れば、風化し、いつしか消えてゆくでしょうし。

183:エートル・オートル
08/06/29 22:52:44 0
>>172 :佃煮マニアさん
ボッシュ「聖アントニウスの誘惑」についてのコメント、
どうもありがとうございます。

不気味&コミカルで、なかなかシュールな矢のしい絵ですね。
「聖アントニウスの飛翔と墜落」というタイトルの絵もあるようですが、
飛翔と墜落が両義的に表現されているというのは、
ここでの話とリンクしますね。

184:考える名無しさん
08/06/29 23:05:33 0
>>180
デリダはいつ生まれるんですか?

185:エートル・オートル
08/06/29 23:06:35 0
純粋な追体験というものはおそらく不可能でしょうが、
原体験においてそもそも純粋さは汚染されていた、
というのがデリダ的視点になりますね。

体験はその前後の時間と切り離された定点にあるのではなく、
過去とも未来ともつながっている一連の流れの中にあるとすれば、
固定化された体験そのものというものはどこにもなくて、
純粋に反復されるような「もの」とはいえないのでしょう。
それは「こと」として、「運動」としてしか反復されず、
差異を孕んだ反復とならざるを得ないのでしょう。
このへんは『差異と反復』のドゥルーズ的視点になりますが。

186:エートル・オートル
08/06/29 23:10:11 0
>>184
ムッシュ・デリダに聞いてください。
といってももうこの世にいませんから、
むかし「現代思想」に載ったインタビューを読んでみてくださいね。

差延 (différance) と痕跡につなげる予定でしたが、
タイムアップなのでまた。

187:考える名無しさん
08/06/29 23:12:08 0
>>180
私はあなたの遠近法の意味をよく理解してないのでわかりません。


188:考える名無しさん
08/06/29 23:34:45 0
そうじゃな、ちょっとムズかしいことをエートル氏は言うのう。
遠近法ってのはじゃな、ハイデガー思想に沿って言うなら、
身体感覚の快不快、対象への欲望の大きさ、関心の程度、配慮的気遣いの質的違いなどなど・・・
それらを脳内で計測するパラメーターがあるじゃろ、
それの数値的設定の事じゃよ。スッキリしたかね?

189:考える名無しさん
08/06/29 23:42:58 0
だから大げさって言ってんですよ。(笑)
「違い」ちゃ違いですよ。みんな違ってるから。


190:考える名無しさん
08/06/30 00:03:28 0
他者の他者性じゃよ。
ギンギラギンにさりげない言葉遣いを読んで
ハッとしてグーなのじゃよ。

191:考える名無しさん
08/06/30 00:07:06 0
過疎化してきましたね。対話になってないもん。

192:考える名無しさん
08/06/30 00:09:47 0
どこがギンギラなんですか?しかしたとえが古くて田舎臭い。

193:考える名無しさん
08/06/30 00:11:34 0
>>190
自己完結?

194:Absalom ◆owNN8RDlXo
08/06/30 01:14:12 0
>>185
私の体験を追体験する、といったときに、「いま、ここ」にあるものをついたいけんするのではなく、
すでに起こったことを後から追体験する、という方法しか採れない。しかも、自分の感じたこと
を再現するわけで、客観的視点には欠けるが、身体性という意味では完璧です。「直接」に
「再現前」するわけで、観客が自分である演劇を行うということ、しかし、それは役者なら
誰もがふつうに練習でしていることではないか?という疑問も浮かんできます。
さて、はたして追体験はこの場合特別な意味を持つのでしょうか?

195:佃煮マニア
08/06/30 21:02:25 0
>>173
デイケアのような、治療訓練のような目的も、
「哲学に寄る治療」というのでアリですね。
哲学ってなんのためにあるんでしょうね?
私から見れば、形而上の区画整理、規定を行うため、です。
見えないものをどう整理して、豊かに捉えるかで
生活意識自体変わってくるでしょう。
その、了解の仕方をシャープに整えるのには、多少事務的作業も要るでしょうし、
取り決めが多く必要になります。役に立ってるんじゃないですか?

196:佃煮マニア
08/06/30 21:03:06 0
>>175
哲学板の多くの人が、語られている事が無意味なんじゃないかという
書き込みをしているので、通念なのかな?と思ったのですよ。
意義を感じないならなぜ語るのかは・・・謎ですが。
自分の存在を開示、解放し合うはずなのに、共通理解を得られない語り合いは、
確かに不毛かもしれません・・・という共通理解をしたつもりで「疑問がよぎる」
と書きました。

学問自体が有意義性を告げ知らせてくれる、と感じるセンスは素晴らしいですね。

197:佃煮マニア
08/06/30 21:04:04 0
>>177
哲学をやるのに、文学的アプローチをするから素質がないとか、
訳の分からない事をいう人がいますが、私はあなたのやわらかい語り口が好きです。
人間本来の意志を、手紙というくっきりした視覚的イメージに置き換えたことで
情緒的な印象になると同時に、非常に的確に論点を突いてもいて、感動しましたよ。

198:佃煮マニア
08/06/30 21:05:09 0
エートルさん

>>169
>フランス語の「サンス」は方向も意味も指しますから。
えっ?本当ですか・・・また間違えちゃったなあw
サンスはどういう意味合いで使われている語なんでしょう?

>空間化、固定化に抗いながら流動自体をとらえようとする思考
存在のあとの×にこめられた思想ですよね。
日常的な意識がもたらす空間化、固定化をすりぬけつつ
本来性をそなえた存在自身が、世界の外へ外へと
意識を拡大させていこうとするのですが、そうやって、
不可知な客観世界や、神の領域に伸びていこうとする私の存在から、
その入り口を封印でもするかのように抹消記号がついています。
存在とは、方向性を持ちながらも閉じられたものである、という
意味があるんでしょう。両義的ですね。ハイデガーはリアリストなんだな~。

199:佃煮マニア
08/06/30 21:07:15 0
追体験のこと

厳密に追体験は出来ないんでしょう。体の構造の違う人間同士が
全く同質のクオリアをもつことは、できないらしいです。
私の体だって日々刻々と変化するから、
自分の体験でさえ、克明に再演する事はできないし。
それはわかってはいるんですが、

Absalomさん
>さて、はたして追体験はこの場合特別な意味を持つのでしょうか?
う~ん。持つ、と考えたいですね。
今挙がっているハイデガー的視点の、共存在と、デカルトのコギトをここにもってきて、
私たちの生は全て相関関係にあり、私たちの生は全て演じられたものである、
とするならば、再現前は、むしろ、差異を含み変換を経て、
新たな意味を帯びて来るのではないでしょうか。

ジャズでも、同じ曲がピアニストによってアレンジアレンジの繰り返しで、
全く違う曲のような新鮮さをもって生まれ変わり、演奏され続けているでしょう?
演奏者達は違いを出したくて演奏している訳ではなくて、
いつかきいた「この曲」の感じ、を自分の中に深化させて、現前させている訳だから。

200:考える名無しさん
08/06/30 21:31:33 0
>>195
たしかにそうだといいですね。

201:エートル・オートル
08/07/02 01:02:53 0
>>187
遠近法という言葉で指し示しかったのは、
パースペクティヴ(視点)が固定されていて単一になっている状態、です。
ある視点からは「Aはとても近い」と見えても、
別の視点からは「Aはとても遠い」と見えることはままあるわけです。
そして、複数の視点を重ね合わせて見る術を手に入れたとき、
近いと遠いという2つの言説がもはや対立するがままにならず、
「Aは近くて遠い」という表現が矛盾ではなくなるようなことが、
理解できるとしたらどうでしょう。

>>190氏の言葉(というより昔のアイドルの言葉かもしれないけど)を借りれば、
「ギンギラギンにさりげない」スタイルも可能となり、
形而上学的かつ弁証法的基盤としての二項対立図式に抗えるわけです。

このへんは簡単で難しいトピックでしょうね。

202:エートル・オートル
08/07/02 01:03:44 0
>>194 :Absalomさん
そうでしょうね。「いま、ここ」は常に新しく生起しつつ、
絶えず「いま、ここ」という時間と空間から逃れてもゆきます。
現前(プレゼンテーション)は自らを裏切るともいえるでしょうか。
つまり現われるや否や消え去ってゆきます。
これが空間化に抗う流動の時間ですね。
だから、「存在」は×印をつけられ、「生成」へと差し向けられる必要があり、
そこには痕跡としての現前しかないともいえます。
デリダがフッサール論で用いた「痕跡」もこうした文脈においてですね。

そして絶えず差異を生み、遅れをともなうこの運動を
差異 (différence)と区別して差延 (différance)という造語で呼び、
差異という名詞を動詞化しもしたわけですね。

203:エートル・オートル
08/07/02 01:10:26 0
差延 (différance)は差異 (différence)の
eをaに変えただけの言葉で、
フランス語での発音は同じ「ディフェランス」。
eとaの差異は聞き取れない、というのがミソです。

Absalomさんが言うように、我々が追体験というとき、
再現前=表象(リプリゼンテーション)としてしかやってこないわけで、
舞台で上演される劇は、常に既に再上演なわけですが、
「私の体験」を追体験するのではなく、他者の体験を追体験するという場合、
それは、自己と他者の「間」で、いわば対話的に行われるといえる、
そんなふうに考えていて、そうした追体験には意味を見出せるでしょう。

あるいはまた、デジャヴュといわれるものの場合ですが、
未だかつて体験したことのないものを再体験=追体験するということも、
可能かもしれないと思ってます。
(が、このトピックはまだうまく表現できそうにないですね)

204:エートル・オートル
08/07/02 01:20:05 0
佃煮マニアさんへ

痕跡と差延についてはAbsalomさんへの書き込みに混ぜちゃいました。

>>196
>共通理解を得られない語り合いは、
>確かに不毛かもしれません・・・という共通理解をしたつもりで
このフレーズはいいですね。

>>197
文学的アプローチ、は決して哲学と離反しないでしょうね。
文学的アプローチが前哲学的かつ非哲学的であったとしても、
哲学するという行為そのものが哲学という枠組みを疑い、
それを壊していく側面をもっているとすれば。

205:エートル・オートル
08/07/02 01:31:25 0
(つづき)

ラカンもデリダもポオの『盗まれた手紙』という文学テキストからの負債で
自らの論を立てたことも、哲学が文学を追体験したといえなくもないでしょうし、
プラトン『饗宴』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』、デリダ『絵葉書』などにも
文学的アプローチを見出せるわけで。

>>198
いや~「間違い」というわけではないのです。
ちょっと言葉が足りなかったので補足すると、
フランス語のサンスは英語ではセンスにあたるもので、
意味、方向、感覚という多義的な語なのです。
「方向をうしなった発話は意味がない」の原文は知りませんが、
「サンスをうしなった発話はサンスがない」という文を翻訳して
上のような訳文になることは可能になります。
レヴィナスもたまにそういう文学的、詩的表現を使ったりしますが、
哲学者のテクストには文学的なレトリックも結構見出せますね。

206:佃煮マニア
08/07/03 19:46:34 0
ちょっとさかのぼって
>>135>>137
「カフカ的状況」って本人も言ってたみたいですね。カフカも気になりますが
麻薬とデリダの事で、やっぱりこう思うんです。

哲学は政治やマスメディアののハッタリを見抜く為にあって、
体制批判をしてこそ哲学者だ、という人もいます。
ところが、政治の欺瞞を暴き出し盛大に批判する手合いというのは、
衆愚政治をしていたい政治家にとっては非常に都合が悪いので、
デリダの様に社会的信用度を失うようなレッテルを貼られたりします。
警察も、すぐに捏造だということで取り消すような逮捕にわざわざ踏み込みましたけど、
この理由は、過激な社会学者としてのデリダを封じ込める狙いがあった・・・
のかも知れませんね。


207:佃煮マニア
08/07/03 19:47:46 0

逮捕は捏造という事になっているようですが、でも~・・・
どうもこの人は麻薬の影響を受けている様に思えます。

多くの哲学者は、ガッチリした論理を押し進め、ひとつひとつ対象を検証していく
思考方法をとっています。
一方デリダのスタイルは、
日常意識から大きく変容した所で無軌道に跳躍、奔流するイメージを
言葉でつなぎ止めていく、といった感じでしょう?

そうやって極みに達しているんですが、この思考方法は、
麻薬常用者の詩人や小説家達と非常に似ています。


208:佃煮マニア
08/07/03 19:52:06 0

確かに、麻薬の常用者というイメージがつくと、
政治活動がしづらくなるし、教授職なんかも失う事になるだろうし、
彼一流のユーモアやウイットに悲壮感が漂い始めてしまう、
というのはあるかも知れませんが・・・

「響宴」を例にとると、
備わっている筈のものをそがれた者として、、欠落した部分を求めて、
あるいは血管を汚し、肉体を犠牲にすることで、一つの完結を見る事ができるなら、
麻薬は美しいとも感じます。自分からはどうも手が出ませんけど。
美しいからというより、無意識を引き出して意識で捉えるのが哲学なのだとしたら、
麻薬が果たす役割を軽視できないんじゃないでしょうか。

デリダは多分大麻ぐらいは吸っていたんじゃないかと思います。
それで、警察も、逮捕は取り消したものの、それは、
「それが哲学に捧げた行為ならまあ大目に見てやるが
 お前が麻薬をやっている事を知っているぞ」
という意思表示だったのかもですね。

なが~くなっちゃったので、>>201からの書き込みには次にレスしますね。

209:エートル・オートル
08/07/05 21:11:20 0
>>206-208 :佃煮マニアさん
ん~どうでしょうね。
デリダが麻薬をやってたかどうかは寡聞にして知りませんが、
やはり麻薬所持疑惑は捏造で冤罪逮捕だとは思います。
これまでデリダを読んできた限りでは、
「無軌道に跳躍、奔流するイメージを言葉でつなぎ止めていく」
というよりは、綿密で具体的なテクスト読解によって
そのテクストのほころびを見出し、また余白を手繰っていく、
という印象があります。

デリダはロゴス中心主義を批判しましたが、
基本的にはロゴスの人だと思います。どちらかといえば、
ドゥルーズのほうが麻薬をやってそうな気も。

210:佃煮マニア
08/07/05 23:20:38 0
>>209
そうかも・・・w どうかな?「かな?」としか言えないんですけど。
デリダのテクストへの印象もそれぞれですね。
ドゥルーズは、3冊しかまだ読んでないですけど、この人は、
狂気に浸りたいというよりも、狂気を観察したい人という印象があります。
その為には自分が酔っていてはならないし、
すごく一本気で生真面目に哲学してたんじゃないかな。
真面目過ぎて面白いんですよ。

211:佃煮マニア
08/07/05 23:22:17 0
>>203
現前は自らを裏切りますけけど、ここで潔癖性的に拒否感を抱いてはいけない
のかも知れません。ここにこだわると、
再現前に対してネガティブな気持ちになってしまうんですよね・・・。
表象は流動性のあらわれだから意味があるとしてみても、どこかで
「一致してないじゃん!」みたいな事を言いたくなるけど、それは違うのかな。
純粋に外界の制約を受けずに回帰できるなんて事は、概念上でしかあり得ない訳です。
気分だってころころ変わっていくし。


212:佃煮マニア
08/07/05 23:23:43 0
ハイデガーも、気分は被投性を開示していると言いました。
人間の気分は自分の中からこみ上げてくるのではなく、
世界の外とも内とも言えない何か非知のものによって、規定されているという事ですが、

何か非知のものを知覚し気分という形に表象するのならば、
これは非知の追体験なんですね。

デジャブは医学的には、初めての体験で脳がストレスを受けた時に
それを緩和するため時間列をわざと取り違えるということらしいですが、
別の角度から見れば、非知を再現前しているという事も言えてきます。

213:佃煮マニア
08/07/05 23:25:32 0
>>205
文学的アプローチを嫌う人は、文学がやけに情緒的な言葉の使い回しをするのと、
言葉を定義せずに展開していくからイヤだと言うらしいです。
多義的な意味を含んだ言葉をわざと多く使って、意味をぼかしているから、
理解するのがしんどいんだとか。
現前の前の差延を嫌う訳です。なんか分かる気もします。

サンスはそういう意味合いがあったんですか~。なるほど・・・
これで納得、、、というか、原典を翻訳するとだい~ぶ文脈も変わってくるものなんでしょね?
原典→翻訳→解説書→2ちゃん書き込みのなかで変換されていく文脈って、
これでいいんでしょうか?

エートルさんってフランス語詳しいですね。
興味範囲も、フランス哲学が主流のような印象を受けます。
留学とかしてたんですか?


214:考える名無しさん
08/07/05 23:30:15 0
下らんね。非知とか云っておるのは、ワケが分からなくなったものの
タワ言に過ぎないのだし。


215:佃煮マニア
08/07/05 23:56:53 0
>>214
ハイデガーが非知と名付けたものの正体って気になりますよね。
彼はこの非知について具体的には書きませんでしたが、
語ろうとするなら、それぞれの持っている物語の共通項を
あぶり出す作業が必要になるかと思います。
私はこれを思ったのがつい最近で、
まだそういう観点で人を多く観察している訳ではないので、
言葉にするのにちょっと慎重になってしまいます。

216:考える名無しさん
08/07/06 00:04:40 0
>>215
非知=原生的 (吉本用語です)


217:考える名無しさん
08/07/06 00:12:02 0
>>216
ありがとうございます。
「原生的」についてはどの本に書かれているか教えてもらってもいいですか?

218:考える名無しさん
08/07/06 00:32:34 0
>>217
「心的現象論序説」など

219:エートル・オートル
08/07/06 09:48:39 0
非知といえばバタイユを思い起こすけど。

220:エートル・オートル
08/07/06 09:49:36 0
佃煮マニアさんへ(>>210ほか)

デリダのテクストの中でも『絵葉書』なんかは異質で、
確かに佃煮さんのような印象を与える面もありますが、
『声と現象』『グラマトロジー』『エクリチュールと差異』あたりは
かなり緻密な読解によって考察を繰り広げていく感じですね。

ドゥルーズの場合は、初期の『ニーチェと哲学』なんかは、
まとまりがよすぎてこんなにわかりやすくていいのかと思いますが、
『差異と反復』や『意味の論理学』あたりになると
哲学者や作品の引用も結構アバウトかつ乱暴にやってて、
ぐいっと力づくでねじふせるような筆運びを感じます。

221:エートル・オートル
08/07/06 10:03:24 0
(つづき)

現前、つまり「現われ」は、それが流動の状態にあるかぎり、
「消え去り」とほとんど同義といってもいいくらいに近接し、
痕跡としてしか姿を見せないわけですが、
消え去りという形でしか現れないともいえるでしょう。
水の流れ、風、を考えると理解できる気がします。

>デジャブは(中略)別の角度から見れば、
>非知を再現前しているという事も言えてきます。
この表現はとても面白いです。
個人的なデジャヴュ体験があるので、
このへんはいつか把握したいなあと思ってたんですよ。

222:エートル・オートル
08/07/06 10:05:32 0
(つづき)

>原典を翻訳するとだい~ぶ文脈も変わってくるものなんでしょね?
原典→翻訳という流れについてですが、追体験に絡めてみます。
翻訳というものを原典の追体験だというふうに捉えると、
原典がオリジナルで翻訳はコピーということになりますね。
でも本当にオリジナルなものなんてないんだ、というのが脱構築的視点で、
原典とされるある作品も、先行する諸々の作品の影響下にあり、
原典自体に翻訳的側面が常に既に書き込まれているといえます。
原典にできるかぎり忠実であることは学問上の基本マナーでしょうが、
在野の当方のような一匹の野ウサギの立場からすると、
翻訳行為が原典を忠実になぞること以上に重要なのは、
それが原典の可能性を引き出す読みになっているかどうか、
という点ですね。

佃煮さんが書き込みをする。当方=エートルが読む。
佃煮さんが言わんとしたことをエートルがうまく読み取っていない、
ということはよくあるでしょうが、
佃煮さんのカキコという行為の中でさえも、
実際に書かれた言葉が自身が書こうとしたことから逸れる、
ということもあるのかもしれません。

>興味範囲も、フランス哲学が主流のような印象を受けます。
ドイツ哲学よりもフランス哲学に興味があるのはその通りですが、
外国語は基本的な単語ぐらいしか知らないんですよ(汗

223:佃煮マニア
08/07/08 21:05:15 0
>>218>>219
なるほど。非知について書いている人がいるんですね。
吉本隆明は前に2冊読んで、独特の言葉遣いがツボにはまりました。

バタイユもよさそう。この人すごいエッチですよね?
ディープでおもしろい論理があるんで、勉強になるかと手に取るんですが、
読んで哲学を悟る前に、色々と仕掛けられたエロトラップをくぐり抜ける
必要があって、でも余りのエロに揺さぶられ、足下をすくわれてしまいます。
「このエロを超えてみなさい」と言わんばかりのバタイユには、圧倒されますよ。
私は・・・超えられずモンモンとしてしまう未熟者なので(爆、
前に読んだ共同幻想論の続きで心的現象論を、先に読んでみようかな。

お二人とも教えてくれてありがとうございます。

>>220
ドゥルーズは映画狂だし、「キップのいい哲学」をやっていて、
大好きな人です。確かにグイグイひっぱって落とす感じはありますね。
デリダも、確かに理詰めの人かも知れません。
エートルさんの言った事を思い出してその気で読むと、新発見があるかもです。

224:佃煮マニア
08/07/08 21:10:47 0
>>221>>222
>水の流れ、風、を考えると理解できる気がします。

そうですね・・・
風や、水の流れにも、現れと消え去りを同時に見る事ができそうな感じがします。
私の中では、まだぼんやりとしたイメージしか持てないのですが、
風が、現れると同時に消え去るのは、どんな経過をたどるからでしょう?

>翻訳行為が原典を忠実になぞること以上に重要なのは、
>それが原典の可能性を引き出す読みになっているかどうか、
>という点ですね。

翻訳されることで反復されるはずの言語も、翻訳されたその時点で、
言語のもとあった形象は消え去ってしまいます。
翻訳が生まれると同時に、崩壊を抱えているわけです。
これが言葉の不完全性なんですね。


225:佃煮マニア
08/07/08 21:13:10 0
翻訳が原典にあった言説を脱臼させる事なく、
軸となる言説のまわりで踊り、字義の意味を強調し、
効果を上げる為の物語のみが形象を変え、発展させることでしょう。
そうすれば、翻訳は有意義なものになるでしょうね。
言語において変換されるどの局面にも、同じ事が言えます。
事象を考察し、著作を引用する原典や、
エートルさんの書き込みを読んで答える私の書き込みの中にも。

次は非知にからめてこのことを日常的に書いてみようかな。
デジャビュのこともからめて。

226:佃煮マニア
08/07/08 21:16:02 0
>外国語は基本的な単語ぐらいしか知らないんですよ(汗

小さな疑問から始まって、マメに辞書を引くのは見習いたいですよ。

高校の英語の先生が言ってた話
「ロシアに行ってまったく言葉がわからないので、
 話しかけてきた現地の人に思い切って日本語で返して、
 そのまま30分くらいロシア語と日本語でお互い一方的に
 会話したあげく、意気投合した」
てのを聞いて感動して、フランス大好きな私も同じ事をしてみようと思い、
旅行に行った時に話しかけてきた現地の老若男女に日本語のみで返したら、
最初「?」て反応するんですけど、その後が英語の先生と同じ展開になるんです。
何回か試してみてもやっぱり同じで、面白かったんですが、
それ以来なんか・・・語学に関して無精になってしまって。

喋ることばと書き言葉ではぜんぜん使われ方も違うし、
やっぱり私もマメに辞書を引く事にします。

227:佃煮マニア
08/07/08 21:21:22 0
あれ?>>225の1行目に
「これへの対策として考えられるのは、」を入れ忘れました。
すみません。アホなんです。

228:エートル・オートル
08/07/15 00:38:09 0
マダカキコメナイカナ。。。

229:エートル・オートル
08/07/15 00:43:57 0
佃煮さんへ

遅くなってスイマセン!
仕事とプロバイダー規制で書くタイミングを失ってました。

>吉本隆明は前に2冊読んで、独特の言葉遣いがツボにはまりました。
当方は逆に吉本のあの文体が会わなかったっけ。。。
でもほんの時たま、「おっ」と思わせる箇所にぶつかることも。
そして、「ああ、ここをもっと突っ込んでくれたらなあ」と。

>バタイユもよさそう。この人すごいエッチですよね?
バタイユのエロスは、サドと同じく性的な興奮はないけれど、
思想的エロスの人ですね。日常性を超えた異常性にこそ、
何かを見出そうとした過剰、侵犯、蕩尽の人。

230:エートル・オートル
08/07/15 00:57:57 0
(つづき)

>風が、現れると同時に消え去るのは、どんな経過をたどるからでしょう?
実は、「現われるやいなや消え去る」というふうに見えるのは、
風を捉えようとしているからなのかもしれないですね。
流動に付けられた名前である風を、流動のままに体感するのではなく、
捉えようとすることで、風を流動状態から固定化させようとするから、
風が、現われと消え去りの共存というふうに見えるのかも。

もしかして気づかれたかもしれませんが、これは以前に話を出した、
ニーチェのヴェールとしての真理=女のトピックと共振するし、
ハイデガーの×印、デリダの痕跡ともかかわるんですが、
彼らは確かに流動を固定化することに抗い、
流動を流動のままに捉えようとした身振りがあるのですが、
あくまで「捉えようとした」ことによって、
風を風として尊重したのかどうかというと疑問です。


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