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戦争が終わり、我々はすっかり変貌してしまった都市の中で
終わりのない時を生きているといえます。
境界と中心によって空間的に確定され、サンブリックな言語的秩序によって
支配された古典的なポリスとしての都市ではなく、
アメーバ状のスプロールによって外部との境界を失い
エレクトロニックメディアの散布するイマジネールな表層的映像の洪水の中に
どっぷりと浸り込んだ、そういうシミュレーション都市の中で。
それはまさにボードリアールのいう意味でのシミュレーション都市であって、
その中では映像が現実を模倣すると同時に映像が現実を模倣する、
そういう奇妙なループがとめどもなく反転し合って回っているわけである。
この都市をかたち作るもととは、つまりは我々現代人の思考に他ならない。
そしてそれは全体像などというものは持ち合わせず、
勿論中心となるべき舞台などというものはない、
したがって中心と周縁、あるいは表層と深層といったものの反転がもたらす
伝承法の劇といったものは、どこにも見当たらないといった方が良いであろう。
ただ否定形の空間の中を電子の薄膜と化した
イマジネールな映像の群れが飛び交う中で、
伝承法的な反転ならぬノンセンスな反転、両義的な反転が
繰り返されているばかりです。
失われた有機的全体性へのセンチメンタル、あるいは感傷的なノスタルジーが
生み出したフィクション、あるいは少なくともイリュージョンに過ぎなかったのではないか。
実際のところここで西尾アンチのいうリアリティ、
あるいは極度に誇張されたハイパーリアリティといった方が良いが、
その中では濃密な意味を秘めた伝統的解釈をテクストとして読み解くことや、
あるいはそこで上映されるアンチ的な戯言をのんびりと鑑賞するという
そういう暇はない。
むしろあらゆる意味のシステム、あらゆるドラマ、
そういった一切が破壊された後にあるノンセンスな流動状態の
残酷な輝きだけが問題としてあるわけである。