10/11/30 17:57:03 MTsOfbNd0
>>13
西尾文学を具体的なかたちで探査していくことは非常に難解である。
しかし、そのことにより新しい美意識をいうものや新しい自然のかたちなどというものまで
探査しうる可能性を秘めているので解析していく意義はあるだろう。
ノイマンをはじめとする人々により発明されたコンピュータは
そもそも厳密な解析の難しい計、例えばきちんと解けない微分方程式というものを
近似的に解いていくということから始まっている。
そのひとつが例えばフラクタルだが、西尾文学とは
フラクタルのように不定形で流動的性質を持っている。
つまり、理想化されたなめらかな言語によって説明しずらい部分があり
また説明したとしても次の瞬間には別の構造ににじみ出しており
常に脱構築されているといえるだろう。
もちろん荒いスケールでみている場合、西尾という人間について
なんとなく言語化することは可能である。
しかしスケールをより細かくして見ると、荒いスケールでみた西尾像が
果たして本当に西尾の本質を表しているのか?という疑問がある。
そもそも本質とは固定されたものですらないのかもしれない。