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西洋文化が意味性を求めてきたことに対して、
日本文化の特徴として表徴性(記号性)を求めるものがある。
西洋諸国の精神構造が記号を意味で満たそうとするのに対し、
日本文化では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを
拒否する「記号」が表徴として存在する。
そしてそのような記号は、意味から切り離されることにより、
独自の輝きを持つものとなる。
例えば歌舞伎だが、女形というものは、女の形をしていて、女ではない。つまり女の記号である。
また隈取は、独特の形をしていながら、意味からは完全に切り離されている。
他にも、天ぷら、石庭などといった日本文化独自のエクリチュールの数々が例があげられる。
ここで、少年ジャンプ的なバトル展開の特徴の一つに、
キン肉マンや男塾、聖闘士星矢などのような
物理学に矛盾した突飛な表現がある。
このようなバトル漫画の物理学に対して、その科学的整合性を追求して
その是非を問うことにより作品性を判断するということは当然行われない。
それよりも、その時々の週単位で行われる躍動的な即興展開による「熱さ」が重要であり、
そこに科学的根拠など求めるのは、これらの作品を読む際に無作法なことである。
また、これらのバトル物理学ともいえる文法は、
これまで数多く行われており、それらを現代的な視点で俯瞰すると、
それは既にある種のステレオタイプな記号と化している。
西尾が行っているバトルとは、上記の記号を批評的・懐疑的視点から引用し、
あえてそれをトートロジー的な解釈で行うことで、
メタ要素としての少年漫画性をアイロニカルに表現している。
しかも、ただ批評性としての記号の使用に留まらず、
西尾自身が本当にその「熱さ」を心底楽しんでいる節がある。
これらの事象が重層的に重なり合い、西尾文学は
複雑な解釈が成されるミミックな状況を生み出している。
ゆえに、西尾文学を短絡的な読み方をしてしまうと、誤解を生じやすいともいえる。