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上田藤兵衛全国自由同和会京都府本部会長が、京都の同和運動の重鎮で、山口組系山健組と近く、高山誠賢淡海一家総長の父・高山登久太郎会津小鉄四代目会長とも知らぬ仲ではなかった、
と聞くと、“事件の風景”が変わってくる。
高山総長が京都へ進出する時、実力者の上田藤兵衛を抑え込みにかかるのは、ある意味で当然といえた。
上田を傘下にすることで、中央政界にも、京都府や京都市といった行政にも、ゼネコンや地元土建業者にも太いパイプが築けるからだ。
だが、同和団体や他のNPO法人などの要職に就き、傘下に建設組合や建設、警備、メンテナンス会社などを抱える企業人でもある上田は、「山口組の配下」となることはなかった。
上田は、山口組五代目渡辺芳則組長をはじめ山健組幹部らと親しいことが、同和利権を牛耳っていると錯覚を与えていた。
その渡辺五代目が2005年に引退、京都が空白になった。その間隙を縫って京都を抑えにかかったのが高山清司若頭で、渡辺五代目に代わって上田を支配しようとした。
上田はこう反発した。「私は、同和団体から、暴力団やエセ同和を排除しようという目的で運動を始めたんです。私が個人的に渡辺五代目と親しいのは事実ですが、
同和運動にも事業にもタッチさせたことはないし、渡辺五代目もそれをわかってくれた。
渡辺五代目だけじゃなく、他の暴力団幹部や右翼大物も理解してくれたから、私はフリーハンドで動けたし、誰とでも会えた。
特定の暴力団の庇護を受けるなんて、そんなことで私らの同和運動は成り立ちません」
もうひとつ上田が強調したのは、「被害者」という自らの立場だった。
「私に広い人脈があるのは事実です。利権構図のなかにいるというわけですが、
公共工事への関与は、そんな甘いものじゃない。反対運動とか嫌がらせとか、いろんな問題を解決するなかで実績を作り、それを工事受注に結び付けていく。
そんなメカニズムがわからず、弘道会は簡単に『みかじめ料を寄こせ』と。堅気の私を子分扱い。無茶苦茶です。
なのに『親しいから脅された』と受け取る人がいる。違うんです。親しいから、我慢に我慢を重ねて説得したんです。しかし無理でした。
また、公共工事のメカニズムを知らない弘道会は誤解した。どこまでいっても、私は被害者なんです」