06/11/12 19:48:48 etLt701h
詩や書ににおける「相田みつを」と同じ現象だろう。
アカデミックな世界から冷笑あるいは無視されながらも、
多くの人に少なくはない影響を与え続けていることの意味を、
精神史は捕捉しなければいけない。
安岡やあいだのオリジナリティの低さを笑ってその哲学を無視するのは
実に容易だろう。だがそのスタンスは思想のアクチュアリティ、
もっと言えば、言葉を操るものが負う責任としての、言葉が生き、
言葉が人を動かすということについて思索することからの逃避である。
↑この部分にはグッと来ました>316
アカデミズムの言葉はともすれば現場から遊離する。ある意味で、自らを
高い位置において、そこで発言することで言説の中立性を保とうとするから。
それは必要な「機能」なのだろうが、現実と遊離しているという事実は変わらない。
人が生きる場は、現実の中にしかありえないのか、という疑念が
ここ数年あった自分としては、この考察は、素直に納得できるものです。