10/08/20 02:00:37
間があいたが続き>>183の続き
あなたは愛せないかもしれないと仮定を議論することすら
もしかしたら我慢がならないかもしれない。
何か事情があるのかもしれない。
でも、大事なの愛せるかどうかというよりも、
他の人も言っているように責任が果たせるかどうかではないだろうか。
少なくとも私は、親の本音がどうであったかは分からないし、
親も人間である以上、全部が全部正しい対処あったとは思わないが、
親に育ててもらい、それなりに楽しい時も過ごさせてもらい、
必要なときにフォローしてもらえたことで、こうして今まで生きてこれたし結婚もした。
それなりに幸せだとも思う。私の家庭にあなたが思うところの愛が仮になかったとしてもだ。
障害もあり不満がないとは言えないが、人生に満足もそれなりにある。
人間欲を言ったらきりが無い。
愛についても色々と考えることがある。
己が感じた愛であってもその形によっては地雷にもなるのではないかと。
この接し方でいいのだろうか?自分は愛せてはいないのでは?と問い、
己を過信せず常に律することができる人は尊敬に値する。
それが己の思うところの愛でなくても、もがきながらも立ち振る舞うなら立派に思う。
むしろ、こちらの方が愛の行為に近いように感じる。
が、自分は愛せる!愛している!この形が正しい!と思い込み多様を許容せず留まるなら、
本人はそれを子供への愛と呼んでいても、それは愛にみせかけた傲慢ではないだろうか。
本当は自分自身だけを愛しているのではないだろうか。
誰も愛してないのではないだろうか。むしろ愛に遠いのはこちらではないだろうか。
家庭の形も愛の形も様々だと思うが、こういう考えや形、例もあるってことで。