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いちおう、ここにも貼っておきましょう。まあ、こんなところに収斂してしまった・・・
まんがやアニメは、小集団的雰囲気に包まれている。うる星やつらなどは、まさにそうい
う作品である。ビューティフルドリーマーで、押井守は、その不健全さを指摘したのであ
ろう。しかし、その後、現実に小集団的雰囲気がなくなっていった状況を反映して、エヴ
ァが現れた。前島賢「セカイ系とは何か」によると、エヴァは、ホワイトベースの不在と
使徒というわけの分からない敵により、自我が露出する物語である。ホワイトベースとは、
まさに小集団であるが、日本社会において、それがないと自我を守るものがない。小集団
から放逐されると、そこにあるのは、他者しかいない現実である。使徒は、まんがやアニ
メによる初めての他者の形象化であると、大塚英志が指摘しているが(「だいたいで、いい
じゃない。」)、日本社会において、他者は、このような手順を通じて初めて現れうる。人類
補完計画は、使徒という他者を消去した上で、小集団的雰囲気に戻ることを企図したもの
である。しかし、シンジは、アスカという他者を選択することで、これを拒絶する。その
後にのいわゆるセカイ系には、アスカのような他者がいるとはいいがたい。
けいおんやサマーウォーズは、一巡して小集団に戻ったものである。けいおんにおいては、
小集団が集団との関わりなしに存在しており、それがユートピアめくのは当然である。小
集団のいいところだけを取ってきている。しかし、配置としては、無理はない。しかし、
サマーウォーズは、大家族とインターネットを重ねるのは、無理がある。ウォーゲームに
おける子どものつながりは、ネットと重なりうるが、大家族は、むしろタテ社会であり、
ネットとは全く異なる。