11/09/26 17:23:15.41 6RUi+1yT
>>472
>現に明治の人が受け入れた
当時の兵士の書き残したものから見ても
日清、日露の頃には、むしろその世代が兵士が得ていた宗教意識とは乖離するものだった
靖国で合おう、なる言葉が世に流れ出たのは
日中から太平洋戦争の時代、兵士を使い捨てのごとく激戦地に投入し
銃後の不安を、虚構を用いてでも取り除く必要に迫られた時代の
為政者側の苦肉の産物でしかないんだよ
味方の戦死者は慰霊され称揚されもしたが、神になどされなかった
明治以降、皇軍兵士として死ぬことが誉れとする軍人教育がなされるまで
死者を死して後まで、護国の神として使役するなどと言う発想は
神道には存在しないものだったからね