11/05/11 22:36:54.27 XsTeXN7V
>>679
はっきり言えば明治の碩学でも、ドイツ啓蒙思想やフランスの人権思想については良く分かっていなかったのだと思う。
彼らのベースとなっていた知性はやはり儒学であり国学だった。しかし、それでは欧米と互して対峙することは出来ず、
どうしても憲法や国際法を採り入れない限り、日本の進歩は望めないと考えていたワケだ。
それに加えて強力な指導力を持った大久保が暗殺され、ある種のトロイカ体制によって元勲個々の思惑と元田永孚ら
宮内の勢力との対立もあったため、憲法制定までは苦難の道のりとなっていた。
伊藤は立憲制によって国体は変更したと言ったが、井上から強力な突き上げを受けて発言を撤回したり、
政治に関心を持たない明治天皇の態度に苦慮していた。また、山縣は軍の確立に腐心する余り政治には距離を置いていた。
明治政府は決して一枚岩でまとまっていたワケではなかった。そのツケが昭和になって溢れだしたと言っても
過言ではないだろう。歪みや先送りしていた問題が一気に噴出したのが昭和初期の時代だ。