11/05/08 19:18:50.33 f/x0b6Cz
>>414->>418
平泉の皇国史観も同じで、日本をもって一つの独立した歴史的世界を構築し、そこに日本人や国としての理念を作り上げ、
今の現実から離れたところから、理念の立場から現実を批判し、理念に引き寄せようとした。
それは明治維新以後、新しい国民国家として生活の場に、政治は浸透する場が増えることによって、
様々な考えが表に出るようになり、それを絡め取る為の必要性に迫られたものでもあった。
個人主義の視点から、その必要性を説くを当り、それはまるで一緒だ。
まず前提として言いたいのは、現在の日本の共同体が壊れた社会かと言えば、世界の中で言えば、
決してそのような側に居るとはいえないことは、東北大地震における状況を見ればわかると思う。
確かに戦前と比べれば、共同体的なものは失われたと言えるかもしれないが、
それの良し悪しについては、最終的には個人の判断でしかない。
しかし、そのような社会に位置づけられてる自分に対するアイデンティティに対する大切を思いを通じて、
社会の一部を為している天皇制を支持していることにつながってるという現実がある。
つまり、現在における日本の現実そのものが、高い天皇制への支持率につながってる背景だと言えるだろう。
こうした現実に対し、上記にも書いたように皇国史観のようなやり方でもって、現実をある特定の理念に引き寄せることが、
本当の天皇制に維持貢献できるのだろうか?
現在の日本は、国内社会と同様に国際社会に生きる人間でもある。
そうした社会の現実を知る人間からは、上記のような理念に対しての現実との整合性に晒される機会が、
現在以上に増えることになり、疑いの眼差しも増えることにはならないだろうか?
戦後、60年経過した状況であっても、天皇制が80%以上の高い支持率が得られてる中で、
あえてそのようなギャンブルの必要性は、俺はまったく感じない。
天皇制を大切にしたのなら、現在の日本を大切にすることが、むしろ現実的だと言えるだろう。
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