11/05/06 10:51:47.57 /NiExjVH
>>202
人間の概念を考える上で、中心的や役割を果たしてるは、
包括的な教説(例:社会契約説)を人格形成を通じて理解させてる国家の存在が大きい。
つまり、国家の存立してるからこそ、現在における人間概念のある以上、
ある概念が良しとするのならば、国家の存立に関わるような場合は、
個人の自由に制約が課せられるのは当然だと言えるだろう。
また包括的な教説を考える場合、社会契約説と皇国史観といった間において、
根本原理を考える場合、共にフィクションであるということに変わりが無く、
どちらかが形而上学的に正しいと言えるようなものでもない。
”自由主義に条件を付けることは許されない。”等と言い、
自由主義であれば、人間は受け入れて当然だとするような発想は、
中身が異なるだけ、皇国史観に疑いの眼差しを向けない人間と同じであり、
ネオコンでみられるように、そこには”強制”という考えが付き纏う。
大切なのは、どのような考えであろうと疑いの余地を認めることであり、
君のように疑われることを全面拒否した上で当然だとするような考えこそ、
現代哲学で言えば、否定的に考えられてるような物でしかない。