ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの?at SEIJI
ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの? - 暇つぶし2ch250:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:54 7wefeS4M
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

251:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:36 7wefeS4M
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

252:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:52 7wefeS4M
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

253:名無しさん@3周年
11/01/30 10:26:21 7wefeS4M
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

254:名無しさん@3周年
11/01/30 23:04:22 omPwvwui
自衛隊って守秘義務無いのか?山本の記述はどうも嘘くさい。
自衛隊はどうか知らないが公安関係の資料を民間人に見せる事は少なくとも警察だと処罰の対象になる。
退職後、その事実が発覚された場合でも訴追を受ける。
自分の自慢話のために三島を利用しているだけなんじゃないのか。

255:名無しさん@3周年
11/01/31 01:05:33 otdRhGRy
>>254
本当のことだよ。他にも同席してる人がいるから。
何そんなにいちいち過剰反応しての? ブサヨ丸出しお疲れさま。

256:名無しさん@3周年
11/01/31 14:04:23 uRTj4H5U
301+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:24:00 ID:MTi/WKRz0 (2/2) [PC]
岩田君の論文再掲載その1: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
URLリンク(anti-cult.seesaa.net)
岩田論文の思想的分析その1~生長の家の異常なまでの天皇崇拝について~: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
URLリンク(anti-cult.seesaa.net)
ネトウヨの正体がだんだん分かってきたよ~w

302 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:36:30 ID:jhZ7BPOW0 (1/6) [PC]
前々から、ネトウヨとチャンネル桜にカルトっぽい臭いを感じてたんだが、
なるほどな~という感じ。チャンネル桜のあのヤクザ顔の社長、、、、そういうことね。

304 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:43:07 ID:jhZ7BPOW0 (2/6) [PC]
あの人、やっぱり早稲田卒ですな、、、

313 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:17:47 ID:jhZ7BPOW0 (3/6) [PC]
ネトウヨって、全国学生自治体連絡協議会、日本青年協議会、日本会議の関係者なのか~w
なるほどな~wそういえば、チャンネル桜の社長も青山先生も早稲田卒だな~
そういうことだったのね。洗脳が解けたわ。

315+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:34:54 ID:jhZ7BPOW0 (4/6) [PC]
この話めちゃくちゃ面白いな。小山孝雄さんも生長の家の幹部だったのか~www
教科書を作る会ってそういう団体だったのねw

317 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:40:15 ID:jhZ7BPOW0 (5/6) [PC]
鈴木 邦男さんも、なんと生長の家と関係あるようだよwもちろん早稲田、、、、、、w
URLリンク(www.mammo.tv)

318 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:46:50 ID:jhZ7BPOW0 (6/6) [PC]
ネトウヨ、および保守系言論人をつなぐキーワード、、、、それは、
生長の家 と 早稲田。これって、周知のことなのかな?
長年の謎が解けた気がする。西尾先生もびっくりじゃないかな。

257:名無しさん@3周年
11/01/31 14:04:38 uRTj4H5U
321 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 08:38:05 ID:OBaF7l1j0 [PC]
ネトウヨの実体、背後関係がおぼろげながら見えてきたわけじゃん
おもしろくね?
あと、生長の家の二代目、谷口セイチョウさんがお亡くなりになったのが2005年で、
その年に、右翼傾向からの路線転換、親中的(中国での布教をしたい)な三代目に移ったわけだけど、
教科書を作る会の内紛2005年と一致するよ 偶然なのかな?

あと、三代目教祖さんは女系天皇支持を表明したわけだけど、
その時期と、小林よしのりが女系天皇支持に回ったのと符合するんだよな。
偶然かな?
生長の家が資金的スポンサーだったってことじゃないのかな?
教科書と桜と日本青年協議会とゴーマニズムの。

で、小林は三代目の軍門に下って、庇護を受けよう(本を買ってもらう&資金援助)と政治的取引したわけでしょ?
で、早稲田時代から初代の教え(国家神道天皇絶対主義)に染まってきた
日本青年協議会系の人々(教科書、桜)は、小林を死ねと連呼してるわけね。

鈴木は根っからの生長の家の信者なんだろう。
だから、まさに三代目の意向を受けて、
穏やかな民族運動に転向したってことかな。

全部謎が氷解するよ。

258:名無しさん@3周年
11/01/31 16:49:46 ssv88tAS
>>255
おい。同席している奴がいるってのがどうして山本の記述の真偽を計る理由になるんだよ?
お前、その同席している奴ってのに会ったのか?
どこのどいつだそれは?
まさか山本の本に書いてあったとかいうのが根拠じゃないいんだろうな?
お前、隊員か警察に知り合いがいるなら、事件事故資料を部外者に見せたらどうなるか聞いてみろよ。
ヒキオタニートのお前が三島に憧れるのもわからんでもないがよ。
もっと勉強せんと三島にすらなれねえぞ。



259:名無しさん@3周年
11/01/31 19:14:47 otdRhGRy
>>258
何そんなにムキになってバカじゃないの? 北朝鮮ブサヨが必死にお疲れさまでした。


260:名無しさん@3周年
11/01/31 19:21:18 otdRhGRy
>>258
それから、あんたの言ってることこそ、ことの真偽とは、別の問題で、真偽を計る理由にならないよ。
誰かが実際に通報、起訴しなきゃ関係ないことだから。

261:名無しさん@3周年
11/01/31 19:26:29 otdRhGRy
>>258
三島由紀夫が山本の諜報訓練の授業受けて、いろいろ教えを受けてたのは事実だよ。一緒に訓練してた人の証言もあるから。

262:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:09 otdRhGRy
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、
国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を
処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、
三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

263:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:23 otdRhGRy
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

264:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:37 otdRhGRy
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

265:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:52 otdRhGRy
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

266:名無しさん@3周年
11/01/31 19:32:31 otdRhGRy
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

267:名無しさん@3周年
11/01/31 19:35:44 otdRhGRy
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

268:名無しさん@3周年
11/01/31 19:36:07 otdRhGRy
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

269:名無しさん@3周年
11/01/31 19:36:37 otdRhGRy
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

270:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:03 inYoCWz5
(中略)
私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、
三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方に
ついての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を
明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。
そのことを語らなくては三島にすまない。その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。(略)
クーデターは行われるはずだった。
前章で少し触れたが、かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる「三無事件」の内部調査を命じられた。
その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸将らがこの首謀者たちと
密会し、酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。
私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件の陰で暗躍したことを知った。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

271:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:18 inYoCWz5
こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは
調査学校校長であった藤原岩市である。(略)自衛隊幹部が三島の要請を受け入れ、異例の関係をもつように
なった背景には、自衛隊誕生とともにその実権を握ることになった旧陸軍将官、将校たちの悲願が隠されていた。
(中略)この(三無事件の)痛恨の失敗は新たなクーデターの機会を求める彼らの思いを強くしていた。
それから六年後、彼らの前に現れた三島由紀夫は、彼らの悲願を実行に移す機会を開く絶好の人物であった。
(中略)国内における全国的な新左翼運動の高まりと、世界各地で多発した新たな都市闘争のうねりは、
これまでにない革命的状況の到来を予感させた。それは一方で、わが自衛隊が本来あるべき姿で認められる
チャンスであり、われわれ情報勤務の人間が、真に求められる存在となる絶好のチャンスでもあった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

272:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:32 inYoCWz5
(略)三島は、藤原らとの接触で知った治安出勤に関する情報と、私との交流で得たものから一つの構想を
描いたに違いない。すなわち、10月21日(昭和44年)、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出勤が
必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の
特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出勤し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、
デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、
断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。
「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。
三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを
成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

273:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:47 inYoCWz5
そこでは当然、私も切腹をしなければならないし、出勤の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島も
それを求めていたはずである。(中略)
Hらはこの三島の構想について米側とも話し合ったに違いないと思っている。
もう一度言う。クーデターは行われるはずだった。(中略)
三島は絶えず私にともに決起するよう促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に突き進まない
よう、その話題を避け、もっと長期的展望に立った民間防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。
(略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが、
私にはできなかった。たしかに私は死が恐ろしかった。(略)そして私の死だけではない。何よりも私が
認めがたく思ったのは、三島を失うということだった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

274:名無しさん@3周年
11/02/02 12:53:02 inYoCWz5
H陸将は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。
「おい、カモがネギをしょってきたぞ」
文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、
利用価値は十分あった。その彼が広告塔どころか、自らを犠牲にして、自衛隊の自立という永年の悲願を
成就しようとしている。ジェネラルたちは、三島の提案した計画に実現の可能性を見たのだ。
三島が単なる文人などではなく、しっかりとした理念と現実認識に基づく理論の持ち主であり、戦略家、
将校としての資質と実行能力をもったりっぱな同志であることを知り、その人間的魅力に触れた私は、
陸将たちの不遜な見方に反発を感じるようになった。彼らにとって三島は、自分たちの目的を遂げるための
手駒に過ぎなかった。そして、彼らにとっては私もいつでも捨てられる手駒の一つであった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

275:名無しさん@3周年
11/02/02 12:56:05 inYoCWz5
しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジェネラルたちは、「三島が自衛隊の地位を
引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる」というだけではすまなくなりそうだということに
気づき始めた。三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入った頃だった。私はその
経緯を詳しくは知らない。藤原らは場合によっては自分たちも、死に誘い込まれる危険を察知したのかもしれない。
藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。(略)仮にクーデター計画が
実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人の
ジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。
三島はむろんひどく落胆したが、自衛隊との関わりで行われていた訓練を禁止されるには至らなかったため、
決起の機会がまったく失われたものとは考えていなかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

276:名無しさん@3周年
11/02/03 11:46:40 isqX84od
むしろその頃から、三島の私に対する働きかけはより切迫したものになっていた。訓練に参加し、三島の考えに
共鳴する自衛官も増えている。逆境に立ちながら三島は、同志との結束を固め、クーデター実行の可能性を
つねに探っていた。(略)私が逃げるはずはない、三島はそう信じていた。(中略)
それは三ヶ条からなる新たなクーデター計画であった。その一ヶ条は、「楯の会」が皇居に突撃して、そこを
死守するというものだった。(略)五名の将校は三島の計画に深くうなずいた。(略)私は真っ向から反対した。
(略)「臆病者!」「あなたはわれわれを裏切るのか!」いきり立つ将校たちを、三島は手を振って制した。
(中略)この日切り出した問いの背後には、私がこれまでの態度を少しでも変えて、目標に転じる可能性が
あるかどうかを確かめようとする気持ちがあったに違いない。(略)彼は私を見限らなければならなくなった。
(略)しかし、三島は私を斬り捨てることができなかった。(略)私がいなければ不正規軍の戦いに勝つことが
できないとわかっていたからだ。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

277:名無しさん@3周年
11/02/03 11:47:03 isqX84od
(中略)
10月21日に向けて、新左翼各派はそれぞれにキャンペーンを繰り広げていた。学生だけでなく、反戦派と
呼ばれる労働者集団も戦闘的な街頭デモを展開して、革命前夜の状況を作り出すべく、10月から11月に
かけての闘争に全力を傾けよ、と呼びかけていた。(中略)
三島はその日をどういう気持ちで迎えただろうか。彼の構想を一度は受け入れたジェネラルたちは、その実行を
うやむやにする形で自分たちの身の安全を図ったが、断固とした態度で全面否定したわけではないらしかった。
三島は逃げ腰の彼らとの話し合いを続けるなかで、それでも状況次第では、自衛隊の治安出勤もあり得ると
考えていたらしい。(中略)
警視庁の当該部署に確かな情報源をもっていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争が
どのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。(中略)
直前までマスコミによって盛んに報じられていた自衛隊治安出勤の可能性は、完全に断たれたのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

278:名無しさん@3周年
11/02/03 11:47:32 isqX84od
(中略)彼は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター
計画を実行することを決意していた。計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、
それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を
見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。彼は真の武士であった。
(略)彼がその可能性を求め続けた「クーデター計画」を阻んだ者がいる。(略)一人は私である。(略)
第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。(略)二階へ上げておいて梯子を外したといわれても
仕方ないと思う。(略)
さらに国際情勢も三島に味方しなかった。(略)キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともと
アメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

279:名無しさん@3周年
11/02/03 11:48:10 isqX84od
もっとも、自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとする
なら、三島の期待は実現したであろう。三島はその辺のところをはっきりと理解していた。彼が、私抜きでの
決起を想定した演習を独自に進めながら、絶えず私を計画に引き込もうとしていた理由の大半はここにある。
(略)根本的には同じ理想を抱く同志であった。いつも控えめに示す彼の情のほとばしりに、私は最後まで
温かい好意のようなものを感じなかったことがない。
(中略)自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、
不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く
国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の
中で実感していた。(略)その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、
二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

280:名無しさん@3周年
11/02/03 11:55:31 isqX84od
―永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふり
しぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったと
しても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。
三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。
(中略)―三島の真の決起は昭和44年10月21日に、果たせないまま終わっていた。(中略)
私は三島の行動の行く末と三島の身を案じる一方で、私自身の身の危険を感じていた。それを恐れていたことで、
私は三島に詫びたいと思う。三島は個人的なうらみで行動するような人間ではなかった。(中略)
最後の決起は、この国の行く末を案じるがための、捨て石としての死であった。自己の保身をのみ考えて
立とうとしない将官たちと、自らの運命に鈍感なすべての自衛隊員に対して糾弾し、反省を促したのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

281:名無しさん@3周年
11/02/03 11:55:56 isqX84od
昭和46年秋、三島の一周忌が近づいてきていた。せめて思い出につながる部下たちを集め、われわれだけでも
密かに三島を供養したいと思った。
11月24日、陽が落ち人の顔の判別がつかなくなる頃を待って、私は三島家の門前に独りで立った。(略)
私は、ただ合掌して唇を噛んだ。
翌25日夜、仮の祭壇を設け、私の手許に残った三島の遺品を供えた。部下の持ち寄りの供物をそなえ、
懐かしい三島からの手紙を朗読して読経に代えた。部下たちからすすり泣く声が洩れ、私も泣いた。
それが、私にできる本当に精一杯の供養であった。
そして、私の誕生日が来た。(中略)
私はその日、自衛隊調査学校の校庭の壇上に立って、学生や部下たちに別離の挨拶をしようとしていた。
「晩秋の巨雷とともに、私の夢も消えた」私は挨拶をこのように結んだ。
10代半ばの陸軍士官学校入学で始まった私の軍隊人生は、この日を以って終わった。(略)
三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた「魂」 であった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

282:名無しさん@3周年
11/02/08 15:31:45 Vaj+5Naq
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
―当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。―と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

283:名無しさん@3周年
11/02/08 15:32:41 Vaj+5Naq
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。―僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。―さすがの武田泰淳も、―いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう―と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、―でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

284:名無しさん@3周年
11/02/08 15:34:41 Vaj+5Naq
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、―おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ―と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

285:名無しさん@3周年
11/02/08 15:35:31 Vaj+5Naq
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。―いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。―
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。―なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)―こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

286:名無しさん@3周年
11/02/08 15:36:38 Vaj+5Naq
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

287:名無しさん@3周年
11/02/15 11:56:49 E2dO7RlK
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。
きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(略)長身で赤ら顔の
ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。
カトリック神父だったのである。
(中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から
電話があった。
「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、
話してくれないか……」
「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな
宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、
じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略)

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

288:名無しさん@3周年
11/02/15 11:57:50 E2dO7RlK
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。
(略)…うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、
カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ
ようとしていた。ひととおりの会話のあと―その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを
敷衍してしゃべったのであったが―長老格の人物が立って、こう述べたからである。
「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、
イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、
われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく
この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

289:名無しさん@3周年
11/02/15 11:59:20 E2dO7RlK
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、
いったん句切りを置いた。
「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。
ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」
「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。
「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」
じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。
枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に
こう言った。
「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に
出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

290:名無しさん@3周年
11/02/15 12:00:18 E2dO7RlK
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の
地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。
そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの
第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。
日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、
「恥さらし」―対外的に……―と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、
偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

291:名無しさん@3周年
11/02/15 12:01:12 E2dO7RlK
(中略)
他者への殺害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、
その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、
私はその名証を見たのだった。(中略)
しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。
キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

292:名無しさん@3周年
11/02/18 15:39:07 M4qulfsV
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略)
この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。
スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で
容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略)
エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。
事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を
手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、
野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである―「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。
しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

293:名無しさん@3周年
11/02/18 15:41:07 M4qulfsV
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た
ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって
私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略)
(参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略)
ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は
『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。
「タケオ・タケモトに、この私の処女作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが
まさにその開花であるところの、美と死とのこの出会い、自殺のストイックなる理想を、本書のうちにまさに
貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

294:名無しさん@3周年
11/02/18 15:46:00 M4qulfsV
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の
ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその
代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の
果断の行為に心を奪われ、現代において―つまり日本においてのみならず―それがいかなる意味をもちうるか
ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略)
黛敏郎氏は次のように回顧している。
〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、
ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉
そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

295:名無しさん@3周年
11/02/18 15:47:04 M4qulfsV
黛氏はつづいて書いている。
〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで
観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な
芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉
あとはもう言葉ならなかった。
私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、
ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの
意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか?
ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。
観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を
見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった―「《愛と死の儀式》―私がここに見たものは、まさしく
神ということなのです……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

296:名無しさん@3周年
11/02/24 10:54:24.49 rPNF3fFh
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。
一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。
〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。
要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、
芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、
日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの
事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、
「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、
深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる
フランス人たちが多かった。(中略)〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

297:名無しさん@3周年
11/02/24 10:55:35.14 rPNF3fFh
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家
クリスチャン・シャバニ氏である。(中略)
「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。
そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。
「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。…(略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、
精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の
精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、
ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

298:名無しさん@3周年
11/02/24 10:56:09.04 rPNF3fFh
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる
罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。
「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、
高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、
このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略)
「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって
鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自殺したという変わり種もあるけれどもね。
…(略)ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの
問いは私に向けられていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

299:名無しさん@3周年
11/02/24 10:57:13.14 rPNF3fFh
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」
「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。(略)」
「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら
「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう―「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの
歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? …(略)
日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。
それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
「そうだとも!」
と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。
「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

300:名無しさん@3周年
11/02/24 11:00:34.16 rPNF3fFh
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」
という声々が、あちこちから興った。(中略)
しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。
「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略)
バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自殺には、なんというか、《フォルム》がない。
フォルム―カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。
「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに
言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と
不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級
知識人の一人である。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

301:名無しさん@3周年
11/02/25 23:23:49.58 MXo0czwf
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに
なんの差異もないことになるだろう……
こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、
『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範―有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる
人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには
見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の
弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」
私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。
また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

302:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:10.64 MXo0czwf
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として
伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が
なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略)
たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。
「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で
あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

303:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:32.64 MXo0czwf
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」
ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである……
「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は
『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、
『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」
「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、
そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。
「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で
やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

304:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:59.81 MXo0czwf
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略)
「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」
これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、
問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。
「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御)
された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略)
ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。
〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた
『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。
『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を
一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

305:名無しさん@3周年
11/02/25 23:25:21.89 MXo0czwf
世にも気高い《愛の物語》…… 
愛、おお かくばかりの愛! 
かくばかりの高貴な生! 
絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 
服喪の空は その暑いしずくを哭き 
ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。

九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 
一体となった双生の命 
一心となった二つの手の古代壺(アンス) 
そして求める《彼岸》への絶対の供物。

入念に死を決意して三島は 
意志の典礼を一点にむすぶ―
すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 
超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

306:名無しさん@3周年
11/02/25 23:32:08.90 MXo0czwf
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、
この久遠の神話(ミット)よ、
愛まったくして 死かくも辛く潔し。
剣はこのししむらを刺し、鞭打した。
恐るべき死の創傷を深めよと…… 
だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。
介錯がこの供献を成就する。
だが成就されるのは自殺ではなく 
この讃歌なのだ。

融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 
淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、
淋漓たる《至誠》の書にこそ 
精神の解脱の場がある。

かくてこそ絶対の恩沢へと 
いま 精神は飛翔する、
大死一番の狂える寛容もて 
かの無限へと―
《Kami(神)》の一語もて 
名づけられた無限へと……

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

307:名無しさん@3周年
11/02/26 01:53:56.79 oJz369SE

>>1 三島を叩きまくって

日本民族を滅ぼそうぜ!

在日!やる気!元気!反日! 

308:名無しさん@3周年
11/02/26 11:14:40.96 j4scveS6
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。
その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。
(中略)かつて―一九五八年―ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは
アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、
満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして
フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略)
日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 
日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく
繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

309:名無しさん@3周年
11/02/26 11:15:10.00 j4scveS6
マルローはこう言ったのだ。
〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて
いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に
描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ
なりません―
日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて
いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように
つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、
隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

310:名無しさん@3周年
11/02/26 11:15:36.05 j4scveS6
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々
すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち―
諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。
もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。
鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに
ほかならない! と。〉
(中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。
武士道の礼讃―たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、
いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか?

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

311:名無しさん@3周年
11/02/26 11:16:03.99 j4scveS6
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として
響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを
われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。
そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略)
われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略)
いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と
「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター
商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。
われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった
からである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

312:名無しさん@3周年
11/02/26 11:16:32.87 j4scveS6
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって
絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略)
それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても
自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい
至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって
量りきれるレベルの問題ではない。(中略)
なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って
自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と
「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。
彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

313:名無しさん@3周年
11/02/26 11:43:04.04 STiApJR1
大半のネトウヨは、三島にほとんど興味がないか、名前も知らないんじゃないかね。

314:名無しさん@3周年
11/02/26 12:07:22.25 PgWzYCq0
三島のビジュアルそのまんままねてるのが在日がやってる街宣右翼だったりする

315:名無しさん@3周年
11/02/28 11:27:38.03 PQezcmRJ
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、
武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を
もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ
ならない。(中略)
「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら
応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、
期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。
「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として
受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに
半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

316:名無しさん@3周年
11/02/28 11:28:04.95 PQezcmRJ
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の
処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の
見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって
まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で
刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、
訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉
これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を
聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の
訳書刊行にいたったのであった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

317:名無しさん@3周年
11/02/28 11:28:37.57 PQezcmRJ
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京裁判に始まって
三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京裁判」にちがいないが、付録の一つになんと
「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて
いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、
フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。
その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京裁判から
三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき
ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

318:名無しさん@3周年
11/02/28 11:29:02.29 PQezcmRJ
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京裁判」そのものにたいするその仮借なき
批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを
瞥見してみよう。
〈…「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに
すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは
歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に
つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の
総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、
「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

319:名無しさん@3周年
11/02/28 11:30:01.62 PQezcmRJ
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々
あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や
カティンの大虐殺をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの
思いもおよばないようなものだったのだ。
…リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の
捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。
でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉
(中略)一冊の極東軍事裁判記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は
貴重と言わねばならない。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

320:名無しさん@3周年
11/02/28 23:53:46.72 PQezcmRJ
(中略)パスカル氏はいうのだ。
〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの
想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで
ゆくのだ…(中略)
キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、…
《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、
ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には
まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。
おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、
生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

321:名無しさん@3周年
11/02/28 23:54:22.72 PQezcmRJ
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって
決行されたユキオ・ミシマの聖なる自殺は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の
大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに
たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の
どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉
(中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、
「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。
(中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして
同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

322:名無しさん@3周年
11/02/28 23:55:22.22 PQezcmRJ
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の
直接目的―改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。
〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。
(中略)(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき
三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と
見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを
競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は
アメリカにまかせっぱなしで―日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

323:名無しさん@3周年
11/02/28 23:56:36.71 PQezcmRJ
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で
躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(中略)全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、
太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。
(中略)(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(中略)
恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(中略)「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、
その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを
大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと
兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、
時とともにはっきりと認識するにいたった。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

324:名無しさん@3周年
11/02/28 23:57:13.52 PQezcmRJ
〈日本―だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略)
再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。
それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、
いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。
ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ―この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を
自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自殺である。(中略)
祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。
盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自殺する。祖国日本が
非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

325:名無しさん@3周年
11/03/01 06:41:55.03 trSNgdjA
>>1
お前は糞スレ立てる前に三島ぐらい読めw
お前が批評できるようなものじゃないのがすぐ分かるだろw
あるヨーロッパの研究者は『三島を読まない日本人は馬鹿だ』って言ってたけど、本当にそんな奴がいる事に驚いた

326:名無しさん@3周年
11/03/01 22:49:57.10 1HRQuTBz
〈これら自殺者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを
浮かべるのみである。
しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自殺のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に
なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、
古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。
たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自殺の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、
愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに
ほかならない。
その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、
「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自殺している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

327:名無しさん@3周年
11/03/01 22:51:00.05 1HRQuTBz
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず
自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉

(中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を
驚かせてきた日本―は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、
白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの
問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略)
現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって
魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

328:名無しさん@3周年
11/03/01 22:52:01.58 1HRQuTBz
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、
前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を
弔っている。(中略)全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、
花も実もあるこの人物の義挙―どうして義挙でないことがあろうか?―を深く徳とし、その二、三首を
拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華―それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。

 ユキオ・ミシマの墓   ピエール・パスカル

いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ

獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ

この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

329:名無しさん@3周年
11/03/02 22:39:07.52 zJWcJNNl
煩悩と悟りは表裏一体
  URLリンク(sky.geocities.jp)

330:名無しさん@3周年
11/03/03 23:15:32.34 Az2Hb9jw
Q―日本は異常な死によって先に三島由紀夫を失い、いままた川端康成を失いました。
(中略)このような死はどう映りますか?

アンドレ・マルロー:現在までに、たしかに相当数の日本人作家が自決してきています(se sont tues)。
西欧では、これらの人々をさして自殺した(se sont suicides)と言っているがね。しかし、彼らは、ぜったいに
自殺したなどというものではない。自殺ではなしに自害した、すなわち武士道たけなわなりしころの死とおなじく、
意志の力によって、一死よく生をまっとうしたと見るべきだと思うのです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

331:名無しさん@3周年
11/03/03 23:15:56.59 Az2Hb9jw
三島については、これは、あまりにも偉大な現実的証というほかはありません。そこには偉大な伝統が息づき、
儀式(リット)がものをいっている。気合もろとも…(左から右へぎりぎりと腹を掻き切る身振りをして)
この行為の意義は甚大と言わなければならない!(中略)
日本的自決ということには、はかり知れない大問題が秘められている。いかなる文明も、死なるものをエリートの
与件として問題化したことは他にないからです。ある流儀によってこれを問題化したものこそは、日本の
武士道であった。しかし、武士道と私はいうのであって、日本そのものとは言いません。それにしても、
なにゆえ、ある流儀と、あえていうのか?

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

332:名無しさん@3周年
11/03/03 23:16:25.50 Az2Hb9jw
ああ、もし人が、《死》なるものがまったく存在しないような一文明と遭遇したとしても、なんとそれは
当然の(自然的な)ことだろう! だれもが、そこでは、子供のころから、自分の自害すべき瞬間を選ばねば
ならないと知っているような文明と遭遇することは……。
こういって正しいのか間違っているのか、私自身にもはっきりとは言いがたいのだが……私はね、ガス管で
自殺するよりは三島のやりかたで死ぬほうが、ずっと自分自身にふさわしい気がするんだよ。いま、「自殺」
という言葉を使ったが、これがけっきょく西欧流の自殺と同じでないことは、さっきも言ったとおりだがね……
そう言ったからといって、しかし、どっちの立場を私が擁護するわけでもないが……私には、ただ、川端の死より
三島の死のほうが身近に感じられるというだけのことです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

333:名無しさん@3周年
11/03/03 23:16:58.53 Az2Hb9jw
そんなことを言ったって、おまえたちの国ではハラキリなどしないではないか、という人もあるかもしれないが、
しかし、われわれにだって拳銃というものがあるからね。そして私の場合だったら、(ガス管やストリキニーネ
よりも)やはり拳銃のほうがぴったりする。(中略)
東西の自殺の違いの問題にもどると、このような死の意味を西欧の人間―ということは、つまりヨーロッパと
アメリカの両方をひっくるめた人々―が説明しようとすると、かならずキリスト教的観念から割りだしてくるので、
そうなるといっさいが自殺という言葉で処理されてしまうことになって、結局のところ、なにもわからなくなって
しまうのが落ちなのです。それは、ちょうど、ヨーロッパの騎士道―これもなかなかに立派なものだったが―
について、騎士たちは自殺したというのと同じことで、的はずれと言わざるをえません。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

334:名無しさん@3周年
11/03/03 23:47:10.81 GskBwEX1
>>314
盾の会以前から街宣右翼は有るぞ無知

335:名無しさん@3周年
11/03/04 19:32:26.51 fSW30ZwN
神風特攻隊のメンバーは、ほとんど例外なくその先祖が武士だったのだよ。


ミシマの本はすべて必読だ。


切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。

アンドレ・マルロー
竹本忠雄との談話より

私は、どんな日本に関心があるかといえば、それはけっして政治的日本といったものではありません。それは、
永遠の日本(le Japon eternel)なのです。
…この日本は、死の意味においても愛の意味においても音階(ガム)においても、中国とはまったく異なっている。
…日本という国は「日本それ自体」の国であって、そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえません。
私自身はこの日本をどう見るかといえば、日本が意味するものはじつに測り知れないものがあると思っています。

アンドレ・マルロー
1969年11月25日、マルロー邸でのインタビューより

336:名無しさん@3周年
11/03/04 19:34:28.14 fSW30ZwN
覚えておいてくださいよ。切腹は自殺にあらずということを。
切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。
この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。

アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より

337:名無しさん@3周年
11/03/04 19:35:17.34 fSW30ZwN
一条の滝をまえにしてこのような感銘をうけたのは、私にはまさに空前絶後の経験だった……私は思った―
これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。
この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ。
(伊勢・熊野、那智滝を見て)
アンドレ・マルロー「非時間の世界」より


そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に溶けいる白刃。日本

アンドレ・マルロー「反回想録」より


日本の歴史には《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある。
見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる。

アンドレ・マルロー
1974年、来日時の在日外人記者団との会見より

338:名無しさん@3周年
11/03/05 06:29:28.33 AxNHjhEz


スレタイが自分たちに都合が悪いと乗っ取って無理やりでも都合がよい風情に改変する。と

339:名無しさん@3周年
11/03/05 10:54:08.58 pce4Lzm6
それにしても私は、三島について、いつも心にこう思っているんですよ。なぜ彼は、結局のところ消えさらねば
ならなかったのか、と……。あのとき以来、私が自分の胸に問うていることは、こうなのです―あれは、
はたしてなにものかの、つまりほんとうに偉大で価値あるものの始まりだったのか、それともそうしたすべての
終りだったのか、と……。私自身の考えはどうかといえば、それは、なにものかの終りだったのだと思う。
しかし、それがなければ始まりが不可能であるような、そうした終りだったと思うのだよ。さまざまな偉大な
文化の歴史を例にとれば、じつにしばしばその最後はかくのごとしといった例があるものなのだ。
この点について、ロジェ・カイヨウが面白い意見をもっていてね。カイヨウによれば、日本における三島の
ケースは、ヨーロッパにおけるピカソのケースと同じだというんだ。カイヨウはピカソを、ヨーロッパ絵画の
《決算者》le Liquidateur と考えていたからね。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

340:名無しさん@3周年
11/03/05 10:54:54.92 pce4Lzm6
この決算者とは、大文字でLを書く意味のそれだけれども。つまり、カイヨウは、ピカソの作品を一種の
自殺として考えていたということで、そのようにいえば、きみも、同様にしていかに三島を解釈しうるか、
わかるというものだろう。三島は必要ななにものかだった。そのことは、はっきりしている。
では、いまやそれがいかなる色合いをおびるかということになると、つぎのようにいうのがおそらく賢明であろう。
それは、日本そのものがいかなる色合いをおびるかということいかんにかかっている、と。今後、日本が、その
精神力のある種の化身に、しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。
しかし、これについて私の考えるところはこうだ―いまから百年後に日本的精神性の与件は、現在われわれが
持っている与件のすべてをひっくるめたものとまったく似ても似つかないものとなるであろう。すなわちそれは、
まったく別の与件となることだろう、と。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

341:名無しさん@3周年
11/03/05 10:55:23.07 pce4Lzm6
「なんぴとかが別の生のもとに生まれかわったとしても、その人間は、自分の過去世においてどういうことが
起こったかということにもはや気づかないであろう」(『豊饒の海』)
……しかし、にもかかわらず、過去世は存する。《業》によってそれが存するゆえに。いや、業と言ったのでは
日本固有の考えではないから、たとえば《ヒロイズム》と言おう。このヒロイズムこそは、別の生における
あなたがた日本人のありかたというものを一変せしめたものなのだ。諸聖人の《通功(コミユニオン)》のように。
このようなヒロイズムこそは人類をある程度一変せしめたものであって、幾千年もの他の事象とともに
《輪廻転生》les reincarnations と呼ぶにふさわしいものだ。なぜなら、彼らはすべて、こう考えているからだ
―すなわち、いわゆる法燈伝なるものは、〈覚者(ブッダ)〉の群れを外にしてはこれ迷信にすぎない、と。
一個の人物が別の一人物に転生するにあらず、ただ普遍的輪廻転生があるのみ、と……。この点『マスの法典』の
意味は了然 formel といわねばならない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

342:名無しさん@3周年
11/03/05 11:00:08.19 pce4Lzm6
いいかね、英雄的日本は、いまに、かならずや(不可避的に inevitablement)現われてくるであろう。
一個の国なるものはその魂の上に横たわっているのだから。
ところで、現在の日本は、かつて遭遇したことのない最悪の状況下に置かれている。それというのも、第二次
世界大戦の結果、貴国は、どうみてもアブノーマルとしか見えない諸々の生活条件のなかで世界最強の国の一つと
なってきたからだ……。このような状態のままで、なにもかもがつづいていいというはずがない! 
……アメリカ人は、話し相手は中国だと信じこんでいるが、そんな話合いは書割(デコール)にしかすぎない。
太平洋の問題とは日本なのだから。
いつの日か、いまわれわれがここで話しあっている事柄は、きっとドラマチックな形をとって現れることとなろう。
そしてそうなれば日本は、フランスがド・ゴール将軍のもとに再統合されたように、あるべき日本の真の姿の
もとに再統合されることとなるだろう。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

343:名無しさん@3周年
11/03/05 11:00:35.47 pce4Lzm6
一個の国民は、みずからのもっとも深い魂がはたしてこれでいいのかとなったあかつきには、いやおうもなく
この魂の上に自己を再発見することを迫られていくものだと、私は信じている。しかるに、現在の日本が
置かれた条件が、繰りかえしていうが、根本から非道 deraisonnable なものであるというのに、どうして
この日本がこのままでいいというはずがあろうか、いや、とうていそんなはずはありえないと私は思うのだ! 
いや、私ばかりではない、私が会ったアメリカの大統領たちをはじめ国家要人は、すべて、私とおなじ目で
問題を見ていることに変りはない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

344:名無しさん@3周年
11/03/05 11:02:39.74 pce4Lzm6
日本は、中国が原爆を持っていなかったあいだは、ずっとアメリカと友好関係を保つことができた。しかし、
中国が原爆を持ってからというものは、あなたがたは、いままでの現実を敷き写しにして生きていくわけには
いかなくなっている。そこで、どうしてもつぎのいずれかの解決を必要とする段階に立ちいたるであろう。
すなわち、この原子爆弾をアメリカからもらうか、またはその自力製造権をどこからか獲得するか、あるいはまた
ソ連から原爆を入手するか、そのいずれかを必要とする岐路に立たされるだろう。
日本のような国柄の国家が、人口八億もの人間を擁し、しかも原爆によってあたながたを破壊する能力を有する
中共をまえにして、手をこまねいていることははたして可能か……。
中共が原爆を持った以上、日本もそれを持たずにはいられなくなる。持つべきか否かと自問した結果、持たない
ということが不可能になってくる……。
いずれにせよ、なにがどうなろうとも、日本という国は『このままでけっこう』というような国ではあるまいと
私は見ています。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

345:名無しさん@3周年
11/03/08 23:43:03.70 uJ9Erl0z
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。

辻井喬「叙情と闘争」より

346:名無しさん@3周年
11/03/08 23:43:34.19 uJ9Erl0z
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

辻井喬「叙情と闘争」より

347:名無しさん@3周年
11/03/09 02:59:30.17 XJVsewlK
三島とネトウヨって明らかに方向性違うと思う
ネトウヨってただ単に嫌韓親米の保守派気取り(実際は左翼的)だが、三島は違うでしょ。

三島は“真の保守とは何かを体現しようとした”男。口先・ご都合主義のネトウヨとは全く違う

348:名無しさん@3周年
11/03/09 18:09:54.97 oH4Bfvmc
>>347
全面的に同意。
考え方に賛否はあると思うが、自らの命を賭した三島と
ネットで引きこもってアメリカの国益を求め
日本国民を罵倒し、多民族を差別するネトウヨなんかでは
天と地ほどの違いがある。

349:名無しさん@3周年
11/03/09 18:14:06.24 bTs5lyO0
【食品】日本の玄米で出来たパンダ型の菓子パン「オコメパンダ」を、印刷業者が「オメコパンダ」と間違え印刷。そのまま中国に大量輸出。

スレリンク(aniki板)



350:名無しさん@3周年
11/03/10 16:19:09.94 1QpiLyDS
>>348
日本国の歴史や伝統を貶め
支那や朝鮮に媚びる年金乞食のネットサヨより
ネットウヨの方が遥かにマシだよ。

351:名無しさん@3周年
11/03/10 16:27:22.70 eCr+pwTM
占領軍を進駐軍と呼び、
マッカーサーに本気で敬礼した旧日本兵。
イラク人のようにだらけた敬礼をするのが普通なんだよ。
そういう意味では不安だな。

352:名無しさん@3周年
11/03/10 17:15:19.96 HNmF5Aly
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

353:名無しさん@3周年
11/03/10 17:15:37.36 HNmF5Aly
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

354:名無しさん@3周年
11/03/10 18:06:07.89 J/5UMOjj
俺は自民党の党友だったが、いまの自民党にはもううんざりじゃねーの
自民党に投票したくても、石原幹事長とかジュニア小泉を見ると
ガキに見えてきて、まだ民主党のがましに見える。
多少は経済とか法律がわかるスキルを身にてつけてほしい。
自民党だってパチンコ献金が多いのだから政権とっても1ヶ月持たないよ。




355:名無しさん@3周年
11/03/13 17:45:49.23 vN1R9lnf
ところで、三島は尻に入れたのか、入れられたのか。大事な質問じゃあ。

356:名無しさん@3周年
11/03/13 23:10:56.28 uNgWvhU6
 未曾有の大地震から早くも2日が過ぎようとしているが、入ってくるのは悲惨な知らせばかりである。文字通り、数十年に一度の国難といってよいだろう。
被害に遭われた方々、そのご家族の方々には、改めて心からお見舞いの言葉を申し上げる次第だ。

また、被災地で懸命の救援活動に当たっている警察、災害救助隊、自衛隊、その他の方々の働きには、ただただ頭の下がる思いである。
自身の無力さを嘆きつつも、現時点では義援金などの形で少しでもお役に立ちたいと考えている。
 地震被害にあわれた方には、心からお悔やみを申し上げたい。

奇しくも、11日(金)菅総理の外国人献金がばれ、自民党の大島副総裁が「驚天動地!」といわれたその数時間後の出来事である。

カルト的思考といわれるかもしれないが、どうもこの国が売国政権に牛耳られているときに限って、天変地異が多いような気がしてならない。
 思えば、95年の阪神大震災も、村山政権という未曾有の暗黒内閣が日本を支配しているときに起こった。果たして、これらは偶然なのだろうか。
 とはいえ、今回の大地震が菅政権にとって有利に働くか、不利に働くかは現時点では分からない。

 無論、狡猾な菅総理のことだ。地震を理由(いいわけ)にして、自信の政権延命を図る可能性は高いだろう。
「未曾有の地震という大災害を前にして、野党の皆様にも党派を超えた危機時代の挙国一致体制を・・・」などと言い出すことは目に見えている。
 しかしながら、売国と権力維持にしか興味のない民主党政権が、自然災害に対処することは不可能である。村山内閣の二の舞になることは確実だろう。

357:名無しさん@3周年
11/03/14 17:33:57.77 alu8JCCJ
>>350
そもそも「よりマシ」って考えがネトウヨのおかしいところ。

「よりマシ」って事は>>347の言う

>ネトウヨってただ単に嫌韓親米の保守派気取り

これは認めてる事になる。
愛国者を自称するなら自国に干渉してくる国は例外なく排他的なもの。
本来なら、「嫌韓親米」なんていわれたらそれを否定する。
なのに、それをしないで認めちゃってる。

358:名無しさん@3周年
11/03/14 17:37:24.44 alu8JCCJ
更に言うなら>>348の言っている

>ネットで引きこもってアメリカの国益を求め
>日本国民を罵倒し、多民族を差別する

これさえも否定しない始末。

ネトウヨが親米の名の下にアメリカの国益求めるだけでなく
自国民を貶める発言繰り返したりしているのは認めてる。

これが愛国者のする事かね。

359:名無しさん@3周年
11/03/14 19:48:36.22 YTiD3jfn
支那ポチもアメポチもどっちもどっちだからお互い喧嘩はやめなさい。
日本人なら今それどころじゃない筈、と三島由紀夫なら言うでしょう。

360:名無しさん@3周年
11/03/16 11:40:48.45 uH7Ibw7e
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

361:名無しさん@3周年
11/03/16 11:41:51.47 uH7Ibw7e
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

362:名無しさん@3周年
11/03/16 11:42:23.33 uH7Ibw7e
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

363:名無しさん@3周年
11/03/16 11:42:47.53 uH7Ibw7e
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

364:名無しさん@3周年
11/03/16 11:44:09.70 uH7Ibw7e
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

365:名無しさん@3周年
11/03/19 12:36:45.45 gq+e1QxB
人は、自分で自分を制するのが、一番難しい。
他人の欠点は、よく見えるが自分には甘い。他人にやさしく、自分に厳しいという人はなかなかいませんが、
先生は、そのどちらでもないです。
全ての事において他人にも厳しいが、自分にも厳しかった。
時間の使い方も、普通の人とは違っていました。これ程までに時間を大切にして生きてきた人にこれまで会った事が
ありません。
当時、四十を過ぎていた先生は、「楯の会」の二十代の若者に囲まれて、いつも元気でうれしそうでした。
大きな口を開けて、大きな声で笑い、瞳はつねにキラキラ輝いていました。筋肉いっぱいの腕を大きく広げ、
ついでに自慢の胸毛を見せながら、身体全体で、おしゃべりしていました。
それは、それは、いつでも、とても楽しそうに……。
ところが、どんなに騒いでいても、どんなに楽しそうであっても、自分で決めた時間になると、まるで今までの
ことが無かったかのように、ぴたっと人が変わって別人になる。

松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

366:名無しさん@3周年
11/03/19 12:37:00.52 gq+e1QxB
やさしい瞳から、すべてを射るような厳しい目に一瞬にして変わる。時間をスパッと切ってしまう。
もう、そこには、誰も入れない。誰も寄せ付けない。
多くの人は時間に引きずられて、もう少し……などと時間に負けてしまうのに、先生は刀で竹を割るように
時間を切る。
何と、まぶしく男らしく映ったことか。
あの澄んだ瞳、遥か遠くに焦点があるような力強い不思議な瞳を持つ人に、私は、その後、今もって出会ったことが
ありません。
先生は、真剣に生きていらした。純粋に。ひたむきに。
まさに一瞬、一瞬を生きることを楽しんでいるかのようでした。
先生にとっては、一時、一時が美しい文学であり、人生そのものが一編の小説であったのかもしれません。

松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

367:名無しさん@3周年
11/03/19 12:37:16.17 gq+e1QxB
(中略)
昭和44年8月の暑い夏の日、持丸との婚約のご挨拶のため、馬込の三島先生のお宅を訪問しました。
先生はにこにこされて、とても上機嫌で、溢れるような笑顔で迎えて下さいました。
先生の机の上には、いつも紺色に白鳩のデザインの、お洒落なピース缶が置かれていました。缶の蓋を開け、
指に挟んでたばこを吸うポーズをとってはいますが、先生が実際にタバコを吸って、煙を出している姿は記憶に
ありません。お洒落な紳士は、女性の前ではたばこは吸わないのかもしれません。(中略)
しばらくすると、お手伝いの方が、お茶とお菓子を運んで下さいました。
「どうぞ」
と言われて、茶器の蓋をとって、びっくり! 茶碗いっぱいに大きな櫻の花が一つ。ひらひらと花びらが揺れています。
「わあ! 綺麗!」
感激して思わず叫んでしまった私に、先生は満足そうに、にこにこと笑みをうかべてくれました。先生は、
どんなことにも真剣でしたが、この時も全身で喜んで下さいました。
私は、あの時の先生の笑顔を一生忘れる事はないでしょう。

松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

368:名無しさん@3周年
11/03/19 12:49:39.81 gq+e1QxB
(中略)
私が、三島先生と最後にお目にかかったのは、昭和45年11月26日の夜でした。
先生が割腹されたのが、その前日、11月25日ですから不思議に思われるかもしれません。が、確かに私は
この日先生と最後の言葉を交わしました。
(中略)今でもあの日の先生の表情、声、すべて鮮明に浮かんで来ます。
衝撃の25日が過ぎた翌日、私は疲れきって、ぐっすり眠っていたのでしょうか。
その夜は、夫は研修か夜勤で留守でした。
トントンとドアを叩く音に目を覚まし、扉を開けると、そこに三島先生が立っておられました。
突然の訪問で驚きましたが、いつもの先生ではない、ただならぬ気配が伝わって来ます。
「先生どうなさったのですか?」
先生の後ろに誰かの姿があるようだ……が、誰かはわからない。
「とにかくおあがり下さい」
(中略)ともかくも座っていただいた。先生の後ろにたしかに人影があるのだが、ぼおっとして判らない。
あわててお茶の準備をしようとすると、
「すぐに遠くに出かけなければならないから、お茶はいいよ」
と言われました。

松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より

369:名無しさん@3周年
11/03/19 12:50:16.23 gq+e1QxB
とてもお急ぎの様子で、どこかに行かれる途中立ち寄った感じである。
「持丸君は?」
と聞かれましたが、夫はいない。
「今夜は、夜勤で泊りです」
と答える私に、少しがっかりされた様子でした。
「そうか……残念だなあ……じゃ芳子さんから、持丸君に伝えて欲しい。後の事はたのむと……。とにかく
後のことはたのむと、それだけは、伝えて欲しい。くれぐれもよろしく伝えて欲しい。」
「はい、わかりました。必ず伝えます」
先生は、何度も念をおされて、ほっとした様子で席を立って行かれようとする。
何故か、どうしても止めなきゃ! 不安になり
「先生! これから何処にいかれるのですか?」
とお聞きすると、振り返り、静かに深くうなずいて行ってしまわれました。
夜が明けてから、私は、ただ茫然とするばかりでした。
先生がいらっしゃったのは、夢だったのだろうか? 夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。
確かに夫は夜勤でしたし、夢の訳がない。先生は、あの世へ旅立つ途中に寄ってくださったのだ。
とすれば先生の後ろの人影は、森田必勝であったかもしれない。
先生は、旅立ちの前に、最後の言葉を下さったと、私は今でも信じている。

松浦芳子「今よみがえる 三島由紀夫」より


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