ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの?at SEIJI
ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの? - 暇つぶし2ch200:名無しさん@3周年
11/01/16 00:47:14 4moxL3md
>>189
半可通の上っ面な感想お疲れさまでした。
ギリシャ文学じゃなくてギリシャ神話。それからギリシャ神話やローマの美意識と、日本古来の美意識は共通してます。
それに三島がホモ傾向だったのは学習院のときで、別に中年から目覚めたわけじゃないし。
ナルシシズムと武士道も無縁じゃないしね。そもそもナルシシズムのない英雄はいませんから。

201:nl
11/01/16 00:48:08 afL/PJI9
ara soo. Kono sekininwa maeno dai Nippon Teikoku no nokosita kekka de atte, are kara 66 nen tatu ga toobun henka wa nozom-enai.
Make-ikusa wa suru mono dewa nai.
Hukusui bon ni kaerazu.
Sekai rekisi de itido makeru to hotondo tati-naoreta kuni wa nai .


202:名無しさん@3周年
11/01/16 00:55:38 wtAwGQgV
個性の無い子供たちが、個性の塊の三島由紀夫を批判して個性を求める。
電気羊の夢は見れたか?

203:名無しさん@3周年
11/01/17 01:49:27 IjCHldfW
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されて
いました。こういうのは、これから面白いなと思った。つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を
担うという構想を出されていた。アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけが
そのような民兵組織がなかった。自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、
ああいう考え方は非常に新鮮でした。
今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが
非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で
感じることなんだと、理屈ではないんだと。全くその通りだなと思いました。ほとんどの話は忘れてしまったけれど、
これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

204:名無しさん@3周年
11/01/17 01:49:55 IjCHldfW
「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。『毛沢東万歳!』ってすごかった。
ものすごい理想国家のように持ち上げていた。ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げて
フカに食われて死んじゃう人が何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて
来るんだ。変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。
(中略)
右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と自衛隊に
体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。楯の会という意識はなかった。
自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

205:名無しさん@3周年
11/01/17 01:50:23 IjCHldfW
「そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。どんな本を
読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。
『政治少年死す』ていうやつを。読んでないから答えられなかったんだよね。
先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか
元気がいいですから』と言ってくれました。森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。そうでなければ、
こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。
快活という言葉、一言。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

206:名無しさん@3周年
11/01/17 20:13:37 IjCHldfW
「三島由紀夫先生と楯の会のことは、田舎にいる時は全然知らなかった。興味もなかったし。父親が靖国会を
やっていて、その関係で森田必勝さんに会ったんです。
確か、森田さんが橘孝三郎(祖父)のことを知って、靖国会の事務所を訪ねて来たんです。その後、私も
紹介されました。親父は森田さんのことをこう言ってました。
『森田必勝という、なかなかいい男が俺を訪ねて来たぞ。凄く気骨のある人間だ。凄くいい青年だぞ』って。
くりくりっとした坊主頭の人で、本当にね、少年みたいにね、本当に裏のない人でした。森田さんは兄と同じ
二十年生まれ、ずっと兄のように思っていました。
(中略)
西新宿のルノアールで、三島先生にお会いしました。ほとんど何も言えなかったけどね。『橘先生、お元気ですか?』と、
祖父の橘孝三郎のことを訊かれたことを覚えています」
塙徹二(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

207:名無しさん@3周年
11/01/17 20:14:03 IjCHldfW
「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、『森田には命預けますっていう学生がいっぱい
いるんだよ』と言ったんだ。そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、『いやあ、僕の命は先生に』って言った。
僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ。
(中略)
自分ではちゃんとしていたつもりだったけど、先生に怒られたことがある。『お前ら女みたいだな。ころころ
変わって』って。
俺たち、時間前から行ってバリバリやる気でいるかと思ったら、だらだら遅刻したり、自分では変わってないつもりが、
変わっていたんだ」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

208:名無しさん@3周年
11/01/17 20:14:55 IjCHldfW
「私は、正式な会員じゃないんです。もともと大学が早稲田だったから、楯の会のことはよく知っていたんですよ。
でも、その当時は入ろうという意識はなかったですね。(中略)
国学院の友人に、三島先生に心酔しているものがいて、仲間と一緒に先生に会いに行くことになったんです。
それにも、たまたま行かなかった。友人は、念願の先生にお会いして、頭の中が真っ白になって『先生は、
いつ死ぬんですか?』と訊いたそうですよ。
先生は、『わっはっはっ』と大笑いされて、『まあ、お茶でも飲め』と、紅茶をご馳走になった。何も聞け
なかったけど、気さくな人だったと。夏の暑い日だった。社交辞令だろうけど、募集してるから、また来い、
ともおっしゃってくれたそうです」
須賀清(元楯の会幻の六期生)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

209:名無しさん@3周年
11/01/17 20:15:19 IjCHldfW
「森田必勝とは同じ二十五歳だった。当時、森田たち十二社のメンバーはすぐにテロだとか言っていた。
できるわけねえじゃないかこいつら、と思っていた。でも、事件が終わってから、森田の見方が変わった。
あの男に対する見方は変わったよ。先生に対しては変わらない。もともと凄いなと思っていたからね。
(中略)
何かの折に触れ思い出すと、『あいつは凄かったな』と思う。要するに、腹を切る切らないの前に、あの状況に
立てるかどうか考えた。それから介錯して、短刀を取って……。あの状況に立った古賀、小賀、小川、森田は
凄いと思う。
三期で一緒だった牧野隆彦が、先生が亡くなった四十五歳を越えた時、『先生に、すまない』と言った。そして、
翌年四十六歳、くも膜下出血で死んでしまった。その時は、ショックだったね」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

210:名無しさん@3周年
11/01/18 20:06:35 e+mjrcem
「たぶん、先生は最初一人で死ぬつもりだった。森田さんも死ぬ覚悟を決めていたんですよ。『森田の精神を
恢弘せよ』とは、その森田さんの純粋な行為、行動、信条を後の人に伝えろというのがあるのだと思います」
佐原文東(元楯の会会員)

「三島先生という存在自体は亡くなられても、文学者としての三島由紀夫、社会的な立場にある人としての
三島由紀夫は残ると思います。しかし、森田についてはおそらく何も残らない。森田について言いたいことは
政治的な森田。日本には『自決』という政治的表現があるんです。諭したい相手がダメだと思ったら、自らの命を
捧げて訴えるという政治的な表現法です。行動主義の森田だったから、西洋的にしゃべり尽して相手に伝える事を
せず、『自決』という行動で、『日本の真の姿を見よ』と訴えたかったんだろうと思います」
伊藤好雄(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

211:名無しさん@3周年
11/01/18 20:07:28 e+mjrcem
「先生はもうそれなりに著名で確立されている方です。でも、森田さんは無名でした。三島先生は、ものすごく
森田さんの身の上を案じ、今後、森田さんの精神がそのまま埋もれてしまうことに対して危機感があったんだと
思います。(中略)
僕の進んできた道を―商社に入ってずっと普通に生活してきたことを、申し訳ないという気持ちがあります。(中略)
僕は、大学で中国語を学び、中国という共産主義の国が隣にあって、日本がどう思われているのか、最近の反日の
運動を見るにつけ、その前から中国はずっと日本に対して辛く当たっていることを経験してきました。みなさんは
日本の中で日本を見てきたと思うけれど、僕は中国というフィルターを通して日本を見てきたんです。
預言者としての三島由紀夫というのは、ものすごく的確だと思います。今の日本の政治はぶれている。外交上、
中国にしてやられています。そういういたたまれない状況にあるだけに、非常に的確に予言していたな、と思います。
それだけに、三島先生や森田さんのやった行動が余計光ってくると思います。一条の光というか、僕は、やがて
もっともっと輝いてくると思います」
古屋明(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

212:名無しさん@3周年
11/01/18 20:08:14 e+mjrcem
「フルコガ君(古賀浩靖)とは事件後、品川だったか、電車の中で偶然会ったことがあります。その時、彼は
『すみませんでした』と言ったので、僕は『そんなことないよ。君がそんなことを思うことはサラサラないね』と
答えた記憶があります。(中略)
先生は、残すべき人間は残したんだと思いますよ。おそらく。だから、残った人間は、重い荷物を背負って
いるんですよ。
私以外に、楯の会の会員で二人、自衛隊で定年を迎えた人がいます。彼らと違うのは、私は事件が起きる前に
自衛隊に入隊していたことです。二人は事件が起きたあとに入ったから。まあ、どちらが大変という比較は
難しいですが、それぞれ大変だったと思いますね。ずっとマークもされてましたから。多分、三人とも定年まで
マークされていたと思います。(中略)
事件当日に市ヶ谷で斬られた人と会ったこともあります。腕を斬られて、背中を何針か縫った人を知っています。
でも、三島先生のことを悪く言う人はいません。先生の心情はわかるということを、随分言われました」
イニシャルK、元明治大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

213:名無しさん@3周年
11/01/21 12:23:33 KI5Du3Xl
「僕が、どうしてしゃべる気になったかというと、結局、あの事件は、『三島由紀夫』だけが前面に出ているから。
だから、世間の評価というのは、いわゆる作家が起こした結末だというのがほとんどでしょ。もし、三島先生一人
だけだったら、僕はそれは認めるわ。だけど、森田さんが一緒だった。まるで森田さんなんて、さしみの
ツマみたいなもんや。だから、僕はそれが我慢できへんかった。ずっと、今でも、そう思う。
三島先生は、もの凄い追い詰められたと思うの、森田さんに。本当に。もし森田さんがいなかったら、三島先生、
絶対せえへんよ。ああいうことは。思い切れなかったと思う。違った形でしたかもしれへんけど。自分で腹切って
死ぬことはあったかわからへんけどね。ああいうことはしなかったと思う。うん、すべて森田さんの影響よ、あれは。
森田さんの言動でもわかっていたし」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

214:名無しさん@3周年
11/01/21 12:23:58 KI5Du3Xl
「(中略)森田さんは『自分でテロするなら、必ず自分の命を絶たなきゃいけない。生き残ったらいけないんだぞ。
そんなヤツいるか? 今の日本で、自分の命を賭けてもいい奴がいるか?』そう言った。森田さんは、その時、
もう覚悟できてたし、三島先生について行ったらいいと、自分の命を捨てる覚悟だったんやろうね。
三島先生は、すべて規定済みやった。たぶん野次で、自分の声がかき消されるのもわかってた。それを上回るような
マイク使ったら、値打ちもない。演説と違うんだから。やっぱし、最後は肉声よ。
明治維新から百年たって、高杉晋作や坂本竜馬がどうだったか、今では我々もわかる。五十年、百年たって、
わかる人がわかればいいのよ。
当時、二十歳前後だった我々は、他のみんながこれからどうして生きようという学生時代に、どうして死のうか
考えてた。それだけの覚悟をしてしまった。それは、森田さんも、我々も一緒だった」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

215:名無しさん@3周年
11/01/21 12:24:17 KI5Du3Xl
「森田さんは、非常に純粋な方でした。だから、すべてを賭けておられたんでしょう。それは、言葉の片言隻句に
森田さんの純粋な気持を私なりに感じました。楯の会に対して、大切にしようという思いをつくづく感じました。
森田さんは、三島先生だけを行かすわけにはいかない、という学生長としての立場もあって、十分考えられたんじゃ
ないですかね。
すべてを森田さんが引き受けてしまったのだという思いはずっとしています。非常に、それは、辛い……。
若い、純粋な人が……。(中略)
今の日本には、遺憾極まりない気持です。靖国神社にしても、日中問題にしても、全部本質的なことを飛ばして、
表面的なことだけでやり過ごしている。そういうことを、森田さんは我慢ならなかったんだと思います。私は
今でもそうだから、二十代の純粋な考え方だったら、本当に我慢できなかったと思いますよ。
私は、今、学生にも言うんです。『こんないい加減な世の中に対して、君たちはなぜ憤りを持たないのか?』と。
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

216:名無しさん@3周年
11/01/21 12:24:43 KI5Du3Xl
楯の会にいたことを、特に学生には言っていません。三島由紀夫の本を読んだ学生はあまりいません。読めない
でしょう。あらゆる面で学力低下がひどいから、日本語がどんどんおかしくなっています。
僕らは、あの当時、それなりに自分の国のあり方を真剣に考えていました。右であろうが左であろうが。やっぱり
もっと国に対して真剣だった。今は、みんな本当にそういうものがまったく感じられない。(中略)
平和というのは、戦わないこと。今の日本では、それが平和だと言われています。不戦の誓いだとか。
本当にそうなのかなと思います。むしろ逆ですよ。平和というのは、自国の防衛をきちっとやって相手から
侮られないというのが平和であって、戦わないというのが平和ではないんです。それは奴隷の平和です。攻めて
くればやるぞ、という覚悟があって初めて平和というものは維持されるわけですから。
森田さんの志を恢弘せよというのは、やっぱりそれぞれ自分たちの現在の場所においてその当時の気持を実現せよ、
という意味で私は理解しています」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

217:名無しさん@3周年
11/01/21 18:37:07 uAdgETVF
>>202

あれれ、お前ら右翼って「個性」はニッキョーソキョーイクだから
嫌いなんじゃなかったんだっけ?

218:名無しさん@3周年
11/01/21 18:38:38 uAdgETVF
>>191
いい得て妙だな。

ただ三島はまさにそういうネット右翼の心性そのものを体現していた
人物だったのではないか?
初代ネトウヨといってもいい。その脆弱な心身が。

219:名無しさん@3周年
11/01/21 20:05:00 KI5Du3Xl
三島は自身の弱さも強さもすべて晒して見つめて、自身を分析して行動できた人。
脆弱なのはこんなとこで三島の悪口言ってるバカの方だよ。

220:名無しさん@3周年
11/01/24 20:47:28 bRlllnED
「三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖と小賀正義は、自分が楯の会に誘ったんです。
警察に留置されている二人のことをずっと考えました。(中略)
フルコガ(古賀)とチビコガ(小賀)が出てくるまでは、東京にいるのが義務だと思いました。
彼らが出てきたので、その年の秋、秋田に帰ることになりました。お金がなかったので、トラックをレンタルして、
運転手を古賀と友人が手伝ってくれました。一日かかって秋田に着き、夜に三人で酒を飲みました。その時、
古賀に訊いたんです。
『古賀(ヒロヤン)、ひとつだけ訊きたいことがある、いいか?』
『何だ?』
『十一月二十五日、あすこの現場を出る時、投降して捕まって出る時、どういう気持だったんだ?』
今考えると、バカな質問をしてしまった。自分でさえ頭がまっ白になったのに、彼らがその時のことを言葉に
表現できるはずかない……。気付かなかった」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

221:名無しさん@3周年
11/01/24 20:48:07 bRlllnED
「なかなか答えてくれないから、『あの事件は、何があなたに残ったんだ?』と訊いた。
すると、古賀は、カウンターの上で、ゆっくり右の手のひらをただ上に向け、何かを持つようにした。古賀は
その手をじっと見つめたまま、一言もなかった……。
それが何を意味しているのか理解したのは、一ヶ月か二ヶ月たってからだった。もう声も出なかった。それは、
三島先生と森田さんの、首の重さ……。それを知った時、ふーっと血の気の引くような衝撃に襲われた。あの人が
首を落とし、安置した。古賀だけが首の重さを知っている……。
彼らに事件のことを訊いたのはそれだけ。あとはもう訊けない。今でも時々会うが、一切そういう話はしない。
失礼に当たると思っています。(中略)
あの行動を凌駕する言葉とか文章、表現はない。それを残された会員みんな、漠然と確実に持ってしまっているんです」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

222:名無しさん@3周年
11/01/26 15:46:53 ahQMH7mN
「拘置所にいる時、記録として残しておこうと思った。日記のような形にしようと思って、それを看守に言ったら、
あかんと言われた。ノートは手に入ったので、洗面所にあった釘で書いた。結局、検閲で見つかって没収されて
しまった。(中略)
三島先生は、日本は文化概念として天皇陛下がいらっしゃると言われてきた。『我々の一番の根幹は、天皇を
守るか守らないか。これから稲を植えて収穫するのは、天皇家しかやらないんじゃないか、そういう未来が来るよ、
工業化のあげくに……』先生はずっとそう言っていた。
森田さんに対して……忸怩たるものがある……何もできていない……。しかし、僕をはじめ、みんなも表に
出なくていいと思う。本来埋もれていくべきだと思う」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

223:名無しさん@3周年
11/01/26 15:47:12 ahQMH7mN
「森田さんのことを語り合うのは価値があるが、自分たちのことを話すのは間違っていると思う。先生は
偉大な人だから、それは置いて、我々は埋もれていげばいい。埋もれなければならない。活動したことは
価値あることで、先生が『楯の会』という、今までにない団体で行動したのは、時代に夢があったからだと思う。
今後とも出て来ないだろうし、価値があった。でも、我々が、楯の会の会員だったということを口にするのは、
違うと思う。
森田さん自身、そんなに言ってほしくないと思っているのではないか……。僕は黙って死んで行く……という人だから。
(中略)
『森田の精神を後世に恢弘せよ』とは、三島先生と森田さんの、感性を持てということだと思う。先生があそこまで
できたのだから、僕もできるだろうと。それがずっとある……。自分はそれだけのことをやっている自信はある」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

224:名無しさん@3周年
11/01/29 10:16:42 +mRFX9ak
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

225:名無しさん@3周年
11/01/29 10:16:56 +mRFX9ak
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

226:名無しさん@3周年
11/01/29 10:17:20 +mRFX9ak
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で
とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に
言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう―そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

227:名無しさん@3周年
11/01/29 10:17:43 +mRFX9ak
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

228:名無しさん@3周年
11/01/29 18:56:53 HdRXzP1O
崇拝してないよ。かまほりたいだけ。やらないか?
ちなみにホモは圧倒的に自民党が多いらしい。
昔は左翼が多かったんだけどな・・・



229:名無しさん@3周年
11/01/29 19:01:09 qPiOK/Vg
三島が自宅をビクトリア調に立て直したというのは
どういうことなんだ。
三島の思想と矛盾しないか。

230:名無しさん@3周年
11/01/29 19:25:45 +mRFX9ak
>>229
三島邸は南欧風、スペイン風やギリシャ風ですから、三島の思想や美学と矛盾してませんよ。

231:名無しさん@3周年
11/01/29 19:37:32 qPiOK/Vg
アメリカナイズされた若者を否定する一方、
アメリカの成金の家をマネするのは、納得がいかない。
ビクトリア調コロニアル風というのは、要するに
イギリス移民の成金の家ということでしょう。

232:名無しさん@3周年
11/01/29 22:26:24 p2kLyMCy
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろよ
















233:名無しさん@3周年
11/01/29 23:23:00 +mRFX9ak
>>231
別に三島はアメリカ文化を全否定してませんよ。ニューヨークもディズニーも好きだと言ってますからね。

それから、ビクトリア調コロニアル風はアメリカ文化じゃないよ。


234:名無しさん@3周年
11/01/29 23:30:26 qPiOK/Vg
>>233
コロニアルは植民地風という意味だ。
アメリカで成功したイギリス移民が、祖国の領主の館にならってつくったのがそれだよ。
さすがに石造りは無理だから、木造になってる。
三島はアメリカで見た家を参考にしたんだろ。

235:名無しさん@3周年
11/01/29 23:41:51 qPiOK/Vg
>>233
三島はアメリカ文化の否定じゃなく、安易にアメリカ文化に浸る若者の行為を
否定してるわけで、論点がずれてるよ。
三島の場合、自分だけは安易じゃないということなのかw

236:名無しさん@3周年
11/01/29 23:44:51 +mRFX9ak
>>234
だからアメリカ文化じゃないでしょうよ、もともとは。バカじゃないの、あんたは。
三島はスペインやフランス、イタリア、ギリシャに行って見てんだよ。

237:名無しさん@3周年
11/01/29 23:47:45 qPiOK/Vg
>>236
南欧にコロニアルなんてないよ。
アメリカの家を見て、田舎ものの自分には、良いものに見えたと
本人がおっしゃってる。

238:名無しさん@3周年
11/01/29 23:55:38 +mRFX9ak
>>235
三島は別にアメリカ文化に浸る若者を全否定してないし。洋楽聴こうが、ハンバーガー食べようが、そんなことは非難するような偏屈バカじゃないし。
あんたは何か勘違いしてんじゃないの?

239:名無しさん@3周年
11/01/29 23:57:36 +mRFX9ak
>>237
だからもともとはヨーロッパ文化でしょう。

240:名無しさん@3周年
11/01/30 00:06:30 BcvFXqlx
>>239
それをいったら日本文化などは存在しないことになる。
>>238 を早くいうべきですね。
できれば、もっとわかりやすく。

241:名無しさん@3周年
11/01/30 00:15:44 7wefeS4M
>>240
じゃあアメリカ文化も存在しないことになるでしょう。

知りたけりゃ、自分自身で三島の著書を読んで調べてください。

242:名無しさん@3周年
11/01/30 00:22:43 BcvFXqlx
自国の文化を否定してまで、自説を通すのかw
三島は若者批判の小説なんぞ書かないでしょう。お客様なんだから。
講演会やインタビューにはそういうものがある。

243:名無しさん@3周年
11/01/30 00:34:44 7wefeS4M
>>242
洋館に住んだら、自国の文化を否定したことになるとか、この近代時代にバカじゃないの? あんた。

244:名無しさん@3周年
11/01/30 01:08:42 BcvFXqlx
>>243
ヨーロッパが元だからアメリカ文化じゃないといったら、
明治以前の日本文化はほとんどが中国文化になってしまう。
明治以降はほとんどが元は西洋文化だということだ。
少しは頭使ってくれ。

245:名無しさん@3周年
11/01/30 01:10:35 BcvFXqlx
ところで、三島はこういう意見を持ってる。
日本の伝統文化を守ることは、日本を守ることだ。

246:名無しさん@3周年
11/01/30 10:20:37 7wefeS4M
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、
国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を
処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、
三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

247:名無しさん@3周年
11/01/30 10:20:59 7wefeS4M
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

248:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:18 7wefeS4M
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

249:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:34 7wefeS4M
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

250:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:54 7wefeS4M
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

251:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:36 7wefeS4M
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

252:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:52 7wefeS4M
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

253:名無しさん@3周年
11/01/30 10:26:21 7wefeS4M
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

254:名無しさん@3周年
11/01/30 23:04:22 omPwvwui
自衛隊って守秘義務無いのか?山本の記述はどうも嘘くさい。
自衛隊はどうか知らないが公安関係の資料を民間人に見せる事は少なくとも警察だと処罰の対象になる。
退職後、その事実が発覚された場合でも訴追を受ける。
自分の自慢話のために三島を利用しているだけなんじゃないのか。

255:名無しさん@3周年
11/01/31 01:05:33 otdRhGRy
>>254
本当のことだよ。他にも同席してる人がいるから。
何そんなにいちいち過剰反応しての? ブサヨ丸出しお疲れさま。

256:名無しさん@3周年
11/01/31 14:04:23 uRTj4H5U
301+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:24:00 ID:MTi/WKRz0 (2/2) [PC]
岩田君の論文再掲載その1: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
URLリンク(anti-cult.seesaa.net)
岩田論文の思想的分析その1~生長の家の異常なまでの天皇崇拝について~: 保守論壇の仮面舞踏会を斬る!!!
URLリンク(anti-cult.seesaa.net)
ネトウヨの正体がだんだん分かってきたよ~w

302 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:36:30 ID:jhZ7BPOW0 (1/6) [PC]
前々から、ネトウヨとチャンネル桜にカルトっぽい臭いを感じてたんだが、
なるほどな~という感じ。チャンネル桜のあのヤクザ顔の社長、、、、そういうことね。

304 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 05:43:07 ID:jhZ7BPOW0 (2/6) [PC]
あの人、やっぱり早稲田卒ですな、、、

313 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:17:47 ID:jhZ7BPOW0 (3/6) [PC]
ネトウヨって、全国学生自治体連絡協議会、日本青年協議会、日本会議の関係者なのか~w
なるほどな~wそういえば、チャンネル桜の社長も青山先生も早稲田卒だな~
そういうことだったのね。洗脳が解けたわ。

315+1 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:34:54 ID:jhZ7BPOW0 (4/6) [PC]
この話めちゃくちゃ面白いな。小山孝雄さんも生長の家の幹部だったのか~www
教科書を作る会ってそういう団体だったのねw

317 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:40:15 ID:jhZ7BPOW0 (5/6) [PC]
鈴木 邦男さんも、なんと生長の家と関係あるようだよwもちろん早稲田、、、、、、w
URLリンク(www.mammo.tv)

318 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 06:46:50 ID:jhZ7BPOW0 (6/6) [PC]
ネトウヨ、および保守系言論人をつなぐキーワード、、、、それは、
生長の家 と 早稲田。これって、周知のことなのかな?
長年の謎が解けた気がする。西尾先生もびっくりじゃないかな。

257:名無しさん@3周年
11/01/31 14:04:38 uRTj4H5U
321 :名無しさん@十一周年 [] :2011/01/30(日) 08:38:05 ID:OBaF7l1j0 [PC]
ネトウヨの実体、背後関係がおぼろげながら見えてきたわけじゃん
おもしろくね?
あと、生長の家の二代目、谷口セイチョウさんがお亡くなりになったのが2005年で、
その年に、右翼傾向からの路線転換、親中的(中国での布教をしたい)な三代目に移ったわけだけど、
教科書を作る会の内紛2005年と一致するよ 偶然なのかな?

あと、三代目教祖さんは女系天皇支持を表明したわけだけど、
その時期と、小林よしのりが女系天皇支持に回ったのと符合するんだよな。
偶然かな?
生長の家が資金的スポンサーだったってことじゃないのかな?
教科書と桜と日本青年協議会とゴーマニズムの。

で、小林は三代目の軍門に下って、庇護を受けよう(本を買ってもらう&資金援助)と政治的取引したわけでしょ?
で、早稲田時代から初代の教え(国家神道天皇絶対主義)に染まってきた
日本青年協議会系の人々(教科書、桜)は、小林を死ねと連呼してるわけね。

鈴木は根っからの生長の家の信者なんだろう。
だから、まさに三代目の意向を受けて、
穏やかな民族運動に転向したってことかな。

全部謎が氷解するよ。

258:名無しさん@3周年
11/01/31 16:49:46 ssv88tAS
>>255
おい。同席している奴がいるってのがどうして山本の記述の真偽を計る理由になるんだよ?
お前、その同席している奴ってのに会ったのか?
どこのどいつだそれは?
まさか山本の本に書いてあったとかいうのが根拠じゃないいんだろうな?
お前、隊員か警察に知り合いがいるなら、事件事故資料を部外者に見せたらどうなるか聞いてみろよ。
ヒキオタニートのお前が三島に憧れるのもわからんでもないがよ。
もっと勉強せんと三島にすらなれねえぞ。



259:名無しさん@3周年
11/01/31 19:14:47 otdRhGRy
>>258
何そんなにムキになってバカじゃないの? 北朝鮮ブサヨが必死にお疲れさまでした。


260:名無しさん@3周年
11/01/31 19:21:18 otdRhGRy
>>258
それから、あんたの言ってることこそ、ことの真偽とは、別の問題で、真偽を計る理由にならないよ。
誰かが実際に通報、起訴しなきゃ関係ないことだから。

261:名無しさん@3周年
11/01/31 19:26:29 otdRhGRy
>>258
三島由紀夫が山本の諜報訓練の授業受けて、いろいろ教えを受けてたのは事実だよ。一緒に訓練してた人の証言もあるから。

262:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:09 otdRhGRy
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、
国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を
処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、
三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

263:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:23 otdRhGRy
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

264:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:37 otdRhGRy
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

265:名無しさん@3周年
11/01/31 19:31:52 otdRhGRy
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

266:名無しさん@3周年
11/01/31 19:32:31 otdRhGRy
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

267:名無しさん@3周年
11/01/31 19:35:44 otdRhGRy
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

268:名無しさん@3周年
11/01/31 19:36:07 otdRhGRy
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

269:名無しさん@3周年
11/01/31 19:36:37 otdRhGRy
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

270:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:03 inYoCWz5
(中略)
私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、
三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方に
ついての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を
明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。
そのことを語らなくては三島にすまない。その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。(略)
クーデターは行われるはずだった。
前章で少し触れたが、かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる「三無事件」の内部調査を命じられた。
その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸将らがこの首謀者たちと
密会し、酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。
私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件の陰で暗躍したことを知った。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

271:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:18 inYoCWz5
こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは
調査学校校長であった藤原岩市である。(略)自衛隊幹部が三島の要請を受け入れ、異例の関係をもつように
なった背景には、自衛隊誕生とともにその実権を握ることになった旧陸軍将官、将校たちの悲願が隠されていた。
(中略)この(三無事件の)痛恨の失敗は新たなクーデターの機会を求める彼らの思いを強くしていた。
それから六年後、彼らの前に現れた三島由紀夫は、彼らの悲願を実行に移す機会を開く絶好の人物であった。
(中略)国内における全国的な新左翼運動の高まりと、世界各地で多発した新たな都市闘争のうねりは、
これまでにない革命的状況の到来を予感させた。それは一方で、わが自衛隊が本来あるべき姿で認められる
チャンスであり、われわれ情報勤務の人間が、真に求められる存在となる絶好のチャンスでもあった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

272:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:32 inYoCWz5
(略)三島は、藤原らとの接触で知った治安出勤に関する情報と、私との交流で得たものから一つの構想を
描いたに違いない。すなわち、10月21日(昭和44年)、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出勤が
必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の
特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出勤し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、
デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、
断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。
「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。
三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを
成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

273:名無しさん@3周年
11/02/02 12:52:47 inYoCWz5
そこでは当然、私も切腹をしなければならないし、出勤の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島も
それを求めていたはずである。(中略)
Hらはこの三島の構想について米側とも話し合ったに違いないと思っている。
もう一度言う。クーデターは行われるはずだった。(中略)
三島は絶えず私にともに決起するよう促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に突き進まない
よう、その話題を避け、もっと長期的展望に立った民間防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。
(略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが、
私にはできなかった。たしかに私は死が恐ろしかった。(略)そして私の死だけではない。何よりも私が
認めがたく思ったのは、三島を失うということだった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

274:名無しさん@3周年
11/02/02 12:53:02 inYoCWz5
H陸将は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。
「おい、カモがネギをしょってきたぞ」
文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、
利用価値は十分あった。その彼が広告塔どころか、自らを犠牲にして、自衛隊の自立という永年の悲願を
成就しようとしている。ジェネラルたちは、三島の提案した計画に実現の可能性を見たのだ。
三島が単なる文人などではなく、しっかりとした理念と現実認識に基づく理論の持ち主であり、戦略家、
将校としての資質と実行能力をもったりっぱな同志であることを知り、その人間的魅力に触れた私は、
陸将たちの不遜な見方に反発を感じるようになった。彼らにとって三島は、自分たちの目的を遂げるための
手駒に過ぎなかった。そして、彼らにとっては私もいつでも捨てられる手駒の一つであった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

275:名無しさん@3周年
11/02/02 12:56:05 inYoCWz5
しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジェネラルたちは、「三島が自衛隊の地位を
引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる」というだけではすまなくなりそうだということに
気づき始めた。三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入った頃だった。私はその
経緯を詳しくは知らない。藤原らは場合によっては自分たちも、死に誘い込まれる危険を察知したのかもしれない。
藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。(略)仮にクーデター計画が
実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人の
ジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。
三島はむろんひどく落胆したが、自衛隊との関わりで行われていた訓練を禁止されるには至らなかったため、
決起の機会がまったく失われたものとは考えていなかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

276:名無しさん@3周年
11/02/03 11:46:40 isqX84od
むしろその頃から、三島の私に対する働きかけはより切迫したものになっていた。訓練に参加し、三島の考えに
共鳴する自衛官も増えている。逆境に立ちながら三島は、同志との結束を固め、クーデター実行の可能性を
つねに探っていた。(略)私が逃げるはずはない、三島はそう信じていた。(中略)
それは三ヶ条からなる新たなクーデター計画であった。その一ヶ条は、「楯の会」が皇居に突撃して、そこを
死守するというものだった。(略)五名の将校は三島の計画に深くうなずいた。(略)私は真っ向から反対した。
(略)「臆病者!」「あなたはわれわれを裏切るのか!」いきり立つ将校たちを、三島は手を振って制した。
(中略)この日切り出した問いの背後には、私がこれまでの態度を少しでも変えて、目標に転じる可能性が
あるかどうかを確かめようとする気持ちがあったに違いない。(略)彼は私を見限らなければならなくなった。
(略)しかし、三島は私を斬り捨てることができなかった。(略)私がいなければ不正規軍の戦いに勝つことが
できないとわかっていたからだ。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

277:名無しさん@3周年
11/02/03 11:47:03 isqX84od
(中略)
10月21日に向けて、新左翼各派はそれぞれにキャンペーンを繰り広げていた。学生だけでなく、反戦派と
呼ばれる労働者集団も戦闘的な街頭デモを展開して、革命前夜の状況を作り出すべく、10月から11月に
かけての闘争に全力を傾けよ、と呼びかけていた。(中略)
三島はその日をどういう気持ちで迎えただろうか。彼の構想を一度は受け入れたジェネラルたちは、その実行を
うやむやにする形で自分たちの身の安全を図ったが、断固とした態度で全面否定したわけではないらしかった。
三島は逃げ腰の彼らとの話し合いを続けるなかで、それでも状況次第では、自衛隊の治安出勤もあり得ると
考えていたらしい。(中略)
警視庁の当該部署に確かな情報源をもっていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争が
どのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。(中略)
直前までマスコミによって盛んに報じられていた自衛隊治安出勤の可能性は、完全に断たれたのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

278:名無しさん@3周年
11/02/03 11:47:32 isqX84od
(中略)彼は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター
計画を実行することを決意していた。計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、
それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を
見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。彼は真の武士であった。
(略)彼がその可能性を求め続けた「クーデター計画」を阻んだ者がいる。(略)一人は私である。(略)
第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。(略)二階へ上げておいて梯子を外したといわれても
仕方ないと思う。(略)
さらに国際情勢も三島に味方しなかった。(略)キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともと
アメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

279:名無しさん@3周年
11/02/03 11:48:10 isqX84od
もっとも、自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとする
なら、三島の期待は実現したであろう。三島はその辺のところをはっきりと理解していた。彼が、私抜きでの
決起を想定した演習を独自に進めながら、絶えず私を計画に引き込もうとしていた理由の大半はここにある。
(略)根本的には同じ理想を抱く同志であった。いつも控えめに示す彼の情のほとばしりに、私は最後まで
温かい好意のようなものを感じなかったことがない。
(中略)自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、
不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く
国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の
中で実感していた。(略)その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、
二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

280:名無しさん@3周年
11/02/03 11:55:31 isqX84od
―永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふり
しぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったと
しても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。
三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。
(中略)―三島の真の決起は昭和44年10月21日に、果たせないまま終わっていた。(中略)
私は三島の行動の行く末と三島の身を案じる一方で、私自身の身の危険を感じていた。それを恐れていたことで、
私は三島に詫びたいと思う。三島は個人的なうらみで行動するような人間ではなかった。(中略)
最後の決起は、この国の行く末を案じるがための、捨て石としての死であった。自己の保身をのみ考えて
立とうとしない将官たちと、自らの運命に鈍感なすべての自衛隊員に対して糾弾し、反省を促したのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

281:名無しさん@3周年
11/02/03 11:55:56 isqX84od
昭和46年秋、三島の一周忌が近づいてきていた。せめて思い出につながる部下たちを集め、われわれだけでも
密かに三島を供養したいと思った。
11月24日、陽が落ち人の顔の判別がつかなくなる頃を待って、私は三島家の門前に独りで立った。(略)
私は、ただ合掌して唇を噛んだ。
翌25日夜、仮の祭壇を設け、私の手許に残った三島の遺品を供えた。部下の持ち寄りの供物をそなえ、
懐かしい三島からの手紙を朗読して読経に代えた。部下たちからすすり泣く声が洩れ、私も泣いた。
それが、私にできる本当に精一杯の供養であった。
そして、私の誕生日が来た。(中略)
私はその日、自衛隊調査学校の校庭の壇上に立って、学生や部下たちに別離の挨拶をしようとしていた。
「晩秋の巨雷とともに、私の夢も消えた」私は挨拶をこのように結んだ。
10代半ばの陸軍士官学校入学で始まった私の軍隊人生は、この日を以って終わった。(略)
三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた「魂」 であった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

282:名無しさん@3周年
11/02/08 15:31:45 Vaj+5Naq
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
―当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。―と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

283:名無しさん@3周年
11/02/08 15:32:41 Vaj+5Naq
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。―僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。―さすがの武田泰淳も、―いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう―と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、―でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

284:名無しさん@3周年
11/02/08 15:34:41 Vaj+5Naq
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、―おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ―と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

285:名無しさん@3周年
11/02/08 15:35:31 Vaj+5Naq
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。―いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。―
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。―なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)―こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

286:名無しさん@3周年
11/02/08 15:36:38 Vaj+5Naq
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

287:名無しさん@3周年
11/02/15 11:56:49 E2dO7RlK
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。
きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(略)長身で赤ら顔の
ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。
カトリック神父だったのである。
(中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から
電話があった。
「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、
話してくれないか……」
「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな
宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、
じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略)

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

288:名無しさん@3周年
11/02/15 11:57:50 E2dO7RlK
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。
(略)…うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、
カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ
ようとしていた。ひととおりの会話のあと―その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを
敷衍してしゃべったのであったが―長老格の人物が立って、こう述べたからである。
「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、
イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、
われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく
この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

289:名無しさん@3周年
11/02/15 11:59:20 E2dO7RlK
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、
いったん句切りを置いた。
「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。
ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」
「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。
「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」
じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。
枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に
こう言った。
「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に
出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

290:名無しさん@3周年
11/02/15 12:00:18 E2dO7RlK
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の
地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。
そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの
第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。
日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、
「恥さらし」―対外的に……―と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、
偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

291:名無しさん@3周年
11/02/15 12:01:12 E2dO7RlK
(中略)
他者への殺害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、
その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、
私はその名証を見たのだった。(中略)
しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。
キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

292:名無しさん@3周年
11/02/18 15:39:07 M4qulfsV
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略)
この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。
スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で
容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略)
エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。
事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を
手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、
野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである―「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。
しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

293:名無しさん@3周年
11/02/18 15:41:07 M4qulfsV
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た
ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって
私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略)
(参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略)
ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は
『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。
「タケオ・タケモトに、この私の処女作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが
まさにその開花であるところの、美と死とのこの出会い、自殺のストイックなる理想を、本書のうちにまさに
貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

294:名無しさん@3周年
11/02/18 15:46:00 M4qulfsV
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の
ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその
代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の
果断の行為に心を奪われ、現代において―つまり日本においてのみならず―それがいかなる意味をもちうるか
ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略)
黛敏郎氏は次のように回顧している。
〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、
ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉
そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

295:名無しさん@3周年
11/02/18 15:47:04 M4qulfsV
黛氏はつづいて書いている。
〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで
観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な
芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉
あとはもう言葉ならなかった。
私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、
ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの
意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか?
ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。
観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を
見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった―「《愛と死の儀式》―私がここに見たものは、まさしく
神ということなのです……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

296:名無しさん@3周年
11/02/24 10:54:24.49 rPNF3fFh
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。
一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。
〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。
要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、
芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、
日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの
事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、
「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、
深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる
フランス人たちが多かった。(中略)〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

297:名無しさん@3周年
11/02/24 10:55:35.14 rPNF3fFh
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家
クリスチャン・シャバニ氏である。(中略)
「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。
そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。
「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。…(略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、
精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の
精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、
ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

298:名無しさん@3周年
11/02/24 10:56:09.04 rPNF3fFh
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる
罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。
「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、
高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、
このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略)
「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって
鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自殺したという変わり種もあるけれどもね。
…(略)ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの
問いは私に向けられていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

299:名無しさん@3周年
11/02/24 10:57:13.14 rPNF3fFh
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」
「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。(略)」
「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら
「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう―「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの
歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? …(略)
日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。
それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
「そうだとも!」
と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。
「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

300:名無しさん@3周年
11/02/24 11:00:34.16 rPNF3fFh
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」
という声々が、あちこちから興った。(中略)
しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。
「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略)
バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自殺には、なんというか、《フォルム》がない。
フォルム―カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。
「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに
言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と
不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級
知識人の一人である。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

301:名無しさん@3周年
11/02/25 23:23:49.58 MXo0czwf
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに
なんの差異もないことになるだろう……
こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、
『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範―有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる
人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには
見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の
弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」
私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。
また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

302:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:10.64 MXo0czwf
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として
伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が
なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略)
たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。
「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で
あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

303:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:32.64 MXo0czwf
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」
ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである……
「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は
『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、
『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」
「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、
そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。
「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で
やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

304:名無しさん@3周年
11/02/25 23:24:59.81 MXo0czwf
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略)
「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」
これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、
問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。
「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御)
された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略)
ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。
〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた
『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。
『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を
一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

305:名無しさん@3周年
11/02/25 23:25:21.89 MXo0czwf
世にも気高い《愛の物語》…… 
愛、おお かくばかりの愛! 
かくばかりの高貴な生! 
絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 
服喪の空は その暑いしずくを哭き 
ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。

九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 
一体となった双生の命 
一心となった二つの手の古代壺(アンス) 
そして求める《彼岸》への絶対の供物。

入念に死を決意して三島は 
意志の典礼を一点にむすぶ―
すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 
超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

306:名無しさん@3周年
11/02/25 23:32:08.90 MXo0czwf
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、
この久遠の神話(ミット)よ、
愛まったくして 死かくも辛く潔し。
剣はこのししむらを刺し、鞭打した。
恐るべき死の創傷を深めよと…… 
だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。
介錯がこの供献を成就する。
だが成就されるのは自殺ではなく 
この讃歌なのだ。

融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 
淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、
淋漓たる《至誠》の書にこそ 
精神の解脱の場がある。

かくてこそ絶対の恩沢へと 
いま 精神は飛翔する、
大死一番の狂える寛容もて 
かの無限へと―
《Kami(神)》の一語もて 
名づけられた無限へと……

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

307:名無しさん@3周年
11/02/26 01:53:56.79 oJz369SE

>>1 三島を叩きまくって

日本民族を滅ぼそうぜ!

在日!やる気!元気!反日! 

308:名無しさん@3周年
11/02/26 11:14:40.96 j4scveS6
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。
その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。
(中略)かつて―一九五八年―ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは
アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、
満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして
フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略)
日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 
日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく
繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

309:名無しさん@3周年
11/02/26 11:15:10.00 j4scveS6
マルローはこう言ったのだ。
〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて
いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に
描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ
なりません―
日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて
いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように
つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、
隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

310:名無しさん@3周年
11/02/26 11:15:36.05 j4scveS6
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々
すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち―
諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。
もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。
鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに
ほかならない! と。〉
(中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。
武士道の礼讃―たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、
いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか?

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

311:名無しさん@3周年
11/02/26 11:16:03.99 j4scveS6
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として
響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを
われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。
そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略)
われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略)
いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と
「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター
商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。
われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった
からである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

312:名無しさん@3周年
11/02/26 11:16:32.87 j4scveS6
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって
絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略)
それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても
自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい
至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって
量りきれるレベルの問題ではない。(中略)
なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って
自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と
「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。
彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

313:名無しさん@3周年
11/02/26 11:43:04.04 STiApJR1
大半のネトウヨは、三島にほとんど興味がないか、名前も知らないんじゃないかね。

314:名無しさん@3周年
11/02/26 12:07:22.25 PgWzYCq0
三島のビジュアルそのまんままねてるのが在日がやってる街宣右翼だったりする

315:名無しさん@3周年
11/02/28 11:27:38.03 PQezcmRJ
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、
武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を
もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ
ならない。(中略)
「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら
応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、
期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。
「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として
受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに
半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

316:名無しさん@3周年
11/02/28 11:28:04.95 PQezcmRJ
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の
処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の
見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって
まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で
刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、
訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉
これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を
聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の
訳書刊行にいたったのであった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

317:名無しさん@3周年
11/02/28 11:28:37.57 PQezcmRJ
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京裁判に始まって
三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京裁判」にちがいないが、付録の一つになんと
「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて
いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、
フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。
その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京裁判から
三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき
ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

318:名無しさん@3周年
11/02/28 11:29:02.29 PQezcmRJ
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京裁判」そのものにたいするその仮借なき
批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを
瞥見してみよう。
〈…「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに
すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは
歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に
つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の
総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、
「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

319:名無しさん@3周年
11/02/28 11:30:01.62 PQezcmRJ
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々
あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や
カティンの大虐殺をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの
思いもおよばないようなものだったのだ。
…リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の
捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。
でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉
(中略)一冊の極東軍事裁判記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は
貴重と言わねばならない。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

320:名無しさん@3周年
11/02/28 23:53:46.72 PQezcmRJ
(中略)パスカル氏はいうのだ。
〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの
想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで
ゆくのだ…(中略)
キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、…
《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、
ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には
まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。
おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、
生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

321:名無しさん@3周年
11/02/28 23:54:22.72 PQezcmRJ
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって
決行されたユキオ・ミシマの聖なる自殺は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の
大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに
たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の
どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉
(中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、
「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。
(中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして
同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

322:名無しさん@3周年
11/02/28 23:55:22.22 PQezcmRJ
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の
直接目的―改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。
〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。
(中略)(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき
三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と
見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを
競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は
アメリカにまかせっぱなしで―日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

323:名無しさん@3周年
11/02/28 23:56:36.71 PQezcmRJ
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で
躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(中略)全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、
太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。
(中略)(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(中略)
恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(中略)「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、
その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを
大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと
兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、
時とともにはっきりと認識するにいたった。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

324:名無しさん@3周年
11/02/28 23:57:13.52 PQezcmRJ
〈日本―だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略)
再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。
それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、
いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。
ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ―この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を
自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自殺である。(中略)
祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。
盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自殺する。祖国日本が
非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

325:名無しさん@3周年
11/03/01 06:41:55.03 trSNgdjA
>>1
お前は糞スレ立てる前に三島ぐらい読めw
お前が批評できるようなものじゃないのがすぐ分かるだろw
あるヨーロッパの研究者は『三島を読まない日本人は馬鹿だ』って言ってたけど、本当にそんな奴がいる事に驚いた

326:名無しさん@3周年
11/03/01 22:49:57.10 1HRQuTBz
〈これら自殺者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを
浮かべるのみである。
しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自殺のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に
なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、
古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。
たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自殺の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、
愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに
ほかならない。
その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、
「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自殺している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

327:名無しさん@3周年
11/03/01 22:51:00.05 1HRQuTBz
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず
自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉

(中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を
驚かせてきた日本―は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、
白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの
問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略)
現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって
魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

328:名無しさん@3周年
11/03/01 22:52:01.58 1HRQuTBz
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、
前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を
弔っている。(中略)全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、
花も実もあるこの人物の義挙―どうして義挙でないことがあろうか?―を深く徳とし、その二、三首を
拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華―それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。

 ユキオ・ミシマの墓   ピエール・パスカル

いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ

獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ

この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より


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