ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの?at SEIJI
ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの? - 暇つぶし2ch100:名無しさん@3周年
10/12/07 10:35:38 6dMdmxwL
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

101:名無しさん@3周年
10/12/07 10:36:48 6dMdmxwL
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

102:名無しさん@3周年
10/12/09 11:45:43 0ctX9gVq
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(中略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

103:名無しさん@3周年
10/12/09 11:46:49 0ctX9gVq
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

104:名無しさん@3周年
10/12/09 11:47:55 0ctX9gVq
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

105:名無しさん@3周年
10/12/09 11:49:09 0ctX9gVq
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(中略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(中略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

106:名無しさん@3周年
10/12/09 11:50:27 0ctX9gVq
私は実務の時代の価値を否定しない。(中略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(中略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(中略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

107:名無しさん@3周年
10/12/10 23:40:50 57fUPZoR
江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に
「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分かったような、人生の真相は
たかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。
そういえば三島事件後、俗耳に入り易い江藤流の原因説が数限りなく出ました。(中略)
私はいっさい関心を持ちませんでした。「細君のヒステリイ」に原因を求めて安心する現代知識人に特有の
気質にいちいち付き合っている気にはなれなかったからです。(中略)
江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムに
どっぷり浸っていた人でした。
三島の悲劇は分からない人には分からないのです。縁なき衆生には縁なきことが世にはままあります。

西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

108:名無しさん@3周年
10/12/10 23:42:28 57fUPZoR
小林(秀雄)の「文学者の思想と実生活」の結びに近い個所に次のような言葉があります。
「思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに
離別しようとするところにある」
その通りだと思います。「思想の力」は理想と言い替えてもよいでしょう。私は次にみる同文の結語を読んで、
昭和十一年にこれを書いた小林秀雄がさながら三島の自決を予見していたかのごとき思いにさえ襲われたほどです。
「エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を
投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである」
一九七〇年代の半ば頃に、私はギリシア哲学者の故齋藤忍随氏にお目にかかる機会がたびたびありました。
三島事件は氏の関心事で、開口一番、三島はエンペドクレスですね、と言いました。エトナの噴火口に身を
投じたこの古代の哲人は、ヘルダーリンが歌い、ニーチェが劇詩に仕立てた相手です。
歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの正気の行動があるのです。

西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

109:名無しさん@3周年
10/12/11 14:29:32 cdlbRmUR
長文?
単なるコピペだろ
しかしご苦労なこったな、本見ながら打ってんだろ?これって

110:名無しさん@3周年
10/12/11 16:08:31 33re4+pL
ある政治家が「狂気の沙汰」と呼び、これに迎合するかのようにある作家が「精神分裂症」と診断した。
病理学的な狂気は三島由紀夫君にはなかった。
狂気とかたづけてしまえば、その時点で政治家も作家も、一切の思考を停止し、責任を回避することができる。
ソ連のような国では、多くの健康な作家が精神病院に入れられている。独裁者と怠惰な思考喪失者にとっては、
人を狂人あつかいにすることほど簡易軽便な処理法はない。
「賊と呼び狂と呼ばんも、他評に任ぜん」という句は、維新志士たちの辞世の漢詩にときどき出てくる。
出典はシナにあるかもしれぬが、これが古今に通じる志士の心である。
三島君自身も狂人呼ばわりの「他評」はもとより覚悟していた。

林房雄「悲しみの琴」より

111:名無しさん@3周年
10/12/11 16:09:26 33re4+pL
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。

彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。

林房雄「悲しみの琴」より

112:名無しさん@3周年
10/12/11 16:10:20 33re4+pL
三島君の熱望は決して政治概念としての天皇の復活、したがって明治憲法復元論でもなく、ただ左右の全体主義
(共産主義とファシズム)に対抗する唯一の理念としての「文化の全体性と統括者としての天皇」の復活と
定立であった。
このような定立が、「古代の夢」は別として、日本の歴史において実現された実例があったかどうかは
論争的として残るが、その試みが幾たびか行われて、多くの忠臣と志士がこの夢に命を捧げたことは事実である。

林房雄「悲しみの琴」より

113:名無しさん@3周年
10/12/13 10:12:54 uEHvRlgb
(2001年11月25日に)リンカーンセンターでアメリカペングラフ主催の「二十世紀の偉大な作家・
三島由紀夫を顕彰する夕べ」が開かれた。(中略)
私は「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とする
ところの私の主観的ドキュメンタリー作品であることを語り、そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を
「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれたこと、そのことを氏は『薔薇刑』の
序文「細江英公序説」の中ではっきり書いている。(略)だからハリウッドの映画監督がつくった映画
「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる
写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、
ありえないことだ。その映画のポール・シュレイダー監督が前もって私にアドバイスを求めてきたら教えて
あげたのに残念だ、と語り、前記の三島さんの序文の一節を読み上げた。

細江英公「誠実なる警告」より

114:名無しさん@3周年
10/12/13 10:14:26 uEHvRlgb
(中略)三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の
責任として、きちんと後世に伝えておかなければならないことを信ずる。
その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、
そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、
事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うような
ことは、実にもって愚劣なことであるということである。
もちろん、一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。
が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けて
いたと考えたい。守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして
深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。

細江英公「誠実なる警告」より

115:名無しさん@3周年
10/12/13 10:15:36 uEHvRlgb
思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化を
ないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題が
あったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。三島さんには、今の
日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえて
とることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。そして恐らく三島さんが意図した通り、
彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えて
ならない。私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあっては
ならないと考える。一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが
三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を
感じてきた。なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだったはず
なのだから。

細江英公「誠実なる警告」より

116:名無しさん@3周年
10/12/14 14:13:30 XLo0XOy3
ここまでコピペしちゃうとヤバくね? 引用の範囲を余裕で越えている気がする。

117:名無しさん@3周年
10/12/15 10:21:25 OAoO9PBw
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

118:名無しさん@3周年
10/12/15 10:23:04 OAoO9PBw
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

119:名無しさん@3周年
10/12/15 10:24:06 OAoO9PBw
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

120:名無しさん@3周年
10/12/15 10:25:58 OAoO9PBw
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』と
なぜ侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

121:名無しさん@3周年
10/12/15 10:27:04 OAoO9PBw
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

122:エビちゃん親衛隊
10/12/15 10:29:11 YUccyK92
三島は現実政治に関わる人物ではないだろう。
小説を書いているのが無難であると思われる。
少なくとも死ぬ前に議員になって国会でアホ発言をするような
晩節を穢さなくて良かったのではないか。
多分、総理はムリであろう。

123:名無しさん@3周年
10/12/16 20:45:31 qmOvvGj9
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。(中略)…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

124:名無しさん@3周年
10/12/16 20:48:48 qmOvvGj9
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。
頼むよ、原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、
天皇の御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(中略)私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

125:名無しさん@3周年
10/12/16 20:49:48 qmOvvGj9
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

126:名無しさん@3周年
10/12/16 20:50:38 qmOvvGj9
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

127:名無しさん@3周年
10/12/19 19:43:01 GfMouNUU
わたしの考えでは、一九六六年に書かれた「英霊の声」は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の
一つである。
この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が登場し、
帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の死者の声を
口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。
後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。この作品で三島が言うのは、
自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら)
「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、
もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、
そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。
そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。

加藤典洋「その世界普遍性」より

128:名無しさん@3周年
10/12/19 19:44:01 GfMouNUU
ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。
わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の
戦後の意味は、大違いである。
その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的な
みちすじが示されている。
三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその「内面」に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、
はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。
これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、
日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。

加藤典洋「その世界普遍性」より

129:名無しさん@3周年
10/12/19 19:44:51 GfMouNUU
たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。…でも、そのことが、
三島の小説を世界の文脈で見た場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。(中略)
三島は戦前、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに
第一次世界大戦の戦後文学だった。そのもっとも深い理解者は、あのジャン・コクトーである。
その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界大戦の戦後文学で
めざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。つまり、
人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。
「世界の戦後」とは第一次世界大戦の戦後のことであり、「日本の戦後」とは第二次世界大戦の戦後のことである。
この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は
自分を修復している。

加藤典洋「その世界普遍性」より

130:名無しさん@3周年
10/12/19 19:45:58 GfMouNUU
サルトルの「嘔吐」は第一次世界大戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復には
アヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。
しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジュマンによる人間の回復を唱える。
三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに
自覚的であるべき、「遅れてきた青年」なのである。
〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にも
ラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。
事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態
よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉
こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。
そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。

加藤典洋「その世界普遍性」より

131:名無しさん@3周年
10/12/21 10:50:20 p2jqhk7c
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

132:名無しさん@3周年
10/12/21 10:51:29 p2jqhk7c
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

133:名無しさん@3周年
10/12/21 10:52:27 p2jqhk7c
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅―殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

134:名無しさん@3周年
10/12/21 10:53:26 p2jqhk7c
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

135:名無しさん@3周年
10/12/21 10:54:30 p2jqhk7c
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

136:名無しさん@3周年
10/12/23 23:56:58 /nB5f4i7
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。
三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。にもかかわらずそれを試みることは、
自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、
その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。
故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。

福田和也「保田與重郎と昭和の御代」より

137:名無しさん@3周年
10/12/25 15:48:37 UG/lz53Y
ブヒブヒうるせえよ。福田。
何が大義だ?お前が言うなっての。

138:名無しさん@3周年
10/12/27 12:03:17 lSBrMi4z
発起人を代表して一言申し上げます。本日はこれだけ多くの方々にご参集頂きまして慎にありがとうございます。
シンポジウムを聴きながら思い出していたのは、江戸時代の文化人が頭の中で考えた「くだん」という動物のことで
あります。「くだん」というのは人偏に牛という字です。一件、二件、“依って件の如し”というときの件です。
江戸の文化人がなぜ「件」という動物を空想したのかというと、この件という字から思いついたと考えるのです。
人偏、人間ですね、それと牛。「件」という空想上の動物は、体が牛で頭が人間、体が人間で頭が牛、そういう
想像で描かれております。
そして「件」という一種の怪物の特徴は何かというと、天変地異が迫った時、あるいは国家の危機が迫った時、
いち早くそれを予知して、一声悲痛に啼いて死ぬ動物であるということです。

中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より

139:名無しさん@3周年
10/12/27 12:04:39 lSBrMi4z
そういう研究を最近読みまして、『憂国忌』にあたり、悪い意味ではなく、三島由紀夫という人は現代日本にとって、
「件」のような一聲を放った予言する存在だったのではないかと思いました。
日本は中国、ロシアから馬鹿にされて何もできない状況になった。これは三島が「檄」で予言していたことです。
没後40年の間にそれがますますリアルになり、酷いことになっている。そして三島の予知能力をますます
痛切に感じるようになりました。これを以って閉会の辞と致しますが、こういうことを“依って件の如し”
(「件」の予言が外れない様に嘘偽りがない)と謂うのです。

中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より

140:名無しさん@3周年
10/12/30 11:21:54 GNomxK3P
天文台で働く若い観測員よ、暗い天空に新しい彗星を一つ発見するたび、きみが地上で喪失するものは、一体何か?
すべての書物を書きつくしてしまった、一人の詩人が切腹して果てたあとで、その暗い天空が獲得する星は、一体何か?

寺山修司
憂国忌パンフレットに寄稿された追悼の辞より

141:名無しさん@3周年
10/12/31 23:51:47 pwVlodgF
オカマで人生を終わらしたかったので、将来ある人たちと心中しました。
最低な人でした。

142:名無しさん@3周年
11/01/02 15:19:30 SEDlM5x+
国のため いのち幸くと願ひたる 畏きひとや
国の為に 死にたまひたり


わがこころ なおもすべなし をさな貌
まなかひに顕つを いかにかもせむ


夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり
み祖の神の すさび泣くがに

保田與重郎
昭和45年11月某日、哀悼の句

143:名無しさん@3周年
11/01/04 19:58:13 IazBvEkW
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
―当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。―と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

144:名無しさん@3周年
11/01/04 19:58:38 IazBvEkW
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。―僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。―さすがの武田泰淳も、―いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう―と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、―でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

145:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:03 IazBvEkW
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、―おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ―と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

146:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:20 IazBvEkW
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。―いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。―
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。―なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)―こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

147:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:43 IazBvEkW
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

148:名無しさん@3周年
11/01/06 00:06:33 qoEpmCco
「三島由紀夫」をきわめて高く評価している。
その理由は拙著『戦後的思考』(1999年)に記した通りで、規定の枚数ではちょっと書けない。
できれば読んでいただきたいが、彼こそが、昭和天皇と戦争の死者の間の「約束違反」と、またそれと自分の関係に
目を向けた、そしてモラルということの初原の感覚を失わなかった、例外的な戦後日本人だったからである。
三島は、戦後の小説家のうち、もっとも「戦後的」な作家だったといってよい。
戦後の天皇制から、一個人として、もっとも外に出ていた。
三島一人がいたお陰で、日本の戦後は道義的に、大いなる茶番の時代となることからかろうじて免れた、
といえるのではないかと思っている。

加藤典洋「アンケート 三島由紀夫と私」より

149:名無しさん@3周年
11/01/08 10:15:23 E0qAkyCk
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。
…何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。
そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」
と銃剣術の動作をして真剣にいった。
当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。
…そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。
けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。
彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。
そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

150:名無しさん@3周年
11/01/08 10:15:49 E0qAkyCk
今、卒業式の時の彼を思い出す。
戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。
全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。
彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。
彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。
心ひきしまり、すがすがしい動作であった。あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。
そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

151:名無しさん@3周年
11/01/08 10:16:12 E0qAkyCk
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての
器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に
「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。
三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。
また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

152:名無しさん@3周年
11/01/08 10:16:40 E0qAkyCk
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。
…そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。
彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。
…彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。彼はそのことを確信していた。そして
おそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

153:名無しさん@3周年
11/01/08 10:17:03 E0qAkyCk
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が
「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは
知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。
三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

154:名無しさん@3周年
11/01/08 10:20:08 E0qAkyCk
高等科上級生の時のことである。
戦争中で銃剣術の時間のことだった。体格の大きい銃剣術が強い友人と、彼とが試合をさせられた。教官が
どうしてそういうアンバランスな試合をさせたのか解らない。しかし平岡に対する意地悪からでは無いと思う。
さて華奢で軟体動物のようにクネクネした動作の平岡は、当然ジタバタと苦戦していたが、そのうちにヒョイと
勝ってしまった。相手の心臓のところを確かに突いたのである。皆は驚き笑いながら、見物の輪をといた。
彼はその時までに何度か壁にぶつかり、それを切り開いてきた人らしく、困惑しつつも、冷静であったので
勝ったのだろう。


中等科か高等科の英語の授業の時、老教師が「日本には叙事詩は無かった」といった。
平岡は、「平家物語などがあるじゃありませんか」といった。
これは日本の古典に通じぬ英語教師の弱味を突いたらしく、彼は感情的になって平岡を、おさえつけた。
休み時間になり、平岡は憤慨していた。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

155:名無しさん@3周年
11/01/08 10:20:31 E0qAkyCk
天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。
なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。
又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、
“ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い”と断言した。
そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、
混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。
美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

156:名無しさん@3周年
11/01/08 15:10:07 b7TTbqjx
三島が人並みはずれた愛国者だとは特に思わないが、時代を見抜く目とアピール上手なところは注目に値する。

157:名無しさん@3周年
11/01/09 10:28:39 XUVm5R6Q
彼は、敗戦で束縛から解放された時まっしぐらに芸術の世界へ突進した。
…しかしその世界から出てみると、日本はすでに大きく伝統から離れていた。
彼にとり、日本の伝統は荒涼としたものになりかけていた。
彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた。
…彼が戦争直後、学習院を訪ねて校庭を歩いていたら、某教官に呼びとめられ、
「これからは共産主義の勉強をするのも面白かろう」といわれたといって、しきりに憤慨していた。
「何で今頃するのか、戦争中にやるのなら解るが」というのである。この先取りの心、少数派に身をおく
積極さ、これが晩年彼の日本についての心痛を一層深くし、嘆きを重くしたのであろう。
又、この予感、この嘆きこそ芸術家のものであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

158:名無しさん@3周年
11/01/09 10:29:03 XUVm5R6Q
彼は一時の思いつきで死んだのではない。
おそらく三十年、あるいはそれ以上、死を自分のすぐ背後に感じ続けて生きたと思う。死を背負い続けたと思う。
…彼が死なねばならぬとはっきり考え始めたのはいつか。東大紛争時における日本の文化的指導者(体制側だけ
でなく、学生騒動に便乗して売名を図った人々まで含めて)の醜さを痛感したからではないか。
…勿論ずっと以前から、日本の崩れてゆくのを、彼はじっと忍耐しながら見ていたのであろうが、殊にあの
事件の時に絶望的な暗黒をつくづく見たのではないか。


鋭敏な彼は、日本、否日本人の心の荒廃をまざまざと観たのであろう。
この闇に一瞬なりとも光を放ち得るものがあるとすれば、それは自分の命の提供しか無いと観たのであろう。
彼はそれだけ自分の才能が稀有なものであり、又自分がそれを十分に開花させたのを知っていたのであろう。
だから、自分の死の持つ力を考えたのであろう。当面は罵詈雑言が自分の自殺を覆うであろう、しかしなお、
自分の名声と才能を死なすことによる衝撃に、多少の自信はあったろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

159:名無しさん@3周年
11/01/09 10:29:35 XUVm5R6Q
彼は無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。
彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。
…彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。
それは自分の命、これである。
…世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか?
多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。
しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。“死”は誰でも逃げたいものだから。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

160:名無しさん@3周年
11/01/09 10:30:03 XUVm5R6Q
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。
自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。
彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。
なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。
…彼は少年時代に戻って死んだ。少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。
純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。
所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

161:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 20:34:00 TljFJWUK
三島さんは凄いよね。
でも政治的な発言に関しては少々妄想に捕らわれていると思うんだよな。

日本人独特の美意識ってのは戦後(敗戦)ではなく、もちろん軍部台頭からではなく明治維新の頃から少しずつ崩壊していったのではないのかなあ。
薩長政治の頃から、な。

「富国強兵」を掲げたころから何かが変わった。
日本人は本来、武士から農民まで「家を護る」ということにのみ精力を注いだ。
その為に、時には兄弟同士の争いを演出してまでな。
これが徐々に壊されていくのが明治維新以降。
「お家のため」がいつの間にか「お国のため」に変えられていった。
その「お国」の中身を深く考えもしないまま、な。
ちなみに明治維新以前の「お国」とは「藩」のことであり「藩のため=お家のため」が直結しやすい環境だったことは言うまでもないでしょう。
では明治維新以降における「お国」とは何なのか?
これ薩長を主とする政府であり官僚である。
当たり前だが「官僚のため=お家のため」なんて公式は成立する訳がない。(笑)
ここから国民のモラルが崩壊していく。
そのうち古来以来の「天皇(皇室、天子)」という国民に残された標も昭和初期に官僚(軍部も省だったから軍部も含む)に「完全に」呑み込まれていく。

「富国」という題目を唱えて口開けて餌を待っていた国民が悪い訳ではない。そもそも餌なんて貰ってないのだから。
当たり前だがアメリカが悪い訳でもない。
「はいはい」と言うことを聞いていた皇室が悪い訳でもない。


162:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 20:54:16 TljFJWUK
※少しだけ続きです


三島は勘違いしていると思う。
いまだ戦争の総括が済んでいない時代、戦争の全貌が見えていない時代だったから仕方ないことだが、な。
昭和初期の官僚が「何を」してきたのか、「何に」執着したのか、どれくらい腐敗してたのかは昭和末期もしくは昭和天皇が崩御した後まで文献が出なかったのだから仕方ないが。

全ての戦争責任を陸軍と天皇に負わせられたのも官僚制度の力による。(海軍はスルーされたんだよ)
昭和天皇は生きることで官僚も受けなければならないはずの戦争責任まで負わせられた。

確かに戦後復興、経済発展は為してきた。
しかし、それは田原総一郎が言うところの「開発独裁」により国民の生命安全を犠牲にして。
詳述は避けるが、これがバブル崩壊後まで続く。
いわゆるグローバルスタンダードを志向し始めるまで。
ちょうど小泉の頃かな。

さて三島だ。
そもそも三島が言うように「戦後」を契機に日本人が変質させられた(!)とするなら、この体制はあと50~200年は続きます。(笑)
確立された体制と言うのは最低でも三代続くのが普通ですから。(日本の歴史を参照のこと)
そんなん嫌です。
絶対に嫌です。

三島が勘違いしていたと思うしかないです。
体制確立を明治維新の頃からとするならバブル崩壊の頃が制度の疲労が現出してくる時期に一致します。


163:名無しさん@3周年
11/01/09 21:09:16 XUVm5R6Q
>>162
日本がすでに明治から大正、昭和にかけて、あなたの言ってるように、腐敗の芽があったことは三島由紀夫も言ってますよ。

164:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 21:10:31 TljFJWUK
※も少し続き(スマン)

いまは江戸末期の混乱に似ている状況だと思いますよ。
ちなみに社会変革における第三の波を「情報」だと信じてる人間がいます。(岡田斗志夫を読みましょう。奇書ですが「ぼくたちの情報革命」とか何とか言う本です)
まさしく「今」でしょう。
「今」でこそ明治維新以降に失われていった日本人の心、本質を理解出来るはずです。

さて三島です。
勘違いしていたとは言え、浮かれる国民に「日本人とは何か」を問い、「日本人の喪失したもの」さらに「日本人の心を奪った制度」を問うてくれた。
しかも国民が豊かになり享楽的になった時期を見計らったように、ベストなタイミングで。ベストとしか思えない衝撃的なパフォーマンスで。
これが戦後すぐの混乱の最中であれば国民はそれどころではなくスルーしただろう。
三島に感謝である。

165:名無しさん@3周年
11/01/09 21:21:32 TljFJWUK
>>163
ごめんなさい。
説明不足でした。
三島は「明治維新以降の腐敗の目」を確かに指摘してました。三島は天才ですから。
しかし彼が(読者ではなく)国民相手に表現するときは、やはり「戦後」というキーワードを重視していたと思います。

これは「官僚制度」と結託したメディアしかない時代だったから仕方ないことですがね。
さらに言えば出版(取次)が東京(中央官僚)に摺り寄らなければならなくなってきた時代でしたから仕方ないことですが。

私のレスは、一般国民に与えた三島の語る「戦後」に関するコメントだと思って下さい。

166:名無しさん@3周年
11/01/09 21:39:03 XUVm5R6Q
>>165
あやまらなくて大丈夫ですよ。あなたの言っていることと三島の考えは似ている感じがしました。

167:名無しさん@3周年
11/01/09 22:28:15 TljFJWUK
>>166
いえいえ。三島さんの凄みは新時代に突入しないと体感出来ないのかも知れません。

そういえば、それほど熱心な三島の愛読者でない(難しいから)僕と三島に近い部分があるとする一文に、三島の精神はあらゆる部分で受け継がれてるんだと再認識させて貰いました。
僕の論なんて、いろんなところから寄せ集めた受け売りに近いものですから。

ともあれ三島が嫌悪した時代から脱しようとしている今を生きられるのは幸せなことだし、幾ばくかの使命感をも覚えます。

個人的には三島に新たなアイコンが付加される時代を想像するだけでワクワクします。
それは薔薇色の未来ではないでしょうが、いまの時代よりも人間が品性を取り戻した時代になるでしょう。
ま、妄想かも知れませんがワクワクドキドキです。

168:名無しさん@3周年
11/01/12 13:35:55 sRwdw/61
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を
視察した後、我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から
加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として
自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を
命ぜられた。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

169:名無しさん@3周年
11/01/12 13:36:42 sRwdw/61
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を
起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い
雅びな表現で、固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画
「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に
固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

170:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:06 sRwdw/61
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり
するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に
防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

171:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:27 sRwdw/61
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

172:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:47 sRwdw/61
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が
来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に
体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの
挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

173:名無しさん@3周年
11/01/12 13:48:47 IBi2JceD
三島は単に美しい死に場所を探していたんだよ。
自分が永遠に美しい存在でいれる死に場所を。
もちろん、愛国者であったことは間違いないが、それよりも上位にあったのはナルシシズムだ。
目論見は半ば成功し半ば失敗。

174:名無しさん@3周年
11/01/12 14:04:33 nKvPhSJS
愛国者としての三島は評価しないが、
ナルシストとしては賞賛に値する。

175:名無しさん@3周年
11/01/12 14:07:54 sRwdw/61
>>173
ナルシシズムは英雄の必須条件です。

176:名無しさん@3周年
11/01/12 14:12:24 sRwdw/61
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。先生(三島由紀夫)は、
その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。思想的な評論など出していましたからね。例えば、『対話・日本人論』とか、
思想的な評論関係の著作を出していましたから。文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。
小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。
(中略)
あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって
いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。想像できないでしょうが、
そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。今見れば漫画みたいになっちゃう
かもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。そういう時代風潮を押さえて見ないと、
あの頃の行動というのはわからないんですよ。今の、この社会状況から見てたんじゃ」
持丸博(元楯の会初代学生長)

鈴木亜繪美「火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

177:名無しさん@3周年
11/01/13 12:01:12 YJ0cz/AL
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。ああ、俺の考えは
世の中に合わないのかな、と思ったよ。
(中略)
学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。肉体的には負けないけど、
論争して負けたくないから理論武装したいと思った。
先生の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。根ほり葉ほり訊いたね。
先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、時間を守る、威張らないし、
そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。礼儀正しさとか非常に親切心が
あるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」
仲山徳隆(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

178:名無しさん@3周年
11/01/13 12:01:51 YJ0cz/AL
「当時、新左翼の運動が広まっていて危機感があった。(中略)
三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。じっと見られた大きな目が
キラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。
(中略)
体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。薬を飲まされ、隊舎のベッドで
横になっていると、三島先生がいらしたんです。ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。
『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、
行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」
田村司(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

179:名無しさん@3周年
11/01/13 12:02:11 YJ0cz/AL
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって
機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が
主流でした。でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。それでいろんなものを
読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に
出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。
自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。それと規律で
全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの規制の中で人間が
どうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

180:名無しさん@3周年
11/01/13 13:46:21 kcZuLxKp
ネトウヨは三島のような人間と正反対の人種

181:名無しさん@3周年
11/01/15 11:54:33 alz2xBlz
「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。思想的束縛がありません
でした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。
僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。
非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、
そんな印象でした。
森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。そういう意味で
翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

182:名無しさん@3周年
11/01/15 16:06:44 IGAwUijE
>173続き
三島について回るある種の胡散臭さ、軽薄な感じは、何も彼が同性愛だったからではなく、愛国心だけとはいえない、自決の動機の不純さに由来してると思うな。

183:名無しさん@3周年
11/01/15 16:17:28 JWLmSTa5
芸術・美学のために命を捨てる人間がいる。
というのを、ドイツのテレビで見たことがあるが、
三島もこういう人間じゃないかと思う。

184:名無しさん@3周年
11/01/15 16:22:28 alz2xBlz
都政を私物化、税金無駄遣い、息子の選挙第一、家族第一の、口だけ威張ってる不純な政治屋石原慎太郎よりは、
何百万倍も三島の日本への思いの方が純粋です。

185:名無しさん@3周年
11/01/15 16:27:06 alz2xBlz
>>183
三島の芸術・美学は日本の古典と伝統と関連してるから、別のものじゃないし。

186:名無しさん@3周年
11/01/15 16:31:29 JWLmSTa5
太宰治に負けたくなかった?
川端・三島は太宰治が大嫌い、はっきりと本人に告げた。
だが、死せる太宰の作品が自分たちより人気がある。
二人とも対抗して自殺したかな。

187:名無しさん@3周年
11/01/15 16:43:17 alz2xBlz
>>186
三島は太宰治を天才だと評価してますよ。
表では嫌いだと公言してたようですが、あんたが思い込んでるような対立はないし。

188:名無しさん@3周年
11/01/15 17:30:02 9SuIkeAt
ホモ・体育会系・女性恐怖・2ちゃんねる

これらに接点がある

189:名無しさん@3周年
11/01/16 00:11:47 19k8WZGF
>>185
三島の美学は、日本の古典の影響もあるが、
何よりも、ギリシャ文学の影響が強い。
というか、表面的だが。
三島は、ギリシャ文学のナルシシズムを学び、
のめりこんだ。
女性と間違えられるほどの美少年だった若き三島。
それはそれで自らのナルシシズムを満足させたが、
後年、ホモに目覚め、そういう女々しい自分に嫌気が差し、
男らしい肉体を求め、ボディービルに励むようになった。
それと相前後して、華族出身で、その精神構造を持った自分にも嫌気が差し、
貴族とは反対の武士に傾倒していった。
本来、武士とは、三島が持つナルシシズムとは別の精神構造を持つものである。
ナルシシズムとは芸能人そのものの感覚だが、三島はそれに気づかず、
最後は、観客が見守るなか、立派な“舞台”で華々しく好演し果てた。
美しいナルシシズムだった。

190:名無しさん@3周年
11/01/16 00:14:30 NjLtSTv4
いくらネトウヨが嫌いだからって、亡くなった方に鞭を打つのはよくないよ。
それでは空気も読まず人の死を天罰とか言う彼等と同じだ。

191:名無しさん@3周年
11/01/16 00:15:44 19k8WZGF
>>189
接点というより、三島は、ネトウヨが持っていないものを持つ憧れそのもの。
三島と同化することにより、三島と同じ能力・容姿を得たことを夢想する。
そして、その興奮で射精することもあるだろう。
ネトウヨは弱い、魅力がない。
だからこそ、国家・民族という強いものと右翼的に同化し、
セクシーな三島と合体するのだ。

192:名無しさん@3周年
11/01/16 00:17:27 19k8WZGF
>>190
三島に鞭打っているという言い方自体、三島への偏見。
彼のナルシシズム的な魅力はホモを抜きにしては語れない。
ホモ嫌いなら、三島先生に近づくな。

193:名無しさん@3周年
11/01/16 00:20:06 19k8WZGF
でも、大体、このスレタイ、三島先生を侮辱している。
まあ、間違いではないけど、ネトウヨと同一視しているニュアンスも感じられる。
あくまでも、ネトウヨが自分に無いものを持っておられる三島先生にあこがれているだけで、
先生とネトウヨは全く違う世界にいる。

194:名無しさん@3周年
11/01/16 00:20:30 NjLtSTv4
>>192
>>1に向けてのレスだったんだけどアンカ忘れていた
悪いね

195:名無しさん@3周年
11/01/16 00:22:03 19k8WZGF
ホモという偏見に晒される危険を冒しながら、
自分に忠実だった先生は尊敬されるべきだ。

196:名無しさん@3周年
11/01/16 00:25:45 19k8WZGF
三島先生の作品は、政治を離れて、純粋にその芸術性を楽しもう。

右翼的という部分も、だれでも、本能は右翼。
右翼は、他者を大切にしようという発想で、
自分に余裕がある状況でないと無理だし、
自分を抑え付けている部分がある。
それはそれでいいんだけど・・・・・・

でも、芸術は本能に結びついているからこそ、
美しい。
三島先生の本能の美しさを味わおう。

197:nl
11/01/16 00:32:05 afL/PJI9
bungakusya syoosetu-ka ga takaku hyooka sarete ir.
koko ni nihon no seizi teki koosinsei wo mono gatatte ir.
Sugureta sakka dewa kono yo no seizi wa sukosi mo yokunar-anai noga genzyoo da.@@@

198:名無しさん@3周年
11/01/16 00:33:02 VjtfhSa1
いくら非武装、戦争放棄、平和主義ときれいなことをいっても
それを現実化しているのは米軍なのであって、米軍によって支え
られた平和主義という欺瞞が戦後日本の姿だ。



つまり憲法九条と日米安保はワンセットになっている。



199:名無しさん@3周年
11/01/16 00:38:22 HH6VqJS6
>>191

私はネットウヨクの一人です。
一応、レス入れておきます。
三島由紀夫氏に対する知識は学校の授業で習った程度です。
なので

>三島は、ネトウヨが持っていないものを持つ憧れそのもの。

三島氏が何を持ってるか知りません。

>ネトウヨは弱い、魅力がない。

ネットウヨクとは要は普段は普通の学生やサラリーマンで政治や思想の話を一切せず
ネット上だけで保守的傾向の強い討論を行う者と考えるべきでしょう。ネットウヨク
の考える魅力や強さの対象は小説家ではありません。
成功した実業家やトップセールスマンなどではないかと。
別に思想にドップリと浸かって生きているわけではなく、要はもっと世俗的ですからな。

200:名無しさん@3周年
11/01/16 00:47:14 4moxL3md
>>189
半可通の上っ面な感想お疲れさまでした。
ギリシャ文学じゃなくてギリシャ神話。それからギリシャ神話やローマの美意識と、日本古来の美意識は共通してます。
それに三島がホモ傾向だったのは学習院のときで、別に中年から目覚めたわけじゃないし。
ナルシシズムと武士道も無縁じゃないしね。そもそもナルシシズムのない英雄はいませんから。

201:nl
11/01/16 00:48:08 afL/PJI9
ara soo. Kono sekininwa maeno dai Nippon Teikoku no nokosita kekka de atte, are kara 66 nen tatu ga toobun henka wa nozom-enai.
Make-ikusa wa suru mono dewa nai.
Hukusui bon ni kaerazu.
Sekai rekisi de itido makeru to hotondo tati-naoreta kuni wa nai .


202:名無しさん@3周年
11/01/16 00:55:38 wtAwGQgV
個性の無い子供たちが、個性の塊の三島由紀夫を批判して個性を求める。
電気羊の夢は見れたか?

203:名無しさん@3周年
11/01/17 01:49:27 IjCHldfW
「三島先生は先駆的な考えをお持ちで、当時、『論争ジャーナル』という雑誌で民兵構想というのを出されて
いました。こういうのは、これから面白いなと思った。つまり自衛隊だけではなくて、民間人が防衛組織の一翼を
担うという構想を出されていた。アメリカでもヨーロッパでもそういう民兵というのはあるわけで、日本だけが
そのような民兵組織がなかった。自衛隊自体が、むしろほとんど否定されていたような世の中だったから、
ああいう考え方は非常に新鮮でした。
今でもよく覚えているのは、訓練の時に小銃を持って走るわけですよ。あの時、三島先生は『銃の重さを知ることが
非常に大切なことなんだよ』と語っておられた。よく記憶しています。国を守るということは、銃の重さを身体で
感じることなんだと、理屈ではないんだと。全くその通りだなと思いました。ほとんどの話は忘れてしまったけれど、
これはよく記憶していますね、銃の重さのことは」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

204:名無しさん@3周年
11/01/17 01:49:55 IjCHldfW
「高校一年の時に、文化大革命が起きて、新聞は『文化大革命』礼賛一色ですよ。『毛沢東万歳!』ってすごかった。
ものすごい理想国家のように持ち上げていた。ところが、新聞にちっちゃく記事があって、大陸から香港に逃げて
フカに食われて死んじゃう人が何百人もいるのを目撃したって。そんな素晴らしい国ならなんで亡命して逃げて
来るんだ。変じゃないかって、子供心に思っていたわけです。
(中略)
右でも左でもなかった。ところが、昭和四十五年一月頃、早大キャンパスに確か『三島由紀夫と自衛隊に
体験入隊しよう』というタテ看板を見て、俺が求めていたものはこれだと、決心。楯の会という意識はなかった。
自衛隊に行くことが主で入会はついでだった。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

205:名無しさん@3周年
11/01/17 01:50:23 IjCHldfW
「そのあと、サロン・ド・クレールで三島先生に会いました。非常にさっぱりした感じだった。どんな本を
読んでいるかと訊かれて、大江健三郎と。その時、先生は大江健三郎の絶版になった本の話をしたんだよ。
『政治少年死す』ていうやつを。読んでないから答えられなかったんだよね。
先生は、なんでこんなヤツが来たんだみたいな顔して、森田さんの方を見た。森田さんは『いやいや、なかなか
元気がいいですから』と言ってくれました。森田さんの一言で、私は救われたようなもんです。そうでなければ、
こんな軟弱な学生が入れるわけないじゃないですか。森田さんて人は、知れば知る程素晴らしい人でしたね。
快活という言葉、一言。」
村田春樹(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

206:名無しさん@3周年
11/01/17 20:13:37 IjCHldfW
「三島由紀夫先生と楯の会のことは、田舎にいる時は全然知らなかった。興味もなかったし。父親が靖国会を
やっていて、その関係で森田必勝さんに会ったんです。
確か、森田さんが橘孝三郎(祖父)のことを知って、靖国会の事務所を訪ねて来たんです。その後、私も
紹介されました。親父は森田さんのことをこう言ってました。
『森田必勝という、なかなかいい男が俺を訪ねて来たぞ。凄く気骨のある人間だ。凄くいい青年だぞ』って。
くりくりっとした坊主頭の人で、本当にね、少年みたいにね、本当に裏のない人でした。森田さんは兄と同じ
二十年生まれ、ずっと兄のように思っていました。
(中略)
西新宿のルノアールで、三島先生にお会いしました。ほとんど何も言えなかったけどね。『橘先生、お元気ですか?』と、
祖父の橘孝三郎のことを訊かれたことを覚えています」
塙徹二(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

207:名無しさん@3周年
11/01/17 20:14:03 IjCHldfW
「森田とは同じ年だった。ある時、先生が俺をからかって、『森田には命預けますっていう学生がいっぱい
いるんだよ』と言ったんだ。そうしたら、森田は顔を真っ赤にして、『いやあ、僕の命は先生に』って言った。
僕は自分の日記に書いても先生に直接そんなふうに言ったことないよ。
(中略)
自分ではちゃんとしていたつもりだったけど、先生に怒られたことがある。『お前ら女みたいだな。ころころ
変わって』って。
俺たち、時間前から行ってバリバリやる気でいるかと思ったら、だらだら遅刻したり、自分では変わってないつもりが、
変わっていたんだ」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

208:名無しさん@3周年
11/01/17 20:14:55 IjCHldfW
「私は、正式な会員じゃないんです。もともと大学が早稲田だったから、楯の会のことはよく知っていたんですよ。
でも、その当時は入ろうという意識はなかったですね。(中略)
国学院の友人に、三島先生に心酔しているものがいて、仲間と一緒に先生に会いに行くことになったんです。
それにも、たまたま行かなかった。友人は、念願の先生にお会いして、頭の中が真っ白になって『先生は、
いつ死ぬんですか?』と訊いたそうですよ。
先生は、『わっはっはっ』と大笑いされて、『まあ、お茶でも飲め』と、紅茶をご馳走になった。何も聞け
なかったけど、気さくな人だったと。夏の暑い日だった。社交辞令だろうけど、募集してるから、また来い、
ともおっしゃってくれたそうです」
須賀清(元楯の会幻の六期生)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

209:名無しさん@3周年
11/01/17 20:15:19 IjCHldfW
「森田必勝とは同じ二十五歳だった。当時、森田たち十二社のメンバーはすぐにテロだとか言っていた。
できるわけねえじゃないかこいつら、と思っていた。でも、事件が終わってから、森田の見方が変わった。
あの男に対する見方は変わったよ。先生に対しては変わらない。もともと凄いなと思っていたからね。
(中略)
何かの折に触れ思い出すと、『あいつは凄かったな』と思う。要するに、腹を切る切らないの前に、あの状況に
立てるかどうか考えた。それから介錯して、短刀を取って……。あの状況に立った古賀、小賀、小川、森田は
凄いと思う。
三期で一緒だった牧野隆彦が、先生が亡くなった四十五歳を越えた時、『先生に、すまない』と言った。そして、
翌年四十六歳、くも膜下出血で死んでしまった。その時は、ショックだったね」
川戸志津夫(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

210:名無しさん@3周年
11/01/18 20:06:35 e+mjrcem
「たぶん、先生は最初一人で死ぬつもりだった。森田さんも死ぬ覚悟を決めていたんですよ。『森田の精神を
恢弘せよ』とは、その森田さんの純粋な行為、行動、信条を後の人に伝えろというのがあるのだと思います」
佐原文東(元楯の会会員)

「三島先生という存在自体は亡くなられても、文学者としての三島由紀夫、社会的な立場にある人としての
三島由紀夫は残ると思います。しかし、森田についてはおそらく何も残らない。森田について言いたいことは
政治的な森田。日本には『自決』という政治的表現があるんです。諭したい相手がダメだと思ったら、自らの命を
捧げて訴えるという政治的な表現法です。行動主義の森田だったから、西洋的にしゃべり尽して相手に伝える事を
せず、『自決』という行動で、『日本の真の姿を見よ』と訴えたかったんだろうと思います」
伊藤好雄(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

211:名無しさん@3周年
11/01/18 20:07:28 e+mjrcem
「先生はもうそれなりに著名で確立されている方です。でも、森田さんは無名でした。三島先生は、ものすごく
森田さんの身の上を案じ、今後、森田さんの精神がそのまま埋もれてしまうことに対して危機感があったんだと
思います。(中略)
僕の進んできた道を―商社に入ってずっと普通に生活してきたことを、申し訳ないという気持ちがあります。(中略)
僕は、大学で中国語を学び、中国という共産主義の国が隣にあって、日本がどう思われているのか、最近の反日の
運動を見るにつけ、その前から中国はずっと日本に対して辛く当たっていることを経験してきました。みなさんは
日本の中で日本を見てきたと思うけれど、僕は中国というフィルターを通して日本を見てきたんです。
預言者としての三島由紀夫というのは、ものすごく的確だと思います。今の日本の政治はぶれている。外交上、
中国にしてやられています。そういういたたまれない状況にあるだけに、非常に的確に予言していたな、と思います。
それだけに、三島先生や森田さんのやった行動が余計光ってくると思います。一条の光というか、僕は、やがて
もっともっと輝いてくると思います」
古屋明(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

212:名無しさん@3周年
11/01/18 20:08:14 e+mjrcem
「フルコガ君(古賀浩靖)とは事件後、品川だったか、電車の中で偶然会ったことがあります。その時、彼は
『すみませんでした』と言ったので、僕は『そんなことないよ。君がそんなことを思うことはサラサラないね』と
答えた記憶があります。(中略)
先生は、残すべき人間は残したんだと思いますよ。おそらく。だから、残った人間は、重い荷物を背負って
いるんですよ。
私以外に、楯の会の会員で二人、自衛隊で定年を迎えた人がいます。彼らと違うのは、私は事件が起きる前に
自衛隊に入隊していたことです。二人は事件が起きたあとに入ったから。まあ、どちらが大変という比較は
難しいですが、それぞれ大変だったと思いますね。ずっとマークもされてましたから。多分、三人とも定年まで
マークされていたと思います。(中略)
事件当日に市ヶ谷で斬られた人と会ったこともあります。腕を斬られて、背中を何針か縫った人を知っています。
でも、三島先生のことを悪く言う人はいません。先生の心情はわかるということを、随分言われました」
イニシャルK、元明治大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

213:名無しさん@3周年
11/01/21 12:23:33 KI5Du3Xl
「僕が、どうしてしゃべる気になったかというと、結局、あの事件は、『三島由紀夫』だけが前面に出ているから。
だから、世間の評価というのは、いわゆる作家が起こした結末だというのがほとんどでしょ。もし、三島先生一人
だけだったら、僕はそれは認めるわ。だけど、森田さんが一緒だった。まるで森田さんなんて、さしみの
ツマみたいなもんや。だから、僕はそれが我慢できへんかった。ずっと、今でも、そう思う。
三島先生は、もの凄い追い詰められたと思うの、森田さんに。本当に。もし森田さんがいなかったら、三島先生、
絶対せえへんよ。ああいうことは。思い切れなかったと思う。違った形でしたかもしれへんけど。自分で腹切って
死ぬことはあったかわからへんけどね。ああいうことはしなかったと思う。うん、すべて森田さんの影響よ、あれは。
森田さんの言動でもわかっていたし」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

214:名無しさん@3周年
11/01/21 12:23:58 KI5Du3Xl
「(中略)森田さんは『自分でテロするなら、必ず自分の命を絶たなきゃいけない。生き残ったらいけないんだぞ。
そんなヤツいるか? 今の日本で、自分の命を賭けてもいい奴がいるか?』そう言った。森田さんは、その時、
もう覚悟できてたし、三島先生について行ったらいいと、自分の命を捨てる覚悟だったんやろうね。
三島先生は、すべて規定済みやった。たぶん野次で、自分の声がかき消されるのもわかってた。それを上回るような
マイク使ったら、値打ちもない。演説と違うんだから。やっぱし、最後は肉声よ。
明治維新から百年たって、高杉晋作や坂本竜馬がどうだったか、今では我々もわかる。五十年、百年たって、
わかる人がわかればいいのよ。
当時、二十歳前後だった我々は、他のみんながこれからどうして生きようという学生時代に、どうして死のうか
考えてた。それだけの覚悟をしてしまった。それは、森田さんも、我々も一緒だった」
野田隆史(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

215:名無しさん@3周年
11/01/21 12:24:17 KI5Du3Xl
「森田さんは、非常に純粋な方でした。だから、すべてを賭けておられたんでしょう。それは、言葉の片言隻句に
森田さんの純粋な気持を私なりに感じました。楯の会に対して、大切にしようという思いをつくづく感じました。
森田さんは、三島先生だけを行かすわけにはいかない、という学生長としての立場もあって、十分考えられたんじゃ
ないですかね。
すべてを森田さんが引き受けてしまったのだという思いはずっとしています。非常に、それは、辛い……。
若い、純粋な人が……。(中略)
今の日本には、遺憾極まりない気持です。靖国神社にしても、日中問題にしても、全部本質的なことを飛ばして、
表面的なことだけでやり過ごしている。そういうことを、森田さんは我慢ならなかったんだと思います。私は
今でもそうだから、二十代の純粋な考え方だったら、本当に我慢できなかったと思いますよ。
私は、今、学生にも言うんです。『こんないい加減な世の中に対して、君たちはなぜ憤りを持たないのか?』と。
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

216:名無しさん@3周年
11/01/21 12:24:43 KI5Du3Xl
楯の会にいたことを、特に学生には言っていません。三島由紀夫の本を読んだ学生はあまりいません。読めない
でしょう。あらゆる面で学力低下がひどいから、日本語がどんどんおかしくなっています。
僕らは、あの当時、それなりに自分の国のあり方を真剣に考えていました。右であろうが左であろうが。やっぱり
もっと国に対して真剣だった。今は、みんな本当にそういうものがまったく感じられない。(中略)
平和というのは、戦わないこと。今の日本では、それが平和だと言われています。不戦の誓いだとか。
本当にそうなのかなと思います。むしろ逆ですよ。平和というのは、自国の防衛をきちっとやって相手から
侮られないというのが平和であって、戦わないというのが平和ではないんです。それは奴隷の平和です。攻めて
くればやるぞ、という覚悟があって初めて平和というものは維持されるわけですから。
森田さんの志を恢弘せよというのは、やっぱりそれぞれ自分たちの現在の場所においてその当時の気持を実現せよ、
という意味で私は理解しています」
イニシャルO、元京都大学生(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

217:名無しさん@3周年
11/01/21 18:37:07 uAdgETVF
>>202

あれれ、お前ら右翼って「個性」はニッキョーソキョーイクだから
嫌いなんじゃなかったんだっけ?

218:名無しさん@3周年
11/01/21 18:38:38 uAdgETVF
>>191
いい得て妙だな。

ただ三島はまさにそういうネット右翼の心性そのものを体現していた
人物だったのではないか?
初代ネトウヨといってもいい。その脆弱な心身が。

219:名無しさん@3周年
11/01/21 20:05:00 KI5Du3Xl
三島は自身の弱さも強さもすべて晒して見つめて、自身を分析して行動できた人。
脆弱なのはこんなとこで三島の悪口言ってるバカの方だよ。

220:名無しさん@3周年
11/01/24 20:47:28 bRlllnED
「三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖と小賀正義は、自分が楯の会に誘ったんです。
警察に留置されている二人のことをずっと考えました。(中略)
フルコガ(古賀)とチビコガ(小賀)が出てくるまでは、東京にいるのが義務だと思いました。
彼らが出てきたので、その年の秋、秋田に帰ることになりました。お金がなかったので、トラックをレンタルして、
運転手を古賀と友人が手伝ってくれました。一日かかって秋田に着き、夜に三人で酒を飲みました。その時、
古賀に訊いたんです。
『古賀(ヒロヤン)、ひとつだけ訊きたいことがある、いいか?』
『何だ?』
『十一月二十五日、あすこの現場を出る時、投降して捕まって出る時、どういう気持だったんだ?』
今考えると、バカな質問をしてしまった。自分でさえ頭がまっ白になったのに、彼らがその時のことを言葉に
表現できるはずかない……。気付かなかった」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

221:名無しさん@3周年
11/01/24 20:48:07 bRlllnED
「なかなか答えてくれないから、『あの事件は、何があなたに残ったんだ?』と訊いた。
すると、古賀は、カウンターの上で、ゆっくり右の手のひらをただ上に向け、何かを持つようにした。古賀は
その手をじっと見つめたまま、一言もなかった……。
それが何を意味しているのか理解したのは、一ヶ月か二ヶ月たってからだった。もう声も出なかった。それは、
三島先生と森田さんの、首の重さ……。それを知った時、ふーっと血の気の引くような衝撃に襲われた。あの人が
首を落とし、安置した。古賀だけが首の重さを知っている……。
彼らに事件のことを訊いたのはそれだけ。あとはもう訊けない。今でも時々会うが、一切そういう話はしない。
失礼に当たると思っています。(中略)
あの行動を凌駕する言葉とか文章、表現はない。それを残された会員みんな、漠然と確実に持ってしまっているんです」
伊藤邦典(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

222:名無しさん@3周年
11/01/26 15:46:53 ahQMH7mN
「拘置所にいる時、記録として残しておこうと思った。日記のような形にしようと思って、それを看守に言ったら、
あかんと言われた。ノートは手に入ったので、洗面所にあった釘で書いた。結局、検閲で見つかって没収されて
しまった。(中略)
三島先生は、日本は文化概念として天皇陛下がいらっしゃると言われてきた。『我々の一番の根幹は、天皇を
守るか守らないか。これから稲を植えて収穫するのは、天皇家しかやらないんじゃないか、そういう未来が来るよ、
工業化のあげくに……』先生はずっとそう言っていた。
森田さんに対して……忸怩たるものがある……何もできていない……。しかし、僕をはじめ、みんなも表に
出なくていいと思う。本来埋もれていくべきだと思う」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

223:名無しさん@3周年
11/01/26 15:47:12 ahQMH7mN
「森田さんのことを語り合うのは価値があるが、自分たちのことを話すのは間違っていると思う。先生は
偉大な人だから、それは置いて、我々は埋もれていげばいい。埋もれなければならない。活動したことは
価値あることで、先生が『楯の会』という、今までにない団体で行動したのは、時代に夢があったからだと思う。
今後とも出て来ないだろうし、価値があった。でも、我々が、楯の会の会員だったということを口にするのは、
違うと思う。
森田さん自身、そんなに言ってほしくないと思っているのではないか……。僕は黙って死んで行く……という人だから。
(中略)
『森田の精神を後世に恢弘せよ』とは、三島先生と森田さんの、感性を持てということだと思う。先生があそこまで
できたのだから、僕もできるだろうと。それがずっとある……。自分はそれだけのことをやっている自信はある」
小賀正義、三島由紀夫と共に決起(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

224:名無しさん@3周年
11/01/29 10:16:42 +mRFX9ak
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

225:名無しさん@3周年
11/01/29 10:16:56 +mRFX9ak
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

226:名無しさん@3周年
11/01/29 10:17:20 +mRFX9ak
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で
とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に
言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう―そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

227:名無しさん@3周年
11/01/29 10:17:43 +mRFX9ak
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

228:名無しさん@3周年
11/01/29 18:56:53 HdRXzP1O
崇拝してないよ。かまほりたいだけ。やらないか?
ちなみにホモは圧倒的に自民党が多いらしい。
昔は左翼が多かったんだけどな・・・



229:名無しさん@3周年
11/01/29 19:01:09 qPiOK/Vg
三島が自宅をビクトリア調に立て直したというのは
どういうことなんだ。
三島の思想と矛盾しないか。

230:名無しさん@3周年
11/01/29 19:25:45 +mRFX9ak
>>229
三島邸は南欧風、スペイン風やギリシャ風ですから、三島の思想や美学と矛盾してませんよ。

231:名無しさん@3周年
11/01/29 19:37:32 qPiOK/Vg
アメリカナイズされた若者を否定する一方、
アメリカの成金の家をマネするのは、納得がいかない。
ビクトリア調コロニアル風というのは、要するに
イギリス移民の成金の家ということでしょう。

232:名無しさん@3周年
11/01/29 22:26:24 p2kLyMCy
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろよ
















233:名無しさん@3周年
11/01/29 23:23:00 +mRFX9ak
>>231
別に三島はアメリカ文化を全否定してませんよ。ニューヨークもディズニーも好きだと言ってますからね。

それから、ビクトリア調コロニアル風はアメリカ文化じゃないよ。


234:名無しさん@3周年
11/01/29 23:30:26 qPiOK/Vg
>>233
コロニアルは植民地風という意味だ。
アメリカで成功したイギリス移民が、祖国の領主の館にならってつくったのがそれだよ。
さすがに石造りは無理だから、木造になってる。
三島はアメリカで見た家を参考にしたんだろ。

235:名無しさん@3周年
11/01/29 23:41:51 qPiOK/Vg
>>233
三島はアメリカ文化の否定じゃなく、安易にアメリカ文化に浸る若者の行為を
否定してるわけで、論点がずれてるよ。
三島の場合、自分だけは安易じゃないということなのかw

236:名無しさん@3周年
11/01/29 23:44:51 +mRFX9ak
>>234
だからアメリカ文化じゃないでしょうよ、もともとは。バカじゃないの、あんたは。
三島はスペインやフランス、イタリア、ギリシャに行って見てんだよ。

237:名無しさん@3周年
11/01/29 23:47:45 qPiOK/Vg
>>236
南欧にコロニアルなんてないよ。
アメリカの家を見て、田舎ものの自分には、良いものに見えたと
本人がおっしゃってる。

238:名無しさん@3周年
11/01/29 23:55:38 +mRFX9ak
>>235
三島は別にアメリカ文化に浸る若者を全否定してないし。洋楽聴こうが、ハンバーガー食べようが、そんなことは非難するような偏屈バカじゃないし。
あんたは何か勘違いしてんじゃないの?

239:名無しさん@3周年
11/01/29 23:57:36 +mRFX9ak
>>237
だからもともとはヨーロッパ文化でしょう。

240:名無しさん@3周年
11/01/30 00:06:30 BcvFXqlx
>>239
それをいったら日本文化などは存在しないことになる。
>>238 を早くいうべきですね。
できれば、もっとわかりやすく。

241:名無しさん@3周年
11/01/30 00:15:44 7wefeS4M
>>240
じゃあアメリカ文化も存在しないことになるでしょう。

知りたけりゃ、自分自身で三島の著書を読んで調べてください。

242:名無しさん@3周年
11/01/30 00:22:43 BcvFXqlx
自国の文化を否定してまで、自説を通すのかw
三島は若者批判の小説なんぞ書かないでしょう。お客様なんだから。
講演会やインタビューにはそういうものがある。

243:名無しさん@3周年
11/01/30 00:34:44 7wefeS4M
>>242
洋館に住んだら、自国の文化を否定したことになるとか、この近代時代にバカじゃないの? あんた。

244:名無しさん@3周年
11/01/30 01:08:42 BcvFXqlx
>>243
ヨーロッパが元だからアメリカ文化じゃないといったら、
明治以前の日本文化はほとんどが中国文化になってしまう。
明治以降はほとんどが元は西洋文化だということだ。
少しは頭使ってくれ。

245:名無しさん@3周年
11/01/30 01:10:35 BcvFXqlx
ところで、三島はこういう意見を持ってる。
日本の伝統文化を守ることは、日本を守ることだ。

246:名無しさん@3周年
11/01/30 10:20:37 7wefeS4M
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、
国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を
処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、
三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

247:名無しさん@3周年
11/01/30 10:20:59 7wefeS4M
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

248:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:18 7wefeS4M
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

249:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:34 7wefeS4M
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

250:名無しさん@3周年
11/01/30 10:21:54 7wefeS4M
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

251:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:36 7wefeS4M
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

252:名無しさん@3周年
11/01/30 10:25:52 7wefeS4M
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch