ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの?at SEIJI
ネトウヨってホモ右翼の三島由紀夫を崇拝してるの? - 暇つぶし2ch50:名無しさん@3周年
10/11/25 21:22:11 xgjVHXNg
三島由紀夫ってあれだろw
かっこつけてコスプレしてクーデター(笑)呼びかけたはいいが肝心の自衛官から総スカン食らって引くに引けなくなり勝手に切腹して死んだイタいおっさんだよなwww

51:名無しさん@3周年
10/11/26 10:53:30 j0z/l9Yh
森田青年は実に明るい笑顔を持った、礼儀正しい好青年で、寡黙ではあったが、内に秘めた何物かが、澄んだ
彼の瞳から輝き出ていた。初対面の時、彼と何を話したのかは覚えてないが彼の無邪気で、しかも落着いた物腰、
時折り真白い歯をみせて人なつっこく笑った顔のすがすがしさが印象に残っている。
当時、日学同は出来たばかりの頃で、学生運動といっても、二、三人を除いて、皆んな不馴れな活動家達だった。
(中略)パーティーでは、学生達から主に私の著作への質問があり、明治維新のことなどを話し合った。
森田青年は、真剣な眼つきで、聞き耳を立てていた。(中略)
それから、左翼の学生運動が急激に活発になり、それと並行して民族派の学生運動も次第に成長していった。
この期間、日学同も急速に発展したので、彼らは忙しかったのだろう、しばらく森田君の顔を見なかった。
次に会ったのは、私の記憶が正しければ、翌四十三年五月の連休に、日学同が主催した理論合宿の席だった。

林房雄「森田必勝君の追想」より

52:名無しさん@3周年
10/11/26 10:54:52 j0z/l9Yh
(中略)話題は政治と文学、核、憲法問題から、ナショナリズム論へと発展し、楽しく緊張した時間であった。
学生諸君は、真剣にノートしながら、聞き入っていた。森田君は私たち講師席から見て、左端の一番前の席で
黙って聞いていた。
(中略)次に会ったのは、同じ年の八月下旬に伊豆多賀の旅館を借りて開催した日学同の幹部合宿に私が講師に
呼ばれて行った時だった。この時も、他の学生と違って森田君はほとんど質問もせず、何かを思いつめた表情で
一点を凝視していた。しかし、休憩時間には、一番はしゃいで大声で笑っていたのも森田青年であった。今、
手元にある記念写真を見ると、この合宿には、小川正洋君など、後で「楯の会」の会員となった学生が数人
まじっている。
そのあと、数回、森田君は日学同の諸君と、一緒に家に遊びに来た。彼が、日学同をやめて「楯の会」の幹部に
なってから彼と会ったのは、国立劇場の屋上で開かれた「楯の会」パレードの時だけだった。
「君はこんど隊長になったそうだね」と私が言うと
「いやあ……」と頭をかいて、はずかしそうに笑った。本当に好青年であった。

林房雄「森田必勝君の追想」より

53:名無しさん@3周年
10/11/26 10:56:09 j0z/l9Yh
三島、森田の両君は、桜の花のように、満開の時を待つことなく自ら散った。まことに見事な最期だった。
三島君も森田君も、満開と同時に始まる日本の衰弱と頽廃に我慢できなかった。戦後日本のいつわりの平和と
繁栄―平和憲法、経済大国、福祉社会、非武装中立という、与野党合作の大きな嘘の上にあぐらをかきつつ、
破滅の淵に向って大きな地すべりを始めている日本の実状を敏感に予感し、予見して、怒り、憂いつづけてきたのだ。
二人の烈士の、やむにやまれぬ憂国の諫死は、失われゆく本来の日本、この美しい―美しくあるべき日本
という国を、「エコノミック・アニマル」と「フリー・ライダー」(ただ乗り屋)の醜悪な巣窟にかえて、祖国を
破滅の淵への地すべりさせている「精神的老人たち」の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる
最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信している。

林房雄「森田必勝君の追想」より

54:名無しさん@3周年
10/11/26 10:57:51 j0z/l9Yh
彼等の愛国の至情に発した留魂の行為―何の直接的効果を求めず、身を殺して魂と志を後世に残すという目的は
完全に達せられた。
あの事件は、全日本人の魂をゆり動かした。とりわけ若い世代は―彼らには敗戦の
ショックが無いから、人生に於て最初の衝撃を受けた。(中略)
森田青年が、四十四年二月まで所属していた日学同は、「新民族主義」を掲げて、左翼学生運動と鋭く対立してきた。
憲法改正、自主防衛、失地回復による、日本本来の姿の回復をめざす彼らの運動は、左翼学生のふりまく俗悪化し、
反動化したマルクス主義の毒ガスにおかされた学園にひるがえる鮮烈で、鮮明な旗である。森田君の論文と演説は、
今日の民族派学生運動の、苦闘の体験からにじみ出てきたものである。彼の捨身と留魂の行動は新民族派学生運動を
大きく飛躍増大させた。その事実を、私はこの目で見ている。
森田君よ、安らかに眠れ。君の志をつぐ若者の数は老人たちの予想を越えて多い。君の童顔と微笑と澄んだ瞳を、
すでに老齢の私も決して忘れない。

林房雄「森田必勝君の追想」より

55:名無しさん@3周年
10/11/26 18:31:03 +v52Aw8N
三島由紀夫、クーデターにより民主主義をぶっ潰そうとした、
大馬鹿野郎というだけ。
結局誰も振り向きもしなかった。
死んでくれて良かった。

56:名無しさん@3周年
10/11/27 12:26:07 SE1UEwRb
>>55
三島は民主主義を潰せ、なんて一言も言ってないし。むしろ議会制民主主義は現在のもっとも最良の方式だと言ってますよ。

57:名無しさん@3周年
10/11/27 12:29:08 SE1UEwRb
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち―その名前をあげる必要はあるまい―を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
―つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

58:名無しさん@3周年
10/11/27 12:30:04 SE1UEwRb
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした―(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

59:名無しさん@3周年
10/11/27 12:31:27 SE1UEwRb
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない
ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について
語った言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。
「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に
限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性―国防の
問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である―を、認識できる人は
ほとんどあるまい。(略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい
世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。
三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、
注意を喚起したのである。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

60:名無しさん@3周年
10/11/27 15:42:00 25OpYVPG
憂国忌が先日だったから必死になってるのか?

61:名無しさん@3周年
10/11/28 11:09:36 GlwP1cPd
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、
私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。
たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい
国家意識の守護神と目されるだろう。
いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、
それを成し遂げたことを知ることができる。

エドワード・サイデンステッカー「時事評論」より

62:名無しさん@3周年
10/11/28 17:58:01 GlwP1cPd
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います

岡潔「蘆牙」より

63:名無しさん@3周年
10/11/29 12:04:52 +ps5E7C8
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた三十一文字の
調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、「ふるさとの駅」の
「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。
滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。
それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。
なぜならそういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。

江藤淳「南州残影」より

64:名無しさん@3周年
10/11/30 07:58:37 q1DXc8Fm
ウヨクはタコクのサヨク

65:名無しさん@3周年
10/11/30 08:04:27 wwkI7lXo
逆だろ


66:金持ち名無しさん、貧乏名無しさん
10/12/01 11:00:42 ZGPN0eu/
三島由紀夫没後40年
URLリンク(www.youtube.com)

67:巫山戯為奴 ◆X49...FUZA
10/12/01 11:32:18 v4owi0Yy
>>1 チョン面で兵役逃れで非人で最後はふぁびょーんてお前ら地球市民の仲間ぢゃねえかよw

68:名無しさん@3周年
10/12/01 11:40:59 mgi8oebd
ホモは兵役にはつけません。残念。

69:名無しさん@3周年
10/12/01 20:55:16 RtXCn0/l
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

70:名無しさん@3周年
10/12/01 20:56:15 RtXCn0/l
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら
訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を
悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ
薄まることはなかったのである。
そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、
三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略)
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から
決して逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近で
みつめてからだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

71:名無しさん@3周年
10/12/01 20:57:19 RtXCn0/l
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と
本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、
隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、
鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の
愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。
要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した
人間三島に惚れこんだのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

72:名無しさん@3周年
10/12/01 20:58:20 RtXCn0/l
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の
人となりについてこう語っている。
「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」
…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。
というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。
体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に
名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。
(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の
報せを受けてすぐに筆をとったことになる。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

73:名無しさん@3周年
10/12/01 20:59:16 /8owVqe4
     リ,;;;;;;:: ;;;;;:: ;;;;; ::;;;;;; \       人 从
     (彡ノり/リノ" ミ;;;;;;,,,.. ゝ     ) あ (
     );;; ヾ、;;;;...__,,  );;;;;;;; ヾ    ) お (
     i:::) ` ;;ー--、` 〈;;;;;;;::;;; i   ) お (
    i i::/   ^:::::::.. i  ,ll/ニi ;; l   ) / (
    i l ヾヽ''    ゚   ))ノ;; /  ) っ (
  i |  | iにニ`i,     (_/i;;; |  ) !! (
  | |  ! `ー‐'"    /  ゞ:l  つ (⌒
  i l|  ! " ̄  ,,,. /,;    ミi      |l
  | |i  ヾ二--;‐' ,;; ,;   ミ ||i il   i|
  | ll  _|彡"  ,' ; /' ̄^ ̄''''\  ||
  l ,..-'"  〈    ; /        ヽ
 /  、, \)  ,,.-/           `i
     `  ミー,;;' ,l             l
    /   ;; /  .|             |
   ヾ/    ,i'  ト             |
   'i     '  /゙`       イ    !
   ,;;|o;   i|  /         ヲ    /
  ,;;人,,_   ハ /    ,     /     リ
 ‐''"⌒ヾ:;' /'゙ i    /    /ミ    ミ!
      \ ,/   '';;    / ゞ    i
        ヽ   ,    ,ノ _,,;:'     ,i
    /  Y  \ '   ,;;/ _,.;:'     l
  ;;'    l   :. \   /        /
   i   :: i   ''::. \ /        ,;;イ




74:名無しさん@3周年
10/12/01 20:59:24 RtXCn0/l
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった
自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が
驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。
候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)〈一長一短〉があることを断った上で、
三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を
一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

75:名無しさん@3周年
10/12/01 23:35:58 /8owVqe4
・チワワとは?

三島由紀夫に関連するスレに在住する信者・荒らし
無職40代のババアらしい

・チワワの特徴

三島由紀夫に関する資料をペタペタとコピペして
今日の三島由紀夫像の美化に徹している


三島由紀夫の作品や生き方に否定的な意見が出されると
半日以内に意見者を罵倒する内容のレスがある

76:名無しさん@3周年
10/12/02 10:14:33 aaqYi+sf
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略)
その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに
なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を
受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の
余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。
「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」
思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが
一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略)
しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と
詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

77:名無しさん@3周年
10/12/02 10:15:34 aaqYi+sf
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく
市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。
ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて
いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、
腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。
(中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を
下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、
駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が
多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

78:名無しさん@3周年
10/12/02 10:16:44 aaqYi+sf
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで
三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を
しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から
九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略)
自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、
それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも
手をつける気には到底なれなかった。
その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、
自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

79:名無しさん@3周年
10/12/02 10:17:37 aaqYi+sf
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。
…私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を
願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。
肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、
式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、
傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の
方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は
見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を
向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

80:名無しさん@3周年
10/12/02 10:19:49 aaqYi+sf
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、
私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。
私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。
間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を
つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。
音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは
どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは
三島の姿だけなのである。
たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に
三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

81:名無しさん@3周年
10/12/02 10:22:33 aaqYi+sf
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。
(中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない
その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。
当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に
間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略)
しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを
訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、
三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

82:名無しさん@3周年
10/12/02 10:23:56 aaqYi+sf
(中略)
〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、
ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、
三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。
死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした
滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、
〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について
「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、
〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を
見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

83:名無しさん@3周年
10/12/02 10:25:09 aaqYi+sf
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、
アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて
政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが
ないのである。
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に
満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。
もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。
三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

84:名無しさん@3周年
10/12/03 11:06:46 XDH6NDx2
戦前の輝かしい日本の昭和3年に生を受けた私は、本土決戦が近い昭和19年に当時最高のエリート集団、
海軍機関学校の厳しい試験を突破。畳が血に染まっている激しい柔道場、プールの底に網を張り、力尽きて
おぼれ沈むまで泳ぐ猛訓練、日本最高の頭脳を有する教授陣による徹底的な座学。入学した東京帝国大学は正門に
菊の御紋を頂き、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」のため必死に勉強し、身体を鍛えました。
全国民が国のために死ぬ覚悟の戦前の日本、玄関の鍵を開けていても泥棒の入らなかった戦前の日本の高い道徳。
戦後の日本は、玄関に鍵をかけていても泥棒が入る堕落国家。現在の政治は武士によって行われるのではなく、
士農工商の商、つまり、カネと利権により政治が行われています。日本の政治は、「武士道」により行なわれ
なければなりません。「三島精神」で行わねばなりません。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

85:名無しさん@3周年
10/12/03 11:09:51 XDH6NDx2
「日本の真姿が変わって、生命尊重のみで魂は死んでいる。」と三島先生は言っておられます。今こそ三島先生の
遺志を継いで良き日本に造り変えましょう。
それには、まず東京から日本を変えましょう。私の家系は徳川幕府の直参旗本で、江戸で、300年、政治の
中枢に居りました。私は、来年4月初頭の東京都知事選に立候補し、三島先生の遺志を実現し、東京を創りかえます。
そのため、東京を民主党の菅政権と一線を画し、占領憲法を廃棄し、尖閣や北方領土の護りを固くし、
「世界最高の修身教育」と「強い男子」の育成、「減税」をして元気溌剌で活気ある愉快な東京にします。
ハーバード大学で「グレート・シンカー」(偉大な賢い人)に選ばれたドクター・中松のみが東京を賢く
指導できると自負しております。
11月25日の『憂国忌』には、米国で「ドクター・中松デー」の制定行事があったため、残念ながら参加でき
ませんでしたが、三島由紀夫の行動哲学に共鳴している皆さまと共に、日本の現状を糾弾してまいりたく存じます。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

86:名無しさん@3周年
10/12/04 18:59:04 WdVa4qBf
古式に則り見事で、壮凄な割腹を行なった三島さんの最期はたとえようもないほど立派なものだったが、それよりも
驚嘆すべきは森田必勝さんのはかりしれない気力であろう。三島さんの介錯をした上で自分も切腹したという事実は
まことに大変なことである。成程三島さんへの介錯は見事一太刀という訳にはいかなかったようであるが、(中略)
有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、
その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で
三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは
到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。
なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

87:名無しさん@3周年
10/12/04 19:04:04 WdVa4qBf
実にあの若さで相当の期間、この日あるを胸に秘めておくびにも出さず、いつもの明るさで友に交り、何の
衒気もなく知人に接し、いささかのたかぶりもなく冷静に常の如く空手の稽古に励んでいたことも特筆に価する。(中略)
(空手稽古で森田さんは)元気一杯に動き廻り、小柄で、やや肥満体、温和な顔に似合わない闘志で拳を挙げ、
足を振り廻した。三島さんは約一年の先輩空手マンとして熱心に道場の床に汗を流し、形(カタ)も二つばかり
修得し油ののってきていたところである。(中略)森田さんはいつもその中心となり寒稽古、暑中稽古もいとわず、
キビしい練習に耐え抜いて一回も休んだことはなかった。武道の相性とでもいうのか、稽古時間外でもよく
三島、森田のコンビで約束組手、乱取に満々たる闘志をもやしてぶっつけあった。まるでお互い敵同士のように。
突は三島さんの方が鋭いものをもって居り、蹴は若い森田さんのもので柔軟な足を軽くとばして三島さんの胸部によく極めていた。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

88:名無しさん@3周年
10/12/04 19:06:16 WdVa4qBf
森田さんの空手は考える、慎重な実技であり、無心に激しく肉体をぶつける荒稽古の三島空手とは対照的で
なかなか面白い。森田さん始め若手の進境目ざましく三島先輩を凌駕せんばかりの勢いに三島隊長を大いに
あわてさせた。
激しくキビしい練習と非常に礼儀正しい、節度ある立派な態度、三島さんと楯の会の若獅子との練習後のむつまじさ、
この楯の会の稽古は私にとっても大変楽しい、思い出の多いものであり、何日までも美しく心の奥底に残るものである。
森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た。私は彼とは
個人的なつき合いはなかったが空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、
朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり
無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが
男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

89:名無しさん@3周年
10/12/04 19:09:16 WdVa4qBf
(中略)彼を識らないマスコミ、青白い文士連から聞くに堪えない侮辱的な批判、言辞が勝手気儘な推測だけで
弄されている(中略)
この行動に出るためには―このことが楯の会としてふさわしいものであったか否かは別として―三島さんと
討議を重ね、幾多の迂余曲折を経たあとの結論と思われる。また世論、三島さんの文士としての余りにも高名な
ところから、森田さんの死が何か刺身のツマのように片隅に押しやられているのはたとえようもなく残念である。
成程、森田さんは日頃、心から三島さんに私淑していたことは間違いないが、だからといって単に三島さんへの
同情的道連れとか殉死とか判断するのは早計である。男児一度やらなければならないと決断し、若い世代の
代表としてまた楯の会の尖兵として三島さんとともに起ち、吾れのなさんとして決めたことを敢然と行なった
ものだと確信する。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

90:名無しさん@3周年
10/12/05 01:12:38 KOZVX0Xi
先日、某出版社から、生前の三島由紀夫氏のプライベート写真を入手しました。

本来、写真集を出版を予定をしていたが、三島氏の割腹自害の後、写真家自身が、
急死してしまい、出版の予定が永遠に失われ、更にネガフイルムが紛失して仕舞
残存の写真集用の原本写真だけが残されてしまいました。

昨日、その某出版社の社長から、残された写真を託されました。権利者が移譲されたのを機会に
オークションに出品する予定です。
その中の一枚は、彼が自衛隊に仮入隊した時に(45日間)撮影されたものです。

全ての写真の裏にシリアル№が書かれています。
写真が写真だけに、心ある人に入札して頂きたいと思っていますが、反対の方も
おいででしょうから、一応アップさせて頂きました。


91:名無しさん@3周年
10/12/05 02:03:18 Ffgx3yqG
三島は受けだったらしい。

92:名無しさん@3周年
10/12/05 04:49:04 RbvpcltG
キモッ!

93:名無しさん@3周年
10/12/05 11:11:16 kVxJRqlN
森田同志は、四十一年四月、紛争中の早稲田大学に入学し、(中略)日学同の前身母体「早学連」に馳せ参じてきた。
同年晩秋の「日学同結成大会」以後、万人を魅了してやまなかった彼の性格と、明るい統率力でたちまち指導者になり、
草創期の日学同運動を多くの同志たちとともに担った。
(中略)日学同運動のなつかしい先導的試行期の数々の活動を想いかえしてみると、必ず森田同志のあの
人なつっこい笑顔が私たちの胸中に浮かんでくる。
早大国防部が、当時、毎朝行なっていた早朝トレーニングに、徹夜アルバイトからかけつけて眠い眼をこすりながら
一緒に早大付近を走り、牛乳配達のおじさんや、新聞配達の青年、靴みがきのオジさん、食堂のオバさんなどに
大声で「おはよう」といっていた森田同志。
彼は早大商店街でも人気者だった。事件後直ちに早大正門を陣どって、私たちがつくった仮設の焼香台に噂を
聞いて実に多くの付近の人たちが馳けつけて下さった。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

94:名無しさん@3周年
10/12/05 11:12:21 kVxJRqlN
明るかった森田同志。口舌の徒をにくみ、世の不正にいきどおり祖国の正しい発展のためには命を捨てると淡々と
語っていた彼。あの森田同志が、壮烈な割腹自決を遂げて現世にもはやいないとは、まだ私たちには信じられない
ことである。
四十三年、楯の会第一期生として、故郷から骨折していた足をひきずって、富士学校の体験入隊へ加わった
森田同志は、たちまち三島先生に可愛がられるようになった。
四十三年四月、早大国防部二代目の部長となった彼は、自主憲法、自主防衛による日本の真の独立をよびかける
学生運動を全国的に燃えあがらせよう! と各大学へオルグに出掛け「全日本学生国防会議」の結成に尽力した。
森田同志の努力で、四十三年の一年間に、三島由紀夫先生は三回も、私どもの大きな行事に特別講師として
協力してくださった。(中略)このとき三島氏の協力が得られなかったとしたら、今日の民族派学生運動の興隆はありえなかっただろう。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

95:名無しさん@3周年
10/12/05 11:13:27 kVxJRqlN
四十三年八月、森田同志が団長になった北方領土返還運動の日学同現地闘争団は、ノサップ岬へ赴いた。
「貝殻島」へ上陸して、北方領土返還の捨て石となると死を決していた森田同志。計画は挫折したが、それにも
めげず、同年八月下旬のソ連軍のチェコ侵攻に憤激し、ソ連大使館へのデモを組織した彼。
(中略)当時、読売新聞の論壇時評を担当していた大島康正氏が、森田同志の論文に注目し、高い評価を与えた。
四十四年二月、青山学院、東大での日学同運動を最後に、彼は「楯の会」専従となっていった。(中略)
常に戦後の安易な情況をなげき占領憲法下の日本に憤り、そしてまた六月以後、力を失った左右の学生運動に
力を与えるために「改憲」への先覚として散った森田同志の死は、世俗的名声はともあれ、三島由紀夫先生の死と
まったく等価である。(中略)
憂国烈士三島由紀夫先生、森田必勝同志の御霊よ安かれ

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

96:名無しさん@3周年
10/12/05 15:32:28 jSuserh0
相変わらず政治板住民は長文レスが好きだな
たまってんのか?

97:名無しさん@3周年
10/12/07 10:32:12 6dMdmxwL
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。
三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。
初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして
三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。
そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。
私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を
読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが
ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

98:名無しさん@3周年
10/12/07 10:33:20 6dMdmxwL
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、
伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、
しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ
時おり三島氏に会うために通うようになった。
私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。
何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない
謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる
ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

99:名無しさん@3周年
10/12/07 10:34:31 6dMdmxwL
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように
なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(中略)それと共に三島氏の
要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を
三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため
座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を
浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」
という言葉が大好きになったようだった。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

100:名無しさん@3周年
10/12/07 10:35:38 6dMdmxwL
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

101:名無しさん@3周年
10/12/07 10:36:48 6dMdmxwL
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。

伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

102:名無しさん@3周年
10/12/09 11:45:43 0ctX9gVq
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(中略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

103:名無しさん@3周年
10/12/09 11:46:49 0ctX9gVq
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

104:名無しさん@3周年
10/12/09 11:47:55 0ctX9gVq
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

105:名無しさん@3周年
10/12/09 11:49:09 0ctX9gVq
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(中略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(中略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

106:名無しさん@3周年
10/12/09 11:50:27 0ctX9gVq
私は実務の時代の価値を否定しない。(中略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(中略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(中略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

107:名無しさん@3周年
10/12/10 23:40:50 57fUPZoR
江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に
「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分かったような、人生の真相は
たかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。
そういえば三島事件後、俗耳に入り易い江藤流の原因説が数限りなく出ました。(中略)
私はいっさい関心を持ちませんでした。「細君のヒステリイ」に原因を求めて安心する現代知識人に特有の
気質にいちいち付き合っている気にはなれなかったからです。(中略)
江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムに
どっぷり浸っていた人でした。
三島の悲劇は分からない人には分からないのです。縁なき衆生には縁なきことが世にはままあります。

西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

108:名無しさん@3周年
10/12/10 23:42:28 57fUPZoR
小林(秀雄)の「文学者の思想と実生活」の結びに近い個所に次のような言葉があります。
「思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに
離別しようとするところにある」
その通りだと思います。「思想の力」は理想と言い替えてもよいでしょう。私は次にみる同文の結語を読んで、
昭和十一年にこれを書いた小林秀雄がさながら三島の自決を予見していたかのごとき思いにさえ襲われたほどです。
「エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を
投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである」
一九七〇年代の半ば頃に、私はギリシア哲学者の故齋藤忍随氏にお目にかかる機会がたびたびありました。
三島事件は氏の関心事で、開口一番、三島はエンペドクレスですね、と言いました。エトナの噴火口に身を
投じたこの古代の哲人は、ヘルダーリンが歌い、ニーチェが劇詩に仕立てた相手です。
歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの正気の行動があるのです。

西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

109:名無しさん@3周年
10/12/11 14:29:32 cdlbRmUR
長文?
単なるコピペだろ
しかしご苦労なこったな、本見ながら打ってんだろ?これって

110:名無しさん@3周年
10/12/11 16:08:31 33re4+pL
ある政治家が「狂気の沙汰」と呼び、これに迎合するかのようにある作家が「精神分裂症」と診断した。
病理学的な狂気は三島由紀夫君にはなかった。
狂気とかたづけてしまえば、その時点で政治家も作家も、一切の思考を停止し、責任を回避することができる。
ソ連のような国では、多くの健康な作家が精神病院に入れられている。独裁者と怠惰な思考喪失者にとっては、
人を狂人あつかいにすることほど簡易軽便な処理法はない。
「賊と呼び狂と呼ばんも、他評に任ぜん」という句は、維新志士たちの辞世の漢詩にときどき出てくる。
出典はシナにあるかもしれぬが、これが古今に通じる志士の心である。
三島君自身も狂人呼ばわりの「他評」はもとより覚悟していた。

林房雄「悲しみの琴」より

111:名無しさん@3周年
10/12/11 16:09:26 33re4+pL
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。

彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。

林房雄「悲しみの琴」より

112:名無しさん@3周年
10/12/11 16:10:20 33re4+pL
三島君の熱望は決して政治概念としての天皇の復活、したがって明治憲法復元論でもなく、ただ左右の全体主義
(共産主義とファシズム)に対抗する唯一の理念としての「文化の全体性と統括者としての天皇」の復活と
定立であった。
このような定立が、「古代の夢」は別として、日本の歴史において実現された実例があったかどうかは
論争的として残るが、その試みが幾たびか行われて、多くの忠臣と志士がこの夢に命を捧げたことは事実である。

林房雄「悲しみの琴」より

113:名無しさん@3周年
10/12/13 10:12:54 uEHvRlgb
(2001年11月25日に)リンカーンセンターでアメリカペングラフ主催の「二十世紀の偉大な作家・
三島由紀夫を顕彰する夕べ」が開かれた。(中略)
私は「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とする
ところの私の主観的ドキュメンタリー作品であることを語り、そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を
「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれたこと、そのことを氏は『薔薇刑』の
序文「細江英公序説」の中ではっきり書いている。(略)だからハリウッドの映画監督がつくった映画
「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる
写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、
ありえないことだ。その映画のポール・シュレイダー監督が前もって私にアドバイスを求めてきたら教えて
あげたのに残念だ、と語り、前記の三島さんの序文の一節を読み上げた。

細江英公「誠実なる警告」より

114:名無しさん@3周年
10/12/13 10:14:26 uEHvRlgb
(中略)三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の
責任として、きちんと後世に伝えておかなければならないことを信ずる。
その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、
そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、
事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うような
ことは、実にもって愚劣なことであるということである。
もちろん、一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。
が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けて
いたと考えたい。守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして
深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。

細江英公「誠実なる警告」より

115:名無しさん@3周年
10/12/13 10:15:36 uEHvRlgb
思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化を
ないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題が
あったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。三島さんには、今の
日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえて
とることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。そして恐らく三島さんが意図した通り、
彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えて
ならない。私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあっては
ならないと考える。一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが
三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を
感じてきた。なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだったはず
なのだから。

細江英公「誠実なる警告」より

116:名無しさん@3周年
10/12/14 14:13:30 XLo0XOy3
ここまでコピペしちゃうとヤバくね? 引用の範囲を余裕で越えている気がする。

117:名無しさん@3周年
10/12/15 10:21:25 OAoO9PBw
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

118:名無しさん@3周年
10/12/15 10:23:04 OAoO9PBw
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

119:名無しさん@3周年
10/12/15 10:24:06 OAoO9PBw
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

120:名無しさん@3周年
10/12/15 10:25:58 OAoO9PBw
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』と
なぜ侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

121:名無しさん@3周年
10/12/15 10:27:04 OAoO9PBw
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

122:エビちゃん親衛隊
10/12/15 10:29:11 YUccyK92
三島は現実政治に関わる人物ではないだろう。
小説を書いているのが無難であると思われる。
少なくとも死ぬ前に議員になって国会でアホ発言をするような
晩節を穢さなくて良かったのではないか。
多分、総理はムリであろう。

123:名無しさん@3周年
10/12/16 20:45:31 qmOvvGj9
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。(中略)…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

124:名無しさん@3周年
10/12/16 20:48:48 qmOvvGj9
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。
頼むよ、原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、
天皇の御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(中略)私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

125:名無しさん@3周年
10/12/16 20:49:48 qmOvvGj9
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

126:名無しさん@3周年
10/12/16 20:50:38 qmOvvGj9
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

127:名無しさん@3周年
10/12/19 19:43:01 GfMouNUU
わたしの考えでは、一九六六年に書かれた「英霊の声」は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の
一つである。
この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が登場し、
帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の死者の声を
口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。
後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。この作品で三島が言うのは、
自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら)
「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、
もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、
そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。
そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。

加藤典洋「その世界普遍性」より

128:名無しさん@3周年
10/12/19 19:44:01 GfMouNUU
ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。
わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の
戦後の意味は、大違いである。
その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的な
みちすじが示されている。
三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその「内面」に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、
はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。
これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、
日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。

加藤典洋「その世界普遍性」より

129:名無しさん@3周年
10/12/19 19:44:51 GfMouNUU
たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。…でも、そのことが、
三島の小説を世界の文脈で見た場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。(中略)
三島は戦前、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに
第一次世界大戦の戦後文学だった。そのもっとも深い理解者は、あのジャン・コクトーである。
その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界大戦の戦後文学で
めざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。つまり、
人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。
「世界の戦後」とは第一次世界大戦の戦後のことであり、「日本の戦後」とは第二次世界大戦の戦後のことである。
この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は
自分を修復している。

加藤典洋「その世界普遍性」より

130:名無しさん@3周年
10/12/19 19:45:58 GfMouNUU
サルトルの「嘔吐」は第一次世界大戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復には
アヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。
しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジュマンによる人間の回復を唱える。
三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに
自覚的であるべき、「遅れてきた青年」なのである。
〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にも
ラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。
事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態
よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉
こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。
そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。

加藤典洋「その世界普遍性」より

131:名無しさん@3周年
10/12/21 10:50:20 p2jqhk7c
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

132:名無しさん@3周年
10/12/21 10:51:29 p2jqhk7c
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

133:名無しさん@3周年
10/12/21 10:52:27 p2jqhk7c
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅―殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

134:名無しさん@3周年
10/12/21 10:53:26 p2jqhk7c
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

135:名無しさん@3周年
10/12/21 10:54:30 p2jqhk7c
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

136:名無しさん@3周年
10/12/23 23:56:58 /nB5f4i7
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。
三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。にもかかわらずそれを試みることは、
自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、
その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。
故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。

福田和也「保田與重郎と昭和の御代」より

137:名無しさん@3周年
10/12/25 15:48:37 UG/lz53Y
ブヒブヒうるせえよ。福田。
何が大義だ?お前が言うなっての。

138:名無しさん@3周年
10/12/27 12:03:17 lSBrMi4z
発起人を代表して一言申し上げます。本日はこれだけ多くの方々にご参集頂きまして慎にありがとうございます。
シンポジウムを聴きながら思い出していたのは、江戸時代の文化人が頭の中で考えた「くだん」という動物のことで
あります。「くだん」というのは人偏に牛という字です。一件、二件、“依って件の如し”というときの件です。
江戸の文化人がなぜ「件」という動物を空想したのかというと、この件という字から思いついたと考えるのです。
人偏、人間ですね、それと牛。「件」という空想上の動物は、体が牛で頭が人間、体が人間で頭が牛、そういう
想像で描かれております。
そして「件」という一種の怪物の特徴は何かというと、天変地異が迫った時、あるいは国家の危機が迫った時、
いち早くそれを予知して、一声悲痛に啼いて死ぬ動物であるということです。

中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より

139:名無しさん@3周年
10/12/27 12:04:39 lSBrMi4z
そういう研究を最近読みまして、『憂国忌』にあたり、悪い意味ではなく、三島由紀夫という人は現代日本にとって、
「件」のような一聲を放った予言する存在だったのではないかと思いました。
日本は中国、ロシアから馬鹿にされて何もできない状況になった。これは三島が「檄」で予言していたことです。
没後40年の間にそれがますますリアルになり、酷いことになっている。そして三島の予知能力をますます
痛切に感じるようになりました。これを以って閉会の辞と致しますが、こういうことを“依って件の如し”
(「件」の予言が外れない様に嘘偽りがない)と謂うのです。

中村彰彦「第40回憂国忌 閉会の辞」より

140:名無しさん@3周年
10/12/30 11:21:54 GNomxK3P
天文台で働く若い観測員よ、暗い天空に新しい彗星を一つ発見するたび、きみが地上で喪失するものは、一体何か?
すべての書物を書きつくしてしまった、一人の詩人が切腹して果てたあとで、その暗い天空が獲得する星は、一体何か?

寺山修司
憂国忌パンフレットに寄稿された追悼の辞より

141:名無しさん@3周年
10/12/31 23:51:47 pwVlodgF
オカマで人生を終わらしたかったので、将来ある人たちと心中しました。
最低な人でした。

142:名無しさん@3周年
11/01/02 15:19:30 SEDlM5x+
国のため いのち幸くと願ひたる 畏きひとや
国の為に 死にたまひたり


わがこころ なおもすべなし をさな貌
まなかひに顕つを いかにかもせむ


夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり
み祖の神の すさび泣くがに

保田與重郎
昭和45年11月某日、哀悼の句

143:名無しさん@3周年
11/01/04 19:58:13 IazBvEkW
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
―当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。―と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

144:名無しさん@3周年
11/01/04 19:58:38 IazBvEkW
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。―僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。―さすがの武田泰淳も、―いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう―と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、―でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

145:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:03 IazBvEkW
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、―おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ―と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

146:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:20 IazBvEkW
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。―いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。―
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。―なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)―こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

147:名無しさん@3周年
11/01/04 19:59:43 IazBvEkW
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

148:名無しさん@3周年
11/01/06 00:06:33 qoEpmCco
「三島由紀夫」をきわめて高く評価している。
その理由は拙著『戦後的思考』(1999年)に記した通りで、規定の枚数ではちょっと書けない。
できれば読んでいただきたいが、彼こそが、昭和天皇と戦争の死者の間の「約束違反」と、またそれと自分の関係に
目を向けた、そしてモラルということの初原の感覚を失わなかった、例外的な戦後日本人だったからである。
三島は、戦後の小説家のうち、もっとも「戦後的」な作家だったといってよい。
戦後の天皇制から、一個人として、もっとも外に出ていた。
三島一人がいたお陰で、日本の戦後は道義的に、大いなる茶番の時代となることからかろうじて免れた、
といえるのではないかと思っている。

加藤典洋「アンケート 三島由紀夫と私」より

149:名無しさん@3周年
11/01/08 10:15:23 E0qAkyCk
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。
…何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。
そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」
と銃剣術の動作をして真剣にいった。
当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。
…そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。
けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。
彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。
そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

150:名無しさん@3周年
11/01/08 10:15:49 E0qAkyCk
今、卒業式の時の彼を思い出す。
戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。
全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。
彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。
彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。
心ひきしまり、すがすがしい動作であった。あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。
そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

151:名無しさん@3周年
11/01/08 10:16:12 E0qAkyCk
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての
器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に
「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。
三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。
また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

152:名無しさん@3周年
11/01/08 10:16:40 E0qAkyCk
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。
…そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。
彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。
…彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。彼はそのことを確信していた。そして
おそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

153:名無しさん@3周年
11/01/08 10:17:03 E0qAkyCk
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が
「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは
知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。
三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

154:名無しさん@3周年
11/01/08 10:20:08 E0qAkyCk
高等科上級生の時のことである。
戦争中で銃剣術の時間のことだった。体格の大きい銃剣術が強い友人と、彼とが試合をさせられた。教官が
どうしてそういうアンバランスな試合をさせたのか解らない。しかし平岡に対する意地悪からでは無いと思う。
さて華奢で軟体動物のようにクネクネした動作の平岡は、当然ジタバタと苦戦していたが、そのうちにヒョイと
勝ってしまった。相手の心臓のところを確かに突いたのである。皆は驚き笑いながら、見物の輪をといた。
彼はその時までに何度か壁にぶつかり、それを切り開いてきた人らしく、困惑しつつも、冷静であったので
勝ったのだろう。


中等科か高等科の英語の授業の時、老教師が「日本には叙事詩は無かった」といった。
平岡は、「平家物語などがあるじゃありませんか」といった。
これは日本の古典に通じぬ英語教師の弱味を突いたらしく、彼は感情的になって平岡を、おさえつけた。
休み時間になり、平岡は憤慨していた。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

155:名無しさん@3周年
11/01/08 10:20:31 E0qAkyCk
天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。
なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。
又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、
“ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い”と断言した。
そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、
混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。
美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

156:名無しさん@3周年
11/01/08 15:10:07 b7TTbqjx
三島が人並みはずれた愛国者だとは特に思わないが、時代を見抜く目とアピール上手なところは注目に値する。

157:名無しさん@3周年
11/01/09 10:28:39 XUVm5R6Q
彼は、敗戦で束縛から解放された時まっしぐらに芸術の世界へ突進した。
…しかしその世界から出てみると、日本はすでに大きく伝統から離れていた。
彼にとり、日本の伝統は荒涼としたものになりかけていた。
彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた。
…彼が戦争直後、学習院を訪ねて校庭を歩いていたら、某教官に呼びとめられ、
「これからは共産主義の勉強をするのも面白かろう」といわれたといって、しきりに憤慨していた。
「何で今頃するのか、戦争中にやるのなら解るが」というのである。この先取りの心、少数派に身をおく
積極さ、これが晩年彼の日本についての心痛を一層深くし、嘆きを重くしたのであろう。
又、この予感、この嘆きこそ芸術家のものであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

158:名無しさん@3周年
11/01/09 10:29:03 XUVm5R6Q
彼は一時の思いつきで死んだのではない。
おそらく三十年、あるいはそれ以上、死を自分のすぐ背後に感じ続けて生きたと思う。死を背負い続けたと思う。
…彼が死なねばならぬとはっきり考え始めたのはいつか。東大紛争時における日本の文化的指導者(体制側だけ
でなく、学生騒動に便乗して売名を図った人々まで含めて)の醜さを痛感したからではないか。
…勿論ずっと以前から、日本の崩れてゆくのを、彼はじっと忍耐しながら見ていたのであろうが、殊にあの
事件の時に絶望的な暗黒をつくづく見たのではないか。


鋭敏な彼は、日本、否日本人の心の荒廃をまざまざと観たのであろう。
この闇に一瞬なりとも光を放ち得るものがあるとすれば、それは自分の命の提供しか無いと観たのであろう。
彼はそれだけ自分の才能が稀有なものであり、又自分がそれを十分に開花させたのを知っていたのであろう。
だから、自分の死の持つ力を考えたのであろう。当面は罵詈雑言が自分の自殺を覆うであろう、しかしなお、
自分の名声と才能を死なすことによる衝撃に、多少の自信はあったろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

159:名無しさん@3周年
11/01/09 10:29:35 XUVm5R6Q
彼は無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。
彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。
…彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。
それは自分の命、これである。
…世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか?
多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。
しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。“死”は誰でも逃げたいものだから。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

160:名無しさん@3周年
11/01/09 10:30:03 XUVm5R6Q
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。
自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。
彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。
なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。
…彼は少年時代に戻って死んだ。少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。
純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。
所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

161:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 20:34:00 TljFJWUK
三島さんは凄いよね。
でも政治的な発言に関しては少々妄想に捕らわれていると思うんだよな。

日本人独特の美意識ってのは戦後(敗戦)ではなく、もちろん軍部台頭からではなく明治維新の頃から少しずつ崩壊していったのではないのかなあ。
薩長政治の頃から、な。

「富国強兵」を掲げたころから何かが変わった。
日本人は本来、武士から農民まで「家を護る」ということにのみ精力を注いだ。
その為に、時には兄弟同士の争いを演出してまでな。
これが徐々に壊されていくのが明治維新以降。
「お家のため」がいつの間にか「お国のため」に変えられていった。
その「お国」の中身を深く考えもしないまま、な。
ちなみに明治維新以前の「お国」とは「藩」のことであり「藩のため=お家のため」が直結しやすい環境だったことは言うまでもないでしょう。
では明治維新以降における「お国」とは何なのか?
これ薩長を主とする政府であり官僚である。
当たり前だが「官僚のため=お家のため」なんて公式は成立する訳がない。(笑)
ここから国民のモラルが崩壊していく。
そのうち古来以来の「天皇(皇室、天子)」という国民に残された標も昭和初期に官僚(軍部も省だったから軍部も含む)に「完全に」呑み込まれていく。

「富国」という題目を唱えて口開けて餌を待っていた国民が悪い訳ではない。そもそも餌なんて貰ってないのだから。
当たり前だがアメリカが悪い訳でもない。
「はいはい」と言うことを聞いていた皇室が悪い訳でもない。


162:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 20:54:16 TljFJWUK
※少しだけ続きです


三島は勘違いしていると思う。
いまだ戦争の総括が済んでいない時代、戦争の全貌が見えていない時代だったから仕方ないことだが、な。
昭和初期の官僚が「何を」してきたのか、「何に」執着したのか、どれくらい腐敗してたのかは昭和末期もしくは昭和天皇が崩御した後まで文献が出なかったのだから仕方ないが。

全ての戦争責任を陸軍と天皇に負わせられたのも官僚制度の力による。(海軍はスルーされたんだよ)
昭和天皇は生きることで官僚も受けなければならないはずの戦争責任まで負わせられた。

確かに戦後復興、経済発展は為してきた。
しかし、それは田原総一郎が言うところの「開発独裁」により国民の生命安全を犠牲にして。
詳述は避けるが、これがバブル崩壊後まで続く。
いわゆるグローバルスタンダードを志向し始めるまで。
ちょうど小泉の頃かな。

さて三島だ。
そもそも三島が言うように「戦後」を契機に日本人が変質させられた(!)とするなら、この体制はあと50~200年は続きます。(笑)
確立された体制と言うのは最低でも三代続くのが普通ですから。(日本の歴史を参照のこと)
そんなん嫌です。
絶対に嫌です。

三島が勘違いしていたと思うしかないです。
体制確立を明治維新の頃からとするならバブル崩壊の頃が制度の疲労が現出してくる時期に一致します。


163:名無しさん@3周年
11/01/09 21:09:16 XUVm5R6Q
>>162
日本がすでに明治から大正、昭和にかけて、あなたの言ってるように、腐敗の芽があったことは三島由紀夫も言ってますよ。

164:星を読め ◆K0cmPDyMeQ
11/01/09 21:10:31 TljFJWUK
※も少し続き(スマン)

いまは江戸末期の混乱に似ている状況だと思いますよ。
ちなみに社会変革における第三の波を「情報」だと信じてる人間がいます。(岡田斗志夫を読みましょう。奇書ですが「ぼくたちの情報革命」とか何とか言う本です)
まさしく「今」でしょう。
「今」でこそ明治維新以降に失われていった日本人の心、本質を理解出来るはずです。

さて三島です。
勘違いしていたとは言え、浮かれる国民に「日本人とは何か」を問い、「日本人の喪失したもの」さらに「日本人の心を奪った制度」を問うてくれた。
しかも国民が豊かになり享楽的になった時期を見計らったように、ベストなタイミングで。ベストとしか思えない衝撃的なパフォーマンスで。
これが戦後すぐの混乱の最中であれば国民はそれどころではなくスルーしただろう。
三島に感謝である。

165:名無しさん@3周年
11/01/09 21:21:32 TljFJWUK
>>163
ごめんなさい。
説明不足でした。
三島は「明治維新以降の腐敗の目」を確かに指摘してました。三島は天才ですから。
しかし彼が(読者ではなく)国民相手に表現するときは、やはり「戦後」というキーワードを重視していたと思います。

これは「官僚制度」と結託したメディアしかない時代だったから仕方ないことですがね。
さらに言えば出版(取次)が東京(中央官僚)に摺り寄らなければならなくなってきた時代でしたから仕方ないことですが。

私のレスは、一般国民に与えた三島の語る「戦後」に関するコメントだと思って下さい。

166:名無しさん@3周年
11/01/09 21:39:03 XUVm5R6Q
>>165
あやまらなくて大丈夫ですよ。あなたの言っていることと三島の考えは似ている感じがしました。

167:名無しさん@3周年
11/01/09 22:28:15 TljFJWUK
>>166
いえいえ。三島さんの凄みは新時代に突入しないと体感出来ないのかも知れません。

そういえば、それほど熱心な三島の愛読者でない(難しいから)僕と三島に近い部分があるとする一文に、三島の精神はあらゆる部分で受け継がれてるんだと再認識させて貰いました。
僕の論なんて、いろんなところから寄せ集めた受け売りに近いものですから。

ともあれ三島が嫌悪した時代から脱しようとしている今を生きられるのは幸せなことだし、幾ばくかの使命感をも覚えます。

個人的には三島に新たなアイコンが付加される時代を想像するだけでワクワクします。
それは薔薇色の未来ではないでしょうが、いまの時代よりも人間が品性を取り戻した時代になるでしょう。
ま、妄想かも知れませんがワクワクドキドキです。

168:名無しさん@3周年
11/01/12 13:35:55 sRwdw/61
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を
視察した後、我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から
加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として
自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を
命ぜられた。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

169:名無しさん@3周年
11/01/12 13:36:42 sRwdw/61
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を
起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い
雅びな表現で、固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画
「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に
固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

170:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:06 sRwdw/61
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり
するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に
防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

171:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:27 sRwdw/61
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

172:名無しさん@3周年
11/01/12 13:37:47 sRwdw/61
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が
来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に
体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの
挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

173:名無しさん@3周年
11/01/12 13:48:47 IBi2JceD
三島は単に美しい死に場所を探していたんだよ。
自分が永遠に美しい存在でいれる死に場所を。
もちろん、愛国者であったことは間違いないが、それよりも上位にあったのはナルシシズムだ。
目論見は半ば成功し半ば失敗。

174:名無しさん@3周年
11/01/12 14:04:33 nKvPhSJS
愛国者としての三島は評価しないが、
ナルシストとしては賞賛に値する。

175:名無しさん@3周年
11/01/12 14:07:54 sRwdw/61
>>173
ナルシシズムは英雄の必須条件です。

176:名無しさん@3周年
11/01/12 14:12:24 sRwdw/61
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。先生(三島由紀夫)は、
その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。思想的な評論など出していましたからね。例えば、『対話・日本人論』とか、
思想的な評論関係の著作を出していましたから。文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。
小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。
(中略)
あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大ってどんどん広がって
いったわけです。当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。想像できないでしょうが、
そうだったんです。で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。今見れば漫画みたいになっちゃう
かもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に危機的に感じていました。そういう時代風潮を押さえて見ないと、
あの頃の行動というのはわからないんですよ。今の、この社会状況から見てたんじゃ」
持丸博(元楯の会初代学生長)

鈴木亜繪美「火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

177:名無しさん@3周年
11/01/13 12:01:12 YJ0cz/AL
「あの頃は、全共闘全盛の時代だった。俺は九州生まれで、全共闘の考え方に馴染めなかった。ああ、俺の考えは
世の中に合わないのかな、と思ったよ。
(中略)
学校へ行ってもどうも自分と考えてることが違うなという連中が、我が物顔で歩いている。肉体的には負けないけど、
論争して負けたくないから理論武装したいと思った。
先生の人柄とかに興味津々だったから、たぶん、先生が辟易するくらい質問したよ。根ほり葉ほり訊いたね。
先生は、目が非常に純粋で、僕らのようなひよっこにも丁寧な言葉を使ったし、時間を守る、威張らないし、
そういうことからも魅力を感じた。文豪なんていうそぶりは全然見せなかった。礼儀正しさとか非常に親切心が
あるとか、何回かのお付き合いの中で敬意を持つようになった」
仲山徳隆(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

178:名無しさん@3周年
11/01/13 12:01:51 YJ0cz/AL
「当時、新左翼の運動が広まっていて危機感があった。(中略)
三島先生は、『君が田村君か、さあ座りなさい』とおっしゃり、これが最初の言葉だった。じっと見られた大きな目が
キラキラ輝いていて、印象に強く残った。実にあっけない最初だった。
(中略)
体験入隊終了直前、緊張の連続と疲労の極みで胃液を吐きダウンしてしまった。薬を飲まされ、隊舎のベッドで
横になっていると、三島先生がいらしたんです。ベッド脇に座られて『大丈夫か』と声を掛けてくださった。
『幾つになった』と訊かれ、『十八です』と答えると、『そうか、俺は君の親の世代なんだなあ。無理するなよ、
行けるか?』と。先生のあの声は忘れられないですよ」
田村司(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

179:名無しさん@3周年
11/01/13 12:02:11 YJ0cz/AL
「とにかく入学した前後って、大学紛争が一番大変だった時、最初に入試を受けた時はバリケードがあって
機動隊が出てましたよ。早稲田の文学部は革マル派の本拠地だった。圧倒的に、革命論争だとか新左翼系の話が
主流でした。でも、いわゆる左翼系の議論には違和感があった。どうもちょっとおかしいと。それでいろんなものを
読んでる中で、一番明解に論を展開していたのが三島先生だった。そういう意味じゃ、『論争ジャーナル』に
出て来て論陣を張ったというのは画期的だった。
自衛隊に行こうと思ったのは、当時はマイナーな存在で、どちらかというとマイナスの評価だった。それと規律で
全部縛られている所では自分がないと言われていましたから、本当に徹底してがんじがらめの規制の中で人間が
どうであるか、自由でありうるか、それを一回やってみたいと思ったんです」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

180:名無しさん@3周年
11/01/13 13:46:21 kcZuLxKp
ネトウヨは三島のような人間と正反対の人種

181:名無しさん@3周年
11/01/15 11:54:33 alz2xBlz
「三島先生の『楯の会』は、思想的に自由な所だったというのが大きかったと思います。思想的束縛がありません
でした。会自体すごく幅広い人が入って来ていました。僕なんか、従来型の右翼系の人とは随分違ったと思います。
僕は、三島先生といろいろ話していて、今まで会ってきた人の中であれ程頭のいい人はいなかったですね。
非常に明晰で、クリア。透明なんですよ、透明。なんていうかクリスタルガラスのような、水晶のような、
そんな印象でした。
森田さんは、ともかく明るい人でした。話していて非常に気分のいい人。裏表がない人。そういう意味で
翳のない人だよね。生き方にも翳がないし」
佐原文東(元楯の会会員)

鈴木亜繪美「火群のゆくえ 元楯の会会員たちの心の軌跡」より

182:名無しさん@3周年
11/01/15 16:06:44 IGAwUijE
>173続き
三島について回るある種の胡散臭さ、軽薄な感じは、何も彼が同性愛だったからではなく、愛国心だけとはいえない、自決の動機の不純さに由来してると思うな。

183:名無しさん@3周年
11/01/15 16:17:28 JWLmSTa5
芸術・美学のために命を捨てる人間がいる。
というのを、ドイツのテレビで見たことがあるが、
三島もこういう人間じゃないかと思う。

184:名無しさん@3周年
11/01/15 16:22:28 alz2xBlz
都政を私物化、税金無駄遣い、息子の選挙第一、家族第一の、口だけ威張ってる不純な政治屋石原慎太郎よりは、
何百万倍も三島の日本への思いの方が純粋です。

185:名無しさん@3周年
11/01/15 16:27:06 alz2xBlz
>>183
三島の芸術・美学は日本の古典と伝統と関連してるから、別のものじゃないし。

186:名無しさん@3周年
11/01/15 16:31:29 JWLmSTa5
太宰治に負けたくなかった?
川端・三島は太宰治が大嫌い、はっきりと本人に告げた。
だが、死せる太宰の作品が自分たちより人気がある。
二人とも対抗して自殺したかな。

187:名無しさん@3周年
11/01/15 16:43:17 alz2xBlz
>>186
三島は太宰治を天才だと評価してますよ。
表では嫌いだと公言してたようですが、あんたが思い込んでるような対立はないし。

188:名無しさん@3周年
11/01/15 17:30:02 9SuIkeAt
ホモ・体育会系・女性恐怖・2ちゃんねる

これらに接点がある

189:名無しさん@3周年
11/01/16 00:11:47 19k8WZGF
>>185
三島の美学は、日本の古典の影響もあるが、
何よりも、ギリシャ文学の影響が強い。
というか、表面的だが。
三島は、ギリシャ文学のナルシシズムを学び、
のめりこんだ。
女性と間違えられるほどの美少年だった若き三島。
それはそれで自らのナルシシズムを満足させたが、
後年、ホモに目覚め、そういう女々しい自分に嫌気が差し、
男らしい肉体を求め、ボディービルに励むようになった。
それと相前後して、華族出身で、その精神構造を持った自分にも嫌気が差し、
貴族とは反対の武士に傾倒していった。
本来、武士とは、三島が持つナルシシズムとは別の精神構造を持つものである。
ナルシシズムとは芸能人そのものの感覚だが、三島はそれに気づかず、
最後は、観客が見守るなか、立派な“舞台”で華々しく好演し果てた。
美しいナルシシズムだった。


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