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明治十年代後半には、東京湾を守る陸軍の要塞と横浜にあった東海鎮守
府が横須賀に移り、横須賀は陸海軍にとって重要な土地となった。
その横須賀への交通手段は相変わらず船が主流であった。船便ではもし、
時化などで船が出せない時のことを考えると、陸上での鉄道輸送は重要な
課題であった。
しかし、この時鉄道局では東海道線の全線開通に主眼が置かれており、
支線への着手は全線開通後のことという考えであった。この考えは大蔵省
も同じであった。
明治十九年(1886)六月、陸海軍から強い要望をうけた伊藤首相は、鉄
道局に横須賀線敷設のための調査を命じた。その結果、横須賀線でもっと
も難工事なのは、八ヶ所のトンネル工事であり、その他橋や海岸の埋め立
てなどで合計八十八万円ほどの費用がかかるが、横浜・戸塚間は東海道線
を利用し、完全に支線の分だけであれば、五十万円ほどで敷設工事ができ
ることが報告された。
この結果、二十年三月には横須賀線の敷設事業が閣議決定されて、土地
買収などが始まった。逸見村では、吉倉の入り江の上に線路が敷かれるこ
とがわかり、この入り江が利用している漁師さんや浦郷村の榎戸に渡る渡
船の人などからこの部分を橋梁して欲しいという要望を出し、認められた。