11/09/06 17:35:10.96 yub/p73R
>>64
それはないだろ。
尚之助と八重の最初の出会いは八重15歳、尚之助23歳。
尚之助は綾瀬より年上起用だと思う。
川崎尚之助(最初の夫/1837-1875) +8…
川崎尚之助
天保8年(1837)~明治8年(1875)
蘭学者。但馬国出石藩の医師の子。はじめ正之助と称していたが、会津藩
に仕えることになるにあたり、藩祖正之の一字を使っているのは畏れ多いと
「尚之助」に改めたという。
江戸へ出て蘭学と舎密術(化学)を修め、若年ながらも有能な蘭学者との評
も高まってきた安政4年(1857)、山本覚馬に招聘されて会津へ来た。
覚馬は同年に開設されていた日新館蘭学所の教授に尚之助を推挙し、藩当局
もこれを認めたが、尚之助自身は「不肖人の師たるに足らず」として教授就任を
辞退している。しかし藩はこれを惜しんで金若干を贈ったりしているので、山本家
に寄宿していた尚之助は「客員教授」のような立場で覚馬の仕事を手伝っていた
ものと思われる。
知識的に高い応用力を持っていた尚之助は、洋書を読んではそれをただちに応用し、
鉄砲や弾丸などの兵器を実際に製造していたという。
覚馬の妹八重と結婚していたとされており、北原雅長の『七年史』にも「川崎尚之助が
妻の八重は山本覚馬の妹也」とある。この結婚の時期についての記録は定かではない
が、慶応元年(1865)ごろではなかったかと推定されている。ちなみに媒酌人は野村監物
だったようだ。
鶴ヶ城籠城戦では自ら大砲を放って攻城側の大砲陣地に命中させたりしているが、戦後
は八重とも別れて単身東京へ出た。
浅草の鳥越に住み、「赤貧洗うが如く」の極貧生活を送っていたらしい。
このころは金のなる木の綱切れて ぶらりと暮らす鳥越の里
・・・などという狂歌を残し、明治8年6月に病没。享年39。浅草今戸の
称福寺に葬られたという。
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