11/02/07 08:56:21 EtrvcIlz
天正10年6月2日朝まだき・・・
「阿蘭、物見せよ。誰ぞ寺内に乱入したぞ」
「はッ」
(中略)
しばらく松の上で小手をかざして四方を見ていた官松は、再び芝生を糸をひくように
戻って来て、蘭丸の控えている縁の向うでぴたりと座った。
「旗が見えました。軍兵の乱入でござりまする」
「なに!?旗が見えたと!?してその旗の紋どころはわからなんだか」
「はい。旗印は、たしかに桔梗の紋どころ、間違いござりませぬ」
「桔梗の紋と申せば、明智どのではないか」
そう云うのと蘭丸が走って来て、
「上様、光秀謀反にござりまする」
叫ぶように復命するのとがほとんど一緒であった。
「桔梗の旗か・・・」
信長は低くうめいた。うめくと一緒に、
「矢!」と、うしろへ手を出して、それをささげる者が何者かも見定めずに強弓(ご
うきゅう)に矢をつがえた。
キリキリッと引きしぼって狙った先は中門の扉であった。
誰も人影は無いのに、何を射ようとそているのか・・・?
そう思っていると、その矢をふたたび弓(ゆ)つるからはずしていって、
「フフン」と、信長は低く笑った。
「ハゲか。ハゲではどうにもならぬわ」
「どうにもならぬと仰せられるは・・・?」
蘭丸が訊きかえすと、もう一度信長はフフンと奇妙な笑いを笑った。
「ハゲの謀反では考え落ちはあるまいということじゃ。
おかしなことよ。たわけめが・・・・・」
最後のたわけめと云った一語は光秀を嘲笑う(あざわらう)ようでもあり、信長自身
を笑っているようでもあった。
再び信長はじっと全身を耳にしてその後の物音を待つ顔になった。
(山岡荘八「織田信長」第5巻「本能寺の巻」より