10/12/10 00:58:15 PWu+V8cU0
智弁野球部は退部者が極度に少ないことで知られてるけど(過去15年くらいで1人)、発足当初に限っては全然違ったみたいだね。
高嶋さんが監督になったのが昭和55年春 「鬼の高嶋が来る」と30人近くいた部員が9人に。
(この話は有名だけど、いったん5人になったのが何人か呼び戻して9人になったんだっけな)
監督になる前に高嶋さんが密かに目を付けていた数人は全て辞めてしまっていたらしい。
9人のうち3年生4人は最後まで辞めなかった(主将が西本さん、成瀬さんが新聞の高嶋さん特集で第一期生として取り上げられてた)
2年生5人はその夏の大会までは全員残っていたが翌夏には3人に(投手の津村さんは今の向陽主将のお父さんらしい)
1年生は7人入部 → 1年後には4人 → 最後には2人(主将がOB会長の塩崎さん)
昭和56年入部は10名みたいだね。 三宅さんや佐藤さん
ここからは高嶋さんがスカウティングし、選手のほうも高嶋さんのもとで強くなりたいと勇んで入った世代ということか。
しかしそれでも2人辞めて最後には8人に。
智弁にスポーツ科ができて一般生徒と野球部を分けて捉えるようになったのが何時からなのかも興味あるな。
もう三宅さん世代からはそうなっていたんだろうか?
昭和の智弁は離れた立場で眺めていただけなので知らんことばかり。こういう情報はほんまにありがたい。
とにかく集監督ほんまにありがとう!!