10/09/22 20:47:16 iijxw3+p
先週から欠勤続きの同僚は対人関係で悩んでいると今日初めて聞きました。
震源地は無遠慮にずけずけとものを言う定年延長雇用のおじいさんです。
私も嫌なことを言われましたが、同僚はそのおじいさんとは隣り合わせの席で、
仕事でも関わりがあるから、逃げるにも逃げられず(以下省略)気の毒です。
聴覚障害者のメンタル面について思うことはない訳ではありません。
私もその昔、仕事を与えられずほったらかしにされたストレスからうつっぽくなり、
顔面神経痛に悩まされた経験があります。
ここでは放置されるのは自分だけではないと知って、納得できました。
あれは、悪意ある放置というよりは、「聞こえないから面倒くせぇ~」の本音からくる
消極的な放置だと思うのですが、される側にすれば、「私は透明人間かい?」
と気分が凹む、沈む、挙句の果てに悲観的・厭世的にもなりうる位残酷な事実です。
(私にはそう思えました)
自分のことなのに、聞こえるもの同士で頭越しに決められることも多々ある。
自分自身の人生にも参与できない悲哀に打ちひしがれる。
これでは、うつ病気位になっても驚くにあたらないでしょう。
福祉の是正について。
容易いことでは決してありません。
障害者の権利は歴史的に健常者から付与された幅によって決められる。
かなり極端な例だが、ナチスは障害者を強制収容所に放り込んだと言われています。
今はさすがにそこまでは行かないにせよ、
新生児の聴力スクリーニング検査には優生思想の発想が見られないとは思えぬ。
聴力的に、「ろう」もしくは「重度・高度難聴」は「軽・中度難聴」よりは
困っているはず、という発想は健聴者にありがちなものです。
両者の苦悩のベクトルは異なるわけで、単純な比較は出来ないと思います。
よく見られる現象として、聴力的に重度な人たちの間に手話がコミュニケーションの
主な手段として用いられ、仲間同士の結束を高めているが、
軽・中度は複数集まると、コミュニケーションに支障を来たしてしまう。
仲間同士の結束云々以前の問題になってしまっている。
これはいかにも残念な事態だといわざるを得ないと考えておりますが。
精神障害は治療可能で、人格障害は手の施しようがないとどこかで読んだことがあります。
身近には自己愛人格障害としか思えない位、虚栄心の強い整形外科医が居ます。
かなり迷惑を被ったので、二度と関わりになりたくない。