07/09/18 11:29:46 dxakEHxY
いい機会ですから私とJPBAについて書きましょう。二度と書くことはしないつもりで
この文章はずっと残りますからね、古い話から・・・まだ中学生のころ、いまおもえば
第一次ブームの頃でしょう、TVをつけるとアメリカ人がボウリングをしている姿が映りました。
今思えばドン・カーターとレイ・ブルースの対戦だった気がするのですが、珍しい映像だったので
すごくそのボウリングをしている姿が頭に残りました。もともと私の生まれは大分県の別府という田舎なんですが
別府にはアメリカ軍(その頃は進駐軍)のベースキャンプがありました。私の母は洋裁店をしており、
ベースキャンプの米兵の奥さんたちの服も縫っていましたので、うちにはアメリカ人に対する偏見はなく
むしろ英語を奨励されていました。それもあってかもしれませんがドン・カーターとレイブルースがすごく
大人で、かっこいい人に見えたのです、自分の身の回りにはないその空気にもあこがれたのかもしれません。
僕にとってその出会いから、ボウリングとはPBAなのです。誰がなんと言おうと・・・
JPBAのライセンスは僕にとってはPBAにより近づくための唯一の方法でした。大分のボウリング場で
アルバイトをしていた僕には一人でアメリカへ行ってライセンスを誰の紹介もなくとるということは,
ジャパンカップやその前後にPBAが日本中あちこちで見られる今と違って、僕らとネルソン・バートンや
マーシャル・ホルマン、ジョージ・パパスといった当時のPBAスターたちとの距離は計り知れないほど遠かったのです
PBAになるにはまず日本のプロにならなくちゃナと漠然と考えていたのでそのときアルバイトしていた、南大分ボウルの
経営が変わるのを機に、どうせプロテスト受けるんならとうきょうだっぺと思ってDOボウルの金子支配人にお願いして
アルバイトで入れていただいて、半年、1983年のプロテストに合格してめでたくJPBAプロにはなれました。
プロにはなりましたがその頃考えていたのは”プロのライセンスを生かしてプロショップをやりたい、それもアメリカから
直接自分で輸入をしたいなあ”ということでした。JPBAプロになってから六年ほどいろんなセンターに勤めましたが
磯子ミリオンボウルを最後にセンターづとめはやめて輸入を中心にやっていくこととしました。
転機が訪れたのは1997年、僕のアメリカ行きたい話を聞いていた取手ボウルの野田社長が
"行きたきゃ行きゃあいいじゃないか”と言って3万円お小遣いをいただいたのをきっかけにして
PBAライセンスを取りにオハイオ州アクロンへと出かけました。それからもう10年が過ぎました。
このようなプロボウラー人生を送ってきた私としては生活が苦しくなると年末の7万円が大きな負担に
なっていました。JPBAプロの大半は7万円の会費分プロとして稼いではいないでしょう。
どうしてもボウリングから足を洗えない私のようなボウラーにとって、本当にJPBAライセンスは必要なのかと悩んだ末に
会費を未納のまま払わないと言う選択をしました。結果はごらんのとうり除名と言う形になっているのでしょうか
何かをして除名になった方たちとは違いますので、疑いのある方はJPBAにお問い合わせください。
長文になってしまったことお詫びいたします。