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そうした意味で、『ひぐらし』という作品は、サウンドノベルである一方、『電車男』などの
ような「2ちゃんねる」の掲示板上で、他の閲覧者(「住人」)たちとのやり取りの中で
語られた物語とも似通った特徴を持っている。『ひぐらしのなく頃に』は、竜騎士07自身が
どこまで意図していたかはともかく、結果として壮大な「釣り」―「2ちゃんねる」などの
掲示板やブログに、閲覧者からのある特定の書き込みや反応を期待して、わざと
間違った情報や過激に発言を書き込むこと―であった、と言うこともできるだろう。
熱心なユーザーであればあるほど、殺人に及ぶ圭一に感情移入し、レナのような
妄想的な推理を行い、あるいは梨花や羽入のように絶望するといった―「誤り」に
導かれてしまい、結果としてそして説教に耳を傾けざるを得ないのだ。
しかし、そうまでして竜騎士07が繰り返す「仲間を信じて連帯すれば最善手が
思いつく」という説教が、やはり空虚なお題目でしかないことは、たとえばウェブ
サイトに設置されたBBSで、膨大な数のプレイヤーが「連帯した」にもかかわらず、
結局、事件の真相に到達したものが一人もいない、という事実において、
『ひぐらし』自体が皮肉にも明らかにしてしまっているような気がする。
だが、それでも筆者が『ひぐらし』後半を心情的に支持したいのは、
そうした説教臭さが頂点に達する第七話「皆殺し編」の異様な展開によってであり、
そこでの描写が、「空虚なお題目」にかろうじて具体性を与えているように思えるからである。
(略)
ミステリから説教付冒険活劇への大転換が、ユーザーから(良くも悪くも)驚愕をもって
迎えられたのも一度限りのものであろう。あるいは前段に従えば、コテハンを持った
釣り士は釣りを行えるのは、最初の一回限りである。
前島賢「『ひぐらしのなく頃に』の二つの顔―竜騎士07論」 2008年