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御威護羅在(おいごらあ)
古代日本の伝説で、紀元前893年に即位したとされている多仁御加天皇が
口癖にしていたとされている言葉。東征の際、下北沢で地元の農民達が誤って
多仁御加天皇の輿にぶつかってしまい多仁御加天皇と輿に傷をつけてしまった。
多仁御加天皇は怒って「おいゴラァ!」と怒鳴りつけ、農民達を本陣へ連行し
「相応の罰」を与えた。これが最初の「御威護羅亞」と言われている。
このときの多仁御加天皇の様子が「その威は修羅の加護が在るかのようだ」と
語られたことから、人々は威圧的な態度をとる際「御威護羅在」の意味を込めて
「おいゴラァ!」というようになった。
「御威護羅在」は代々天皇家に伝わり、武家社会の元で朝廷の権力が抑えられて
いた時代でも「御威護羅在」の心を忘れられないように伝えられてきた。
現在では民間で相手を威圧したり威嚇する場合によく用いられるが「御威護羅在」の
本来の意味を知っていて使うものは少ない。宮家や公家の血を受け継ぐ者達の
間では本来の意味を自覚しつつ「御威護羅在」の言葉を発していると伝えられている。
また、多仁御加天皇が下北沢の戦いで乱戦の最中にかつて「相応の罰」をあたえた
農民達に肛門のあたりを剣で刺されて殺された伝説があることは意外に知られていない。
民明書房刊『神話時代の天皇』より抜粋
御釜通(おかま・とおり)
(明治10(1877)年~昭和27(1952)年)
明治~昭和にかけての小説家。旧会津藩の藩士の家に生まれたが、本名は不明。
薩長の迫害から逃れるため変名を繰り返したと思われる。
父親から武士の嗜みとされる衆道、主に会津藩が京都にいた頃についての話を聞く。
その中には新撰組の話もあったという。後、仲のよい若い旧会津藩士から男色の
手ほどきを受けた。
東北帝大を卒業した後、小説家としての道を歩み始める。彼の描く世界は、
少年期の体験からか幕末もの、それも男色を絡めたものが多かった。
父の話を元に、実際にあった話を再現したものもあった。実名こそ隠したものの、
生存している関係者が読めば誰であるか判明したこともあるという。
普通の小説よりは男色ものの少説のほうが人気が高かったほどで、また、彼自身が男色を嗜むことを知っている者達が
彼の下宿がある通りをを徘徊するのでそこは「御釜通り」と呼ばれた。本人はこの呼称を気に入り即座に自分のペンネームにした。
朝鮮半島や中国大陸にも渡り、現地での取材や体験を元に『熱き大陸狼たち』を出版。しかし、綱紀粛正の手は彼に迫っていた。
日本に居づらくなった御釜は再び大陸へ渡る。官憲の追及をかわすため、ペンネームの読み方を「オフツ」と中国系の読み方に改めた。
戦時中は半島・大陸で知り合った仲間達と過ごしていた。
戦後、日本に帰ってきた御釜は再び小説を書きはじめたが、昭和27年に死去した。
最期まで本名を知る者はいなかったとされる。
現代の男色家たちが、男根を菊門に挿した際「オフッ!」と声を上げるのは、
御釜通へのオマージュの意味も込めている、と評論家・山川純一氏は語っている。
民明書房刊「御釜通全集 第一巻『破廉恥教師』」より