10/09/15 23:29:53 0
移蓮筆
室町時代、日本では和歌を吟じるのが流行していたのは有名であるが、和歌を吟じるには、まず美しい筆運びが最重要であった。
この時、万葉かなを美しく書くために作られたのが「移蓮筆」という流派である。
『その筆の動きはまるで池を移ろう蓮の葉の如く』と言う意味を持つこの筆運びは、
とにかく遅いが正確かつ美しい字を書けるため、流行した。
但し、多人数で吟歌する場合にはこの筆運びは勿論迷惑だったため、
顰蹙を買い結局1人あるいは気のおける仲間内でしか使われる事は無かった。
なお、現在野球で見られる球速の遅い球種である「イーファスピッチ」の由来は先述した「移蓮筆」に由来するのではないか、
と指摘する学説もある。
民明書房刊 「日本源流を学ぶ」より
the IMP(internal monosexualizer for pharmacists)
分子式:C8H9O3
化学構造式:
OH
|
C6H5
|
COO
|
CH3
1893年、ドイツの薬学者ハッタンノ・ウィヒによって合成された。
ウィヒや同僚のニッペ・ヤパナ・デービシュらは研究に没頭するあまり、日頃から頭痛に悩まされていた。
当時、ヤナギの木からサリチル酸という鎮痛作用のある物質が分離されていたが、これには強い胃腸障害という副作用があった。
この問題を解決すべく研究を重ねていた二人だったが、決して裕福とはいえない彼らの研究費は底を付きかけていた。
そんなある日、ウィヒおよびデービシュの先輩、カズ・ナリッヒ・トゥドゥネが
「全裸絵画のモデルを一緒にやろう。モデル料はお前たちの研究費に充てるから」と、半ば強引に2人を誘った。
当時のドイツでも男性同士の好色は禁忌とされており、水面下で嗜む者が多かったが、
トゥドゥネはその世界に魅入られ、後輩の二人と交わる構図の絵画のモデルとなった。
5マルク(当時の一般労働者の月収はおよそ70マルクとされる)のモデル料を受け取ったトゥドゥネは
約束どおり後輩の二人にそれを譲り渡し、
ほどなくアセチル酸へさらに化学反応を加えることで副作用の少ない物質を分離することに成功した。
多くの学者を招いた研究発表の場において、この物質を二人は試飲してみた。
すると、鎮痛・解熱効果は従来どおり、しかも心配されていた消化器への障害はあまり認められないという効能が見られたが、
さらに予期せぬ副作用が。
トゥドゥネと交渉した経験があるとはいえ異性愛者だったウィヒ、デービシュの二人も、
なぜか人目をはばからず互いの男根をむさぼり、求め合うようになった。
忘我の極みへと到達した彼らの発表は中止せざるを得なくなり、この会合自体も
歴史から抹消されることとなった。
この物質は「薬学者のための内面を単一性愛化する物質」の英語の略称、「IMP」と名づけられ、精製が禁じられることとなった。
なお、現在発表されている「アスピリン」の分子式はC9H8O4である。
また、アジアの血を引いていたデービシュの末裔が日本国内の化学物質メーカーの創始者であるという説もあるが定かではない。
民明書房刊『中世ヨーロッパ裏歴史』より
14:民明書房
10/09/15 23:30:50 0
飲乱手泥部屋(いんらんてでいべあ)
三国時代に活躍した武将、牙知鞭(がちべん)が編み出した鍛練法。
当時、池の上の綿のように身軽な「池綿兄騎(いけめんあにき)」とあだ名される
兵士たちが戦争の主戦力であった。
しかし牙知鞭は時流に逆らい、肉付きのいいつわものたちを自分の部屋に集め、
様々な道具で責め苛むという鍛練を行う。
あまりの過酷さに水の飲み方すら獣のように乱れ、武器を握る手はつねに
泥だらけになっていた。
そのことから、牙知鞭の部屋はいつしか「飲乱手泥部屋」と陰口を叩かれるようになる。
しかし、飲乱手泥部屋を出たものは何物にも勝る屈強な体を手にいれることが
出来たという。
最近日本において「淫乱テディベア」というAVが人気を博しているが、
主演の体格のいい男性が飲乱手泥部屋の達成者だということは言うを待たない。
民明書房刊『美しき野獣』より
ヴォースゲー(Wor Sgeh)
「ヨツンヴァイン」と同じく第一次大戦中に用いられた兵器。
この兵器は毒ガスを用いたもので、面積の広い戦場で使用された。
毒ガスの効能は、主に幻覚症状を発生させるものであった。
幻覚の内容に関しては、なぜか「屹立する巨大な男性器」を見、
その見事さに戦いの場にいることも忘れてただただ感嘆していた、 と証言する者が多かったとされる。
民明書房刊『ナチス兵器百選』より
羽馬阿爾 進士(うまあじ・しんし)
(弘仁元(810)年~寛平5(893)年)
唐代末期の官僚。北方の異民族の血筋で、現在の山西省太原の出身。
太原は唐の李淵が身を起こした地でもあり、羽馬阿爾もまた立身出世の望みを抱いていた。
羽馬阿爾が少年のころ、唐の皇帝の行幸があり、羽馬阿爾も馬に乗って見に行こうとした。
近くまで行って馬から下りて見ようとしたが馬が暴走し、皇帝の馬車に後ろからぶつかってしまった。
死罪になるものと誰もが思っていたが、今後馬に乗ることを禁じられただけで処罰は終わった。
時の皇帝文宗が羽馬阿爾の人並みならぬ外見や態度を見て、ここで死なせるのは惜しいと考えたようで勉学に励み、
科挙に及第するよう申し付けた。当時は宦官の跳梁が著しく、宮中に味方を作ろうとする文宗の狙いもあったと思われる。
勉学に励んだ羽馬阿爾は科挙に合格し、進士となった。文宗に謁見した際、文宗は羽馬阿爾のことを覚えており「羽馬阿爾進士」と呼んだ。
以後、羽馬阿爾は「羽馬阿爾進士」と呼ばれるようになる。
程なくして文宗は崩御してしまうが、羽馬阿爾は過去の恩を忘れず、長く唐に忠節を尽くした。
黄巣の乱後、職を辞し郷里で余生を過ごした。
羽馬阿爾は、科挙に及第した官僚でありながら体格に優れ、慈愛の心と礼儀を忘れなかった。
そのため、後の山西省ではがっちりで優しそうな紳士を「羽馬阿爾進士」と呼ぶようになった。
民明書房刊『科挙こぼれ話』より
羽法夷威音攻(うほういいおとこう)
蜀の猛将、関羽が編み出した決闘方法。
夷(身分の低いもの)であれば死に至るような威厳ある声で
「矢等無何(やらないか、矢等の武器を何もかも無くし、体ひとつで戦おう、の意)」
と叫ぶ。
その音攻に耐え抜いた者のみ、関羽に戦う権利を得たという。
また、勝負の合間に必ず
「素獄王輝(すごくおうき、相手の武力が地獄の王のように輝いている、という意)です」
「覇乱南夏我氾々(はらんなかがぱんぱん、南の土地の夏場のように、その覇は私を追い詰めている、の意)だぜ」
「死今屍厭(しいましえん、今、死して屍になるのは嫌だ、の意)」
といった、相手を褒めたたえる言葉を挟むのも羽法夷威音攻の特徴である。
民明書房刊『豪傑達の生き様』より
15:民明書房
10/09/15 23:35:57 0
衛致 定遠(えいち・ていえん)
(熹平4(175)年?(250)年)
後漢末?三国時代の人物。字は定遠。遼東の出身。
遼東半島の立教村で生まれる。少年のころから見た目もよく体力にも秀でていたので、
村長の韓督から反董卓連合軍に加わるように勧められ、公孫?の軍に身を投じた。
烏桓族との戦いで頭角を現す。後に劉備に仕える趙雲とも親しかった。
公孫?滅亡後は袁紹に招かれ、断ろうとしたが強引な勧誘でやむなく従った。
顔良が討たれた後、兵の一部を預かり官渡の戦いでは勇戦する。
戦後、袁家の内紛でなぜか存在を忘れられ、衛致は巻き込まれないうちに混乱に乗じて下野する。
在野時代は得意武器の尺八棒の修行、また勉学に励み、経理・算術にも通じるようになった。
建安8年(203年)獄堂山の山賊宣忠理を退治して曹操の眼に留まる。能力ある人材を求めていた曹操の強引な勧誘で配下に加わった。
曹操配下で烏桓族・鮮卑族との戦いに従事、晩年の郭嘉から戦略について学ぶ。
袁家の滅亡後は反乱・山賊・対異民族戦を主な役目として北部国境地帯を転戦する。赤壁の敗報は万里の長城からはるか北、北匈奴との戦いで聞いた。
赤壁後、曹操軍の主力が馬超をはじめとする関中の軍閥と戦っているときは西羌の軍と相対して馬超との連携を阻止して味方の勝利に貢献する。
その後、主力が漢中方面で劉備軍と戦っている間、西域方面の?・西羌・月氏の平定を成し遂げた。
曹操は「何故か目立たないがどこかで活躍している」と評した。
たまには主戦線で目立った活躍をさせようと漢中争奪戦に参加させた途端、
諸葛亮の計略で男色であるという噂を流される。
衛致にはそのような嗜好はないのだが、猜疑心の強い曹操は信じてしまい、周りの諸将もあまり近づかなくなった。
このため曹操の陣中に居づらくなった衛致は曹操の陣を抜け出し蜀の地へ逃亡する。
蜀では永安の馬尾論山の山賊房余魅を退治して旧知の超雲の推挙を受ける。
先の計略のこともあってか諸葛亮も彼を推挙、劉備の強引な勧誘もあって配下になる。
蜀では主に南蛮の押さえとして活躍、諸葛亮の南蛮征伐にも従軍、さらに諸葛量の命を受け吐蕃方面へも進軍。
毎年の朝貢を約束させ、北伐の諸葛亮を大いに助けた。さらに南蛮奥深くの平定を命ぜられ雲南よりさらに南へ進軍し、貢物、志願兵を蜀に供給し続けた。
これらの蛮族が自発的に貢物を贈るようになり、南蛮運営が軌道に乗ってから間もなく諸葛亮が死去してしまう。旧知の趙雲も既に亡くなっており、
劉備に仕えた途端に南蛮の地へ来たため成都にはわずか数日の滞在しかしておらず、その名を知るものは誰も居なかった。成都では「衛致 定遠って誰?」となってしまい、そのまま忘れ去られた。
今までの人生経験から自分が存在ごと忘れ去られたと悟った衛致はそのまま下野。戦火の少ないと思われた交趾へ行ったが、当時の交趾では士徽の反乱が起きていた。
衛致は乱に乗じて暴れまわっていた手威火(でいび)山の山賊殷務を退治した。これが呉将呂岱の目に留まり彼の推挙を受ける。孫権の強引な勧誘もあって配下となった。
呂岱とともに交州の反乱を鎮圧。引き続き扶南国・林邑を宣撫工作で貢物を献上させることに成功。さらに海南島・台湾方面の探索も行ったが、帰還した衛致を待っていたのは
後継者争いの混乱だった。しかし、建業で衛致を知るものは皇帝孫権以外誰もおらず巻き込まれずにすんだ。衛致は密かに呉を脱して魏に亡命した。
16:民明書房
10/09/15 23:37:09 0
余生を郷里で送ろうとしたが、郷里へ向かう途中の下北沢を荒らしまわっていた山賊の弁通を退治したことから司馬懿の目に留まり、
皇帝曹芳の強引な勧誘もあって再び魏に仕えた。このころになるとかつての彼の同僚はほとんど死去し、
また生き残っている者も中央で全く無名な衛致を覚えているものはいなかった。
衛致は再び遼東方面の対異民族戦線を任された。
扶余・勿吉・?婁・鮮卑に対して多くの勝利を収めた。が、異民族の中にはかつて戦った衛致の名を覚えているものはいなかった。
248年ころ引退して故郷の遼東に隠棲。250年死去。
故郷の遼東にもなぜか彼の名を知る者はいなかった。
丁重に葬られたがどういうわけか彼の名はあまり覚えられなかった。
衛致は武勇に優れ数多くの功績を立てながら不思議なほど目立たなかった。彼の特徴としては、強引な勧誘に弱いことであった。
しかしながらかえって数々の主君に仕え、多くの功績を挙げた。
官渡の戦い以降主戦線の中原では戦っていないため、名前を知られることはなかったが逆に多くの群雄からの警戒や遺恨とも無縁であった。
対異民族戦に長けていたため、中原の戦いに集中するためにも
彼のような人材はどこの国でも登用したがったことは彼にとって幸いした。
前述の通り無名のため、内部分裂が起きても巻き込まれず、身の安全を保つことが容易であった。
彼は男色家ではないが、女性に囲まれるよりは屈強な兵士と一緒にいるほうが落ち着いていたという。
得物の尺八棒を舐めるのが癖だった。
民明書房刊『中国マイナー武将列伝』より
17:民明書房
10/09/15 23:38:30 0
御威護羅在(おいごらあ)
古代日本の伝説で、紀元前893年に即位したとされている多仁御加天皇が
口癖にしていたとされている言葉。東征の際、下北沢で地元の農民達が誤って
多仁御加天皇の輿にぶつかってしまい多仁御加天皇と輿に傷をつけてしまった。
多仁御加天皇は怒って「おいゴラァ!」と怒鳴りつけ、農民達を本陣へ連行し
「相応の罰」を与えた。これが最初の「御威護羅亞」と言われている。
このときの多仁御加天皇の様子が「その威は修羅の加護が在るかのようだ」と
語られたことから、人々は威圧的な態度をとる際「御威護羅在」の意味を込めて
「おいゴラァ!」というようになった。
「御威護羅在」は代々天皇家に伝わり、武家社会の元で朝廷の権力が抑えられて
いた時代でも「御威護羅在」の心を忘れられないように伝えられてきた。
現在では民間で相手を威圧したり威嚇する場合によく用いられるが「御威護羅在」の
本来の意味を知っていて使うものは少ない。宮家や公家の血を受け継ぐ者達の
間では本来の意味を自覚しつつ「御威護羅在」の言葉を発していると伝えられている。
また、多仁御加天皇が下北沢の戦いで乱戦の最中にかつて「相応の罰」をあたえた
農民達に肛門のあたりを剣で刺されて殺された伝説があることは意外に知られていない。
民明書房刊『神話時代の天皇』より抜粋
御釜通(おかま・とおり)
(明治10(1877)年~昭和27(1952)年)
明治~昭和にかけての小説家。旧会津藩の藩士の家に生まれたが、本名は不明。
薩長の迫害から逃れるため変名を繰り返したと思われる。
父親から武士の嗜みとされる衆道、主に会津藩が京都にいた頃についての話を聞く。
その中には新撰組の話もあったという。後、仲のよい若い旧会津藩士から男色の
手ほどきを受けた。
東北帝大を卒業した後、小説家としての道を歩み始める。彼の描く世界は、
少年期の体験からか幕末もの、それも男色を絡めたものが多かった。
父の話を元に、実際にあった話を再現したものもあった。実名こそ隠したものの、
生存している関係者が読めば誰であるか判明したこともあるという。
普通の小説よりは男色ものの少説のほうが人気が高かったほどで、また、彼自身が男色を嗜むことを知っている者達が
彼の下宿がある通りをを徘徊するのでそこは「御釜通り」と呼ばれた。本人はこの呼称を気に入り即座に自分のペンネームにした。
朝鮮半島や中国大陸にも渡り、現地での取材や体験を元に『熱き大陸狼たち』を出版。しかし、綱紀粛正の手は彼に迫っていた。
日本に居づらくなった御釜は再び大陸へ渡る。官憲の追及をかわすため、ペンネームの読み方を「オフツ」と中国系の読み方に改めた。
戦時中は半島・大陸で知り合った仲間達と過ごしていた。
戦後、日本に帰ってきた御釜は再び小説を書きはじめたが、昭和27年に死去した。
最期まで本名を知る者はいなかったとされる。
現代の男色家たちが、男根を菊門に挿した際「オフッ!」と声を上げるのは、
御釜通へのオマージュの意味も込めている、と評論家・山川純一氏は語っている。
民明書房刊「御釜通全集 第一巻『破廉恥教師』」より
18:民明書房
10/09/15 23:39:48 0
御名謝素(おなしゃす)
武家では、目上の者が家臣に対し自身の名前を恩恵として与える風習があった(豊臣秀吉の場合は
小早川秀秋など)。これは名前を与えられた側は栄誉なことであった。
若狭谷岡家では主君の一字を拝領する場合、その謝辞として「御名謝素」と家臣が主君に言上した。
「御名前の一字をいただき、素直に感謝します」という意味を込めたものである。
また、この一字拝領と同時に谷岡家独自の「免状」が渡された。これは一字拝領したことを証明する
書状として大切に保管された。後に谷岡家の主君から名前を拝領するときは「免状、御名謝素」という
作法が確立した。「御名謝素」の言上は訴えかけるように発声するのがよりよい作法とされた。
渡された免状は、大きな失態や不手際があると召し上げられ名前も拝領前のものに戻された。
しかし何らかの手柄を立てれば再び免状を手に入れ名前を拝領することができた。
若狭谷岡家十六代当主谷岡貫通斎は暴君として知られた。彼は些細な落ち度から家臣の
免状を脅し取った。また、名前を与えるときも「免状、御名謝素」の言上とともに四つんばいにして
犬の真似をさせたりしたので家臣の不満は高まった。このような仕打ちを受けた一人、多田野某、
大坊某、羽田野某らは反乱を起こし鉄砲隊を率いて主君谷岡貫通斎を殺害。力ずくで免状を
取り戻した。しかしこの時の混乱は、後年の越前朝倉氏の侵攻の遠因となってしまう。
現在は名前を拝領する風習もほとんど無いといっていいほどで、本来の意味で「御名謝素」は
使われていない。が、体育会系運動部では各種挨拶などの言葉が変形、省略された形で
使われており「お願いします!」が「オナシャス!」などで使われている。
若狭谷岡家のあった福井県でその傾向が 強いといわれているが、正式な調査はまだ行われていない。
民明書房刊『日本人姓名の変遷』より
鬼棲雷打(おにすらいだ)
戦国時代、武蔵の刀匠数人(かずひと)が鍛え上げた銘刀。
見た目は無銘の日本刀と同じだが、切れ味は非常に鋭い。
その切れ味の鋭さ、耐久性から北条家のみならず日本全国から買い手が集まった。
数人自身はこの刀を作るに際し「鬼が棲み、雷光を打ち込むような凄さを持った刀」を思い浮かべていたという。
このことと実際の切れ味から試作品を使ってみた北条家の侍大将吉井馬安治が「鬼棲雷打」と銘打ってはどうか、と言ったことからこの名が付いた。
「鬼棲雷打」の切れ味を最大限に発揮するには肩・肘・手首・指を鍛える必要があった。
特に指を鍛えこまないとこの刀の力を半分も出せないと言われていた。
そのため、出回っている数に比して使いこなした者は少ない。
どういうわけかこの刀の力を引き出す人物には衆道を嗜む者が多かった。
彼らの多くは刀身の湾曲(反り)に心を惹きつけられた。
記録に残る「鬼棲雷打」の一番の使い手はその性癖のため主君を幾度も変えねばならなかった谷岡八九三衛門であった。
幾多の合戦・剣豪との果し合いを戦い抜いてきたが、最期は痴情のもつれから肛門に刀を刺し込まれて殺された。
遺体は「鬼棲雷打」を刺された状態で地中深く埋められたという。
刀匠の数人は江戸時代に松前藩へ移り住み当時の和人には珍しくアイヌ人と非常に友好的な関係を持ちながら暮らした。
「鬼棲雷打」は何本も作られたため複数現存するが、現在持ち味を発揮できる使い手はほとんどいない。
戦場の剣のため、多くの修羅場を潜り抜けた極道者にその使い手がいるのでは、 と言われているが正確な史料は無い。
ただ、現存している「鬼棲雷打」の多くが暴力団員に今も使われているという事実はある。
野球の変化球に「スライダー」があるが、これの非常に切れ味の鋭いものを「鬼スライダー」と呼ばれることがある。
これを聞いて日本刀に詳しい者は「鬼棲雷打」を思い浮かべる者が多数いる。
民明書房刊『日本刀の歴史と逸話』より
19:名無しさん@自治新党スレでTATESUGI値審議中
10/09/16 03:15:51 0
スレリンク(sec2chd板)