10/03/12 01:12:56 mMMXYm9K
【9】
■ウォーゲーム・シミュレーションゲーム総合76■に次のような書き込み(以下引用文)
43 :NPCさん:2010/02/26(金) 12:50:25 ID:???
試訳
この筋書き【1943年7月12日に、プロホロフカで大戦車戦が行われ、ワーテルロー会戦に似た状況が現出したという、戦後のソ連側の主張】は、ドイツの戦記作家パウル・カレルの空想を刺激した。
彼は、第3装甲軍団のプロホロフカへの競走を、こう演出した。「戦史上その例にはこと欠かないが、いまも後の戦争の経過を左右すべき運命的な決定が時計の進行にかかっていた。日どころではなく時間に。
《ワーテルローの世界史的時間》はプロホロフカに再現されたのである。」 著しい苦境におちいっていたイギリス軍総帥ウェリントンを助けに急ぐプロイセンのブリュッヒャー元帥と、その介入を妨げようとして失敗した
ナポレオンの元帥グルーシーのあいだで争われたワーテルローにおける競走にたとえたのだ。当時のグルーシー元帥同様、プロホロフカのケンプフ将軍も到着が遅すぎたというのである【パウル・カレルの直接引用は、
1972年のフジ出版社版73ページより、松谷健二訳を使用】。
では、こうしてカレルを引用した、この章の筆者カール=ハインツ・フリーザー大佐(文学博士)は、
それに対し、どのような評価を下しているか。再び原文を引き、試訳を付す。
Doch aus den deutschen Archivakten ergibt sich,dass es diesen Wettlauf am
12.Juli gar nicht gegeben hat und erst recht nicht die von Rotomistrov
beschriebene Panzerschlacht suedlich von Prochorovka.Im
betreffenden Abschnitt stand lediglich die 6.Panzerdivision mit hoechstens 44
Panzern.
しかし、ドイツの文書館史料からは、この7月12日の競走などまったくなかったし、
いわんやロトミストロフの記述したプロホロフカ南方の戦車戦など存在しなかったことがあきらかになる。
該戦域には、最大時で44両の戦車を有するのみの第6装甲師団があっただけなのである。