11/02/24 04:50:20.14 0qiI1ZIV
「ともに生きよう」というメッセージは、宮崎の脳内における左翼的思想の崩壊を意味している。
思想の自由を受け入れられない人間同士でも共存できる日本の平和さを知った宮崎。
この場合、「知る」ということは、左翼思想を持っていた己に対する甘さを痛感するものだっただろう。
アニメーション創作で生かされている自分が、滑稽なくらい努力した格好いいと酔った部分もあるだろう。
「もののけ姫」に出てきたメインキャラの年齢が、宮崎の理想だったのではないかと思う。
サン…10代の頃の理想
(屈したこと無い者だけが持つ瞳の輝き、だから資本主義で負けた敗者の気持ちなど分からない。)
アシタカ…社会に出たばかりの自分
(たたりとは思想という病。ほうっとおけばは不安が膨らみ破産(?)して死ぬ。生き抜くには…?という迷い、不安)
(しかもモテモテw 里の娘から大人気w)
エボシ…青年時代の理想。
(森を焼き、武器を作り、武家の権威に逆らう。さらに「神」に挑戦する“赤軍”。しかし、最後には腕を失い全て滅びた。)
ストーリーの最後、勝者はいない、敗者もいない(?)
生き残った者だけが新しい朝に歓迎される。
「もののけ姫」は宮崎が、日本人として社会を生きてきた今までに、
思想と現実との間で格闘してきた迷いや決断を象徴したような映画。
長谷川町子が認められて、手塚治虫が認められなかった部分に、
自分が重なりたくなかったんだろうと思う。
「ともに生きよう」とはある意味では非常に上から目線。
捨て子であったサンが人間に牙を向いた後で言われる台詞ではない。
サンが本当に誇り高い“人間”なら怒るべき。
どこまでも同情して下に見ているのかというアシタカ。
違和感を感じる。
左翼思想を持っていた人間が、
「ともに生きよう」と言ってきたら違和感を感じる。
勝手に生きろと言いたい。